優しい悪夢04



 思い出すのは、

「…ねぇ、鬼利。…お母様はね、貴方を、」


 月明かりを吸い込む金色の髪、折れそうに細い指。しゃらしゃらと鳴る白いスカートの衣擦れの音。


「貴方と、…あの子を、私が産んだのは、」


 ゆっくりと動く赤い唇。橙色ではない瞳。


「…だから、きっと…きっと貴方は、私達を」


 それから、…それから。


「お願いね。私の、愛しい…」

 ――――愛しい、   。


 そして視界を埋め尽くす、アカ。










「は、…ッ…」

 ――――…夢…か。

 急浮上した意識に見開いた瞳を、鬼利はゆっくりと伏せた。

 じっとりと髪を濡らす汗は冷え切っていて、そのことに軽く溜息を吐きつつ、知らず握り締めていた白いシーツから強張った指を引き剥がす。


「…馬鹿らしい」

 呟いた声はシンと静まり返った空気の中に溶けていき、強調された静寂が起こす耳鳴りを聞きながら、鬼利は驚くほどに眼が冴えた体をベッドから起こした。
 あの人が出てくる夢はいつもこうだ。解りきった言葉を聞くのはいつも真っ白な世界で、濁った緋色がその白を一瞬のうちに塗り変え風景は記憶の中の一場面へと摩り替わる。

 昼間に思い出すそれは随分と色あせたのに、夢に出てくるあの声と色は少しもその明度を落とさずに蘇る。罪悪感とは生まれて此の方無縁だが、これが俗に言う、悪夢というやつなのか。


 …それとも、










「……マズいな、さすがに」

 手元の書類と目の前の液晶に表示された数字の誤差の大きさに、鬼利は思わず普段は決して言わない類の言葉を吐いてしまった。

「お疲れさまぁーですかぁー?鬼利さぁーん」
「いや…ちょっとね」
「このくらいならぁ、別にアタシでも出来ますけどー。やりますー?」

 奇妙に間延びした声で言いながらも、既に指先が見えないほど袖の長いパーカーに真っ青なフリルのスカートを合わせた少女―――伍級担当幹部の” F ”は、袖から手を出さないままに鬼利の手からその書類を攫っていた。

「助かるよ。ありがとう」
「いぃーですよぉ、別にー。ってか鬼利さぁん」
「何?」
「鬼利さんの関数の解き方ってぇ、凄ぉい遠回りで無駄が多くってアタシ大好きなんですけどぉー、今は普通に解いたほうがよくないですかぁー?」

 眠たげに瞳を半眼にさせたまま、16歳の若さで皇国でも指折りの数学者に数えられるFは、キャラクターの印刷された眼鏡をくい、と押し上げた。

「鬼利さんせぇっかくツルツルのお肌なのにぃー。睡眠不足はぁ、お肌の天敵ですー。何かあったんですかぁー?」
「…ちょっと、夢見が悪くてね」

 悪夢ですかぁー?と首を傾げるFに曖昧に頷きながら、鬼利はどこまでも自然ないつもの作り笑いを浮かべて見せる。

「心配してくれるのはありがたいけど、僕は平気だよ」
「…鬼利サンってぇ、いっつも笑ってますよねぇー」

 眼鏡ごしの橙色の瞳をじっと見据えながら、Fはだらりと伸びた袖をぱたぱたと揺らしつつ、ぽつりと呟く。

「怒った時はママより怖いけどぉー、それ以外は”平気だよ”って笑いますよねぇー」
「事実として平気だからね」
「そぉなんですかぁー?…でも、鬼利さぁん」

 ぱたぱたとウサギの顔がついたスリッパを鳴らしてドアに向かいながら、Fは相変わらず間延びした声で、言った。


「”平気”とか”大丈夫”っていうのはぁ、”辛くない”って意味とは違いますからねぇー?」










 アイシテル。


「…え?」
「愛してる。大好き。もうどうしようもねェってくらい好き。すげェ愛してる」

 髪の水滴を拭いながらリビングに戻った鬼利の足元。ソファに腰掛けた鬼利の素足に頬を摺り寄せながら、幽利は唐突にそんなことを言い始めた。

 行為をねだっているのかといつものように振りほどこうとするが、先にバスルームから上がった筈なのに、髪から水滴を滴らせてシャツを濡らしている幽利はやめようとしない。
 濡れて深みを増した青黒い髪からのぞく橙色の瞳は、驚くほど真剣だった。

「…どうしたの、いきなり」
「愛してる。…愛してる」
「幽利、」
「鬼利、愛してる」

 不思議そうに名前を呼ぶ鬼利の声に被せるようにして、何度も繰り返される告白。
 スウェットの裾をするりと指先が押し上げ、露にした足に口付けるように寄せられた唇が、刻み込むように何度も同じ動きを繰り返す。

「鬼利。…俺の、全部を知ってンのは鬼利だけだ」
「…当たり前だよ」
「鬼利の全部を知ってンのも、俺だけ」
「そうだね」

「どんなモノより俺は鬼利を愛してる。両親を殺して、弟の俺を犯して、見ず知らずの奴を殺す仲介をして、犯罪者と手を組んで、”いけないこと”を全部やってても、俺は鬼利を愛してる」
「……」
「どんなに血まみれになって、どす黒く汚れても、」

