08.



 カタン。


「……?」

 聞いた事の無い音がした。扉が開くのとも、扉についた小さな窓が開くのとも違う音だった。鬼利が自分の閉じ籠められていた屋根裏に来る為に使っていた、暗くて細い小さな階段の出口が開いた音だ。それを知らない自分は骨ばった足を抱えて、お腹を隠した。あの時は、お腹を蹴られるのが一番痛いと思っていたから。


 板はしばらく揺れていて、そしてパタンとこちら側に倒れた。板の向こう側には穴が開いていて、そこから少し埃に汚れた黒い頭と白い腕が見えた。
 鬼利は壁の穴からゆっくりと出て来て、そして立ち上がった。

 とても綺麗な顔をしていた。目が橙色で、唇が赤い。今まで見て来たどの子供より、どの大人より、鬼利は綺麗だった。

 顔を上げた鬼利の、橙色の目が少し大きくなる。その綺麗な色の中に、ぼろぼろの服を着た子供がいた。今まで見て来たどの子供よりも痩せていて、寒そうだった。剥き出しの細い腕が所どころ青い。何もしていないのに時々痛いことをされていた、子供の時の自分が映っていた。


「――――」

 鬼利がこちらを見ながら何かを言う。大きくも、低くも無い、柔らかい声だ。今まで聞いた中で、一番優しくて暖かい音だった。
 夢中でその声を聞いていると、鬼利がゆっくりと近づいてきた。あんなに優しい声だったのに、あの大人のように、父親のように痛いことをするんだと思って、ぎゅっと目を瞑った。頭の上に暖かい物が乗せられた。

「…ぁ……?」
「――――」

 閉じていた目をそっと開いて鬼利を見る。鬼利は綺麗に笑っていて、何かを言っていた。頭に乗せられた手が、いつか見た外の子供がされていたように自分の頭を撫でていた。

 その時の自分は言葉を知らなくて、鬼利が何を言っているのかは解らなかったけれど、異常な記憶力はちゃんとその言葉を覚えていた。
 怯える自分の、まだ何も知らない、真っ白な人形のようだった自分の頭を撫でて、きれいなこどもは、鬼利は、こう言った。

 もう、大丈夫だよ
 今までずっとひとりぼっちで、寂しかったね
 でも、もう大丈夫
 これからは、ずっと、僕が、





「一緒に、いるからね」










「…幽利?」

 ファイルが床に落ちる音に、鬼利が怪訝そうな声音で名前を呼ぶ。
 鬼利が俺に名前をくれた。言葉を理解して、産まれて2度目にこの喉が紡いだ言葉だ。鬼利はもう忘れてしまっているだろうけど、俺は覚えてる。

 俺が鬼利の名前を知るよりも前に、鬼利は俺に約束したんだ。
 こんなこと、鬼利はもう忘れてしまっているだろうけど。

 鬼利は俺に、一緒にいるって、ずっと一緒にいてくれるって約束したんだ。

 鬼利が忘れてしまっても、俺は覚えてる。


「幽利?なにか―――」
「…嘘吐き」

 元から低かった体脂肪率が3%落ちて、血の中に必要なものが色々と足りていない、色ンな所にガタの来ているただでさえ弱い体が、俺を心配して手を差し伸べようとシーツから背中を浮かしかけるのを、俺は上からその両肩を掴んで止めた。

 布団の上から薄ッぺらい体に跨って、真上から鬼利を見下ろす。世界中の誰よりも何よりも綺麗な瞳が俺を見上げて、血色の悪い唇が何かを言う前に、俺はその肩を掴む手に少しだけ力を込めた。


「ずっと、一緒だって。……やくそく、したくせに」

 鬼利の瞳が、あの時より少しだけ視力は落ちたが、あの時と同じく綺麗な橙色の瞳が、ゆっくりと見開かれた。
 自分で制御の効かねェ“千里眼”が、その瞳の奥で、鬼利の脳裏で再生される記憶を片ッ端から俺の視界に流し込む。

 ただ思い出すだけだって、俺と鬼利じゃァそもそもスペックがケタ違いだ。眩暈がするような速度で引き出されて行く記憶の数々に頭の奥が鋭く痛むが、痛ェのなんて“慣れて”る。
 目まぐるしく現れては消えていた記憶の欠片の中に、一瞬あの時の、痩せぎすの体に薄汚ねェボロを着た俺が見えた。

