ひとりじめ -3日目-





「……悦」
「…ん……」

 とろとろと微睡む温かいシーツの中と同じ心地の声が、甘く耳元で囁く。屈み込んだ胸元から鉄と、少し硝煙の匂い。
 んぅ、と悦は目を閉じたままもぞりと身動いだ。そう言えば昨日はうんざりするような分量の依頼書を読んでいた。仕事に行くのか。

「仕事行ってくる」
「……んん」

 肌を掠めるようにして髪を梳く手から逃げるように、顔を昨日のあれこれの名残なんて欠片も無いさらさらのシーツに半分埋める。わかってるから勝手に行け。どんな前線に特攻したって包帯1つ巻かずに帰ってくる癖に、今更何の報告だ。新婚気分か。

「晩飯までには戻るから、シュークリーム買ってくるな。賞味期限2時間のヤツ。あと、明日でも食えるケーキ適当に」
「…んー……」

 やっぱり新婚気分じゃねえか。もしかしたら、自主的にお預けを食らっている傑の方も頭が湧いてきているのかもしれない。普通にヤるのがスケジュールだかシナリオだか的にダメなんだとしても、フェラとか、手コキとか、素股とか、お前の方は色々あるだろ。なんか適当にこじつけろよ。
 そうは思ったものの、ナッツたっぷりのクロッカンシューとケーキのお土産は普通に魅力的だ。まだ眠くて目が開かないのでシーツから顔を出して嬉しさを表すと、髪を梳いていた手がそっと枕と頭の間に滑り込む。

「何がいい?チーズケーキ?」
「……」
「タルト、苺、洋梨、林檎、全部」
「……」
「チョコレート」
「んっ」
「わかった。シュークリームとチョコケーキな」

 話しながら柔らかく持ち上げられた頭に、ひんやりした細い鎖が通される。胸元に僅かな重み。ペンダントトップはあの小さな鍵だ。本当に洒落にならなかったら勝手に外すんだから、半日かそこらくらい我慢させときゃいいのに。

「いい子で留守番してろよ。……行ってくる」
「ん゛ー」

 シーツからはみ出た手を握ってキスを落とそうとする傑の手を、逆に握り返して引き寄せる。いってきますのチューが手の甲とかナメてんのか。
 手首を固められて体の外に腕を引かれ、重心をズラされた傑の影が頬に掛かっても、悦は目を閉じたままでいた。関節と筋の位置は人間と同じだから人間のように崩せても、絶対に上に倒れ込むような無様はしないと知っていたからだ。枕を潰したりシーツを絞って悦の首を締めないよう、余裕を持って突かれた手によって肩の辺りのマットレスが沈み込むのを感じながら、ほんの少し顎を持ち上げる。
 ふは、と堪えきれなかったように小さく笑う声。

「誘い方だけは教える必要ねぇな」

 ったり前だ、年季が違ぇんだよ。唇の端だけで笑いながら、正しい位置に落とされるキスを受け入れる。

「……ん……」
「行ってくる」
「んん」

 もういいからさっさと行け。俺は寝るから。

 ……それから、出来るだけでいいから早く帰って来い。









 予想はしていた事だがやっぱり上の服は着れなかったので、ミートソースを作ることにした。

 ご丁寧にもサイドボードに置かれていた四角い絆創膏を、昨夜の感覚が残っている神経が誤作動を起こさないようビタンビタンと勢いよく乳首に貼り付けて、クローゼットから手触りが良くて真っ白な傑のシャツを引っ張り出す。下着だけを履いた上にそれを着て、ミートソースが跳ねたら熱いのできっちり前を締めてから、悦は濡れタオルで腫れた目元を冷やしつつキッチンに向かった。


 水煮なんてしてたら昼を食べ損ねるのでトマト缶は使うが、お誂え向きに切れ味抜群の包丁があったので、肝心のミート部分は挽き肉から作る。勿論、エプロンは着けない。

 リビングのテレビに映したアクション映画を流し見ながら豚バラとロース肉を半々にしていい具合になるまで叩き、ボウルに開けたトマト缶を素手でぐちゃぐちゃに潰して、適当にブイヨンや香辛料を足し、別で炒めておいた挽き肉と作り置きの野菜ペーストと合わせていい感じになるまで煮詰める。
 その過程で発生した全ての飛沫に対して徹底したノーガード戦法を貫いた結果、美味しそうなミートソースパスタが出来る頃には純白だったシャツは落ちにくい油を含んだオレンジのシミで斑になっていた。遠目に見れば星座みたいに見えないことも無い。図らずも悦はパスタと一緒にZ地区流抽象芸術を生み出してしまったようだ。

