06.



 一番の盛り上がり所だった“砂漠王”から花嫁への冠の贈呈も終わって、式はそのまま二次会っぽい立食パーティーに移行した。
 さっき着てたのよりは大分布を減らして身軽になった花嫁と、やっぱりパっとしねぇ花婿と、トルニトロイのおっさん。それと、(色々な安全の為に)顔の上半分だけを覆う仮面をつけた傑も、花嫁の頭に乗ったままの冠の護衛として着飾った賓客の群れに混じっている。

 金だの権力だのを目当てにした“賓客”にオッサン達ごと囲まれても、傑は何時も通り平気な面をしてたけど、見てるだけでも鬱陶しい。
 当然そんなもんに加わる気なんてさらさら無い俺は、塊から1つ離れたテーブルで、とろっとろに煮込まれたラムチョップに齧り付いていた。

「…うま」

 持ち上げただけで骨から外れそうな柔らかい肉と、ワインベースのソースが絶妙で、もうすっげぇ美味い。部屋帰らなくてよかった。
 オッサンに取り入るのに夢中なのか、マナーもへったくれも無くガッついてる俺に引いてンのか、このテーブルの周りにいるのは俺1人だ。遠慮無く大皿に盛られた残りのラムチョップと、金箔の乗ったマリネ、それから香草で蒸された魚を半身平らげる。

「ふー…」

 5~7人分はあった御馳走を好き勝手食い散らかして、満足した俺がふかふかのクッションがついた椅子の背もたれに体を預けた、その瞬間。

「…ん?」

 遠目に見える壁の通気口で、何かが光った。
 試しに角度を変えてみるが、嵌め殺しの通気口はシャンデリアの光を反射しない。

「……」

 横目で傑の位置を確認すると、通気口と花嫁との射線上には傑じゃなく、着飾った鈍そうな女が2人。
 何気ない仕草を装って通風口から目を反らしながら、俺は小さく舌を打った。










 射るような鋭さでこちらを覗っていた男の視線が、傍らの“背信者”どもを一瞥し、反らされる。

「……ふー…」

 男が椅子から動こうとしないのを確認し、ゴードルは止めていた息をゆっくりと吐いた。じっとりと汗が滲んだ手で遠視スコープを握り直し、今度はシャンデリアからの光を反射しないよう角度を調整して、暗く狭いダクトの奥からホールの様子を覗う。

 二次会を兼ねた立食パーティーはあと1時間ほどでお開きになる。もう5分もすれば、“背信者”どもを取り囲む賓客共が入れ換わるだろう。
 ホールの壁面に立つ護衛は80人弱。出入り口に4人。“背信者”トルニトロイの周囲には、着飾った女が5人と男が7人。シャンパンの所為か顔を赤くしている花婿と、畏れ多くも“聖冠”を頂いている花嫁。仮面をつけた秘書らしき男が1人。


 ―――計画はつつがなく進行している。


 脳に直接繋いだ体内通信機で仲間からの報告を聞きながら、ゴードルは引き結んでいた唇を僅かに歪めた。
 ダクトに近づき過ぎた為に存在を気取られたのは失策に思われたが、お陰でこの計画の中で自分が最も警戒し、真っ先に排除すべき人間があの男であると知れた。あの目、あの仕草。まず間違いなくあの男が護衛の要だ。

「―――」

 唇を殆ど開かずに通信に答えながらゴードルはスコープを目から外し、首元に引き下ろしていた黒い布で鼻の上までを覆う。瞳に光が反射しないよう目を伏せながらダクトを這い、同じく黒い手袋を嵌めた手で、そっとダクトとホールを遮っている格子に触れる。
 嵌め殺しの筈の格子は、仲間の事前の働きによって周りにぐるりと裂け目が入り、少し力を込めただけで問題無く外れそうだった。

 全ては順調。
 当然だ。失敗も、間違いも、起こる筈が無かった。


「…神に依りて、聖女の幻は須らく現とならん」


 そう、全ては“神”のご意思なのだから。










 その日、その時、レーヴル=ミラリアは幸せの絶頂に居た。

 世界五大富豪の1人に数えられ、“砂漠王”の異名を持つトルニトロイの一人娘として生まれた彼女は、今も昔も、あらゆる贅沢と我が儘を許される立場に居る。
 だが、大富豪の娘であると同時に、ミラリアはウルルリ教正統派の敬虔な信者だった。父、トルニトロイは信心とは無縁の人だったが、亡き母は清貧こそ高潔と説く正統派の教えを忠実に守る人であり、その生き方を受け継いだミラリアもまた、あらゆる贅沢を自分に許さなかった。


