『―――《熱狂派》を煽動しトルニトロイ氏を謀殺。更に“偶然”乗り合わせた貴方達が《熱狂派》残党を始末することで、証拠隠滅と共にレーヴル家、ひいてはターバ王国に恩を売る』
床に投げ出された黒い通信端末が、謡うような鬼利の声をばら撒いて行く。
『…元々のシナリオはこの程度のものだった筈ですが、このシナリオには狂いが生じた。弊社子飼いの“化け物”のお陰で』
声音から間の取り方から、全てが計算され尽くした鬼利の語り口に引っ張られるようにして、悦は眼前の傑を仰ぎ見た。診察用の丸椅子に腰掛けた“化け物”は目を伏せたまま、両手をポケットに突っ込んで組んだ足の先を退屈そうに揺らしている。
『当初計画されていた英雄の配役は奪われ、トルニトロイ氏も生存し、混乱に乗じて氏を害することは極めて難しい。計画は予備プランへと移行され、氏を直接陥れることで、獲得する筈だった権益を僅かながら確保することにした。……任務外で同乗していた、弊社の登録者を使って』
演説のようで尋問のような鬼利の話に不意に自分が登場し、悦は黒い通信端末へ視線を戻す。序に自らを抑えつけている2人の軍警員の顔色を伺うが、精鋭の隊長とその副官は、揃って軍人らしいポーカーフェイスでその表情を固めていた。
『ここからは推測になりますが……登録者が自己、或いは他乗客の防衛の為に害した賊を一般人にすり替えるか、もしくは何者かを害した、という行為そのものをでっち上げることで、トルニトロイ氏に責任を問うおつもりでしょう』
推測、と前置きした割には少しも迷いない口調でそう言い切り、黒色の通信端末は静かになった。数秒、呼吸音すら聞こえそうな沈黙が占めた狭い医務室の空気を、小さな破裂音が破る。
「成る程、素晴らしいシナリオです。まるで推理小説の探偵だ」
それは実に侮蔑的な拍手の音だった。
「事実ではないということを除けば、妄言の域を超える見事な戯言ですが、生憎私達には貴方の脳内小説の設定を拝聴している時間的余裕は無いんですよ」
やけにゆっくりとした拍手の手を止め、申し訳なさそう―――なフリをした声音で言いながら、ウィルは言葉とは裏腹に射殺しそうな目で通信端末を睨めつける。
「もう貴方の妄想のお話は結構ですので、簡潔にお教え頂けませんか。我々に対して何の拘束力も持たない貴方が、貴方の子飼いの犯罪者を法に則って逮捕連行しようとしている私達に、一体何の用があるというのです?」
『貴方達を糾弾するつもりはありませんよ。外道と謗るつもりも無い』
慇懃無礼なウィルの硬い声に対して、鬼利の声は宥めるように柔らかい。ウィルにはそれが屈辱的だったらしく、悦の腕を踏む足に力が篭った。
『前置きが長くなってしまったことは謝ります。話し合いがスムーズに進むよう、こちらのカードもお見せしようと思いまして』
「…話し合い?」
『ええ、そうです』
きしり、と端末からの音声に雑音が混じる。椅子の鳴る音だ。
『貴方達の為に、"僕"はこの件が穏便に済むよう取り計らいたいのです』
通信機の向こうで僅かに声を潜めた鬼利に、ラウが軽く鼻を鳴らした。苛立ちや侮蔑というよりはつまらない、とでも言いたげなそれに、ちらりと傑の瞳が動く。
「どうしてそこまで砂漠王に拘るんです。彼は確か、そちらに対しては払いが悪いと―――」
「馬鹿野郎、嘘だあんなもん」
一度深呼吸し、先程よりは落ち着いた口調で疑問を口にしたウィルを、ラウが舌打ち混じりに遮った。咄嗟に上官を振り返ったラウの足下で、鬼利が「仰る通りです」と端末越しに嗤う。
『あれほど、誰にも言ってはいけないと忠告したのに……少し考えれば分かりそうなものですが』
「…つまり、そちらとしてはこんなことで上客を失いたくないわけだ。たかが骨董品の護衛、他の“仕事”に比べれば額面も小さいのでしょう」
揶揄うような鬼利の言葉を無視して、ウィルは確認するように言いながら隣のラウに目配せする。