「……はン」

 無残に純潔を散らした元白シャツを鼻で笑ってから、汚れた服で食卓につくのはマナー的によろしくないので服を着替える。悦が服を選ぶのと同じ理由で傑も白はあまり着ないから、仕方なく手触りが高級そうな中で一番薄いグレーのシャツを選んで、下はボクサーパンツ一枚のまま、ダイニングテーブルではなくリビングのローテーブルでパスタを食べた。
 マナー的にはよろしくないかもしれないが、身長差10センチ未満の彼シャツに下着の中は貞操帯という現在の格好では変態みたいに見えるので、靴下は履かなかった。


「あ、」

 粗挽きのミートが巻き取られたパスタの合間から零れてソースをシャツに擦り付けるのに気のない声を漏らしつつ、悦は佳境に入った映画から目を反らさずにいた。フィクション上の鉄火場は銃声も爆発音も解りやすく脚色されているので、不意打ちでドーンとかバーンとかやられると少しびくっとする。その度にミートだのソースだのがシャツに跳ね、お約束の大団円を眺めながら食べ終わる頃には、面白みのない無地のシャツには無造作な模様がいくつかついていた。
 またしても新たな境地の芸術を生み出してしまったようだ。こっちの題名は今見ていた映画にあやかって、「ざまぁ -セカンドリベンジ-」に決めた。

「……ふん」

 ソファの背もたれに2枚の芸術品を広げ、もう一度鼻で笑ってから食器を下げる。せっかく恋人と選んだソファが汚れると悲しいので、大きな汚れは軽く布巾で拭き取っておいた。
 布巾と一緒に一人分の食器と必要最低限の調理器具を洗い、半分残ったミートソースをタッパーに詰めて冷蔵庫に突っ込んで、スポーツドリンクを入れたボトルを片手にまたクローゼットに向かう。



 今度は傑のじゃなく自分の服を上下着て、靴下も履いた。どんなに気をつけても少し動くだけでカシャカシャと喧しい、サウナスーツとかいうやつだ。ゲルマニウムだかギムナジウムだかが織り込まれていて、仕組みは分からないがとにかく運動効率を上げてくれるものらしい。関節への負担を軽減する為にとカルヴァから貰ったものだから、悦はこれを着ていつも通りに訓練場を駆け回ると脱水症状で死ぬ、ということくらいしか解っていない。実際に死にかけたから、着るのも今日で2度目だ。

「るっせぇ……」

 相変わらずカシャカシャと気配も何もあったもんじゃない煩さに眉を顰めながら、リビングを抜けて廊下に出る。悦の自室より部屋1つ分長い廊下は真っ直ぐで、その突き当りには見慣れた玄関があった。

 今の悦には開けることが出来ない扉だ。

「……」

 あの扉を潜れたらこんな喧しい服なんて着る必要も無く、いつものように”街”のどこかを再現した市街戦想定の訓練場を縦横に駆けて跳べるのに。物憂げな溜息を1つ吐いて、悦は廊下の左右に1つずつある扉の内、左を開いた。

 傑の自室の中ではリビングと寝室の次に広いこの部屋は、訓練場に出向く程じゃないけど体は少し動かしたい、という気分の時の為に傑が設えてくれたトレーニングルームである。純血種には培った勘を忘れず研ぎ澄ませる必要も、意識も途切れそうな極限でもう一手動く為に心肺と精神を鍛える必要も無いので、悦の為だけに関節に優しいゴム床を敷いてくれて、ジムにあるような本格的なランニングマシンと懸垂マシンを揃えてくれたのだ。隅に転がっている黄色のバランスボールだけは玉乗りをやってみたかった悦が買った。

