武器庫の奥。
足が1本欠けた椅子に腰掛けて銃を整備していた幽利は、昇降機で降りて来た時から“視界”の端に映っていた来訪者が、自分の傍らに対物ライフルを投げ出すのを待ってようやく手元から顔を上げた。
「…熱烈なファンにでも剥かれたのかィ?」
「ん?…あぁ」
からかい混じりの言葉に、目隠し越しに見上げた来訪者―――貸し出していたライフルを返しに来た傑が、一瞬怪訝そうな顔をしてから思い出したように軽く頷く。
「裾が焼けてたから捨てた」
「じゃァずッとその格好のままで?」
「部屋まで戻ったんじゃ面倒だろ?」
事も無げにそう言う傑は、上半身に何も着ていなかった。つまり半裸だ。
服を着ていたってボタンは上3つは開けるか、1つも留めないのがこの男の基本だが、裾が焦げた程度でそれを脱ぎ捨て、仕事先からここまで惜しげも無くその裸体を晒しながら涼しい顔をしている(しかも忘れていた風がある)のが、なんとも傑らしい。
最も、気にしていないのは傑だけで、その周囲の者はそれはもう凄いことになっていただろう。その様を想像して小さく笑った幽利に、傑が藍色の瞳を軽く細めた。
「…治ったら、その間の記憶は飛ぶのが普通って聞いてたけどな」
「俺ァ昔っから、“覚える”ってコトに関しちゃァ鬼利にも負けたことなくッてね」
「成る程」
とん、と自分のこめかみを指先で叩いて見せた幽利に、傑は薄く笑って頷いた。幽利の記憶が戻った事は今知った筈だが、傑はそれ以上何を言うでもなく、部品が乱雑に散らばったボロボロのデスクの端に腰掛ける。
「…悪ィね、色々面倒かけちまッて」
「面倒?」
「鬼利の仕事部屋のことさね」
「ンだよ、皮肉かぁ?」
「茶化すんじゃねェよ、ホントに感謝してるってェのに」
「ふーん?」
目隠しに半ば隠れた眉を軽く顰めて言うが、傑はそれを聞いても気の無い声を漏らすだけだった。幽利の言葉の意味が解らない筈も無いのに。
あの日。鬼利が自室で倒れたという情報を幹部全員が知る前に、膨大な情報と権力の源が集約された最高幹部執務室の扉は傑によって破られていた。
室内はゴミ箱の中身が散乱して椅子が傾いていた程度だったが、セキュリティーも何もあったものじゃない、ただの力技でこじ開けられたあの扉の有様を見れば、それの犯人が傑だと登録者ならば誰でも解る。
鬼利が不在との情報が回り、幹部達が執務室を空にするまでの10分間に室内に立ち入ったのは傑と、弐級指定のイザヤだけだ。そのイザヤも何故か傑が荒らした室内を写真で撮っただけで、書類にも指一本触れていなかった。
その時は幹部にすら行き渡っていなかった情報を、どこで傑が聞きつけたのかは解らない。だが、あの“パフォーマンス”がなければ、多種多様な凶悪犯罪者がひしめく“ILL”の最高幹部執務室が、実質被害ゼロという結果にならなかったのは明らかだ。
「その前にちょっとイジワルしたからな。怒って開けてくれねーんだろうと思って蹴破っただけ」
「そりゃァまた、似合わねェ理由じゃねェか」
「そういう気分だったンだよ、あの時は」
「へェ?お前が」
「そ。丁度“2日目”だったからさ、あの日」
「…ッとに、素直じゃねェなァ」
苦笑混じりに幽利が呟いても、デスクに投げ出されていたドライバーを手遊びにくるくると回している傑は表情すら変えない。
幽利が鬼利からこの話を聞き「礼を言う」と言った時に、鬼利はその必要は無いと即答した。その時の鬼利は単に“無駄だから”と考えていたが、きっと鬼利は傑のこの反応を見越していたのだろう。
「そのライフル」
「あァ…最新式ってェ触込みらしィが、どうだった?」
「精度はイイけどスコープが甘い。あと長くて邪魔」
