開け放たれた窓に掛る真っ白なカーテンがふわりと空気を孕んで膨らみ、吐息のように微かな衣擦れの音を立てて揺れる。
差し込む柔らかな陽の光を受けて、鬼利の手の中の金色の髪が眩しいほどに煌めいていた。
「このえほんはだい好きよ」
ベッド以外の唯一の調度である安楽椅子に腰掛けて、白いワンピースを着た彼女は嬉しそうに微笑みながら、膝の上に乗せた絵本を撫でる。
「なんどもなんどもよんであげたのよ」
「…覚えています」
澄んだ翡翠の瞳を絵本に向けながら、呟くように言う母の髪をブラシで梳かしつつ鬼利は頷いた。風に揺れる花のように、ゆらゆらと母の座った安楽椅子が揺れる。
「さしえがとてもすてきなの。あのこたちにきかせてあげたのよ」
「はい」
砂時計から流れ落ちる砂の音のようにか細い声で言う彼女に相槌を打ちながら、鬼利は指先でさらさらとした金の髪を撫でた。
彼女は絵本を見つめ続ける。背後に立つ鬼利には一瞥もくれずに、膝の上に乗った絵本の表紙を指先で愛おしそうに撫で続ける。
「センシェラリラでうさぎはまっかなまっかなおはなをつむの」
「はい」
「おはなばたけのなかから、いちりんだけまっかな、いちりんだけえらんで、まっかなおはなを」
それまでと変わらない声音で言いながら、彼女は絵本に注いでいた視線をゆっくりと上げた。真っ白な壁に向けられた翡翠の瞳は、虚ろにぼやけて何も写さないまま大きく見開かれて行く。
「たくさんのなかからいちりんだけ、いちりんだけ…」
「母様」
絵本の表紙を撫でていた細い指がそこに爪を立て、表紙に描かれた真っ赤な薔薇を持つ兎の顔を斜めに引き千切っていくのを、鬼利は袖から伸びる彼女の白い手首にそっと手を添えて止めた。
「母様の好きな、夕陽が出る本はどれでしたっけ」
「…ゆうひ…そうね、あのこはゆうひのえが好きだったわ」
目尻が切れそうな程大きく見開かれていた翡翠色の瞳がゆっくりと細まり、女は再び慈愛に満ちた穏やかな微笑みを浮かべて、表紙が半ばまで引き千切られた絵本を撫でる。
華奢な指先の下で捩れた表紙の中で、可愛らしい兎の横顔が歪んでいくが、それを見つめている筈の彼女は表紙を撫でる手を止めようとしなかった。
「からだがよわくて、あまりわらわないこだったけれど、このゆうひのえが好きだったわ」
彼女の話すあの子というのが、8年前の自分だということを鬼利は理解していた。彼女の息子は鬼利だけでは無いが、彼女が母として接した息子は鬼利以外には居ないからだ。
「あのこはきっとゆうひにあこがれていたのね。なぜかしら」
「…屋敷に無い景色を見たかったんですよ、きっと」
「そうね、あのこはからだがよわかったから」
微笑む母の言葉に、その髪を梳く幼い息子の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
それは失笑するようであり、苦笑するようでもあり、また嘲るような笑みだった。
「母様。幽利も好きなんですよ、この本の夕陽の絵が」
「…ゆうり?」
「はい。面白いものですね、これも双子だからでしょうか」
「……」
幽利、双子。
母の精神を崩壊させた単語を貝殻のように白い彼女の耳に囁きながら、鬼利は口を噤んだ彼女の横顔を一瞥する。
母は壁の一点を見つめたまま、呆けていた。
「……」
軽く溜息を吐き、鬼利はブラシをベッドの上に放ると彼女の傍らへと回り込む。前はそれなりに反応があったのだが、恐慌にすら陥らないということは既に彼女の崩壊した精神の中では、この単語の意味すら理解できなくなったのだろう。