「……ふー……」

 深く息を吐きながら股関節と膝と足首を特に念入りにストレッチして、運動効率を最大限に上げる為にフードを被ってから、悦は真新しいブーツでランニングマシンに乗る。ゴツい見た目のマシンには本格派らしく広い液晶と大小様々なボタン、それに色んな角度に調節出来るバーがついているが、悦が使うのはいつもスイッチと速度を調整するボタンだけだ。消費カロリーにもタイムにも興味は無い。ただ極限の一瞬の時にも変わらず動けるように、心臓が破れそうなくらい心拍数を上げて死にそうに疲れられればそれで良い。

 最大から2つ落とした速度のベルトの上を走って30分もすると、熱の逃げないスーツの効果も相まって滝のように汗が流れてくる。インナーもメッシュの裏地もべしゃべしゃだ。それでもやっぱり、狭い路地裏を追っ手を振り切る為に、そして想像のそいつの裏を取る為に動いている時と比べれば、次はどこを通って登って降りてどうするかを考えられない分頭への負荷が軽くて、悦は汗が流れ込んでくる目を閉じた。


 しんどくなって頭がロクに働かなくなるまでは暇なので、仕方なく色んな事を考えた。

 例えば、傑が買ってきてくれるチョコレートケーキはオペラかザッハトルテかタルトかフォンダンショコラか、シュークリームと同じ店ならシロップ漬けのベリーがたっぷり入ったザッハトルテがいい、生クリームはまだあったっけ、とか。
 昼はパスタだったけど夜は何を食べようか、とか。
 傑と追いかけているドラマの最新話はそろそろ配信されたかな、今度はどんな方法で主人公の部屋が爆発するんだろう、とか。
 いつだって焼き立てザクザクのクロッカンシューを提供する為に香ばしくも甘い匂いが道路まで漏れている、行列必至のあの店に寄って帰ってくるんなら、甘いものが苦手な傑はちょっとしんどいかもしれないな、とか。
 純血種だから頭痛がするとか吐きそうとかは無いにしても、せめてさっさと名残を忘れられるようにスパイスを効かせたタンドリーチキンでも作っておいてやるかな、とか。
 いや待て回鍋肉とチャーハンの組み合わせも捨て難いな、とか。


 とりとめもなく考えながらボトルの中身を全て飲み干し、酸欠と疲労で頭が回らなくなったので考えるのを止め、鉄板を仕込んで重くした訓練用のミリタリーブーツの爪先がたった7度の傾斜のベルトに引っ掛かって躓きかけたので、液晶の目立つ所に3時間と表示されているマシンのスイッチを切って床に座り込んだ。

 ぜえぜえ言いながら裏地まで濡れたフードを跳ね上げ、疲労で小さく震える指でチャックを引き下ろし、濡れてべったり張り付くインナーごと頭から脱ぎ捨てる。全身から吹き出した汗が久しぶりに新鮮な外気に触れ、本来の役割を果たして茹だったような体温を下げていくのを、足の筋を伸ばしながらしばらく待った。

「……回鍋肉にしよ」

 要は甘ったるい残り香を上書きするだけのパンチがあればいいのだ。種類は随分違うが、美味そうな匂い、というその点では甜麺醤だって十分クミンに張り合えるから、食いたいものを作ろう。
 ぽつりと静かな部屋に落とされた決意を合図に立ち上がり、絞れそうに濡れた服とブーツを片手にして、悦はバスルームに向かった。










「……やりやがったな」

 悦、と苦笑混じりに咎める声を、中華鍋を大きく煽って聞こえなかったフリをする。換気扇だってガンガンに回しているし、隣の鍋では回鍋肉がぐつぐつ言っているのだ。ソファに広げたままにしていた白いシャツを持ち上げて、なんだコレ、トマトソース?よりによって?なんて嘆いている傑の声など、2人分のチャーハンを最大火力で仕上げている悦に届く筈が無い。それはミートソースだバーカ。

