「罰だとでも、思っているの?」
…罰?
おかしなことを言うね。
間違ったことなんて、なにひとつした覚えは無いよ。
光の入らない暗い部屋。
熱を孕んだ浅い吐息。
点滴液がぽたり、ぽたりと。
ぽたり、と。
「……っ、…は…」
枯れた喉で一度小さく堰き込んで、半分熱に浮かされたまま、白い腕がシーツの上を滑る。
…サイドスタンドの水を取ろうとしているのだろう。シーツの横には小さなボタンがあって、それを呼べばすぐに誰かが来るのを知っているのに。自分では体を起こすこともままならないのに。
この人はそういう人だ。水の入った瓶が持ち上げられなければあっさりと諦めて、喉の渇きを我慢して、そして様子を見に来た誰かに、その誰かが部屋を出る時になってようやく、涼しい顔をしてこう言うんだ。
『…あぁ、申し訳無いけれど、水をくれる?少し喉が渇いたんだ』
まるで何かのついでみたいに。
ただの想像なのに、その光景が目に浮かぶようだった。声までそっくりに脳内で再生されるのがおかしくて、鬼利が眠るベッドのシーツに突っ伏したまま微かに笑んだ幽利の髪に、緩慢にシーツの上を這っていた細くて滑らかな指が触れた。
まるで弾かれたように震えた指先が、離れて。
「……幽利?」
何度も何度も胃酸に焼かれて、掠れた声。
どうして気付かなかったんだろう。最初に聞いた声はもっと澄んでいた筈なのに。
少しずつ、少しずつ錆びついて、今はもうこんなになってしまった。
「…考えてたンです」
「……」
「この部屋にはベッドがこれしかねェのに、アンタはどこで寝てるんだろうって」
ベッドの傍らに座り込み、シーツに額を押し当てたまま、幽利は小さく声を出して笑った。
「考えるまでもねェや。この4日、まともに寝てねェってンだから」
「……」
「飯も、吐いちまッてたンでしょう?…一緒に食べてくれたのは、俺が心配するからですか」
「…違うよ」
相変わらず浅い呼吸の合間の声は、それでも柔らかい。
「僕は…脂肪も筋肉も、つき難い体質でね。そう何度も食事を抜いたら、倒れてしまう」
「…結局、同じじゃねェですか」
吐き気を堪えて、何でも無いような顔で無理に食べ物を詰め込んで、そんな苦労と我慢をしたって、結局こんな風になっているんだから。
「同じでは無いよ」
「…どうして」
「やらなくてはいけないことを、済ませることが出来たからね」
「ぶッ倒れるくらい無理してまで、やらなくちゃァいけないことだったんですか」
「そうだよ」
「…何ですか」
低い声で言いながら、幽利はシーツから顔を上げる。
「何ですか、それ」
同じ高さから見据えた綺麗な橙色の瞳は、真っ暗で何も見えていないくせに、それでも幽利を見ていた。
「俺の記憶を、戻す方法ですか」
「…違うよ」
「俺のことを、アンタにぶたれて悦ぶような体に変える方法ですか」
「…違うよ」
「……俺が、アンタのことを」
カルヴァの声が脳裏で囁く。
―――鬼利はね、あの子は、自分のことなんて何も、
「…また、愛するようになる方法ですか」
「まさか」
何も。
「じゃあ、あの本は」
「本?…あぁ、一応ね。記憶喪失に関する文献を、色々と読んでみただけだよ」
「…だけ?」
「ゴシックに無理を言って集めて貰ったけれど、意味は無かった。結局どれも、知っていることと、解ることしか書いていなくてね」
何でも無いような声音で言いながら、鬼利は一度、ゆっくりと瞬きをした。焦点がぼやけている。
「俺には、難しくてほとンど読めませんでした」
「下らないことだよ。…昔の知人に会わせたり、記憶を無くす前の、幼い頃の話を聞かせたり。思い出深い風景を、見せたり」
「下らない、ッて。なンにもして無いじゃねェですか」
「そうだね」
「…姐サンが、鬼利サンは俺に、アンタのことを思い出して欲しくないンだろうッて」
「そんなことは無いよ」
「じゃあ、どうして」
