06.



 もう、大丈夫だよ

 これからは、ずっと、僕が










「……」


 医局【過激派】に2部屋しかない個室病室の1つ、最も奥まった場所にある、既に指定席となった白いベッドの縁に腰掛けて、幽利はただ目の前の白い壁を見つめていた。
 昨夜遅く、背中の傷に包帯を巻いて貰った後に飲んだ薬の効果を、医局のスタッフは鎮痛と睡眠導入だと言っていた。これを飲んで寝れば、明日の昼までぐっすり眠れるとも。

 ベッドの傍らにある時計の針は、正午どころかベッドに入ってから5時間と経っていない早朝の時間を示しているが、薬が効いていないわけでは無かった。呼吸の度に痛んでいた傷も、今はじっとしていると存在を忘れそうになる程だったし、体は睡眠を求めてどこか重だるい。


 それでも眠る気にはなれなかった。妙に冴えた頭の中で、顔のわからないきれいな子供が言ったあの言葉を、あの柔らかくて暖かい声を何度も何度も繰り返し聞いていた。


 狭まった視界の端で、滑るようにして扉が開く。

「あら、起きていたの?」
「…姐サン」

 座っている自分を見て、カルヴァの艶やかな漆黒の瞳が軽く見開かれる。

「ごめんなさい。寝ていると思って」

 恐らく、ノックもせずに入ったことに対してだろう謝罪の言葉に、幽利はゆるく首を横に振った。
 カルテを小脇に、壁際の椅子に腰掛けるカルヴァはいつも通りに妖艶で優雅だったが、本来ならこんな時間帯に医局長である彼女はここに居ないし、幽利が医局に来た時には既に帰り支度を済ませていた筈だった。服装も、眠る前と変わっていない。

 …ああ、この人にも迷惑をかけてしまった。本当に、自分は粗相ばかりだ。


「すンません…夜遅くに、いきなり駆けこんじまッて」
「いいのよ」

 軽く頭を下げながらへらりと笑って見せる幽利に、カルヴァは黒い編み上げのブーツに包まれた足をゆったりと組みながら微笑んだ。

「…いつもの事ですもの」
「っ……」

 いつもの、こと。

 …奇妙には思っていた。
 逃げるように医局に入った時、カルヴァは僅かにその表情を厳しくしていたが、彼女以外の医局のスタッフは皆、背中を血で濡らし、手首に拘束の痕を赤く残した自分の姿を見ても驚かなかったのだ。

 …いや、ある意味驚いてはいたのかもしれない。でもそれは、日常生活ではまずつかないだろう傷に、ではなく、どうして幽利が今ここに逃げるように駆けこんでくるのか、という事に対しての驚きであるように幽利には見えた。
 異常に違いないと思ったあの傷も、あの行為も、少なくとも彼等には当たり前のものだったのだ。

 …気さくに接してくれた医局のスタッフにすら、自分はあんな扱いを受けて当然だと、疑いもせずに思われていたのだろうか。


「その様子だと、記憶はほとんど戻っていないようね」
「は、…い」

 少しも戻っていない。
 寧ろ、滅茶苦茶になっていくばかりだ。

「…傷の具合はどう?まだ薬が効いている筈だけれど、痛むようならもう少し強い薬を、」
「っ…姐サン」

 膝の上に乗せたカルテを開き、主治医としてどこまでも「普通」な話を始めたカルヴァの言葉を、幽利は思わず遮った。
 赤いフレームの伊達眼鏡の奥。カルテへと落とされていた漆黒の瞳が、上目遣いに幽利を見る。


「…なにかしら?」
「俺ァ、いつも…こんな、風に?」
「……」

 床を見つめたまま、呟くような声音で言う幽利に、カルヴァは開いていたカルテを閉じた。どこか憂いを帯びた漆黒の瞳が、俯いた幽利を見て軽く細まる。

「ええ、そうよ」
「…っ…」
「でも、いつもの貴方ならその程度の傷では来なかったわ。1ヶ所も縫合が必要無い、一週間もすれば塞がるような傷ではね」
「…そォ、ですか」


 あれでも、手加減されていたのか。
 それじゃあ普段はもっと、縫合が必要になる傷がいくつも出来る、くらいに。


「やっぱり話して無いのね」
「…え?」
「その傷の意味よ。どうして貴方が鞭で打たれて、そして今まで打たれていたのか、鬼利は何も言わなかったんでしょう?」

 そんなことは聞いていない。
 あの人は、鬼利は、その事については何も話してくれなかった。

 俯いたまま小さく頷いた幽利を見て、カルヴァが小さく溜息を吐く。レンズ越しの漆黒の瞳はどこか憐れむような色を浮かべていて、そしてそれは幽利には向けられてはいなかった。