「なぁ、こっちのどこにあった?とっくに破いたか焼いたと思ってたんだけど」
「……」
「えーつ?」
「……」

 カウンターキッチンの向こうで広げられるグレーのシャツと傑から視線を背け、悦は背後の棚からチャーハンをよそうのに相応しい深皿と、回鍋肉をよそうのに相応しい深皿を取り出した。料理は好きでも器には特にこだわりが無い為どちらも味気ない白食器だが、一応大きさと深さは違う。
 カチン、とアクセルベタ踏みで燃え盛っていたコンロの火を止めた音を聞いて、芸術作品と化したシャツ2枚をゴミ箱に放り込みながら傑がキッチンの中に入って来ても、悦は一瞥もくれなかった。米粒1つ残さず鍋のチャーハンを2枚の皿に均等によそい、回鍋肉の鍋底にあった最後のキャベツがするんと皿に落ちた、そのタイミングでふんわり後ろから腰に腕を回して背中にくっつかれても。

「まだ気ィ済まない?」

 空になった鍋をするりと手の中から抜き取られてようやく、肩に顎を乗せて来る男の美貌を横目に見る。

 ごめん、と謝って来ないのは、怒っている訳じゃないのを解っているからだ。乳首だけだと言いながら精神まで犯されたのは腹が立ったが、全然乳首だけで済んでねぇじゃねぇか嘘吐きやがって死ね変態、を要約して「うそつき」と詰ったのでそれについてはもう悦の中で片がついている。枷を壊せないとぐずぐずもだもだしていた癖に、泣きじゃくりながらその手で傑の服をボロ布に変えた恥ずかしさも、2枚のシャツに当たり散らしたので気が済んだ。

「……」

 それでも、悦は甘えるように頬を寄せてくる傑からふいっと顔を背ける。理由は勿論、拗ねたフリして傑に機嫌を取られるのが楽しいからだ。あと、ここで生意気な態度を取っておけば、ベッドの上でお仕置きか懲罰と称してぶち込んで貰えるかもしれない、という打算もちょっとある。

「これじゃダメ?」
「……」

 顔を背けながらも腕を振り解こうともしなければ鳩尾に肘を叩き込もうともしない、下手な演技に小さく笑いながら、傑が皿の隣にチャコールグレーの紙箱を乗せる。じっと押し黙ったままの悦に代わって開かれた箱の中には、ざくざく食感を楽しむために賞味期限が極端に短いシュークリームが2つと、悦には苦すぎる甘さ控えめのコーヒープリン。

「……!」

 そして、保冷剤を挟んで三角形のザッハトルテと長方形のオペラが一切れずつ入っていた。まさかシュークリームの他に2つも、それもチョコレートケーキと聞いて真っ先に思いついた2つを買ってきてくれるなんて、と思わず目を輝かせた悦を、ふっと笑った傑が片手で抱き寄せる。
 されるがままにその胸に背中を埋めて振り返った悦の口は、触れるだけのキスで塞がれた。自分で遮っておいて「まだ足りねぇか」なんて白々しく言いながら、紙箱を閉じた手が一度背中側に回されて、どこに隠し持っていたのか可愛らしいピンクのリボンが掛かった袋を悦の手元に差し出す。

「じゃあ、これなら?」
「済んだ」

 食い気味に答えて、悦は透明な袋に詰められたカシューナッツとアプリコットのブラウニーを両手で受け取った。

「お前、これ……よく買えたな」
「キャンセル出たから、って店のおねーさんがくれた」
「黒髪でDカップだった?」
「んー……多分?」
「それ店長。絶対お前用にとっといてくれたか、明日の分ムリヤリ回してくれたんだろ。よくやった美形」
「美形て」

 ズルをしたようで他の客に多少申し訳ないと思うが、このド美形が礼儀としてパンピーの心の安寧の為にかけているサングラスを取って「ありがとう」と笑うのを見たのなら、店長は勿論居合わせた客達だって悪い気はしなかっただろう。だからきっとウィンウィンだ。多分。
 そう結論づけて、早い時は開店30分で売り切れてしまうので滅多にお目にかかれないそれをしばらくうっとり眺めてから、悦は甘い誘惑を振り切って紙箱とブラウニーを背後の冷蔵庫に、ちゃんとそれ用に昼間の内から空けておいたスペースに丁寧に入れ、肩でドアを閉めつつチャーハンの乗った皿を両手に持つ。