それは予測された反応だった。では何故わざわざ自分は母を試すような真似をしたのだろう?罪悪感と自責の念に耐え兼ねての逃避では無く、正しい理性と知性でもって幽利の存在を認識して欲しかったのか。あの屋根裏の狭い牢獄に幽閉された、不遇の双子の弟の存在を肯定する他者を欲していたのだろうか。
いや、それは違う。脳内に展開される自分の思考に、鬼利は幼い少年の顔を僅かに不快そうに歪めた。こんな推測は自己擁護に過ぎない。
第一、正しい理性と知性の定義からして余りにも不確定だ。そしてほぼ確実に自分はあれを肯定する他者など求めていない。これはただの確認だ。彼女が息子の告白によって心を壊され、枯れた花を花瓶に飾り、白紙の絵本を壁に読み聞かせるようになってから半年経つ。発狂して半年経った人間の精神が回復しているのか、それとも更に崩れているのかを確かめたかっただけだ。
「…同族嫌悪」
ふと思考の隅を横切った言葉を口に出して見て、鬼利は僅かに唇の端を吊上げる。歳の割には余りにも大人び、諦観すら孕んだそれは、静かに自らを嘲っていた。
あぁ、やはり自分はどこまでもあの男の息子のようだ。
「母様、お体に障ります。そろそろベッドに、」
「…あのこは」
自嘲の笑みを即座に打ち消して白いスカートの上に乗った本に伸ばした鬼利の手を、床に視線を落とした女の冷たい指先が捉える。
ゆっくりと持ち上げられた翡翠の瞳は、ぶれることも通り過ぎる事も無く、その焦点を鬼利の橙色の双眸に合せていた。
「あの子はきっと言ったでしょう、こんな夕陽が見たいと」
「…母様?」
「あそこから夕陽は見えないもの」
空を漂うような浮遊感を失い、彼女の声は明確な意思を持って細い喉と小さな唇から紡がれる。
「夕陽が見たいと言ったあの子にあなたは何と答えたの。単なる光線の入射角とそれに伴う光線の移動距離の変化から起こる、賢いあなたには何の感慨も無い当たり前の現象を見たいと願うあの子に」
「……」
「鬼利、私の愛しい子。母様に教えて頂戴、あなたはなんと答えたの」
手首から離れた白い手が、ゆっくりと鬼利の頬に伸ばされた。ひやりとした手が柔らかな手つきで、彼女を見つめる橙色の瞳の息子の頬を撫でる。
「鬼利」
「…いつか、必ず見せると」
既に彼女の言わんとしていることが解っている鬼利の舌は付け根が痺れたように緩慢で、呟くように母の優しい詰問に答えた。
…そうだ。確かに自分はあの時そう言った。
ただの印刷物に過ぎない絵本の、色のついた点の集合体である夕陽の絵を見て無邪気に瞳を輝かせ、いつかこんな景色が見てみたいと照れたように、そして少し寂しそうに言った幽利に、そう言ったのだ。
「…それはいつなの?」
彼女の言葉は終わらない。
「その“いつか”はいつなの?あの男がいる限り、あの男を当主と認める人間達が居る限り、あの子はあそこからは出られない。夕陽なんて見られない」
「…解って、います」
「そうよね、鬼利。あなたは賢くて優しい子だもの」
母の腕が伸ばされ、頬を撫でる手と対となって幼い息子の頬を左右から包み込む。運命の薄幸さを補うように美しいその顔も、息子の頬を挟みこむ手も慈愛に満ちていたが、唇の中で動く赤い舌は息子の失態を許さない。
「優しいあなたは、自己満足の為にあの子を欺いたりしない。それを優しい嘘だと言うのが、お粗末な自己擁護の詭弁に過ぎないのも理解できるわね」
「……はい」
「それならいいのよ。あぁ、私の愛しい子。そんな顔をしないで」
目を伏せて頷く鬼利の表情はいつもとほぼ変わり無いが、彼女は恐らく母という生物としての鋭敏さで以て鬼利の内心を誰よりも理解していた。そっと後頭部に回された手が、座っている自分と殆ど目線の変わらない息子の頭を胸元に抱き寄せる。
