07.



「…そぉいや、あの女は?」

 船内に当然のように完備されている医務室の中。真っ白な診察台に寝そべって左肩の傷を医者に縫い合わせて貰いながら、悦はふと思い出したように顔を上げた。

「貧血起こして旦那サマが連れてったぜ」
「返り血だろ、あれ」
「俺のな。先に気ィ失わせときゃよかった」

 ちょっとトロかったな。そう自嘲気味に呟いて、傑は血に固まった悦の髪をくしゃっと撫でる。

「そーゆーのは旦那の仕事だろ。“見るな!”とかよくやってンじゃん、映画とかで」
「あー…まぁ、あっちも温室育ちだからな」
「にしたって好きな女の前なら……あ、どうも」

 肩身の狭そうな顔をしながらもきっちりと縫合を済ませ、包帯を巻いてくれた医者に軽く頭を下げつつ、悦は診察台の上に起き上った。
 誘き出す為なら腕の一本程度はくれてやるつもりだったが、幸い左肩を撃ち抜いた弾丸は骨や重要な腱を外して抜けていた。小口径だったこともあり、この程度なら悦にとってはかすり傷と変わらない。


「痛み止めです。もし酷く痛むようでしたら、また来て下さい」
「うん」
「御親切にどーも」

 悦と傑が明らかに他の“賓客”とは違うと気付きながらも、職務を全うしてくれた医者に礼を言い、悦は薬を受け取った傑と共にドアへと向かう。
 血のついたシャツを羽織り、左手の動きを確認しながら先に立ってスライド式の白いドアへ手を掛けた。

 悦が力を入れるのと同時に滑るように開いた扉は、その口から廊下の柔らかな間接照明の明かりと、太い腕を生んだ。


「て、め…ッ!」

 蛇のように伸びた腕に右腕を絡め取られ、咄嗟に腰のナイフを抜こうとした悦の瞳が、襲撃者の射るような視線を受けて見開かれる。舌打ちと共にナイフの柄から手を離した視界がぐるりと回り、顎を床に打ち付けそうになるのを首を反らせて回避した。

「よぉ、犯罪者」
「っ…いってーな、オッサン」

 背中を抑える膝に容赦なく体重を掛けられて息を詰まらせながら、悦は肩越しに襲撃者―――悦の右腕を背中で捻り上げているラウと、その傍らで何の躊躇いもなく、負傷した悦の左腕を踏みつけるウィルを振り返った。
 だが、お手本のような軍部警察式の格闘術で悦を這いつくばらせた特務隊長も、その副官も、悦の方など見ていなかった。軍部警察の中でも精鋭中の精鋭である2人の男が、額に汗すら浮かべて見据えているのは、悦の前方。


「あーあー…今縫ったトコだっつぅのに」

 悦の左肩を見て痛ましげに端正な眉を潜めている、美貌の零級指定賞金首だ。

「…てめぇが、世環傑か」
「そーだけど」
 鋼のようなラウの問いに、傑はいつも通り飄々と頷く。藍色の瞳は自分を注視する特務隊長と副官をちらりと一瞥しただけで、再び彼らの足元で組み伏せられている悦へと落とされた。
 精鋭中の精鋭だろうと、歴戦の軍人だろうと、傑の前では等しく“ただの人間”だ。2人を殺して悦を助け起こすことなど、傑には息をするのと同じくらい簡単なことだが、相手が軍部警察ではそうもいかない。

 ILLの登録者として軍部警察に手を出してしまえば、危うい所で保たれている均衡はその瞬間に瓦解する。辛うじて保っている積み木の下段を一気に引きぬくような真似をすれば、鬼利に半殺しにされる程度では済まない。

「……」
「……」

 ―――いい。平気だから。

 伺うように軽く首を傾げる傑に、悦は出来るだけ退屈そうな顔で小さく首を横に振った。縫合されたばかりの左肩が痛むが、素直に顔を顰めたりしたらラウとウィルの首が飛ぶ。
 傑相手には無駄な演技だが、だからこそ意味がある。案の定、傑は演技を見破ると同時に悦の真意にも気づいてくれたようで、軽く溜息を吐きつつ藍色の視線を上げた。