「傑、箸とレンゲ」
「はいよ」

 ちゅ、と頬で鳴ったキスを今度は避けずに自分から半分迎えに行って、烏龍茶を二人分、ジョッキで準備済みのダイニングテーブルに向かった。










 今日は、傑が先にベッドで待っていた。

「焦んなよ」
「……ん」

 無意識にバスローブの紐に掛けていた手を言われるがままにそっと下ろし、暖色の間接照明が明るく灯る寝室に一歩踏み入れる。それまでいつも通りの勝手を許されていた全ての権利をリビングに置き去りにして、後ろ手に扉を閉めた。

 傑が足を伸ばして座っている広いシーツの上にも、サイドボードの上にも、今日は拘束具やオモチャどころかローションボトル1つ乗っていない。覚悟はしていたけどやっぱり今日も本番はナシなんだな、と思うと一応湿らせる程度にローションを仕込んでおいた所と胸の奥がきゅうっと切なくなったし、ローション無しでどこに何をされるんだろうと少し怖くなったが、それを言う権利はもう悦には無かった。

「こっち」

 こくりと従順に頷いてベッドに上がり、少し迷って、片腕を広げた傑の上に跨るのではなく、傍らにぴったり寄り添うようにしてその腕の中に収まる。シャツは2枚ダメにしたし自分で外す時に貞操帯のちゃちな鍵を少し曲げてしまったけど、調教プレイそのものにはノリ気である意思表示のつもりだ。

「今日はいい子だな」
「……ん」
「俺がいない間、なんか悪さでもしてたのか?」

 背中を支えて優しく悦をシーツに寝かせ、自分もその横に片肘をついて横になりながら、傑が魔法のような手際の良さで首から外された小さな鍵を軽く揺らす。傑が仕事に行っている間も、帰ってきた後も、今日その鍵はずっと悦の首に提げられていたが、用を足したりシャワーを浴びたりするのに外した後は自分の手で元通りにつけ直して、今だってバスローブの下で期待に先端を濡らすのを戒めていた。悪戯なんてしていない。

「してない……っ」
「ホントは?」
「っ……したかった、けど、我慢した」
「我慢?」

 お前が?と疑わしげに言いながら、鎖を二重にして手首に巻き付けた傑の手がバスローブの紐を解く。しゅる、と抜き取られるのに合わせて少し腰を持ち上げながら、悦は潤んだ目で傑を見上げて頷いた。
 痕跡を流してくれるシャワーに隠れて思いっきり扱いたり、傑みたいにすんなりそこには挿れられないという言い訳でブジーで掻き回したり、なんなら絆創膏を張り直す度にぷっくり膨れたままの乳首だって弄ってしまいたかったけど、今の悦は身も心も傑専用に調教されている最中の性奴隷だから、ちゃんと全部我慢した。

「ホントだって、ちゃんと……っんぅ」
「どうだか」

 懸命に身の潔白を訴える奴隷を冷淡に嗤って、手錠の一つも掛けずに留守にした長い指が厚いローブの生地の上から乳首を引っ掻く。絆創膏は2回目のシャワーの時に剥がしてしまっていたから、まだ一皮剥かれたように敏感になった先端は柔らかいタオル地に容赦なく擦られた。

「絆創膏何枚使った?」
「ろく、まぃ……っ!」
「多くね?」
「は、走った、からぁっ」
「あぁ、重ねたのか。あんな薄いの一枚じゃ擦れて腰抜けるもんな」
「んんっ……あっ、んうぅ……ッ」

 他人事みたいに言いながらかりかりと引っ掻かれていたそこを今度はすりすりと撫でられて、悦は膝を擦り合わせながら身を捩る。拘束されていなくとも調教師を邪魔するわけにはいかないからと、手を跳ね除けないように腰だけを悩ましげにくねらせる所為で、短いバスローブの裾はすぐに乱れて銀色に煌めく貞操帯が露わになったが、藍色を嗜虐的に細めた傑はそれを横目にするだけだ。
 先走り一滴零す自由も奪われて苦しそうにひくひく震えて跳ねるそれを、その哀れさを嘲るように、愛でるように唇の端で笑って眺めながら、まだ貞淑にバスローブに隠されたままの乳首をきゅうっと摘んで、こりこりと転がす。位置と体勢的にどうしたってその横顔を見上げる形になる悦の、目の前で。