「ミラリアさん、お疲れではありませんか?」
「はい…」

 自分にしか聞こえぬ程の小声で囁かれた言葉に、ミラリアは軽く顔を俯かせながら頷く。正統派の伝統的な花嫁衣装を纏った彼女の顔は、目元を残して殆どが白い絹に覆われているのだが、声を掛けられただけで頬が紅潮するのに気付かれてしまったら、と思うと恥ずかしくて顔を上げられなかった。

 ミラリアが母から受け継いだのは、残念ながら敬虔さだけでは無かった。
 彼女が5歳の時に亡くなった母は体が弱く、心臓に難しい持病を持っていた。遺伝性で治療法が未だ確立されていないその難病は、母の祈りと父の努力も虚しくミラリアの体をも蝕んでいる。

 来年は、来月は、明日は、数時間後は。
 この18年間、ミラリアはいつ来るとも知れぬ己の死期と共に生きてきた。年頃の娘らしい楽しみを全て捨て、教義に没頭してきたのもその所為かもしれない。子孫繁栄は正統派の教義では女子最大の神聖な仕事である、とされていたが、きっと自分は子供を産むこともなく、恋を知ることもなく、父を残して逝くのだろうと、ミラリアは10歳の頃にはそう諦めていたのだ。


 なのに、彼は。
 彼は、そんな諦観と共に死を待つばかりだったミラリアを、愛していると。
 例え明日、目を覚ますことが無くとも、生涯その心に寄り添い続けると。

「…っ…」
「どうされました?」
「…すみません…なんでもないのです、ただ…」

 3ヶ月前に告げられた求婚の言葉が蘇り、思わず胸を詰まらせたミラリアの腰を気遣わしげに支えながら、新郎は周囲の視線からミラリアを庇いつつ、「ただ?」と聞き返す。


「ただ…幸せなのです」


 消え入りそうに小さな声で、微かに肩を震わせながらも、ミラリアは確りと新郎を見つめてそう答えた。
 新郎が、ミラリアが全てを捧げたいと心から思う男がはっと息を飲み、そして神話に語られる天使のように優しく微笑む。

「私もです」


 ―――嗚呼、どうか。

 その瞬間、ミラリアは当に天にも昇る心地だった。

 ―――神の御許に向かう時が、一秒でも遅くありますように。


 そっと差し出された新郎の手に指を絡ませながら、恐らく物心ついてから初めて、ミラリアが教義に背く事を胸の内で考えた、その時。


 酷く乾いた、何かが破裂するような下世話な音が、彼女の頭上に高く高く響き渡った。










「銃だ!伏せろ!」

 乾いた銃声に水を打ったように静まり返ったホールは、どっかの馬鹿のそんな声の所為であっという間に大混乱になった。
 着飾った“賓客”共が出口へ殺到したり、その場に伏せたり、料理をひっくり返しながらテーブルの下に隠れたりするのを横目に、俺は椅子に座ったまま、さっき光が反射した通気口を一瞥する。

―――5時の方角の通気口。

「ちょっと失礼」

 声を出さずに呟いた俺の唇を読んだ傑が、客に紛れてたSP共にぐるりと取り囲まれた新郎と新婦の腕を軽く引く。
 シンバルより煩ぇ音なんて聞いたこと無いんだろう。銃声に体を強張らせて身を寄せ合っていた2人は、硬く握った手を傑に引かれて、SP達が作った肉の壁の中でぐらりとよろめいた。

 冠ごと傾いだ新婦の頭と、ついでに傑が腰を蹴り飛ばして退かしたSPの肩があった所の空気が、線の形にぶれる。

 ピシュン。

 間抜けな音を立てて床に埋まった弾丸は、銃声を伴わない。
 消音機付きライフルの狙撃。角度からして発射元はさっきの通気口。精度はまぁまぁだけど威力が弱い。狙いは花嫁の頭、狂信者が女神サマの大事な大事な冠を撃つわけねぇから、囮。

「…っ…」

 傑に蹴飛ばされたSPが床に膝を着くのを横目にそこまで考えて、俺は目の前のテーブルを蹴りあげた。
 派手にぶちまけられた料理を、空中で音と威力を殺された弾丸が射抜く。ソースに汚れたクロスを隠れ蓑に、俺は浮いたテーブルの足を掴んでその影に隠れた。抱きとめた傑の手の中で目を見開く花嫁から遠ざけるように、弾丸が連続して床とテーブルに穴を空ける。