「それで、先ほどの“妄言”というわけですか。成る程、そちらの言い分は解りましたが…我々には何の利点が?」
『利点?』
間を置かずに聞き返した鬼利の声は、心底不思議そうだった。
完全に予想外のことを聞かれたようなその反応に、ウィルの瞳が不信感と侮蔑に細まる。
「この“犯罪者”をみすみす船に乗せ、乗客を危険に晒したトルニトロイ氏には、貴方の言うように相応の罪がある。それを問わないことで、我々に何の利点があると言うんです?」
『それは結果の話ではありますが、私共の要求の根本ではありません』
「…どういうことです?」
『私共が貴方達に望むことは唯一つ。貴方達がスケープゴートにしようとしている、そこの登録者の返還だけです』
「…は…?」
「え?」
きっぱりと言い切られ、ウィルは勿論、ラウすらも驚きを隠せないように目を見開いたが、一番驚いたのは“そこの登録者”であるところの悦だ。
政治だの国家だの権益だの、難しいことは悦には解らないが、自分の命が天秤にかけるまでもなくトルニトロイより遥かに軽いことは分かっている。それは軍警は勿論、“ILL”を背負っている鬼利にとっても同じ筈だ。
「意味が…分かりません。トルニトロイ氏よりもこの犯罪者の身柄を優先して、一体貴方に何の得が?」
当然のウィルの疑問に、通信端末の向こうの“一般人”は珍しく、言葉を探すような不自然な間を置いた。
『……損得の問題ではありません。私は純粋に、“ILL”の最高幹部として―――』
「俺のだからだよ」
独り事のようにぽつりと呟かれたその言葉に、部屋中の人間達の視線が一点へと注がれる。
「…俺の、とは?」
「そのまンま、俺のモノって意味だけど」
『傑、今は―――』
「あァ?」
鬼利の制止にらしくない粗暴な舌打ちを返し、傑は両手をスラックスのポケットに突っ込んだまま、億劫そうに丸椅子から立ち上がった。
ウィルとラウが改めて身構えるのには見向きもせず、床に転がった通信端末を冷たい藍色の瞳で見下ろす。
「まどろっこしいんだよてめェは。ネタは押さえてあンだろーが」
『それは、勿論。だが―――』
「じゃァ問題ねぇだろ。……おい」
明らかに上機嫌ではない傑に水を向けられ、額にびっしりと汗をかいたウィルの肩が小さく揺れた。
「何度も言わせンな、それは俺のなんだよ」
「っ…!」
「…随分、ご執心だな。この淫売がそんなに大事か」
こつ、と靴を鳴らして一歩を踏み出した傑に、ウィルがごくりと息を飲み、ラウが銃口を悦の頭へ向ける。傑の言動を鑑みての冷静で的確な行動だったが、傑はそれを嘲笑って更に一歩進んだ。
「100近く試してようやく見つけた“丈夫”なオモチャだからな。お気に入りを横から掻っ攫われンのはお前等だって嫌だろ?」
「化け物の考えることはわからねぇ」
「そりゃ残念だ」
硬いラウの言葉に軽く首を竦め、傑はポケットから右手を出した。
その手には相変わらず何の武器も握られていないが、特務2人に鳥肌を立てさせるのには十分だった。素早く悦を引きずり起こして一歩後ずさったウィルと、半身を開いたラウの銃が、ごつりと音を立てて悦の左右のこめかみに押し当てられる。
左右から宛てがわれた銃はそれぞれ発射寸前まで引き金が引き絞られていたが、傑はそれを見て退屈そうに目を細めた。
「利点、ってのはな」
鉤爪状に曲げられた指にパキ、と乾いた音を立てさせながら。
「お前等2人が“死なずに済む”ことだったんだよ」
凪の海を思わせる声で淡々と言いつつ、傑は僅かに腰を沈める。
「……まぁ、もう遅いけどな」
あっけらかんと言い放たれた言葉が空気を震わせて人間達の耳に届く頃には、化け物の姿はその場から掻き消えていた。
ごっ。
高速移動に伴う颶風に髪を巻き上げられたと思った瞬間、人間の体から出たとは思えない音を立ててへし折れたラウとウィルの腕の中から、されるがままに捕らえられていた悦の体が柔らかく引き出される。