 …覚えてンじゃねェか。


「言葉なんて解らねェ俺に、それでも鬼利は約束したんだ」
「…そう、だったね」
「あの時はそンなの解らなかったけど、あの時俺は寂しかった。ずッと1人で、寂しかった」
「うん」

 こんなに暗くちゃァ鬼利の目には俺の顔なんて見えてねェ筈なのに、声しか聞こえてねェ筈なのに、鬼利は真っ直ぐに俺を見上げたまま頷いた。

「…何言ってンのかなんてこれっぽッちも解んなかった。鬼利のことだって“視た”事も無くて、だからあの男と一緒かもしれねェって、そう思ってた、俺に…っ」
「うん」
「なのに…ッ…初めて会った、あの時に!ずっと…ずっと一緒だ、って…!」
「…うん」


 …鬼利は話してくれたことはねェが、俺は鬼利が俺を見つけるまでにどれだけ苦労したかを知ってる。

 あの男は鬼利をただの跡取りとしか見ていなくて、だからあの男が雇った使用人も、家庭教師も、鬼利に会う連中は誰も彼も鬼利をそういう風に見た。飛び級どころか初等をすッ飛ばして入った中等学校の生徒も、家柄を怖がるか、鬼利の頭の良さを妬むかで、だから鬼利にはまともに話す相手すら居なかった。
 母親の女は発狂する前から病気がちで、てめェの復讐に利用する為に鬼利を産んだ。最初、病気の女に負担をかけないように鬼利は我慢してて、女の思考を理解出来るよォになるとそれに気付いて無いフリをした。女が憎んでる男の面影がある自分の姿を出来るだけ見せないように、甘えるどころか会うのも我慢した。

 鬼利の中に残っている記憶の中で、俺に会うまでの鬼利はずっと1人だった。



「鬼利は、俺の、双子の兄貴の鬼利は…ッそォいう約束は、今まで絶対破らなかった。俺にちゃンと解るように、そういう約束は自分で守るって頭ン中で決めてた」
「そうだね」
「あの時は、…覚えてるけど、あの時はそこまで“視え”てねェから、俺は解らない。あれがそォいう“約束”だったのか解らない。…でも、鬼利はあの女に言ってた」

 鬼利によく似た綺麗な顔の、復讐の為に俺達を産んで、それでも鬼利を愛して、俺達が2人で生きられるように血を吐いて死んだ、母親に。

「他の誰を騙しても俺にだけはそうするなッて、偉そうに言ったあの女に、鬼利は解ったって言ったんだ。話してたのはあの女だけど、鬼利はあの時俺に約束してくれた。屋根裏で残飯食ってた俺に、絶対守るって、約束…してくれたんだ…!」
「……」
「一緒だって言ったのに。約束、したのに。…俺を騙したのかよ、鬼利。…鬼利っ!」
「……」


 肉の落ちたその肩を強く揺さぶって叫んだ俺を、鬼利は黙って見上げていた。
 されるがままにシーツに落ちていた手が、ゆっくりと俺の頬に伸びて。

 華奢な指先が俺の頬に触れた、瞬間。
 今まで、見慣れ過ぎて見えていないことも忘れていた、あの霧が。鬼利だけの、暖かくて深い灰色の霧が、音を立てずに2人の周りを覆った。


「…幽利」
「っ…ぅ…」
「幽利」

 堪え切れずに顔を反らして嗚咽を漏らした俺の頬を撫でた鬼利の指先が、こめかみをなぞって、俺の髪を優しくかき上げる。


「…ごめんね」
「…、…ッ」
「ごめんね、幽利。…怖かったね」


 くしゃり、と柔らかく撫でた俺の頭を優しく引き寄せて、鬼利が俺にしか聞こえない声で囁く。

「っ鬼利、きり…」
「うん」
「ごめん、なさい…きり…っ」

 忘れて、しまって。
 …怖い思いを、させて。

 縋るようにその肩を掴んだまま、肩口に顔を埋めてみっともなく泣きじゃくる俺の頭を撫でてくれていた鬼利は、俺の言葉を聞いて一度その手を止めて、笑った。





「…もういいんだよ、そんなこと」



 >>Next.




long