「ひぅっ」

 恥ずかしいところを、見られている。

 そう自覚した途端に心拍数と体温がガンと上がり、悦は縋るように傑の服の裾を掴んだ。バスローブの生地は山羊毛のブラシとは比べるべくも無いほど荒いし分厚いから刺激も弱いが、そんなのぞっとするような美貌の嗜虐的な微笑という破壊力の前では何の障害にもハンデにもならない。こんなのすぐイく。頭を空にして泣いた乳首調教の成果なんてものはまるで関係なく、裸より恥ずかしい姿に飾り付けられた恥ずかしいところの恥ずかしい有様を傑にすぐ近くで見られてサディスティックに冷笑されているというシチュエーションのみでマゾヒスティックに絶頂する。

「あ、……ぁぁ……っ」

 しかし今の悦は奴隷なので勿論許可もなくそんな勝手は許されず、もうイく、という寸前で指と視線を外されてしまった。思わず切なげな声を上げながら腰を揺らすが、バスローブから出てしまったモノはなんの刺激も得られないまま、ただしゃらしゃらと涼しげに貞操帯の鎖が鳴る。

「イってない、ってのはホントみたいだな」
「って、ない、ないからぁ……すぐるぅ……っ」
「解ったからそっち向け」

 本当にちゃんと我慢してたからイかせて、と縋る悦の肩を素っ気なく押しやって、傑は自分に背を向ける形で体ごと横向きにさせた悦からバスローブを剥ぎ取った。体勢を変えたことで離れた距離を片腕で簡単に引き寄せて詰め直し、自らは素肌に擦れるシーツに甘い溜息を漏らす悦の表情を見る為に片肘をついて半分身を起こした格好のまま、後ろから抱き込むようにして腰に手を回す。

「ドライは?」
「ないっ、どっちも、してない……!」
「じゃあ、疼くよな」

 ここが、と腰を撫で下ろした長い指に臍の下を押されて、悦はぎゅっと両手で顔の横のシーツを握りしめながら頷いた。今日だけじゃない。昨日も、その前も、忍耐力と精神力も化け物な調教師がモノどころか指一本挿れてくれないから、そこはいっぱいに埋めて突き上げてくれるものを欲しがって疼きっぱなしだ。寸止めされた上に背中にぴったり傑の体温が寄り添っているから、じくじくした切なさが一層酷くなった気さえする。

「んぅっ……ゆ、ゆらすの、やめ……っ」
「気持ちよくなりたいなら力抜いて、ゆっくり息してろ」
「な、んで」
「いいから。吸って」

 何ひとつ良くない、と奥歯を噛んだが、枕が無い所為で晒された首筋に落とされたキスが優しくて気持ちよかったので、気持ちいいことには徹底してノーガード方針の悦は結局傑の言う通りに深く息を吸った。腹に置かれた傑の手が少し持ち上がるくらい吸って、「吐いて」と耳元で囁かれた低い声に従って、ゆっくり吐く。

 世の様々な達人が口を揃える通りに呼吸というのは重要なもので、しばらくそうしていると、シーツを握っていた指先から自然と力が抜けていった。疼いているのはそのままだし傑に触れられているから心拍数だって普段より上がっているが、体に引き摺られて落ち着いた頭はぼんやり波打ったシーツを見たまま、体の内側から響くじんじんした熱と下腹を撫でる傑の体温とを、当たり前みたいに受け入れていく。

「……んっ……」
「そのまま」

 息を吐ききったタイミングで腹を押され、乱れかけた呼吸のリズムをまた言われた通りに整える。完全に脱力した腹は内側の筋肉まで柔らかくなっていたし、息を吸うと傑は指先から力を抜いてくれたから、苦しくはなかった。
 傑の体に触れている背中と呼吸に合わせて緩く押される腹が温かい。

「止めて」

 腹からじんわり広がった熱が指先にまで行き渡ってから5回目に息を吸った所で、急に傑が言った。止めるってなにを、と考える前に息を止めた腹を、揃えられた3本の指がぐり、と強く押し込む。ただぼんやり心地よかったばかりの熱が押し出されたように背骨を伝い、悦は咄嗟に息を漏らしてしまいそうになった口を自分の手で塞いだ。

「吐いて」
「ふ……ぅ……っ」

 傑の声は低く落ち着いて、一定だった。息を吐き出すのを助けるようにして押し込まれたままの指先を揉むように少し動かして、吐き出しきったら力を抜く。マッサージでもされているようだ。

