ネクタイ、って名前の細い布切れと5分格闘した結果、俺は「自室以外では原則としてタイを着用」っていうドレスコードを破ることに決めた。
無駄に煌びやかなシャンデリアに照らされた、無駄に豪華な内装と無駄に着飾った他の乗客の眩しさに目を細めながら、微かな潮の匂いを頼りに階段を上ったり下りたりすること20分。
腹立たしいほどの広さに8回目の舌打ちをした所で、俺はようやく船の舳先側のラウンジに辿りついた。
「…うわ」
船内とは別の意味で眩いその光景に、思わず声が漏れる。
濃い青色の水平線に、半分ほど沈んだ橙色の太陽。人工じゃない巨大な光の塊は、波間の間にゆっくりとその身を沈めながら、空を橙と濃紺のグラデーションに染め上げていた。
水平線の両端では、ザドス皇国とターバ王国の街並みが、ぽつりぽつりと星明かりに似たネオンを瞬かせている。額を持ってくればそのまま立派な絵画にでもなりそうな光景に、ラウンジにまばらに居る人影も揃って見惚れていた。
「でけー…」
数える程しか見たことがない天然の太陽が、手を伸ばせば届きそうな程近くに見えて、俺はラウンジの入り口に近い硝子の柵に凭れながら頬杖を突いた。
人工物まみれの最底辺で育った俺には、こういう自然の美しさってのを鑑賞するような教養は無いけど、この夕陽を見てるとやたらとキラキラしたシャンデリアに焼かれた網膜が浄化される気がする。
派手なドレス姿の女と白いタキシードの男がドラマ気どりで抱き合ってンのを横目に、俺は一人ぼーっとその夕陽を、
「……」
眺めるのにも3分で飽きて背を向けた。
確かに綺麗っちゃ綺麗だけど、まだ夕陽を見て一人黄昏るほどの歳じゃねぇ。お陰で少しは目も回復したし、やっぱり適当に船内を散歩して暇を潰そうと、俺はラウンジからロビーへ下る階段を下りた。
相変わらずキラッキラのシャンデリアに目を細めながら、すれ違った女のスリットから覗く太股を横目にしてみたり(もうちょっと太い方が俺は好き)、どっかで見た顔の野郎のネクタイの結び目を盗み見てみたり(やっぱ見ても解んねぇ)、シャンパングラス持って歩きまわってたボーイからオレンジの輪切りだけ貰ったり(オーガニックらしい)。
そんなことをしながら、ホールからカジノへと続く短い廊下を歩いてたら、
「君、ちょっといいかね」
「あ?」
葉巻を咥えたいかにも“金持ち”な感じのオッサンに呼び止められた。
「急に声をかけてすまない。私はこういう者だ」
「…はぁ」
にこやかな笑みを浮かべながら、オッサンはそう言って頼んでもいないのに名詞を差し出して来た。名前の他に代表やら名誉役員やらCEOやら仰々しい役職名が4つもついてる上、透かしで家紋が印刷されてて見難いことこの上無い。
「旧友のトルニトロイに是非にと頼まれて渋々来たのだが、いやはや予想以上の素晴らしい客船だ。御息女の名を冠するに相応しい絢爛さだと思わんかね」
「……」
「奴は昔から派手好きだったからな。御息女の方は奥方の教育の所為か質素倹約を好むそうだが、目出度い晴れの日だ。父親が少々度を超しても目を瞑ったのだろう」
「……」
相変わらず聞いても無いことを喋ってはっはっは、とか笑ってるオッサンを横目に、俺はやっと解読した名詞の内容に小さく首を傾げた。
この名前、見覚えがあるよーな気がするんだけど、どこで見たか思い出せない。テレビとか雑誌、じゃ無いんだよな。もっとこう身近な感じの…
「…ところで、随分と若く見えるが、君はミラリア嬢の友人かね?」
「いや」
「では“砂漠王”の知り合いか?」
「あぁ…まぁ、そんな感じ。知り合いが仕事で」
「ほう…そうか」
名刺をひらひらしながら答えた俺に、オッサンは軽く頷きながら鳶色の瞳を細めた。なんかさっきから俺の首元ばっか見てんな、コイツ。鎖骨フェチ?