 …改めて考えれば不可解だ。教えてくれると、言ったのに。


「そんなことだろうと思ったわ。本当に、自分の事は何も考えていないんだから」
「姐サンは、ご存知なんですか?…なら、」
「幽利、貴方記憶と一緒に知能指数までどこかに置いてきてしまったの?」

 縋るような思いでその美貌を振り返った幽利に、だがカルヴァの言葉は辛辣だった。

「少し考えれば解るでしょう、こんなに簡単なこと」
「かんたん…?」

 一体何が、簡単だと言うんだろう。
 あんな行為を強いられる程、酷い粗相をした覚えなど無い。
 …それなら、やっぱり。

「俺ァ、あの人に…嫌われ、て…?」
「そんな筈無いでしょう」

 視線を再び床に落としながら呟いた幽利に、カルヴァはぴしゃりと言って肩に流れる後れ毛を払った。

「嫌いなら同じ部屋に置く筈が無いわ。鬱憤を晴らす為のサンドバックに使うなら鞭なんて使わずに殴る蹴るで済ませるでしょうし…それに、そんなことをされて黙っているほど大人しい性格じゃないでしょう?貴方」
「脅されてた、とか…」
「DVだったとして、3年間もそれに気付かない程私が間抜けだと思うの?」
「あ……」


 確かに、そうだ。
 例え脅されていたとしても、治療をしていたカルヴァがそれに気付かないとは考え難い。女帝だ魔女だと登録者からは言われているが、彼女が本当は誰より優しく慈悲深い事を幽利は知っている。

 彼女にとっても鬼利は上司であるとはいえ、そういう理由であったのならば、カルヴァがそれを黙って今まで見過ごしている筈が無い。


「…それじゃァ、何でなンですか」
「貴方が想像しているのより、ずっと単純で簡単な理由よ」

 出来の悪い生徒に何度も繰り返し教えた問題をもう一度説いているように、いっそ気だるげな表情で言いながら、カルヴァは腰に吊った薔薇鞭を細い指先で撫でる。


「貴方がどうしようも無いマゾヒストで、彼がサディストだった。…それだけのことよ」
「……は?」
「もっと解り易く言ってあげましょうか?」


 鞭についた小さく鋭い無数の棘を指先でなぞりながら、調教師という裏の顔を持つ美しい女医は、何でも無いような声音で続ける。

「貴方は痛みに嫌悪ではなく愉悦を感じ、物のように自由を奪われて拘束される事に勃起して、家畜のように鞭打たれて射精する変態、ということよ。…これなら解るでしょう?」
「…ぁ、…え…?」

 艶やかな唇が滑らかに紡いだ言葉は、とても彼女には相応しく無いものだった。二の句が継げずに目を見開く幽利を見て黒曜石の瞳が憂いを帯び、そしてそれを隠すようにそっと伏せられる。

「脅されていた、なんて酷い勘違いだわ。傷を欲しがっていたのは貴方なのよ、幽利」
「俺、が…」

 あの行為を欲していたのが自分の方だとしたら。
 カルヴァの言う通りの、異常な性癖を持っているのが自分の方だとして、あの人はそれに“付き合って”くれていたのだとしたら。あの時の鬼利の表情にも納得が行くが、でも。


「…でも、ホントに痛ェだけで…」

 昨夜の行為に、自分は苦痛と恐怖しか感じなかった。性的興奮なんてもっての他だ。カルヴァのいうようなマゾヒストだとしたら、それはおかしいのでは無いだろうか。

「そうね。…鬼利のことを忘れたままだもの」
「関係、あるンですか?」
「あるわよ、勿論」

 目を伏せたままそう言って、カルヴァは小さく溜息を吐いた。

「貴方がマゾになったのは、サドの鬼利により深く愛して貰う為ですもの」
「っ…鬼利サン、に?」
「そうよ。そして鬼利がサドになったのも、マゾの貴方をより深く愛する為」

 愛して貰う為?愛する為?
 どういうことだ。自分達は一卵性の双子で、信じ難いことではあるが鬼利と自分は兄弟である筈だ。自分のあの人の関係はそういうものである筈だ。なのに。

 それではまるで恋人同士だ。


「…驚くのも無理は無いわ」

 いつの間にか目を開いていたカルヴァの声は、子供を宥める母親のように優しかった。

「近親相姦でSM、というだけでも“普通”じゃないのに、その上同性なんて。今の貴方にはとても理解出来ないでしょうね」

 “今の”、貴方には。
 確かにカルヴァの言う通り、そんな関係は幽利の理解を超えていた。嫌悪や軽蔑以前に意味が解らない。

 でも、それなら。

 鬼利の言動は、あの行為を除いて幽利の心を読んでいるように完璧だった。カルヴァの言っていることが真実だとして、それを知った時の幽利の反応や思考まで、彼があの明晰な頭脳でもって予想していたのだとしたら。


「…なんで」

 そんな関係であるなら尚更、忘れられたことは苦痛だろうに。
 例え一般的に見て異常な関係ではあっても、記憶を呼び醒ます可能性のある要素は、全て教えて可能性を広げたいと思うのが普通だろうに。