 吸って、止めて、押し込まれて、吐いて、揉み込まれる。

 やっぱり、苦しくはなかった。そんなに力を入れられているわけでもないから、痛くもない。なのに息をする度に上がっていく体温とぴりぴりと背骨を走る淡い電気が不思議だった。ただ腹を柔らかく押し揉まれているだけなのに。


 突き上げてくれるものを欲して疼いている場所の真上を、肌の上から、揉まれている、だけ。


「……え、」

 ぼんやりした頭が整理して並べた現状に、ここに至ってようやく気がついて、悦はくったり脱力してシーツに預けていた頭を持ち上げて傑を見た。

「これ……女、の」

 内側にあるものが深すぎて底の見えない藍色を柔らかく細めて悦を見下ろしていた傑が、喉の奥で笑う。

「今更」
「ち、ちが……だって、これ、これは……っ」

 確かに前を扱くだけですっきり満足出来るような境地はとっくの昔に、それこそ傑と出会う前から通り過ぎていたが、そんな悦でも腹イキなんてしたことが無い。当たり前だ。重くなって動きが鈍らないよう必要最低限ながらもきっちり割れた腹筋の下には、子宮も無ければポルチオも無いのだから。
 挿れられたまま押されるのは確かに気持ちよかったけど、それでイったことも何度もあるけど、それは単純に圧迫されたからだ。そう思っていた。

 だから、開発次第で撫でられただけでイけるんだから女はいいなぁと、呑気にも羨んでさえいたのに。

「ゃ、やだっ」
「なんで。羨ましかったんだろ?」

 気持ちいいのは好きだけど、それで食ってきたようなものだから女みたいにイくのも別にいいけど、だけど、ほら、悦は傑と違って全ての攻撃をさばけるほど強くないから仕事で腹を殴られることもあるかもしれないし、と精一杯頭の中に並べていた言い訳が、傑の一言で蹴散らされる。
 なんで知ってる、と瞠目するその裏で、実際の所悦はちゃんとその理由にも気付いていた。思考を読まれたわけじゃない、傑はただ覚えていただけだ。暇つぶしに一緒に見ていたAVで、開発されたかされたフリの女優が腹を撫で擦られるだけで潮まで吹いたのを見て、いいよなアレ、と悦がぼそりと呟いたのを。

「でも、……んうっ、待って、いっかい……っいっかい、まって」

 言った、確かに言ったけど、まさか本当に自分がされるなんて、出来るなんて思ってもいなかったから言ったのだ。それがはたと気付いたらすっかり準備が整っていたなんて、流石に心の準備が出来ない。戸惑う間もしっかり呼吸を読んで熱を孕んだ場所を押し込んでくる傑の手を掴んで待ったをかけたが、望み通りに押し込まれたまま動きを止められて、じわんと腹の底から広がった明確な快感に悦はくぅんと喉を鳴らした。

「かーわいい、今の声」
「すぐ、る……すぐる、ほんと、ほんとにまってっ……はぁう……っ!」
「今のも。……可愛い、悦」
「ひっぅう……!」

 からかうようだった声を急に低く掠れさせた傑の唇が、横向きに寝ている上に抱き込まれて逃げも隠れも出来ない右耳にひたりと当てられる。そのまま、なんとか指の圧力から逃れようと傑の体に背中を擦り付ける足掻きさえ「可愛い」と囁かれて、悦はぎゅっと足の爪先を丸めた。

「ここ、じんじんするの、気持ちいいだろ?」
「っん……んんっ……!」
「気持ちいい」
「ッ……ぁ、あ……あっ……!」

 疼いて切ないだけだ、そんなことない、そんなワケない、と必死に言い聞かせているのに、その気になればそれだけで人間を廃人にすることだって出来る声が、今更過ぎる薄っぺらな意地と強情を容易く削り取っていく。
 大抵のことを一人で判断してどうにかして生きて来た悦は例え傑の言葉だって盲目的に信じ込んだりは出来ないが、この声に従うととても気持ちよくなれることは経験上知っていた。知り過ぎていた。