「…あ」
…思い出した。
「ん?何かね?」
「…や、別に」
キョトンとした顔でこっちの表情を覗うように首を傾げて来たオッサンから、咄嗟に顔ごと目を反らす。
…鎖骨フェチで思い出した。コイツ昔の客の鎖骨マニアだ。
「俺、ちょっと用事があるんで…」
「あぁ、待ちたまえ。まだ君の名前を聞いていない」
「……」
「いや、実は声を掛けたのは、君が昔…その、面倒を見ていた少年に似ていてね」
「…へぇ」
そりゃ似てるだろーよ、それ俺だもん。
「出来ればどこかで少し話せないか。私の部屋は一等客室でね、とても綺麗な夕陽が見えるんだ」
「いや、だから用事が」
「君」
心底迷惑そうな顔をして傍らをすり抜けようとした俺の手首を、声をワントーン低めたオッサンの手が掴んだ。
「君の知り合いはトルニトロイの知人だと言ったな。恐らく融資でも頼んでいるのだろう。若いなりに可愛がられているのだろうが、私は奴とは学院からの付き合いだ。その私をこのように邪険にするのは、君の知り合いにとって良くないんじゃないか?」
「……」
…指輪の宝石が当たって痛ぇんだけど、ここでコイツの手首切り落としたらマズいかな。
「君に興味があるんだ。私ほどの人間が、君のような若造の無作法な物言いに耐えていたことからも…解るだろう?」
「…そーいうことはその辺の女にでも言ったらどーですか」
「金にかぶれた女など…君でなければ意味が無いのだよ。なに、少し話をするだけだ。対価は相応に払う。どうだね?」
「……」
困惑するように俯いて顔を反らす、振りをしながら、俺はオッサンに聞こえないように小さく溜息を吐いた。
あー…面倒くせぇ…
正直今直ぐ殴り飛ばしたいけど、地位だけはあるコイツ相手にそれすると色々後が面倒臭そうだし、正体バラして脅してもやっぱり後々面倒臭そうだし、傑の仕事の足引っ張ることになってもヤだし、かと言ってコイツにまた鎖骨舐めまわされるのも嫌だ。
「…話すだけ、なら」
たっぷり1分は考えて、俺は小さくそう呟いた。
勿論、適当に付いてってから、人気の無い所で気絶させて逃げるつもり満々で。
「っ…そ、そうか!ありがとう」
「……」
「では、さっそくだが私の部屋に…」
相変わらず俺の手首をがっちり掴んだまま、最高に嬉しそうに変態が俺が来た道を引き返そうとした、時だった。
「…その必要はねぇ」
背後から響いた低い声と共に、オッサンに掴まれてた俺の腕が後ろにぐいっと引っ張られた。咄嗟のことに力が緩んだのか、汗ばんだオッサンの掌っていう最悪の呪縛もついでに解けて、引かれるまま数歩後ろに下がった俺の前に、黒い背中が立ちはだかる。
「なんだ貴様は」
「こういうモンだ」
俺に対しての猫なで声が嘘みたいに威圧的な声のオッサンに、黒い背中は懐から紺色のカードを取り出して見せた。真後ろにいる俺には掌からはみ出た角しか見えねぇけど、色んな意味で見慣れてるその正体くらいは解る。
軍部警察の証明カードだ。
「な、何故貴様のような人間がこの船に居る!ここは選ばれた賓客だけが―――」
「私達も招かれているんですよ、“砂漠王”に」
黒スーツの軍警員に庇われてる俺の更に後ろ、銀髪をオールバックに撫でつけた男が、黒スーツに並びながら答えた。傍目にもくたびれた黒スーツとは違って、茶系のチェックのスーツを着こなした、モデルばりに高身長の優男。傑よりも少し高いかもしれない。
「父と“砂漠王”に親戚ぐるみで付き合いがありまして。…皇国軍部警察総帥、と言えば解りますでしょう?」
「なっ…!」
「こいつの親父兼俺のボスの人脈を使って、俺達もここに招かれてるってわけだ。……ルシウス・グレコ、あんたの噂はこっちでは有名だが、まさかこんな晴れの舞台でもその“趣味”をやらかすとはな」
カードを持ったままの手でばりばりと頭を掻きながら、猫背気味の黒スーツはふぅ、と溜息を吐いた。
「軍警だかなんだか知らんが、聞くに堪えん暴言だ。何の噂かは知らんが、彼は私の古くからの友人で―――」
