優しい悪夢05



『これはしきたりなんだ』
『代々我が家に伝わる、古くからの』
『いずれ意味が解る』
『耐えられる筈だ、お前ならば』
『これは神聖なことだ』
『受け入れろ、鬼利』

『お前なら』『この家の当主として』『名誉ある地位と名の、』『主君』『この国の8分の1を占める程の』『御曹司』『解っているな』『佐緒家の名において』『なんの為にお前を』『下賎の者などと馴れ合うな』『当主』『佐緒家』『血統を、』


「解っています。…父様」




 『 優しい悪夢 』



 夕食を美味しいと思ったことなど一度も無い。

「…鬼利様。スープもお飲みくださいませ」
「……」

 縦長に呆れるほど広い部屋。この屋敷に住む者全員が掛けられるほどの長く大きなテーブル。毎日取り替えられる純白のクロス。壁にずらりと並んだメイドと料理人。
 教え込まれた通りの作法でナイフとフォークを使いながら、鬼利は視線だけを上げて傍の老人を見た。慇懃に会釈を返してくる彼は鬼利のお目付け役で、今はいないこの家の主人のご機嫌取りが一番上手い人間だ。

「今日は何を入れたの?」
「ペースト状にしたカボチャに北方から取り寄せましたサーモンを、」
「そうじゃない」

 最近8歳になったばかりの少年とは思えない、落ち着き払った声で老人の声を遮り、鬼利は音を立てずにナイフとフォークを置くとスプーンを手にとった。

「今日は、どんな副作用のある”薬”が入ってるの?」
「鬼利様」
「何が入ってたって最後の1滴まで飲み干すんだ、何が入ってるかくらい聞いたっていい筈だよ」
「…ポイローズの葉でございます」
「ポイローズ…」

 深く頭を下げながら告げられた毒草の名に、鬼利はスプーンをスープの中に沈めながら溜息を吐く。

「また神経毒か。よく見つけてくるね」
「ご存知でしたか。さすがでございます」
「ありがとう」

 皮肉にしか聞こえないご機嫌取りの言葉に淡々と答え、鬼利は鮮やかな薄黄色をした毒入りのスープを1口、優雅な仕草で口に運んだ。








 神経に影響する毒を飲まされた次の日はいつも全身が軋むように痛いのに、その日は何故かどこにも痛みを感じなかった。

「鬼利様。お休みの間にラボの方からご連絡がございましたが」
「…解った」

 夕食に入れられた毒薬の所為で夜中何度も吐き、熱もそれなりに上がったが、そんなことはこの屋敷では珍しくも何とも無い。
 部屋付きのメイドが額の汗を拭おうとするのを手で遮りながら短く答え、鬼利はベッドから起き上がりながら深く溜息を吐いた。


 古くから続く家に取り付いた忌まわしい風習は多いが、その中でもこの家の『毒の夕食』の慣習の異常さは群を抜いている。政治や国の経済と密接に関係する家柄だからという理由で、先代達は毒や自白剤への対抗策を考え、そこで生まれたのがこの毒の夕食だった。
 毒を食べないようにするのではなく、食べても効かない体にする為に毒を食わせるという発想は異常だ。

 …鬼利の前に5人、この習慣の所為で後継ぎとなるはずだった息子を殺していながら、尚も止めようとしないこの家の当主はもっと異常だが。


「鬼利様、お召し変えを」
「…いいよ、自分でする」
「でも、」
「いいから」

 困った顔をするメイドを無理矢理下がらせ、鬼利はベッドに置かれた服に手早く着替えた。ネクタイ代わりの紐を襟元に引っ掛け、ベストの前を留めながら部屋の隅に置かれた大きな本棚に歩み寄る。

 下半分の戸棚部分に手をかけ、部屋の唯一の出入り口である扉を横目で観察しながら、鬼利は広いその中にするりと入り込んだ。静かに内側から扉を閉め、手馴れた仕草で裏板を外した先には、真っ暗な細い道と古びた階段が続いている。

 同年代の子供ならまず足が竦むだろう、一筋の光も見えない丸い暗闇を真っ直ぐに見上げ、鬼利は一瞬の躊躇も無くその闇の中に入っていった。









「きり、」

 上下左右も解らない闇の中をひたすら進み、68段目で手を伸ばして丁度指先が触れる突き当りの板を横にずらして外した途端、聞こえた声に鬼利は狭い穴から這い出しながら微笑んだ。

「…ごめんね、昨日は来られなくて」
「ん。」

 薄汚れたぼろぼろの服。鬼利の髪についた埃を払う指先は病的に細く、腕には無数の傷跡。
 鏡に映したように鬼利と瓜二つの顔をしたその少年は、鬼利とほぼ正反対に近い格好であどけなく笑う。

「よんだよ、本」
「早いね。面白かった?」
「ん。…ちょっと、わかんないとこあったけど」
「どこ?」

 2日前、鬼利が自分の部屋から持ち込んだ本を部屋の隅から持ってきて広げる少年の横に座りながら、鬼利はジャケットの懐を探った。傷は勿論アザ1つない綺麗な手には、昨夜キッチンからくすねて来た数枚のクッキーが乗っている。

「…ここ」
「ちょっと待ってね。…これ食べてて」

 ページを捲り、ずらずらと並んだ無数の文章の中の一行を、まるで最初からそこにあるのが解っていたかのような速さで指差した少年にクッキーを差し出しながら、鬼利は本を少しずらした。

「あぁ、そっか。ここが解らないんだね。簡単だよ、この式を変形して…」

 最高学府の生徒が読むような内容のその文章にざっと眼を通して内容を把握すると、鬼利は何の変哲もないクッキーを大事そうに食べている少年に、本に挟まれたメモ用紙に簡単な数式を書き込んで説明を始める。