 30発目の着弾音を合図に、俺は粗大ゴミになったテーブルの影から飛び出した。テーブルを通気口との対角線に挟みながら、一番近い柱の陰に入る。

「…ド素人」

 装填が済んだライフルがまた派手に柱を削るのを後目に、“護衛”の俺を花嫁から引き離せたと思いこんでる36人の狂信者共が、銃だのナイフだのを手に花嫁とトルニトロイに突っ込んでいくのを見て、思わず俺は吐き捨てる。

 銃口を俺じゃなく花嫁に向けてりゃぁ、掠り傷くらいはつけられたかもしれないのに。










「ひっ―――!」
「あぁ、へーきへーき」

 引き攣った悲鳴を漏らすミラリアを肩越しに振り返り、軽薄な口調でそう言った“護衛”の腕が霞む。
 弾丸を超える速度で投擲された食器が、銀の煌めきとなって今当に銃の引き金を引こうとしていた黒装束の賊の額を貫き、3人が遥か後方へと吹き飛ぶが、凶刃を手に低い姿勢で駆ける賊達は、SP達の銃撃にも足を止めなかった。

「そんな…っ」
「ミラリア、その男から離れるな!」

 余りにも呆気ない人の死に息を詰まらせるミラリアに、自らも護衛に周囲を固められたトルニトロイが叫ぶ。
 ミラリアが覚えている限り生まれて初めて聞く父の厳しい声は、テーブルに突っ込んで動かなくなった男を凝視していたミラリアの意識を引き戻したが、同時に首を竦めていたミラリアの頭を上げさせてしまった。

 “その男”という父の言葉に見慣れぬ軽薄な男の存在を思い出し、自然とその姿を確認しようと顔を上げたミラリアの、目の前で。


 ドッ。

 鈍く湿った、とてもとても嫌な音と共に。


「…あ……」

 顔を上げたことで、護衛が作る壁から出てしまったミラリアを庇った仮面の男の頭が、真っ赤に弾けた。










 “仲間”達が予定通りに護衛に囲まれた背信者共を襲撃するのを横目に、ゴードルは弾の切れたアサルトライフルを投げ捨てて通風口の格子を蹴破った。
 集まっていた賓客達は、“仲間”が破った両開きの扉から蜘蛛の子を散らす様に逃げて行き、広いホールは彼等の狂乱の跡を残して荒れ果てている。テーブルがひっくり返り、料理が散乱するベルベットの絨毯の上に、ゴードルは床から5メートル程の位置にある通気口から身軽に跳び下りた。



 この『聖戦』に於いて、ゴードルの役目は特殊だ。

 元傭兵であり、その過去の為に正式な信者と認められていないゴードルは、6人一組となって聖冠奪還を計る他の信者達とは違い、単独で動く。
 ウルルリ教の聖典である「ハープの弦」では、聖戦に参加する信者は36人とされている為、37人目のゴードルは教義的にも異端だった。

 そのことに、一切の不満が無いわけでは無い。

 そもそもの入信の理由は信者であった酒場の女と近付きたいが為、という極めて不純なものだったが、あれから5年。金の為に畜生働きをしてきたゴードルは“熱狂派”に、いや、神に救われた。
 今は全知全能の神の存在を疑うことも無い。今回の聖戦の話を聞き、他の信者のように聖冠奪還の聖戦士となりたいと、そう志願したのだが、血塗られた過去の為に正式な信者と認められていないゴードルには、36人の内の1人となることは許されなかった。

