優しい悪夢01



 それはあまりにも愛に溢れた行為。

 注がれる愛情は際限を知らず、拒否権を持たない体と心に染み込んで、

 窒息死しそうな程に。










 月明かりだけが光源の屋根裏の床が、黒く染まっていた。
 よく見ると、どす黒い液体は床だけじゃなく壁や天井にも飛び散っていて、狭い部屋の大半が闇色に染まっている。

「…"おはよう"、幽利」
「……鬼利?」

 自分のそれとよく似た声に顔を上げた俺は、今の時間に合わない挨拶と、俺よりも色白な鬼利の顔を汚すどす黒い液体の両方に、首を傾げた。


 何で、夜なのに「おはよう」なんだろう、とか。
 何で、そんなに楽しそうなんだろう、とか。
 何で、部屋のどこよりも鬼利がどす黒く染まってるんだろう、とか。



 さっきまでそこに居た、父親はどこに行ったんだろう、とか。



「ねぇ、幽利。僕はお前に名前をあげた。声も、眼も、人間としての知識もみんな僕があげた。…そうだよね?」
「…ん…」

 床に座り込んだ俺の前にしゃがみ込んだ鬼利が、上からじっと見下ろしてくる。伸ばされた手が、ぬるりとした感触を伴って俺の頬に触れた。

「幽利、お前は僕の何?」
「……奴隷…?」
「それと、もう1つ」

 …もう1つ?
 俺は生まれたその時から鬼利の奴隷だと言われて育てられた。もしも鬼利が病気になったり怪我をした時の為に、完璧に適合する臓器や手足のスペアとして。
 今まで会った鬼利以外の人間に俺はそう言い聞かされて来て、これ以外の存在理由なんて教えて貰ってない。


「お前はね、幽利。僕の片割れなんだよ」
「片割れ、って?」
「世間では兄弟って言うんだ。僕が兄で、幽利が弟。…でも、僕等のつながりはそんなに簡単なものじゃない」

 小さい頃から天才だとか神童だとかって騒がれてた鬼利の話は、俺には少し難しくてよく解らないけれど、この話がすごく大切だってことは解った。
 だって、こんなに嬉しそうにうっとりと話す鬼利は見たこと無い。


「あの親族と僕達には、同じ種類の血が流れてるけど別々の物だ。でも、僕等は元は1つのものだった。血のつながりなんてレベルじゃない」
「……」
「大丈夫。お前にもいつか解るよ、幽利。これがどれだけ凄いことなのか、これからゆっくり僕が教えてあげる。時間はたっぷりあるよ」

 にっこり綺麗に笑って、鬼利は俺を立ち上がらせた。床の黒い水溜りをばしゃばしゃ音を立てて踏み越えて、鬼利は俺の手を引いたまま屋根裏部屋から出る。
 南京錠の外された扉はあっさりと開いて、

 …俺はその部屋を出る瞬間、真っ黒に染まる部屋の隅に大きな斧を持った人影を見たが、その顔を確認する前に扉が閉まった。


「もう、誰の眼も声も気にしなくていいよ。もう誰もお前を馬鹿にしたり蔑んだり殴ったりしない。僕以外は、ね」


 謡うような鬼利の声につられて、俺は廊下の手すりから身を乗り出して吹き抜けになったホールを見下ろした。
 今夜、親族全員を集めてパーティーが開かれている筈のそこは耳が痛くなるほど静かで、呼吸や移動で必ず起こる筈の空気の乱れすら俺の「眼」には見えない。
 見えるのはホールを埋め尽くす紅と、そこに累々と横たわる人形達。


「…スゴい…」

 思わずそう呟いてから、俺は辺りに立ち込めた鼻をつく匂いの正体が、ホールに倒れた人形達が吐き出した大量の血だと言う事に気づいた。そして、血の中には他とは違う並びと種類の原子が混ざっていることも、「見た」。


「鬼利がやった、んだ?…これ…」
「そうだよ。あの連中は、愚かにもお前を殺そうとしたあの男を支持した。だから、同罪の報いを受けさせてやったんだよ」
「……」

 くすくすと楽しそうに笑う鬼利に、俺も何時の間にか笑っていた。
 淡々とした終わらない時間の中で生きてきた思考と体に広がるのは、震えるような、開放感。


「ふふっ…どう?幽利。気に入った?」
「……くくっ…は、はははッ」

 楽しげに言いながら俺を抱きしめる鬼利に、俺は笑いながらその体を抱き返した。


 さっき部屋で見た人影は、間違いなく父親だった。
 傍にあった斧は、本当なら俺に振り下ろされてこの頭を押しつぶす筈だった。それを飛び込んできた鬼利が止めて、押し倒して、……あぁ、全部思い出せる。

 向きを変えた斧を、父親だった男の胸に突き刺したんだ。…2人で。

 俺は鬼利のモノだってあれだけ言ってたくせに、その俺を勝手に壊そうとしたんだからこれは当然の報いだ。そしてその行為をそそのかした親族も、鬼利の手で毒を盛られて血の海に沈んでる。ワインか水か、何に入れたのかは解らないが、生存者は0だ。



「…これからどうするの?」
「大丈夫だよ、ちゃんと考えてある」


 ひとしきり笑った俺に鬼利はそう答えて、抱きしめる力を少しだけ強くした。
 その指先がするりと伸びて、俺の首筋に絡みつく。これは異常なことだって事くらいは俺にも解るけど、そんな世間一般の常識はどうだっていい。

「お前は黙って僕に従えばいいんだよ、幽利」

 いつ絞め殺されるか解らない、そんなスリルに背筋がゾクゾクする。



「お前の全ては、僕のモノなんだから」



 耳元に吹き込まれる甘い毒。
 俺はそれに黙って眼を伏せて、血に汚れた鬼利の指を舌先で舐めた

 命を掛けての、服従の証として。



 >>Next.




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