先刻の結婚式で新郎が新婦にしていたように、紳士的に腰に手を添えて囚われの恋人を瞬きの間に救い出した化け物は、驚異的な身体能力で折れた腕から銃を持ち替えた2人の哀れな人間を、事も無げに返す腕で、
『待て、傑』
化け物の右手が手始めにラウの頭を爆散させる寸前に、その声は発せられた。
背後に涼やかな音色を伴ったその声に、今ここに居さえしない非力な人間の言葉に、何よりも脅威的な凶器と化していた化け物の右腕が、見えない壁に阻まれたようにぴたりと止まる。
『それはいけない。やっては駄目だ。……解るね?傑』
それは凡そ化け物にするには相応しく無い、よく訓練された犬に言い聞かせるような命令だった。
「え…?」
「な…っ」
「……!」
だが、三者三様の驚きに目を見開く人間達に忌々しげに1つ舌打ちをして見せながらも、傑は声に従って腕を下ろす。更には悦を抱いたまま距離を取るように後ずさるのを見て、3人の人間は一斉に『命令』を下した黒塗りの通信端末を凝視した。
『…やれやれ』
それを見ているかのような抜群のタイミングで、鬼利は些か疲れたような声で言う。
『だから言ったでしょう、“貴方達の為”だと。まだ生きてらっしゃいますか?』
「てめ、ぇ…!」
「あ、貴方、は…ッ」
『息があるのならば結構』
特務2人の苦鳴混じりの声を一蹴して、鬼利はこれ見よがしに溜息を吐いた。
『武器とは、完璧に制御出来るからこそ武器たり得るのです。私が手綱も持たずに放し飼いにしているとでもお思いでしたか?』
高い授業料でしたね、と嘲弄するでもなく淡々と吐き捨てて、鬼利はこつ、とデスクを指で叩く。
『まぁ、それは此方も同じですが。…傑、返事を』
「…ンだよ」
悦の腰を抱いたままどさりと丸椅子に座り込んで、傑はワントーン低くなった鬼利の声に渋々といった様子で答える。悦でさえ初めて見る、どこか不貞腐れたような、まず普段の傑が見せることのない表情で。
『君への罰は後で考えよう。こちらに戻ってから、一緒にね。僕等の望みは叶えられたかな?』
「あぁ」
『それは良かった。では、―――』
ビーッ、ビーッ!
思わせぶりに言葉を区切ったその瞬間、測ったようなタイミングで、不躾な電子音が場違いに穏やかな鬼利の声を遮った。
いや、正しく図ったのだ。その証拠に、鬼利はびくりと身を竦ませたウィルが懐の端末に手を伸ばす前に、幼子に言い聞かせるように柔らかい声で「どうぞ」と告げる。
『どうぞ、出て下さい。貴方達の“飼い主”からですよ』
「…ッ…」
『私のお願いよりも、飼い主の命令の方が貴方達も聞き届け易いでしょう。不測の事態でしたが、これで貴方達を説得する手間が省けました』
ガリ、とウィルが奥歯を噛み締め、ラウが口内で殺気さえ篭った舌打ちをするのを黙殺して、鬼利は変わらず穏やかな声で笑う。
『特務のトップお2人にもより我々のことを理解して頂けましたし、実に有益な時間でした。通信のお邪魔になってはいけませんので、私はこれで失礼致します』
「……おい、大将」
言葉の通りにそのまま通信を切りそうだった鬼利を、ラウの低い声が引き止める。
深く俯いたその表情は影になって殆ど見えなかったが、ぼさぼさの髪の合間で炯々と輝くダークグレーの瞳は、射るような鋭さでもって真っ直ぐに黒塗りの通信端末を凝視していた。
「いいか、お前は絶対に“ここ”には出てくるなよ。その地の底の玉座から一歩たりとも動くんじゃねぇ」
「これまでのように、これからもです。貴方は、我々がこの手で引き摺り下ろします」
「だからそれまでそこに居てくれよ、大将。後生だ」
忠実に正義を執行する軍部警察とは思えない目と声色で言い切り、特務2人はもう傑には一瞥もくれることなく、くるりと踵を返した。
肘関節から捻じ曲がった腕にも構わずに高く軍靴を鳴らして歩く彼等の背に、沈黙を守っていた通信端末が低く、微かに、笑う。
『それは楽しみです。どうぞお大事に』
嘲弄する一般人の柔らかな声を、叩きつけるように閉められたドアの轟音が遮った。
To be...
