寄って来るボーイやら女やらをガン無視して部屋に戻ると、出る時にあーでもないこーでもないと試行錯誤した挙句、蝶結びにして放置した俺のネクタイの隣に、鬼利御用達ブティックのシルクのスーツが一揃い投げ出してあった。
ジャケットをその横に放りながら微かに聞こえる話声を辿ってドアの一つを開けると、立ちこめた湯気が一瞬視界を白く染める。
「ん、おかえり」
湯気が逃げない内にドアを後ろ手に閉めた俺を、泡まみれのジャグジーに浸かった傑がちらりと一瞥した。水面にもこもこと雲みたいに盛り上がった泡を、なんのつもりか頭の上に乗っけてて、バスタブの縁には酒瓶。
「…満喫してンな、お前」
皮肉混じりに呟きながら、俺はバスタブに腰を下ろしつつ傑の視線の先を辿った。相変わらず船とは思えない広さのジャグジーの中、シャンプーやらのボトルが置かれてる据え付けの棚に、小型のスピーカーをくっつけられた端末が置いてある。
『成り金趣味の船はお気に召さないみたいだね、悦』
俺が傑に通信相手を尋ねる前に、さっきの一言で俺のテンションを把握したらしいスピーカーがそう言った。
前や後ならともかく、仕事中に鬼利が通信を繋げるってのは珍しい。何かあったのかと傑を見ると、もこもこと沸いて来る泡に半ば埋もれた恋人は、高そうな酒瓶をちゃぷんと揺らしながら「軍警」と短く言った。
「あぁ…さっき喧嘩売られた」
「どこで?」
「カジノの前。適当にあしらって来たけど、変な真似したらミンチにするってよ」
「らしいぜ」
あっという間に空になった酒瓶を大理石のタイルの上に落としながら、傑が笑い混じりにスピーカーの向こうの鬼利に話を振る。
『報告が遅れて申し訳ない。まさか特務が出てくるとは思わなくてね』
「傑の邪魔したいってワケじゃねぇみたいだったけど」
『今回彼等が乗り合わせているのは別件なんだ。君にとっては面倒な事にならないよう、今根回しをしてる』
「解った」
「俺は?」
『お前は依頼通り、真面目に仕事をするだけだよ』
「ひどーい、ワタシを見捨てるのー?」
『この程度で“見捨てる”内に入るなら、僕はとっくにお前を殺してる』
バスタブに頬杖を突きながらおどけて見せる傑を冷たく一掃したスピーカーから、ざざ、と小さなノイズが響いた。
『…それじゃあ、僕は根回しの仕上げをしてくるよ。後はよろしくね』
「了解ー」
多分“根回し”先からの通信か、幹部が新しい情報を持って来たかしたんだろう。やる気の無い傑の返事が終わるか終わらないかって所で、ぷつ、と小さな音を残してスピーカーは静かになった。
「…珍しいな。仕事始まってから鬼利が追加報告とか」
「向こうも本気出して隠してたんだろ。ゴシックが“もうヤダ”って泣き言吐いたらしいぜ」
「マジかよ」
新しい酒瓶のコルクを抜きながらの傑の言葉に、俺は最近長髪を虹色に染めた世界最高峰のハッカーが、キーボードに突っ伏して駄々を捏ねてる姿を想像して、思わず小さく吹き出した。
ゴシックは基本的にはあんなだけど、仕事に関してだけは泪や仁王よりも負けず嫌いだ。根気だけで5年前に軍警のセキュリティをぶち破ったアイツがそんな風に言うくらいだから、よっぽど面倒臭かったんだろう。
「何人いた?」
「トップ2人。壱級以上の犯罪者の顔は全部覚えてるんだって」
「幽利かよ」
足元の泡を両手で掬いながら、傑は呆れたように笑った。今居る壱級指定は大体120人弱だから、数としてはそうでもねぇけど、その全員をすれ違っただけでそうだと解るくらい正確に覚えてるんだとしたら結構な記憶力だ。そんなもん端末にでも入れときゃいいのに。
「そーいや“別件”って?」
「陣取り合戦の悪巧み。政治的なお話しの」
「あぁ…“面倒臭ぇから勝手にやってろ”?」
「そうそれ」
説明すら面倒臭そうな傑の言い回しから内心を察した俺に、傑は泡を掬っては頭に乗っけるのを繰り返しつつ頷いた。
面倒だけど軍警に顔見られたし、傑の邪魔になるような真似しないように一応、触りくらいは俺も聞いといた方がいいのかもしれない。でも面倒だ。ついでにここ暑い。…後でいいや。
「一緒に入ンねーの?」
「いや、なんか湯気で逆上せたみてーだから…」
無駄にビーチパラソルまで完備されたテラスにでも避難しようとしてた俺は、振り返った傑の頭を見て思わず扉を開ける手を止めた。
ソープの質がいいのか傑のやり方が上手いのか、泡風呂にしてはきめ細かいモコモコの泡が、髪を完全に覆い隠すくらい傑の頭に乗っかっている。
「……何してんだよ」
「ひつじ」
「……」
「ちょっと顔赤いな。そーいや冷蔵庫にオレンジジュースあったぜ、100%の」
呆れ顔の俺に躊躇なく即答しておいて、その格好のまま俺の好みを熟知したきめ細やかな気遣いを見せるエセ羊の言葉が終わる前に、俺は湿気たバスルームを出た。こういうのは反応したら負けだ。
「…あっつ…」
軽く眩暈すらし始めた頭を押さえながら、泡の羊毛を被った狼が言ってた通り100%で、しかもオーガニックらしい(またかよ)高級オレンジジュースを片手に、テラスへと出る硝子扉を開ける。
すっかり夕陽も沈み切った夜の海は、それでも天然の月明かりと遠くの街並みの光に照らされて、まるで虹色の硝子片を散りばめたみたいに賑やかだったが、今の俺にはそんな夜景よりも海風の方が有り難かった。
畳まれた濃緑のパラソルの下、安っぽいビニールじゃなく、木と布で組んだビーチチェアに寝転びながら、しっとりと冷たい風に目を伏せる。
数回、単調な波の音が不自然に乱れたような気がしたが、実物の海を見たのも、こんなデカい船に乗るのも初めてだったその時の俺は、そんなものなんだろうと考えて疑いもしなかった。
>>
Next.