「“マイルショット”が出来るモンにしちゃァ短い方だろォに」
「足に当たるんだよ。持って歩くと」
「普通は20キロ近いライフル片手にひッ提げて歩かねェよ。財布じゃねェんだから」
「じゃあスコープだけ。目も元通りならすぐ済むだろ?」
幽利の目元を覆う黒い目隠しをぱちんと指先で弾き、軽く笑って見せた傑は腰かけていたデスクから体を離した。そのまま武器庫を出て行こうとする裸の背中を、幽利は部品に油を引く手を止めて呼びとめる。
「…なァ、傑。その…俺の、目のコトなんだが、ちょっとイイかィ?」
「目?まだ見えてねぇの?」
「いや、それは元通りなンだが…」
立ち止まり肩越しに振り返った傑の姿は、光を通さない特殊な目隠し越しにもはっきりと“視え”ている。その滑らかな皮膚としなやかな筋肉の下で流れる、異常な成分を含んだ血まで、くっきりと。
「鬼利のコトを忘れてる間は、時間が経つごとに視野も明度も落ちて行くばッかりだったンだ」
「あぁ、らしいな」
「でも、鬼利のコトを思い出した途端にそれも全部元通りになッちまって…これァどういう仕掛けなのか、お前なら解るンじゃねェかな…ッて」
少し前に幽利の前に現れた傑と同じ“純血種”の美女2人は、この“目”のことを随分と知っているようだった。
どうして鬼利のことを忘れると“千里眼”の機能まで低下したのか。幽利には勿論、鬼利にも解らなかったその理由を、彼女達が“王様”と呼んだ傑ならば理解しているかもしれない。
「あー…まぁ、予想ならつくけどよ。そもそもお前の場合は例外だからな…」
「例外?」
「…あぁ、言ったこと無かったか?」
どういう意味だと首を傾げた幽利に、傑は少し意外そうな顔をして指を4本立てて見せた。
「そもそも“千里眼”ってのは、『読心』と『透視』、『予知』、『過去視』の4つをひっくるめた呼び名なんだよ」
「へェ……そンじゃァ、“純血種”だッたらその4つが全部?」
「まさか」
『読心』と『透視』に関しては心当たりがあるが、『予知』や『過去視』は覚えが無い。この厄介な“千里眼”の元の持ち主―――あの2人がサーニャと呼んだ“純血種”ならば、人の心が見えたり壁が透ける以外にも、未来や過去まで“視え”ていたのかと尋ねた幽利に、傑は苦笑混じりに首を振った。
「“千里眼”は特に制御が難しくて、発動させようとした披検体の9割が死んだ。残り1割も死なねぇだけで何も発動しなかったりで、4つの内1つでもまともに使えりゃぁ奇跡扱いだったぜ」
「へ?…ってェことは…」
「そういうこと。多少劣化はしてンだろーが、『読心』と『透視』の2つを同時発動なんて、俺の知ってる限りじゃお前だけだ」
「…あらら」
さらりと告げられたとんでもない事実に、幽利は思わず自分の目隠しに手をやった。色々と便利には違いないが、同じくらい鬱陶しく思っていた自分の“目”が、まさかそんなプレミア物だったとは。
「最初っからずっと同じ“視え”方だったか?その目」
「いや…5歳の秋にその、『透視』…かィ?8キロ先の村ン中が見えるよォになって、7歳で鬼利の考えてるコトが……あァ、でも昔はもっと狭かッたな」
どんなに分厚い壁も透かして“視え”たのは昔からだが、その頃はもっと範囲が狭かった。『読心』の方も相当集中しなければ“視え”なかったし、だからILLに来るまでは目隠しなど無くとも生活していたられたのだ。
「今、最高でどのくらい遠くまで“視え”る?」
「そォさな…その気になりゃァ、5000キロくらい先までは」
「こっから直線距離で5000…」
口の中でそう呟き、傑は何かを考えるように幽利から視線を反らした。数秒そのまま虚空を見つめ―――そのまま絵画になりそうな美貌が、ふっと笑みを浮かべる。