時間が合えば、いや、無理矢理に合わせて一緒に居たって、結局アンタは自分のことなんて少しも教えてくれなかった。昔の話だって、教えてくれたのは両親が死んでもう居ないってことくらいだ。一番記憶に残っているだろうあの部屋だって、そう請わなければずっと見せないつもりだったんだろう。
分厚い211冊の本が口を揃えて並べた“解決策”を、俺が記憶を取り戻す可能性を、アンタは全部無視したんだ。
「試せばいいじゃねェですか。それで治った人が居るッて書いてあったんでしょう」
「そうだよ。でも、同じ方法で幽利が思い出すとは限らない」
「だからって、」
言い募ろうとした幽利の言葉を、鬼利は掌をシーツから上げて遮った。血の気の失せた唇に、薄らと笑みを浮かべて。
「“最悪の結果”を想定もせず、成功を夢見るのはただの愚か者だよ」
「…ッ…」
説き伏せるように穏やかな声音で言われた言葉に、幽利はギリ、と奥歯を噛みしめた。時折焦点がぶれる鬼利の橙色の瞳が、焦点があっていても暗くて見える筈が無いのに、その小さな音を聞き取って僅かに細まる。
「俺のコトを、好きだって、…愛してるって言ってくれたのも、嘘だったんですか」
「本当だよ」
「それじゃあ、なんで…ッ!」
堪らなくなって握り締めたシーツは滑らかで、冷たかった。
本当は聞かなくても解っていた。あれが嘘では無かったことくらい。
…嘘なら、良かったのに。
「幽利…」
「…全部、俺のコトばっかりじゃねぇですか。俺の記憶が戻らなかったら、俺が傷ついたら、どれもこれも俺のコトばッかりだ」
「……」
「アレが本当なら、アンタは俺に忘れられて寂しくて、苛立って、辛い筈だ。自分の方がずッと傷ついてンのに、なのにアンタはまだ俺のことを考えてくれてる。ちっとも平気じゃねェのに平気な顔して、そんな無理、してまで…ッ」
思い出して欲しいと言いながら、行動には何も移していない。彼には似合わない矛盾に見えるが、鬼利の中ではそこに矛盾なんて一つも無いのだ。
カルヴァも口を噤んだ2人の過去を話さないのも、2人の異常な関係を話さないのも、幽利が鬼利を恨むようなやり方をしたのも、全部、全部想像もつかないほど深く広く色々なことを考えてのことで、そしてそれは全て、幽利の為に。
本当は、辛いのも苦しいのも痛いのも哀しいのも、全部鬼利の方だったのに。
「俺のことばッかり考えて、俺が楽ンなる方法ばッかり考えて。それじゃぁアンタはどうなるんですか。俺に忘れられたまンまの鬼利サンは。アンタはずッとしんどいまんまじゃねェんですか…!?」
「……大丈夫。僕は辛くも、寂しくも無いよ」
ゆっくりと動いた鬼利の手が、暗く歪んだ視界に少し迷いながら幽利の頬に触れ、そこを優しく撫でた。
暖かくて柔らかい声。
今まで、聞いてきた、…誰の声よりも。
「白状、するとね」
「…はい」
「僕がお前に抱いている感情は、お前が僕のことを、名前も顔も声も、全て忘れてしまったからといって、どうにかなる程度のものじゃないんだ」
「…は、い」
「もう二度と、お前に愛して貰えないからといって、諦めがつくような、…終わりを考えられるような、そんな“恋”じゃないんだよ」
「っ…、…」
「だから、幽利。お前はそのままでいいんだよ」
幽利の頬を撫でた鬼利の手が、冷たく緩慢に動く指先が、触れた時と同じくそっと離れた。
優しい声音に反して、鬼利の瞳はあの時の、幽利を鞭打って拙く無垢なキスをしたあの時の瞳をしていた。見ている方が堪らなくなるようなその橙色を、幽利は瞬きも忘れて魅入られたように見つめていた。
あの時も、この目を見て、言い様の無い違和感を感じた。
そうか、この人は。膨大な量の知識と情報を脳に詰め込んで、人より深く広く考えることが出来る、この聡明な双子の兄は。そんなに賢い癖をして、
知らないんだ。
自分の為に泣く方法を、知らないんだ。
「…きり、さ…」
「カルヴァから、何か受け取った?」
「…え?」
すっと、まるで幕でも下ろしたようにいつもの穏やかで優しい色に戻った橙色にそう問いかけられて、幽利は思わず軽く目を見開いた。
カルヴァから貰ったもの?