 だが。


『…もしも、もしも貴殿が己の責務を全うできたならば』


 5メートルの高さから足首、膝、腰を畳み、更に前転して衝撃を逃がして着地したゴードルの脳裏に、人生の師と仰ぐ司教の言葉が蘇る。


『聖戦士を妨害する忌まわしき異教徒を排除することが出来たならば、その功績は、神の御寵愛を受ける聖戦士に相応しく』


 遥か上空よりこの聖戦を観覧しておられる神の視線を感じながら、ゴードルは太股のホルダーから銃を引き抜きつつ駆ける。


『その時貴殿は過去の全ての罪を清められ』


 柱の影から僅かに覗いた“護衛”の肩口に威嚇射撃をしながら、腰のベルトからナイフを逆手に引き抜き、ゴードルは走る。
 そうだ。あの男を、あの男さえ“殺せ”ば。


『…神の声を聞く、真の信者と認められるであろう』


 柱の影から動かない“護衛”の足元に弾丸をばら撒くゴードルは、脳裏に蘇る司教の言葉を、いや、神が司教に伝えたもうた御言葉を聞きながら、天にも昇る気持ちでいた。

 あの男さえ“殺せ”ば、自分は赦される。
 そうすれば、神が今までの全ての罪を清算して下さる。娼婦がつけた穢れた名では無く、清い洗礼名を名乗ることが許される。戦場で誤射したあの女や、見殺しにした仲間や、犯して殺した子供達の亡霊に魘されることも無くなる。

 神の名の下に、全ての罪から赦されるのだ。










 ―――おっと。

 そう言葉を発しようとして、傑は今声を出す、という指令を出す部分の脳が吹き飛ばされていることを思い出した。頭を撃たれたのは久しぶりだったのだ。
 やっぱりそう面白い感覚では無いな、と瞬きの間に治癒した脳で考えながら、現代のどの宗教でも“悪魔”に分類されるであろう純血種は、飛んできたナイフを指先で受け止める。
「な、な、なに、なななっ…!」
「ちょっと邪魔」

 治癒までの一部始終を見てしまったのだろう。目を零れんばかりに見開いて口をパクパクさせているSPのこめかみを、傑は苦笑しつつ受け止めたナイフの柄で殴った。声も上げずに昏倒した男を脇に退かし、SP達が作った壁から出る。

 互いに銃やナイフを向け、10メートル程の距離で対峙していたSPと賊のこう着状態を、余りと言えば余りにあっさりと崩した傑に双方が驚くが、傑にとっては目を見開くその動作すら遅い。

「そう見つめンなよ」

 何気ない動作で歩を進めながら、仮面が外れ、天使もかくやという美貌を露わにした人造の悪魔は、一斉に銃口を向ける熱心な殉教者達に気だるげに笑って見せる。


「…照れるだろ?」


 嘲弄するように言った傑の声を認識した36人の賊が、色めき立って銃の引き金に指を掛けた瞬間。
 最も傑に近い位置にいた1人が、超人的な脚力によって一瞬で間合いを詰めた傑の手に、顔面を握り潰された。










 仮面の男が撃ち殺され、赤い赤い血飛沫が純白のウェディングドレスを染めた後の事は、ミラリアには全てコマ送りになって見えた。


 撃ち殺されたと思った男が、受け止めた凶刃で護衛の1人を殴りつけ。

 水の中のようにぼんやりとした、それなのに不思議とよく通る、甘くて少し低い声が響き。

 男の姿が霞のように消えて。

 慌てて抜けた壁を埋めようとするSP達の合間から、赤い血飛沫が上がった。


 ミラリア達を取り囲んでいた十数人の賊は、まるで暴風に揉まれる木の葉のように次々と血飛沫を上げて倒れて行き―――いや、正確には倒れていた。
 何十もの機関銃で一清掃射をしたように、あるいは街灯ほどもある剣で薙ぎ払われたように、ミラリア達の命を脅かす賊達は1人残らず、一発の銃声すら伴うことも無く、倒れていた。


 累々と横たわる死体の中に立っていたのは、ただ1人。
 父が“あの男”と呼んだ、つい先程死んだ筈の男。
 仮面が剥がれた彼は、自分と他人の血によって赤黒く濡れた髪を邪魔臭そうにかき上げながら、死体の群れの中でステージの方、左側を振り返り、

「…さて、と」

 面白くも無さそうな口調で、そう言った。










「んー…」

 柱の影でナイフを弄びながら、悦は困っていた。
 射撃の腕や通気口から飛び降りた際の動きを見る限り、相手は教義に狂ったただの信者では無い。明らかに戦闘訓練を受け、幾つかの修羅場を潜り抜けてきた玄人の筈、なのだが。


「…どっちだよ」

 柱の影で思わずそうぼやいてしまう程、相手の動きはお粗末だった。ただの拳銃でこちらを追い詰めたとでも思っているのか、ロクな遮蔽も取らずに撃ってくる。
 こうして油断させておいて、反撃に出た所を返り撃ちにするつもりなのかもしれない、とも思ったが、どうもそういう感じでも無い。