「…で?」
「第3代ターバ王国国王執政補佐兼、『群青の逆天秤』レーヴル家当主レーヴル=トルニトロイ、通称“砂漠王”からの依頼を受けたのは、貴方ですね」

 気だるげに先を促す傑に、今度はウィルが答えた。暗唱でもするような声はラウと同じく硬質で、昨夜悦に見せたような軽薄さは欠片もない。

「あぁ」
「依頼内容は砂漠王より娘のミラリアに贈られた“聖女の枷”のレプリカの護送、及び式中の護衛と、聖冠を害するあらゆる事象の積極的排除。……間違いは?」
「ねぇよ。それで?」

 趣味のいい礼服の襟元を汗に濡らしているウィルには一瞥もくれず、傑は退屈そうに首を撫でた。それだけの動きでラウとウィルの体が揃って強張り、それぞれの腰と懐から抜かれた2つの銃口が傑を捉える。


「どーすんの、そいつ」
「当然、連行する」
「結婚式中の襲撃による混乱に乗じ、この者はILLの依頼外で殺人という重罪を犯しました。多数の乗客より、無抵抗の被害者を惨殺したとの証言も得ています」
「…あァ、そう」

 平然と違法中の違法である証言のでっち上げを告げるウィルを、気のない相槌を打ちながら傑がちらりと一瞥した。
 咄嗟に引き金に指を掛ける若き副官と、それを視線で制する熟練の隊長とを眺めて、藍色の瞳が細められる。艶やかな紅唇には笑み。


「そのよく回る舌で殉教にけしかけられたワケだ。可哀想にな」

 ぞっとするほど冷たい笑みを含んだ傑の言葉は、悦にはなんの事か理解出来なかったが、特務2人は違うようだった。

「…“人間”にも解るように言ってくれねぇか、化け物」
「さぁ?ただの化け物の戯言だよ」
「貴方を伝書鳩に使うとは思えませんが」
「だから、俺はただの荷物持ちだって言ったろ」

 軽薄な仕草で首を竦め、傑はスーツの内ポケットから取り出した黒い通信端末を放った。傑のものではない。
 ワックスの効いた白い床の上で2回跳ね、液晶を下にして悦の傍らを滑っていく端末を、ウィルの革靴が爪先で止めた瞬間。

 ♪♪♪♪、♪♪♪…

 測ったようなタイミングで甲高い呼び出し音を鳴らし初めた漆黒の端末に、ブランドロゴは無かった。










「…それで、結局お前は何をそんなに頑張っていたんだ?」

 領土を侵略するゲーム機器や雑誌をゴシックの机へ押しやりながら、キュールはゴシックのパソコンを覗きこんだ。
 4つのディスプレイの内、既にメインはオンラインのRPGに、サブ2台はアニメの映像とその公式ホームページに切り替えられていたが、最後の1台には鬼利に送るために纏められた“成果”が残っている。


「頑張ってたんじゃねぇよ頑張ってることを強いられてたんだよ誰が好き好んであんな七面倒臭いするかボケ」
「…お前、暗号化の仕方間違ってないか?読めないぞ」
「敢えてだっつーの意図的だっつーの土台の上と下組み替えただけだろーが鬼利サンなんてなぁ、一瞬で気づいたっつーか気にも留めなかったんだぜ無視だよ無視。ダルかったからちょっと嫌がらせしてやろうと思ったのにどうなってんだあの人の頭ん中怖いわ」

 舌打ち混じりに言いながら、ゴシックは持っていた細い絵筆の背でキーボードを叩いた。一瞬の暗転の後、目に痛いパステルカラーの画像に切り替わったディスプレイから、キュールは思わず顔を逸らす。
 無機質な数字と記号の暗号文に代わって映しだされていたのは、ゴシックが先程から一生懸命に着色しているフィギュアのイラストだ。下着同然のコスチュームから色んな箇所がはみ出ている二次元美少女の、花やハートが飛ぶ背景には、『愛玩マーダー☆縊死の華』というロゴが踊る。