純白のワンピースを着た母は間近に見ても白く、そして僅かに甘い匂いがした。
「ねぇ鬼利、何を遠慮しているの?」
鬼利を胸に抱いたまま、彼女は春の日差しのように柔らかな声で問う。
「何も怖がる必要は無いのよ。あなたはとても賢くて、今の私の唯一の誇り」
それはまるで子守唄のような声音だった。鬼利が梳かした滑らかな金色の髪が、さらさらと華奢な肩を滑り落ちて頬を撫でていく。
「他の何を欺いても、他の誰を騙しても、あの子にだけはそうしてはいけないわ。そう決めたんでしょう?」
「……」
「大丈夫よ、あなたはとても賢いわ」
関節の目立つ病的に痩せた細い指が鬼利の髪を梳き、露わにした耳元に荒れて血の滲んだ唇を寄せた。
「考えなさい」
耳朶に滑り込んだ言葉に顔を上げた鬼利を、母はどこまでも優しい翡翠の瞳で見下ろす。
「考えるのよ、一時も思考を止めては駄目。あなたに出来るのはそれだけでしょう?」
「……」
「今更、籠の真綿の中には戻れないわ。知恵と狡猾さを足に、あなたは自分で揺り籠を降りたのだから」
彼女は微笑んだまま、ゆっくりと鬼利の肩を押した。自らの足で自重を支えて立ち、真っ直ぐに自分を見返す鬼利を、満足そうに見上げる。
「そうよ、それでいいの。あなた達の中に私はいらない」
緩く歪曲した安楽椅子に背中を預け、ゆらりとそれを揺らしながら言った翡翠色の瞳の焦点は、細い体が揺れるごとに鬼利から離れつつあった。
「…母様。貴女は…」
「大丈夫、きっと上手に出来るわ。だってあなたは私の愛しい子」
ゆらりゆらりと揺れる安楽椅子の上、純白の彼女は何も映さない翡翠の瞳をうっとりと細める。
「わたしの愛しい、ばけものですもの」
無言で見下ろす息子の前、母はあどけない少女の顔で微笑んでいた。
溢れる程の光が闇を押し退け、煌びやかな極彩色のホールを照らしていた。
苦鳴が、嗚咽が、交差するその中で。
「あぁ…鬼利、私の…愛しい子…」
家が建つような値段の衣服を床に擦りつけ、胸や喉元を掻き毟り、声に成らぬ絶叫と共に嘔吐を繰り返す“親族”達の中心で、彼女はいつものように白く透明で美しかった。
白い絹の手袋に包まれた細い指先から、空っぽのシャンパングラスが滑り落ちて床の上に砕ける。重力に引かれるように、佐緒家当主の伴侶として与えられた玉座のように仰々しい車椅子の手すりに半身を預けた母へ、息子は手を差し伸べ無かった。
目が痛い程に純白のドレスに、彼女の滑らかな金の髪が流れる。音さえ立てず、砂時計の砂のようにさらさらと。
「…身代わりの“双子の死体”は用意しました。当分の生活資金も洗浄済み。僕等が無事隣国に逃げ込んで身を潜めるまでは、母様」
「…ええ…」
「貴女に、身代わりになって頂きます」
すぐ横で血反吐を吐いて叔父が痙攣しても顔の筋一つ動かさず、まるで機械のように淡々と言う鬼利を、彼女は柔らかな翡翠の瞳を細めて見上げた。
「それで、わたし、を…?」
「はい」
「じゃあ、」
「そうです」
その為にこの3ヶ月、何度も何度も彼女を気分転換の散歩という名目で屋敷の敷地のぎりぎり内側まで連れ出し、お目付役に呼び出した彼女の遠い親族の姿を見せ、今足下でのたうつ“親族”達に食事や飲み物から摂取させたのと同じ、強力な神経毒を飲ませて国軍の自治隊に発見させた。精神科医が作った彼女のカルテを、“異常であると改竄したように見せかける”改竄もした。嘗てつけていた彼女の日記に、彼女の筆跡を完璧に再現した鏡文字で犯行動機を匂わせる、この家とあの男を憎悪しているような文面の日記も書いた。