 この薄い弾幕の合間を縫って、相手の額を一突きにしてしまうことなど悦には造作も無いが、相手がこれだ。

 もっと明確に、どう見ても命を狙う感じで襲いかかってくれれば好きに出来るのだが、どこから軍警が見ているかも解らない今の状況では、この程度ではまともに手が出せない。軍警、特に特務の連中は、賞金首を捕まえる為なら平気で鬼利が傑にするような屁理屈を捏ねてくるからだ。


 銃声と共に傑の頭が吹き飛ばされたのを横目に、悦はどうしたもんかなー、と柱の影で溜息を吐き、

「あー…面倒くせぇ」

 5秒で考えることを放棄して、跳ねあげたナイフを空中で掴んだ。特務が目を光らせていようと知ったことか。

 自分を殺そうとしている“敵”を殺す。

 それ以外の思考を排除した瑠璃色の瞳が細まる。相手は銃、こっちはナイフだ。しかもまともに使えるのは精々3本。相手がいる位置には遮蔽が多い。
 悦を柱の影から出さぬようにしながら、“敵”はじわじわと距離を詰めている。太い柱だがこれではジリ貧だ。完全に追い詰められる前に、もう少し。あと数歩、一瞬で詰められる距離まで近づかせて、油断を誘うしかない。

「…っ…」

 脹脛に巻いたベルトからナイフを抜き取り、空いた左袖のベルトに差し込みながら、悦は小さく息を吸いこんだ。

 僅かに眉を顰めながら、右脇を削った銃声に合わせて柱の影から覗かせた悦の左肩を、血飛沫と共に弾丸が抉る。










 猟犬と化したゴードルが、その一瞬を見逃す筈が無かった。

 銃声に驚いたか、耳でも掠めたのか。それまで鼠のように柱の影で息を殺していた獲物が、僅かに遮蔽から肩を出した。ぐらりと傾ぐような形だったのを見ると、弾丸に側頭部を殴られて軽い脳震盪でも起こしていたのかもしれない。

 獲物の事情などゴードルの知ったことでは無かった。一瞬を見逃さず、ゴードルは左にした拳銃の残弾を全て撃ち尽くして獲物の肩を打ち抜いた。
 びしゃ、と白磁の柱の側面に血の赤が飛ぶ。

 人間とは動物だ。動物にとって、生命の危機は何よりの恐怖だ。
 生命の危機に瀕して冷静沈着でいられる動物などいない。弾丸の豪雨に晒され傷を負い、そこから逃げ出さずにいられる人間などいない。
 今までゴードルが見てきた人間達がそうだった。ゴードル自身もそうだった。

 そして勿論、この“獲物”もそうだ。

 着弾のショックにびくりと竦んで再び柱の影に隠れた“獲物”は、ゴードルが敢えて集中させた左側面への弾雨に、右へと動く。倒れた椅子やテーブルが転がり、更にその先には隠れ場所の多そうなステージまで見えるその方角は、獲物からすれば唯一の逃げ道と思われただろう。
 蛇のように舌舐めずりをしながら、ゴードルは左手の銃にカチン、と弾切れの音をさせた。右手には、未だ数十発の弾を残した銃が握られている。

 …さぁ、出て来い。

 弾込めを装って数秒の間を置きながら、柱の右側面に照準を定めるゴードルの目に、ちらりと蜂蜜色の髪が揺れるのが映った。
 これで終わりだ。まんまと罠に飛びこもうとしている“獲物”の頭を、体を吹き飛ばす為、ゴードルは容赦なく引き金を引き絞る。

 銃声さえ遠くに聞こえるようなスローモーションの世界の中、ゴードルの脳裏には、あの蜂蜜色の髪が真っ赤に染まって弾け、周囲を汚す光景がはっきりと映っていた。奇跡の御業、予知のように。
 …だが、贖罪の血の華は咲かなかった。

 蜂蜜色の煌めきを見てゴードルが引き金を引くのとほぼ同時に、柱の左側面から黒い影が這い上がる。
 黒いスーツを血で汚したその影は、ゴードルと彼の間にあった距離を瞬きの間に詰め、ゴードルの腰ほどの位置から弾かれたように伸び上がる。銀色の光が見えた。

「ぐッ…!」

 咄嗟に左手を掲げたゴードルの目前で、細身のナイフが銃身に刃を半ばまで食い込ませて止まる。切っ先は寸分違わずゴードルの左眼球を狙っていた。
 脊髄反射で銃を盾にしていなければ死んでいた。どっと滲んだ冷や汗が背中を濡らすが、ゴードルは切っ先の向こうに見える瑠璃色に嗤う。