「…なんだこれ」

 思わず素で呟いてしまったキュールは、直後に自分の言葉を激しく後悔した。
 こんなことを言えば、ただでさえ長いゴシックの話が更に長くなる。呆れを通り越して哀れみすら滲む声音でも、端からキュールの感情など慮る気のないゴシックには関係ないのだ。それが質問であるとゴシックが認識してしまったが最後、


「はぁああああああ?なにそれお前マジで言ってんの“マダ☆縊死”の王都聖騎士第2師団通称“ツバキ”部隊長にしてヤンデレで貧乳黒髪属性の詐欺的清楚系ヒロイン雲龍・宴ちゃんだろうがちなみに人気投票第3位」
「……随分と勇壮な役職に就いているんだな」
 案の定始まったゴシックの見下し系マシンガントークに、元傭兵系男子であるキュールは半ば諦観を込めて気のない相槌を打った。
 こうなってしまったゴシックは相手をしようがしまいが、もういい興味ない止めろと言おうが全くお構いなしに、人間が文化的に生活する上で全く必要のない知識をそれはもう膨大に盛大に、自分の気が済むまで披露しまくるからだ。

 その後の20分に及ぶゴシックの長口舌を要約すると、ヤンデレらしい宴ちゃんとやらは、若干16歳ながら部隊長としては実に有能で、パンチラしながら魔法でも出しそうな外見に反して戦場では一騎当千の働きを見せるらしい。だがそんな彼女も日常に戻れば1人の乙女であり、そのギャップがなんとも黄金比で素晴らしく完璧で萌え滾るそうだ。激しくどうでもいい話である。


「―――とまぁ“愛玩”なんつータイトルから既にお察しなんだけどこれの優秀なトコは濃厚で変態な陵辱と激甘健全エロが同立した上に、ヒロインが絡む戦いの戦略だの兵法だのまでが―――」
「そうか」
「―――その時の戦いがストリウム戦役っつーわけなんだけどこれが有楽との隔絶に繋がってくわけなんだよ有楽っつーのは宴の異母妹なんだけどこっちは軍師として敵方を―――」
「凄いな」
「――――から――――触手で―――萌え―――絶対領域――――16周目からは男の娘が―――軍警――――」
「ふーん……え?」


 完全に聞き流しモードに入っていた聴覚が断片的に捉えた単語に、キュールは思わず顔を上げた。

「今、軍警って言ったか?」

 現代からタイムスリップした主人公が元軍警員だった、とかいうオチかとも思ったが、見事に着色された美少女フュギュアを多方面から確認していたゴシックは、男の露出狂にでも出会ったような顔で「てめぇが聞いたんだろ」という意味の罵倒を400字に渡って吐き捨てる。


「あぁ、悪い、悪かったよ。それで軍警が何をしてたんだ?」

 淀みなく流れ出る悪口に参ったと両手を軽く上げて見せながら、キュールは宥めるような口調で先を促した。キュールが謝る謂れなど欠片も無いのだが、相棒の理不尽さにはもう慣れている。

「世環の依頼の件、確か依頼主はトルニトロイだろう?軍警が“砂漠王”にケチをつけるような真似でも…」
「予備知識ゼロに等しい残念なてめぇにも解るように申し上げるとトルニトロイぶっ殺して時期当主予定のミラリアと無能大決定な婿に恩売って傀儡にして、『群青の逆天秤』家の利権やら威光やら影響力やらでターバ王国の国政に手ぇ出そうとしてたんだよ」
「…なんだって?」