時折ふと正気に戻ることはあっても、間違いなく今の彼女は精神に異常を来たしている。その状態でどこまで鬼利の策略に気付いているのかは解らなかったが、鬼利はそれらを丁寧に彼女に説明することはしなかった。
「…そ、う」
慈愛に満ちた微笑みを浮かべたまま、輝くばかりに白く美しい母はその唇から大量の鮮血をドレスの上に零す。
彼女にだけ飲ませた、他の連中とは別の毒物。その効果は極めて強く、一々彼女に彼女の死後に起こることを説明している暇が無いことを、鬼利はその身を持って知っていた。
「貴女が“これ”の犯人として過去を隅々まで調べ上げられ、マスコミに稀代の悪女として罵倒されている間に、僕と幽利はここから出ます」
「ええ、…ええ、それが…いいわ」
冷酷な宣言に頷くその顔色は白を通り越して青く、既にチークもルージュも何ら意味を為していなかった。
それでも彼女は、こんな時まで、変わらず、いつものように、美しかった。
「良い子ね、鬼利。…たくさん、たく…さん、…考えたのね」
「考えているんですよ」
「ふふ…そうね…」
心底嬉しそうに、楽しそうに、鬼利がいつか庭で春一番に咲いた白い花を贈った時のように、彼女は血を溢れさせる唇で笑う。
差し伸ばされた震える腕は、微動だにしない鬼利の頬を指先で撫で、そして落ちた。
「きり…あなたは、かあさまを…うらんでいる、んでしょう…ね…?」
「いいえ」
「ほんと、うに?」
「はい。興味がありません」
真っ直ぐに翡翠の瞳を見据えたまま答えた息子に、どこか探るような表情をしていた母はにっこりと微笑んだ。
愛情の反対は憎悪ではなく、無関心だ。
自分以外に唯一、幽利を知る者でその境遇を嘆いていた人間としての彼女には関心があったし、彼女が心を壊す程に思いつめていたことも鬼利は知って、理解していたが、そんなことはどうでもよかった。
幽利のこと以外は、あの愛しい片割れ以外のことはもうどうでもよかった。
目の前の女が時折取り戻す正気の合間に、いやそれすらも狂気の延長線上だったやも知れない意識の中で囁き、注ぎ込んだ言葉が自分をこうしたことを鬼利は解っていた。父親が選んだ人間と環境の中で、次期当主に相応しい人間に、そして当主として問題無い人間に成る筈だった鬼利の思想を、価値観を、彼女が紡いだ声は全てぶち壊して、鬼利の世界から幽利以外を追いだしたのだ。
あの狭い狭い屋根裏の牢獄に閉じ込められた幽利の世界と、幼く未熟な子供のエゴで鬼利より他に何も無いまま人形から人間になってしまった片割れと、同じように。
「きり、鬼利…私の、わたしの、賢くて狡くて優しくて酷くて素敵で汚くて愛しい、わたしの悪魔」
「…はい」
絵画から抜け出した女神のように美しく微笑みながら、翡翠の瞳がゆっくりと。
傾いていく細い体に合せて金色の髪が、赤く汚れた白いドレスの上を流れて行く。
「わたしは、あなたを、あの、子を」
さらさら。さらさら。さらさら。
「あいしていたわ」
血泡の混じったその穏やかな言葉を、母が紡いだ最期の言葉を、鬼利は黙って聞いた。
気付けば極彩色の煌びやかなホールはしんと静まり返っている。その耳が痛くなる程の静寂の中で、小さな溜息の音は煩い程響いた。
「知りませんよ」
息絶えた母に背を向けながら、鬼利は片手にしていたシャンパンボトルから手を離す。
「…そんな昔の話は」
静かな静かな独白は、床に落ちた毒入りのボトルが飛散する騒音に掻き消され、誰にも届く事は無かった。
Fin.
鬼利と、かつて鬼利を愛していた人の話。