 歳相応に幼い口調で語られるその内容はとてもアンバランスだったが、それを聞く少年の表情は真剣で、難解なはずのその理論を容易く飲み込んでいく。


「…解る?」
「ん。ありがと」
「どういたしまして」

 ふわりと無邪気に笑って頭を下げる少年の頭をぽんぽんと撫でながら、鬼利は屋敷の人間が見たことの無いような表情で微笑み、メモ用紙を挟んだ本を閉じた。

「今度はどんな本がいい?また持ってくるよ」
「きりの好きな本がいい」
「解った。それじゃ、また後で―――」
「っ…きり、」


 ポケットから銀色の懐中時計を取り出し、時間を確認しながら名残惜しげに抜け道の戸板に手をかけた鬼利を、慌てたような少年の細い腕が引き止めた。

「どうしたの?」
「背中、腰、のところ、」
「腰?」

 ただならぬ様子に訝しげに眉をひそめながら、鬼利は少年が指差した腰元のシャツを捲る。
 肌を滑らせた手を濡らす、ぬるりとした感触。

「…血?」

 体を捻って腰元を見てみれば、確かにそこには何かで強く擦ったような傷が出来ており、ささくれ立った皮膚の合間から血が滲んでいる。
 傷そのものはかすり傷に近いし、大して深くもない。きっと抜け道を通る途中で低い天井にでも擦ったんだろう。おかしいのは、気づかなかったというその点だけ。

「きり…血が…」
「あぁ…大丈夫だよ、このくらい…」

 不安そうに自分を見上げる少年に答えながら、鬼利はじっと血のついた自分の指先を見詰めた。

 集中によって一時的に感覚が麻痺するのはよくあることだ。抜け道を通るときは早くここに着くことしか考えていないから、怪我に気づかなかったのは変なことじゃない。でもここに来て本を読んでからは?話しはじめてからは?深くは無いが傷は広い、動けばそれなりに痛む筈だ。さっきクッキーを出す時に体を捻った。あの時は?


「きり…」
「大丈夫だよ。…痛くないから」

 …そう。
 痛くないんだ。








 ラボへ折り返しかけた通信で実験結果と今後の方針を聞いた後、鬼利は白磁に金細工があしらわれた豪奢な通信機を置きながら、傍でちらちらと時計を気にしてるお目付け役の老人を見上げた。

 今日は忙しい曜日だ。朝から乗馬と絵画の稽古、フルートに経済学と予定がぎっしり詰まっていて、寝るまで分刻みで動かなければならない。

 いつもなら、効率を考えない無理なスケジュールを鬱陶しいと思いつつも従っているのだが、今日はとてもそんな気になれなかった。早々に部屋から連れ出そうとする老人の手を振り払い、鬼利は柔らかいソファの上で足を組む。


「…鬼利様。お時間がございません」
「今日の予定は全部キャンセルしてくれないかな。まだ体調が優れないんだ」
「……かしこまりました」
「それと、もう1つ」


 一瞬あからさまに眉を顰めてから頭を下げ、踵を返そうとする老人を呼び止め、鬼利は訝しげに振り返ったお目付け役ににっこりと微笑んだ。

「どうせその足で父様に告げ口に行くんだろう?なら序に伝えてよ」
「ッ…鬼利様!」


 厳格な老人が見たことも無いような表情で叫ぶのを聞きながら、鬼利は足腰の衰えた彼の手が止めるより早く、逆手に持ったペーパーナイフを思い切り自らの腕に突き刺していた。

 ぶしゅ、とあたりに血が飛び散り、白磁の通信機が赤く汚れる。
 見開いた目で見つめる老人に変わらぬ笑顔で微笑みながら、鬼利は腕から引き抜いたペーパーナイフを呆然としている傍のメイドの足元に放った。

「”父様の跡取は、貴方が望んだ欠陥品になった”とね。…あぁ、大丈夫だよ。痛くないから」
「ぼ、っちゃま…!」
「何を突っ立っている、早く医者を!…鬼利様…なんということを…ッ」
「…”なんということ”?」

 血を止めようと真っ白なナプキンを傷口に押し当ててくるメイドと、扉の向こうで走り回る使用人達を他人事のように眺めながら、鬼利は面白くもなさそうな顔で老人を見上げた。


「毎晩の”薬”は、何人にも冒されぬ心身を持つ為、なんでしょ?…大成功じゃないか。少なくともこれで、僕の心身は痛みには冒されることが無くなった」
「…っ…」
「どこに行ってるか知らないけれど、ちゃんと父様に伝えてね、爺」

 信じられないものを見るような目で自分を見下ろす老人の、黄色い瞳に無邪気に微笑み、鬼利はべったりと血で汚れた自らの右腕を見て眼を細める。

 独白のように吐き出される言葉は子供とは思えぬほど落ち着いていて、その中に滴るような毒を含んで、無垢を装った幼い唇と舌から紡がれていく。
 そのどこか遠い眼をした静かな笑みに、歳相応の幼さなど微塵も無く、

「このことを知れば、あの父様のことだ」

 あるのはただ、寒気がするほどの、


「…きっと、さぞかしお喜びになるだろう」







 ―――ご褒美をくれるかもしれないねと無邪気に声を立てて笑ったその横顔に、老人は確かにそれを見た。
 老いが見せた軟弱な幻想に過ぎぬと、信じ込めればどんなに楽か。
 夢でも幻でもなく、彼はその姿を見た。早熟ではあるが未だ無垢だったはずの少年の横顔の中に、

 魔物を。



 >>Next.



鬼利、魔王伝説の始まり。
こんな子供いたら凄く嫌だ。

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