 一息に語られた顛末は、確かにゴシックにしては珍しく簡潔明瞭なものだったが、皇国とターバ王国、そしてレーヴル家について多少の予備知識があるキュールは聞き返さずにはいられなかった。
 主に経済や産業面での王の補佐を務めるレーヴル家は、ターバ王室を支える御三家の中でも『群青』の名を与えられ、国内でのその発言力は絶大だ。現当主のトルニトロイによってその地位が盤石なものとなっている今、次期当主であるミラリア嬢を傀儡とすることが出来れば、皇国は希少鉱石や暗色気化燃料などの輸入に於いて、絶大な恩恵を受けることが出来るだろう。
 いかにも軍部警察の上にいる皇族共が考えそうな、悪辣で合理的な手だ。そこは解るが、その前が解らない。


「父を謀殺された娘が、どうして皇国に恩を感じるんだ?虐待でもされてるのか」
「それなんてエロゲだよ王道ではあるけど違ぇなあのオッサンは親馬鹿で有名で実際のトコもその通りの超絶イイ親父だっつーかミラリア処女だし。軍警共のシナリオはドラグニアじゃなくてウェドー二アなんだよしかもマジ鬱な2の方な」

 キュールが表情で理解不能と訴えると、ゴシックはこれ見よがしに大きく舌打ちをして、ゲームの山の中から2冊の大判の本を引っ張りだした。
 ドン、と音を立てて机に落とされたその表紙を見てようやく、キュールは聞き慣れない単語が名作RPGのタイトルなのだと理解する。そんなことだろうと思った。

「ドラグニアはマジパネェ没落っぷりの王女に擦り寄った怪しい連中が助けてくれるけど実は没落の首魁で途中で気づいてぶっ殺される話。ウェド-ニア2はマジヤベェ危機的状況で助けてくれた恩人かと思いきや全ての元凶でだがしかし強大過ぎて太刀打ち出来ずに使われるだけ使われて捨てられる話」
「それを現実でやろうとしてるってことか?どうやって」


 ゲームに関する長い補足説明が入る前に質問を被せたキュールに、ゴシックはそちらを見もせずに「ドラグニア」の方の攻略&設定資料集を捲り、細かい字とラフ画がぎっちりと詰め込まれた頁を開いて見せた。
 見出しには「旧国教派」とある。ゲーム内で主人公側に敵対する、架空宗教団体の資料だった。説明文の中にはそこかしこに“狂信者”という文字が踊る。


「つまり…世環が護っている“聖女の枷”を狙っている宗教団体が、この役割ってことだよな?」

 担当では無いので詳しいことは解らないが、ターバ王国の国教であるイラムド教に《熱狂派》と呼ばれる宗派があり、名前の通りに狂信的な彼らが、今回の依頼の最大障壁として設定されていることは知っている。


「でも、彼らがトルニトロイを狙うのは“聖女の枷”の所為だろ?そこまで皇国の仕込みなら、これはあまりにも不自然じゃないか」

 トルニトロイが気づかぬ筈がない。そして、皇国中枢の連中が考える罠にしては粗が目立ちすぎる。
 そう主張するキュールに、ゴシックはエロゲヒロインのフィギュアを丹念に布で磨きながら、馬鹿にしきった溜息を吐いた。

「てめぇはホンっとに馬鹿で間抜けで視野が狭ぇ上に応用力の欠片もねぇ無能かつ学も無く論理的思考も出来ないクズ脳筋の馬鹿だな」
「あのな、知りもしないゲームの設定資料集と足りない断片情報だけで、どうやって全体像を把握しろって言うんだ。…これ壊すぞ」
「おーおーおーおーおっかねぇのヤだねぇ三十路にもなって余裕のねぇ上に馬鹿な野郎は。仕方ねぇから馬鹿にも解るように順を追って説明してやるよだから俺の嫁を返せ」


 …全く、1つ話を聞こうとするだけで一苦労だ。
 やれやれと嘆息しつつわし掴みにしていた美少女フィギュアを返すと、ゴシックは間男でも見るような目でキュールを睨みつつ、血色の悪い唇を開く。


「つまり結局要するにだな―――」



 >>Next.




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