「…あぁ、そーいうことか」
「何だィ?」
「こっから直線で5000だと、丁度ラドガルドの端くらいだろ?」
「ラドガルド…?」
泪の出身国に程近いラドガルド共和国は北方の大国だが、勿論幽利は行ったことなど無いし、世界5大富豪の内2人が住んでいるということ以外、特筆すべき点は特に―――
「……あ、」
「…“先生”方が聞いたら大騒ぎだな」
俯いて考え込んでいた幽利がぱっと顔を上げるのを一瞥し、傑はそう呟きながらくるりと幽利に背を向けた。
北方の大国ラドガルド。いくら“視え”るとはいえ、教育機関に通ったことの無い幽利が自然とその存在を知ることは無い。あの国のことを知っているのは鬼利に教えて貰ったからで、鬼利にあの国のことを聞いたのは、かつて鬼利があの国に住む5大富豪の1人に直々に会いに行ったからだ。
そして鬼利が自ら出向いた場所で一番遠いのは、鬼利が幽利から最も遠く離れていたのは、その時だった。
「それじゃ……なァ、傑!」
ジーンズのポケットに片手を突っ込みながら武器庫から出ようとする傑は、今度は立ち止まらず、椅子から立ち上がって呼び掛けた幽利を肩越しに振り返って、薄らと笑った。
「…俺が神サマだって救える気がしねぇよ、お前等だけは」
シーツに突っ伏して腰だけ上げた酷ェ格好の俺の背を、女みてェに細くて綺麗な鬼利の指先がつぅと撫で上げる。
鬼利に見て貰いながらてめェで突っ込んだローターが、前立腺の少し手前で微かな振動を繰り返してたが、救いようがねェ被虐趣味の体はそんな温い快感なんて頭ン中からすッ飛ばしちまって、ゆっくり背骨を辿る指先に、シーツに着けた肩が震えた。
「はっ…はぁ…ぁ、ッ…」
“あの時”鬼利につけて貰った鞭傷は、どれもこれも肉を浅く裂く程度のかすり傷ばッかりで、その上早々に姐サンに手当てまでして貰ったモンだから、あれから一週間と経ってねェのに全部の傷に薄皮が張っちまッてる。鞭が鞭だから肉を抉るよォな傷も無く、傷痕は残っちゃァいるが俺の背中は綺麗なモンだ。
その、俺にとっちゃァ愉しくも嬉しくもねェ治りかけの傷の上で、滑っていた鬼利の指先が止まった。
「ぁ…っき…鬼利…ッ」
「……」
思わずそろりと振り返って縋るようにその名前を呼んだ俺に、軽く目を細めた鬼利の指先が、くん、と薄皮の張った傷口に爪を立てる。
病み上がりの所為か少し荒れたあかい唇が、見惚れる程綺麗に笑って。
「っ…あぁああ!」
脆い皮膚を突き破った硬い爪が、躊躇いの欠片も無く浅い傷痕を抉って引き裂いた。
過労と睡眠不足とそこから派生した色ンな体調不良で倒れた鬼利は、あれから丸3日、点滴に繋がれたまンまで眠り続けた。
4日目の午後2時過ぎに意識が戻って、5時ピッタリに幹部サン達を呼びよせて迷惑をかけたと謝った後、期限が迫った仕事をいくつか片づけて、少し食事をしてまた眠って。
5日目にようやくベッドから離れられた鬼利は、まず初めに俺の為に揃えたあの書類とカードを丁寧に細断して捨てた。
「ふぁ、あっ…ひっぅ…ぅう…ッ!」
皮膚を抉って入り込んだ爪をギチりと下に引かれて、ぷつぷつ薄い皮が裂ける感触を残しながら傷が横に広がる。元より深くなってぱッくり口を開けた傷を労わるみてェに指の腹で撫でられンのが震える程気持ちよくて、血塗れになった背中を震わせながら真っ白なシーツを握り締めた。
「はっ…ぁ、あぁあ…ッ」
52箇所の傷を上から1つずつ順番に抉られて、俺の背中はもう大半が真っ赤に染まっちまッてるが、皮膚のちょッと下が申し訳程度に裂けた傷口をいくら爪で広げられたって、ドがつく被虐趣味の体は満足なんて出来やしねェ。