 謡うように、祈るように、朗々とした声で言いながら幽利は鬼利の手の甲に口付けた。

「俺だけは、どんなに穢れてもこの手を愛してる」


 囁きながらじっと見上げてくる瞳は、鬼利しか知らない色をしていた。

 常時発動制の”千里眼”のお陰で、幽利の裸眼には目隠しをしている際の「霧」の他にも、視界に入る者の「心の声」というものが見えている。まるで字幕のように幽利の瞳に映るそれは、意識して見ようとすればするほどに内容を深めていく。時には、その人が思い出している過去の映像まで交えて。

 深く深く人の心を見通そうとする時の、炎を上げずに燃える熾火のような色を奥底に孕ませて、幽利は鬼利の心を見透かしていく。


「…僕は、幽利の為ならいくらでもこの手を汚せるよ。お前がそうと望むならいくらでも、どんなことにでも手を染める」
「あの女を、殺したみたいに?」

 変わらずじっと自分の瞳を見つめながら尋ねる幽利に、鬼利は内心で「あぁ、」と呟いた。どうしていきなりこんなことを、こんな解りきったことを聞くのかと思っていた。何かあったのかと、今の今まで思考をフル回転させて考えていた。


 何のことは無い、幽利は怒っているだけだ。



「母様とか、父様とか、俺には解ンねェよ。野郎には殴られて貶された記憶しかねェし、女は顔がわかる状態で会った時にはもう死んでた」
「うん。僕が殺した」
「あそこで死んでた中では、あの女が1番綺麗で鬼利に似てた。他の奴等が泡吹いてンのに、あの人だけは綺麗で、…笑ってて」

 その時の情景を思い出しているのか、幽利の瞳が細まった。
 幽利の手が指先が白むほど強く、自分の服を掴んでいるのを視界に入れながら、鬼利は柔らかく笑う。

「幽利は、母様が嫌い?」
「…嫌い」
「どうして?お前に会いにも行かなかったから?」
「違ェよ…俺のことは、別にどうでもイイ」
「じゃあ、どうして?」

「…悔しい」


 ぽつり、と呟かれた言葉はそれまでとは打って変わって消え入るように小さく、その頼りない声に鬼利は薄っすらと微笑んだ。

 …嗚呼、どうしてお前は、そんなに。

「何年も前に死んだのに、まだ鬼利の頭ン中に残ってるのが悔しい。俺は鬼利の夢が見てェのに、偶に俺の夢にまで出てくンだ、あの女」
「なんて?」

 膝に縋ってうつむく幽利の髪に額を押し当てながら、鬼利はまるで秘め事を話すようにひそめた声で囁く。

「母様は、なんて言ってた…?」
「…『お願いね。私の、愛しい、…』」

 …愛しい、化け物。





 母は美しい人だった。
 その美貌故に父に手篭めにされ、半ば強制的に妻として佐緒家に囚われた彼女は、その薄幸な人生を補うように麗しい外見をしていた。

 厳しいしきたりと狂った親族の間で、それでも気丈に立っていた母は、死んだと聞かされていた自らが産んだ子の1人が、忌み子として人並みの生活すら送れずにいることを知った時、とうとう崩れた。
 それを知らせたのは鬼利だ。目の前で母は、美しく狂いながら子の前でその華奢な身の内に飼っていた鬼の存在を子に教えた。


 鬼利、私の愛しい子。
 母様が貴方達を産んだ理由を聞いて。

 私が、貴方と、…あの子を、産んだのは、

 …母様は醜い女だから、こんな家はとても許せない。
 だからきっと、貴方は、貴方達は、
 この家を、あの男を、私を…滅ぼすのよ。

 ねぇ、お願いよ。

 鬼利、私の愛しい、愛しい、





「僕の記憶を”見た”の?」
「…見た」
「どう思った?あの声を聞いて」

 何度も何度も、あの日から事あるごとに繰り返された睦言。まるで祈るように己の子が罪を犯すことを望んでいたあの人の声は、今もどこかに残っている。

「最初は何とも思ってなかったけど…何度も何度も出てくるから、嫌いになった」
「そう。じゃあ僕も、嫌いだよ」
「…母様なのに?」
「関係無いよ。幽利が嫌いなら僕も嫌い」

 顔を上げさせた幽利の耳元で囁きながら、鬼利は不安そうな幽利を安心させるように優しく微笑んだ。
 きっと、あの人の夢を見ることはもう二度と無いだろうと、思いながら。


 ―――親愛なる母様。
 貴女が囁いた呪いのお陰で僕達は、貴女の死すら満足に悼むことも出来ない、

 …貴女が望んだ、非情な化け物になりました。



 >>Next.



久しぶりの双子話。鬼利の記憶に残る母の影に嫉妬しちゃう幽利。
ちなみにサブタイトルは
「親愛なる、」です。

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