「に、似ているというだけでしょう?いけませんねぇ、私達の前で嘘を吐かれては」
「っ……」
「あんたの“趣味”をどうこう言う気はねぇが…知ってるか?野郎相手でも、強姦は立派に成立する。っつーことは、だ」
そこで思わせぶりに言葉を切って、黒スーツの軍警員は俯き加減だった頭をすっと上げる。
「そっから先は、“俺達”の出番だ」
「…ッ…こ、このような無礼な言い掛かりは初めてだ。失礼する!」
低く底冷えするような声にさっと表情を変えたオッサンは、小物丸出しの捨て台詞を吐いてくるりと踵を返した。
そのまま足早に廊下の向こうへ消えていく背中に心の中で小さく舌を出して、さて面倒も回避出来たしそろそろ部屋に戻ろうとした俺の肩を、筋張った手が掴む。
微かな機械音。
「待ちやがれ。俺の本命はてめぇなんだよ」
「……」
さっきよりもドスの効いた声に嫌々振り返った俺を、ぼさぼさに乱れた黒髪の下からダークグレーの瞳が射抜く。
「…賞金首の顔全部覚えてンのかよ、アンタ」
「いいや。壱級指定以下の小物は範囲外だ」
言いながら目線の高さまで掲げられたカードには、見慣れた文字以外に一行、【特務第一小隊隊長】って肩書が追加されてた。特務っつったら、壱と弐級の凶悪犯をとっ捕まえたりぶっ殺したりするのが専門の精鋭だ。
普通小隊隊長ってのは、エリートの青二才が名義だけ貰うもんだ、って鬼利が言ってたけど、目の前のこいつはどう見ても40は超えてるから、きっとコネも人脈も関係ねぇ叩き上げ。その上第一部隊。
つまり、俺みたいな賞金首の天敵だ。
「まさか君がこんな所にいるとは。“砂漠王”は愛妻家だと聞いていたんだが、彼も誑しこんだのか?」
カードを持ってる隊長の腕を、さり気なく自分の体で通行人から見えないようにしながら、軍部警察総帥の息子が軽く首を竦めて見せる。
見た感じこっちが部下なんだろうけど、こっちはこっちで勘頼りっぽい部隊長とは反対に頭がキレそうだ。あと、翡翠色の瞳が鬼利に似てるから多分サド。
「…客じゃねーよ。聞いてたんだろ?俺はただの付き添い」
「ほう」
「そうか、仕事じゃねぇのか」
つまらなさそうな声を漏らした優男とは反対に、部隊長の親父の方はくくっと低く笑って頷いた。カードを懐に仕舞った手が、ジャケットの下で隠しもせずに銃を握る。
周りには他の客も居るってのに、ほんっと面倒くせぇ奴等。
「じゃあ、てめぇ等んとこと結んでる邪魔くせぇ『不可侵協定』も無効だな」
「そうなりますね。今はただの、私達の獲物だ」
「…あっそ」
今にも噛みつきそうにガンを飛ばしてくる隊長と、にこやかに頷いて見せる補佐を交互に見て、俺は袖の下のナイフに指を掛けながら溜息を吐いた。
依頼以外の時でも、俺達は一般人に危害を加えたらそれが解った瞬間に制裁を受けるけど、『不可侵協定』で軍警がILLの登録者に手出しをしないのは依頼中だけ。つまり依頼以外で外をほっつき歩いてる時に捕まろうが殺されようが、こっちは何にも出来ないってわけだ。
初めて聞いた時はンな無茶な、と思ったし今もちょっと思うけど、俺も登録者になって3年ちょい。傍目に見ればこの状況は相当ヤバいんだろうけど、そんなこと言い出したら物心ついた時からずーっとそうだ。もう慣れてる。
「捕まえんの?俺のこと」
「いいや、殺すよ。てめぇみたいな淫売を檻に入れちゃあ危なくって仕方ねぇ」
「勿体ない。飢えた囚人共に昼夜問わず犯させて、いつまで正気を保っていられるか試してみた―――」
「ウィル。黙れ」
「……」
「…イヤだな、冗談ですよ」
溜息混じりの隊長の命令に、ウィルって呼ばれた補佐は苦笑しながら首を竦めた。あぁ、やっぱこいつもサドだ。鬼利とは別系統の。
「すまねぇな犯罪者。こいつが悪用しねぇよう、てめぇの体は念入りに蜂の巣にしてやるから勘弁してくれや」
「…なんか首だけでも悪用されそうだから、それは別にいーけど」