 銃を捨てた左手で“獲物”の腕を掴み、逃げ場を無くしたその無防備な体へ右手の銃を向ける。この距離で外れる筈が無い。腹に風穴をあけられて、この獲物は今度こそ倒れる。


「『地獄に堕ちろ』、異教徒め!」

 聖典の一節を叫びながら愚かな獲物を食い散らかそうとしていた銃が、ゴキリと妙な音を立てた。
 思わず音の方向に視線を動かしたゴードルの視界に、獲物の内臓をズタズタにする筈だった銃が空中に弾き飛ばされているのが映る。しっかりとグリップを握っていた筈の右手は、手首の辺りから関節を無視した方向に折れ曲がり、その激痛にゴードルの喉が絶叫を発するより、早く。

 “獲物”の左袖から魔法のように飛び出してその手に収まった小ぶりなナイフが、ゴードルの喉を真一文字に切り裂いた。










「あ゛ぁ?」

 びしゃ、と顔に跳ねたゴードルの血を煩わしそうに袖で拭いながら、悦は血を吐いて倒れたゴードルを見下ろす。

「わっかンねぇよ、皇国語で喋れボケ」

 撃ち抜かれた左肩を庇いながら苛立たしげに吐き捨てる悦を、瀕死の“狂信者”は目を見開いて凝視していた。
 自分がこれから死ぬことが全く理解できない、といった顔だった。
 彼にとっては見慣れたその表情に悦は面白くもなさそうに舌打ちし、散歩でもするような足取りで近づいて来る、本来ゴードルが狙うべきだった“護衛”を振り返る。

「地獄に堕ちろ、だってよ」
「はァ?」

 傍らに並びながらゴードルの叫びを翻訳してやった傑に、悦はどこか拍子抜けしたような呆れ顔で、再び瑠璃色の視線をゴードルへと戻す。

「ンだよそれ。じゃァてめぇは―――」










 目の前が赤く暗く染まって行く。

 自分を除く36人の聖戦士達が殉教したことも、聖冠を取り戻せなかったことも、ゴードルの頭には無かった。
 何故“獲物”に、何故ただの“獲物”に猟犬たる自分が殺されなければならない。何故自分は死ぬのだ。こんなのは間違っている。あのような異教徒が生き、自分が死ぬことが神の思し召しの筈が無い。

 蜂蜜色の髪を血で染めた“獲物”が、仇が何かを言っている。

 だが、そんな言葉を聞く気などゴードルには無かった。『地獄に堕ちろ』、そうもう一度吐き捨てようとしたが、言葉は血泡となって形を成さない。

 そうだ、こんな結末は間違っている。こんな所で自分が死ぬわけが無い。これは何かの間違いだ、違っている、間違いだ間違いだ間違いだ間違いだ。
 …いや、神が決めたもうた運命に間違いなどある筈が無い。
 これは神が決めなさったことだ。自分はこれから神の御許へと迎えられる。最期の一時まで神を信じた、真の信者として救われ、全ての罪を洗い流され、神の御許に、聖戦士として。


 約束された理想郷を思い描いて安らかに死に逝く男を、瑠璃色が睥睨していた。

「ンだよそれ。じゃァてめぇは―――」

 お前など。お前のような異教徒など、神の御許に迎えられる筈が無い。そうだ、あの男は自分を、聖戦士を殺した罪で地獄へ堕ちるのだ。永遠の責め苦に苛まれ、許されることも、神に愛されることも無く、


「てめぇは、どこにいく気だよ」


 ―――どこ、に。

 それは勿論、神の御許、神の坐す場所に。
 …洗礼名も無く、真の教徒と認められてもいないのに?
 現世の罪を全て許されて、安寧の地に。
 …ほんの5年、神を信じただけで全ての罪を雪がれるのか?この男も、自分を殺したこの男も、許されるというのか?
 聖戦士を殺した罪は。
 …聖戦士は36人。37人目の自分は?

「…あ゛…ぁ…」

 縋る様に見上げた瑠璃色の瞳は、呆れたようにこちらを見ていた。
 お前がそんなところに行ける筈がないだろうと、言っている様な目だった。

 そんな。
 そんなそんなそんな。
 それでは、自分は、私は、俺は己はボクは。


 いったい、どこに。



 >>Next.




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