「…貰って無いみたいだね。僕には、確かに、と約束してくれたんだけど」
「す、すいませ…何も…」
「あぁ、いいんだよ。どうせ、そうだろうと思っていたから」
約束を破られたというのに何でもないような声音でそう言って、鬼利は幽利から一度外した視線でベッド脇の小さなチェストを示した。
「そこの…2段目にある、ファイルを取ってくれる?」
「…ファイル?」
「そう。…僕には見えないけど、幽利の“目”なら読める筈だよ」
「……」
3段の引き出しがついたチェストの2段目には、鬼利の言う通り黒いファイルが入っていた。視線に促されて開いてみると、中には難しい用語が並んだやたらと仰々しい書類が数枚。そして、名刺程の大きさのカードが挟まれていた。
「ッ…これ、って…」
全ての文章に目を通さずともそのカードを見れば、そこに何が書かれているのかは幽利にも理解出来た。目を見開いて鬼利を見ると、橙色の目を伏せて浅い呼吸を繰り返していた双子の兄が、少し自嘲するように笑う。
「こればかりは、ゴシックに頼むわけにも、いかなくてね」
「……これを、ずっと…?」
「そうだよ。形にしてしまえば、たった8枚の書類と、安っぽいカードだけど。…急ぎ、だったからね」
震える指先で捲った書類の内4枚は、名前すら知らない初等、中等、高等学校と、最高学府の修了を示すものだ。1枚は皇王が認めたこのザドス皇国の国民であることを証明するもの。もう2枚はその証明を裏付けする経歴と、幽利が“地上”の皇都で生活していたことを示すもの。
この7枚とカード―――本来、この“ILL”に居るような人間が持つことの出来ない、正式な皇国国民証だけを見れば、忘れているだけでこれが本当だと思い込んだかもしれない。しかし、最後に残った1枚が、この7枚が全て偽物であることをも示していた。
「…っ…」
最後に残った書類に書かれていたのは、詳細な家系図だった。
先祖代々の家名は、確かに「佐緒」となっている。両親は鬼利の言う通り、母が10年前に、父が半年前に死んでいた。
だが、息を飲んでその紙面を凝視する幽利がいくら探しても、そこに鬼利の名前は無い。
「…なん、なんですか、これ」
「通行手形だよ。万能な、ね」
鬼利の口調は少し冗談めかしていたが、幽利は愛想笑いすら出来なかった。
喉がからからに乾いていて、息苦しい。
鬼利が4日間、まともに寝ずに揃えた、8枚の書類とカード。
その全てが、幽利では無い「幽利」がこの世に存在することを偽造する、公的な証明書だった。
「それがあれば……皇国の国民で、その経歴なら、どこででも暮らしていける。移住を断る国も無いし、どんな詳細な審査をされても、偽物だとは発覚しない。経緯はどうあれ、全て正式な手順を踏んで、皇国に発行させたものだからね」
正式な手順を踏んで、公的に発行させた、偽物。
…時間が、かかる筈だ。
「…僕が出て行ければ、一番良かったんだけどね」
鬼利が、“ILL”最高幹部として自由に出来る暴力や権力を一切使わず、情報とその頭脳だけで、大陸最大の大国であるザドス皇国を相手どり、そして欺いた男が、自嘲するように微笑んだまま言う。
そうだ。こんなものを、渡されるということは。
「僕は色々知り過ぎて、ここからは死人にならないと、出られない」
「…ころされるんですか」
勝手に舌が紡いだ言葉に、鬼利が笑う。
「実際は、触覚以外の五感を潰されて、何も考えられないように、頭の中を少し弄られるだけだけどね。幽利の助けになれないのなら、僕にとっては、それは死ぬのと同じだ」
まるで他人事のように語られる言葉に体はぞっと鳥肌を立てたが、幽利の思考はそれとは全く別の次元で、真っ黒に塗り潰されていた。
揺れる書類の黒い文字が滲み、溶けて、目の前が白く染まる。差し伸べられる白くて、暖かい、手。
優しく、頭を、撫でて。
「俺に…出て行け、ってこと…ですか…?」
「僕が傍にいると、お前はきっと僕の事を思って自分を責める。お前は…幽利は、そんなことをする必要は無いし、僕も、僕のことで幽利が泣くのは耐えられない」
泣き方を知らない鮮やかな橙が、哀しい色をする。
鬼利の言う通りにするのが、きっと一番良いというのは解っていた。お互いの為に。いや違う。2人じゃない。自分の為にだ。
でもそうじゃない。例え一番良くても、それは“良く”ない。違う。最善じゃ無い。選ぶべきなのは最善なんかじゃない。ちがうんだ。
綺麗な××の瞳。白くて柔らかい手。あかい唇。
顔の解らない、きれいなこどもが囁く。
―――ずっとひとりで さみしかったね。
「幽利?」
「…きりさん、は…?」
「僕はここに残るよ。幽利が困った時は、必ず助ける。大丈夫だよ」
「……だいじょうぶ?」
―――もう、だいじょうぶだよ。
これからは ずっと
ぼく が
「大丈夫。お前はこんなに優しくて、僕と違って体も丈夫だ。だから、」
「……」
何と言っていた。
あの、夢に見たきれいなこどもは。
…何と。
「…だから、もう1人で大丈夫なんだよ。幽利」
「……ひとり、で」
ひとり。
顔の解らないこどもが綺麗に微笑んで、その姿が遠くなる。
離れてしまった手に、怖くてぎゅっと瞑っていた目を開けると、手の届かない遠くでこどもの傍らに白い女が座っていた。
女の手が伸ばされ、そっとこどもの横顔を包んで隠す。金色の髪に半ば隠れた美しい横顔の中で、赤い唇が囁いていた。
他の誰を騙しても、他の誰を欺いても
×××にだけは、そうしてはいけないわ
そう、きめたんでしょう?
女の唇からごぽり、と血が溢れ、白い体を赤く染めてこどもの傍らに倒れる。
こどもは手を伸ばすことなく、ただそれを見下ろして。
―――もう、大丈夫だよ。
橙色の瞳。
―――これからは、ずっと
赤い唇。
―――僕が
振り返った、その顔は。
今まで見た誰よりも、綺麗な。
鬼利。
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