「ふっ……ふぁっ……ぁあぁぁ……っっ」

 広がる熱を快感だと認めてしまった腹が、傑の手の下でびくびくと波打つ。痙攣の合間を縫って押し揉まれると、ポルチオの代わりに確かにそこにある結腸の入り口がきゅううと引き絞られるような鈍痛に似た快感を生んだ。力が入って固くなった深層筋越しに撫でられると堪らなく疼くから深く息を吐いて力を抜いて、柔らかくなったそこに指を埋められながらぐりぐりと捏ねられて身を捩る。

「悦、気持ちいい?」
「きも、ちぃい……きもちいぃぃ……っ!」
「ちゃんと気持ちいいの覚えられて偉いな。かわいい」
「ふ、……ぅ、う……んうぅ゛ー……っ」

 馬鹿にしてんのかてめぇと吐き捨てなければいけないのに、むずがるような喘ぎ声以外が出てこない。
 気持ちいい。ただ腹を撫でられて押し揉まれているだけなのに、すごく。どうしようもなく。女だろうが男だろうが関係なく、腹を撫で擦られるだけで絶頂するなんてこんな無様なことはないと思うのに、その様を耳にくっつけられた唇で「かわいい」と愛でられると、どんな拷問じみた行為にも耐え抜いてきた強い筈の芯までどろどろに溶けていく。

 認めてしまった時点で、決着はついていた。なにせ相手は傑で、悦はあらゆる快感へのガードが緩いを通り越して無いような淫乱だ。
 道を示して貰えれば放って置かれたって勝手に上り詰めていただろうに、傑は最後まで手を離さなかった。

 もぞもぞ身動ぎながら一番気持ちいい体勢を探して、見つけて、傑にぴったり背中をくっつけたまま、胎児のように体を丸める姿をかわいい、と愛でる。
 気持ちよくして貰う為に震えながら息を吐いて力を抜くのをいい子、と褒める。
 慣れているようで慣れない絶頂の気配に少し尻込みする心さえ、気持ちいいな、と宥めてくれて、更に悦が大好きな声で何度も何度もえつ、と甘く名前を呼ぶ。


 息苦しくない夢見心地の快感に沈められていく頭で、これは確かに調教だな、と思った。
 こんなところ、傑以外とじゃ辿り着ける気がしない。この期に及んで、しかも2日と置かずに、また新しい快楽を覚えさせられてしまった。まるで首輪だ。

 離れられないように縛り付けられていると考えると、不思議と悪い気はしなかった。


「やぁあ、くるっ、いく、ぅう……!」
「いいよ。イけ」
「ぁ、はぁ、あっ……ああぁあ……っッ!」

 絶頂の許可を耳朶に直接吹き込まれるのと同時に丸めていた背筋を焦げるような熱が駆け上がり、頭の中で真っ白に弾ける。知らず強張ってシーツと傑の手首を握りしめていた指先の感覚が遠くなる。

「あぁ……あ……っ」

 一番高い波を超えてぐたりと背後の傑に体重を預けると、まだ小波のように小さく広がっている余韻と同じ柔らかさでびくびくと震える下腹を撫でてくれた。温かい。気持ちいい。
 そのまま心地いい微睡みに落ちてしまいそうな悦を、傑は耳から首筋にかけて柔らかいキスを落としながら、好きなようにさせてくれる。人としての尊厳は何ひとつこの寝室には持ち込まなかった筈なのに、これだけで終わって、本当にいいんだろうか。

「……きもちいい……」

 せめて奴隷らしく感じたままを素直に口にすると、腕を崩して寝転んだ傑に後ろから両手でぎゅっと抱き込まれた。体温と気配ですっぽり包み込んで強制的に何もかもを緩ませる、傑の寝かしつけの常套手段だ。解っていてもダメだった。つい緩んで落ちてしまった瞼はもう上がらない。

 折角こんな手間を掛けて教え込んだんだから、もう二度と忘れられないように、腹を殴られてもイくくらいに色んなものを踏み躙ったっていいのに。10分離れただけでまともに呼吸も出来なくなるほど縛り付けるような方法だって、幾らでも知っている筈なのに。こういうところは本当に、つくづく、甘いよなと思う。

 でも、その甘い所が、


「………すき」



 Next.



3日目はポンポン。
何事も緩急って大事ですよね。
(慣れちゃうから)

short