傑とか鬼利とかカルヴァとか傑とか傑とか、踏んだり嬲ったりしたがる側の変態共の想像力っつーか、自分の性癖方面の行動力は呆れる通り越して怖いくらいだ。この隊長がどんだけ気ィ使ってくれたとしても、きっと俺の首はこのウィルとか言う変態に悪用されまくるに決まってる。
別にいい、って俺の言葉にウィルが目を輝かせたのにちょっとげんなりしながら、俺は肩越しに背後を振り返った。
「アンタのそれ、ここで撃ったらあいつ等にも当たるんじゃねぇの?」
通路の奥のカジノ、そこにいる50弱の乗客と船員を見ながら言った俺に、視界の端で隊長が片眉をぴくりと動かし、ウィルが鋭く目を細める。
ジャケットの下で、わざわざグリップの端を覗かせながら思わせぶりに握ってる銃。俺との距離は大体3歩。額に突き付けてるならまだしも、こんな距離でただの銃なら亀だって避けられる。壱級指定の天敵のこいつらが、それだけの“暴力”であんな大口を叩くわけない。
時々聞こえる微かな機械音からして、多分大佐の右腕は機械体部品だ。隊列組んで攻めるわけじゃねぇから、戦闘用のフルスペックじゃなくて騙し打ち重視の仕込み。
軍警の技術で大砲でも突っ込んでンのかと思ったけど、「蜂の巣」って言ってたし、多分散弾銃か何かだろうとアタリをつけたら大正解だ。
「…ちッ」
「驚いたな、まさか……あぁ、そうか」
忌々しげに舌打ちをした隊長の横、言葉通りに目を丸くしてたウィルが、顎に手をやりながら軽く目を伏せる。
「…あの“一般人”の仕業か」
呟きながら開かれたウィルの目は、ここには居ない誰かを射殺しそうな勢いで虚空を睨んでいた。
犯罪者でもないのに軍警にこんなに嫌われてる“一般人”なんて、この大陸じゃ馬鹿みたいに頭のキレる幽利のサド兄貴だけだ。
「申し訳ありません、ラウ隊長。万全を期したつもりでしたが…名前やアリバイの偽造も、あの男の狡猾さを出し抜くには足りなかったようです」
「…そういうことか…」
視線を合わせないままの報告に、ラウって言うらしい隊長は懐から腕を抜きながら深く溜息を吐いた。
どーやらこの2人は、俺が隊長の腕のことを言い当てたのを、あらかじめ鬼利から情報を貰ってたからだ、と思ってるらしい。実際はすっげぇ勘違いだけど、なんか真面目な雰囲気だしそっとしとこう。いちいち説明すんのも面倒だし。
「クソ、そうならそうと初めに言いやがれってんだ。いい歳したオッサンに、モロバレのハッタリなんて恥かかせんじゃねぇよ」
「え?」
「あぁ?」
「いや、なんでも」
ふるふると首を横に振りながら、俺はそっと袖のナイフを元の場所に仕舞った。
…ハッタリだったのかよ。
「あー、クソ。イキがったクソガキみてぇな真似しちまった。最悪だ」
「いいじゃないですか、夕飯までの退屈しのぎにはなりましたよ」
「煩ぇ。おい、いいか犯罪者」
バツが悪そうにばりばりと頭を掻きながら、ラウは俺に一歩近づくと、ネクタイをしていない俺の襟を乱暴に引っ掴む。
「てめぇは“付き添い”だって言ったな。その言葉忘れんじゃねぇぞ。この船で変な真似してみろ、俺は職と引き換えにしてでもてめぇをミンチにするからな」
「言われたってしねぇよ、そんな真似」
「口の減らねぇガキだ。……行くぞ」
掴まれたまま肩を竦めた俺に腹立たしげに眉を潜めて、突き飛ばす様に手を離したラウはカジノの方に向かって行った。短く返事をしたウィルもそれに合わせて踵を返して、
―――ネクタイ。
自分の首元をとんとんと指先で叩きながら唇の動きだけでそう言うと、面に似合った気障さでパチ、とウィンクをして見せた。
さっきの変態といいコイツといい、そういう真似は女にしろよ。頼むから。
「…はぁ…」
なんだかどっと疲れた。カジノを冷やかす気も失せて、俺は相変わらず眩しいシャンデリアに小さく溜息を吐きながら、来た道を引き返した。
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