浅いトコで弱い振動を繰り返すローターと、じんじん響く鈍痛に体の熱は煽られるばッかりで、もっと鋭い快感を欲しがる体が薬でも入れられたみてェに疼く。
「ッひぁ…き、きり…っ」
「なに?」
「きり、の…っんン!…は、ふぁッ…き、りの…舐めた…ッ」
3週間近いお預けの上、こんな緩い快感ばッかりじゃァいい加減おかしくなる。勿論素直にイかせて貰えるなんざ思っちゃいねェが、とにかくこの生殺しの状態を止めて欲しくてキッツい“躾”覚悟でねだった俺に、別の傷を抉ってた鬼利がちらと視線を上げた。
「なめ、させて…っぁ、しゃぶらせ、て下さ…!」
「そんなに咥えたいの?」
面白くも無さそォに抉ってた傷から指を離した鬼利が、淡々とした声で言いながら真っ赤に汚れた手で俺の後ろ髪を引っ掴む。
髪を引き上げられる痛みに涙を滲ませながら頷こうとした俺の耳元で、鬼利の唇がくすりと笑った。
ひくりと肩を震わせた俺と頬が触れそうな距離のまま、血に汚れたのとは反対の鬼利の手が最後に残ってた浅い傷を引き裂く。
「…上、で」
毒の甘さで囁く鬼利の爪から滴った血が、真っ白なシーツを赤く汚した。
鬼利が用意したあの書類とカードは、せこい悪党が不法入国者から法外な金をふンだくって作るような、少し厳しい検査をされればバレる偽造品とは違って、正真正銘の本物だった。
どうやったのか、なんて馬鹿な俺にゃァ説明されたッて理解出来ねェが、普通なら丸3日どころか半年かけたって用意出来るモンじゃねェってのは俺にも解る。
鬼利のコトだ、こォいう事態も想定して、あらかじめ用意してくれてたのかもしれない。
「そこまで暇でも、後ろ向きでも無いよ」
じゃァ、本当に3日間で?
「図面を引くまでに半日掛ったからね。2日で仕上げたかったんだけれど」
アレは普通なら半年かけても用意出来ねェ代物だが、鬼利の頭の出来が“普通”じゃねェのは俺が一番よく知ってる。あんな無茶をしなくても、まともに寝ずに体壊しながらじゃなくッても、鬼利なら一週間もあれば同じ結果が出せてた筈だ。
「急いでいたからね」
…俺が鬼利のコトを思い出す前に、俺のコトを自分から離したかったから?
俺は鬼利を思い出せて嬉しいし幸せで、忘れてた頃を思い出すとしがみついて泣きじゃくりたくなるくれェに怖いけど、何より俺のコトを一番に考えてくれる鬼利にとっちゃァ、あのまンまの方が良かったんだろうか。
「…お前は本当に、時々驚くほど愚かな事を言うね」
知ってらァな、そんなコト。
鬼利の頭ン中が“視え”てても、処理やら元の知識量がちッとも追い付かずに、俺にゃァ鬼利の考えてるコトなんざ殆ど解ンねェのは昔っからだ。
「僕がお前を愛していることも解らないの?」
それ以外は解らねェよ、俺は鬼利と違って馬鹿だから。
「それが理解出来れば十分だよ」
鬼利は俺を何よりも自分よりも愛してくれていて、俺は鬼利に大切に思われてるてめェよりも鬼利のことを愛してる。俺達は昔っからずゥっとそうだ。
てめェのコトなんざ二の次で、一番に互いのことを考える。
「知らない男と一緒に暮らして、しかもそれが双子の兄。そんな状況が過ごしやすいとはとても言えない」
あの時鬼利が俺に、思い出して欲しいって思ってたのは本当だ。だって俺ァ鬼利に愛されてるから。
でも鬼利にとっちゃァそれは自分の感情で、つまり、二の次だ。
「僕は、“あの時”のお前の状況を、少しでも早く改善したかっただけだよ」
そっか。
でも、全部無駄になッちまった。鬼利はあんなに辛い思いをしたのに。
「僕の傍に居たいと思うお前に、あれは必要ある?」
怖くて見たくもねェよ、あんなの。
「だろうね。だから、いいんだよ」
ちっともよかねェよ。
でも。
…鬼利がいいって言うンなら、俺もそれでいい。
>>
Next.