「…なんで、何も」

 どうして大切なことを、何も言わずに。


「鬼利はきっと、貴方の為に、自分のことは思い出して欲しく無かったんでしょうね」
「…愛してる、って…言ったンですよ?あの人」
「だからこそよ。もし鬼利が包み隠さず全て話していたら、貴方は今みたいにショックを受けたでしょう?」
「でも、それで思い出すかもしれねェのに」
「思い出せば、ね。鬼利は今までの自分と貴方の関係を全て忘れて、“まとも”になった貴方が“まとも”に幸せになれるように、過去を隠したのよ」
「ッ…それじゃァ、あの人はどうなるんですか」


 何から何まで幽利には負担をかけないよう怖ろしく繊細に気を使って、自分の寝室を譲り、この背を鞭でずたずたに切り裂いて、それなのにあんな目をして拙く優しいキスをした、あの人は。


「俺が幸せになッたって、あの人が姐サンの言うように俺を愛してくれてンだとしたら、俺に忘れられたまンまのあの人はどうなるんですか…!」
「……言ったでしょう」

 押し殺した声で叫ぶように言った幽利を見るカルヴァの表情が、この日初めて柔らかい微笑を浮かべる。


「…鬼利は、自分のことなんて何も考えていないのよ」
「…ッ…!」


 囁くようなカルヴァの言葉に、兄を彷彿とさせる優しいその声に、幽利はギリ、と奥歯を噛みしめた。



『愛してる』『おかしいと思う?』『そうだね』

『…僕も、そう思うよ』



 解らない。なにがおかしいのかなんて解らない。
 でもこれは違う。こんなのは違う。
 彼に比べてあまりにも愚鈍なこの思考では、今頭の中で氾濫している感情が鬼利に対してのものなのか、自分になのか、それとも他の何かなのかすら解らなかった。
 ただ、無性に泣きたかった。こんなのはあんまりだ。


 …あまりにも、哀し過ぎるじゃないか。  










 部屋の壁一面を、床から天井まで覆う本棚の前を端からゆっくりと歩きながら、幽利はその中に隙間無く並べられた、夥しい量の本を見ていた。

「……」

 爪先が壁に辺り、背後を、そこに並ぶ本を振り返る。
 部屋に入ってまず目につくこの本棚は、覚えている限りでは“初めて”ここに来た時に、一度見ていた。“目”の機能は低下していくばかりで、今はもう視界すら狭まって振り返らなければ後ろも見えないが、記憶力だけは健在だ。

 1万冊を超える本を納めた本棚の内、何冊かの本が床に散らばっていた一番右端の本棚に、4日前までは1426冊の本が収められていた。今は、落ちた本を入れると1637冊ある。
 他の9架の本棚には4日前から隙間が無かったが、この本棚にだけは幾らか隙間があったのに、それも今は無い。

 最初に見て以来はほとんど気に留めていなかったので気付かなかったが、増えたのだろう。4日間に、211冊の本が。


「…読めやしねェ」


 “記憶に無い”本の一冊を手に取り、そのページをぱらぱらと捲って、幽利は小さく笑った。人間の脳の断面図が角度を変えて所々に載っているその本には、見た事も無い言葉が活字でびっしりと印刷されていたのだ。
 増えた本の内、幽利が読める言語で書かれたものは全て医療に関する本だった。どれもこれも分厚くて重そうな、読むのにひと月は掛かりそうなものばかりだ。

 あの人はこれを全て読んだのだろうか。
 この4日間、まともに寝ず、普段通りに仕事をこなし、誰にも気付かれないように3度に1度は食事を吐きながら。


「……」

 閉じた本をそっと本棚に戻し、幽利は壁に向いていた爪先を奥の扉へと向けた。


 あんなに賢い癖に。
 常人の一生分より遥かに多い知識を、たった20年かそこらでその優秀な脳に詰め込んでいる癖に。
 痛覚が異常に鈍い脆弱な自分の体のことだって、十分に知っている癖に。


 広い寝室は暗く、濃い薬品の匂いがした。
 音を立てずに扉を閉め、幽利はベッドの傍らに立つ。カーテンは閉め切られていて、室内は新月の夜のように暗かったが、幽利の“目”には見たいものが見えていた。

 点滴の針が突き刺さった腕が蝋のように白い。女のように華奢な首筋。薄く開いた唇から漏れる吐息は浅く、宝石のように綺麗で硬質な橙色の瞳は、瞼に隠されて見え無かった。


「鬼利サン…」


 4日間、気絶に近い短時間の仮眠だけで、まともな食事もとらずに居れば、どんなに頑健な体の人間だって参ってしまう。そんな真似をして平気なのは化け物だけだ。
 あんたは人間だろう。弱くて脆い、ただの人間だろう。


「鬼利サン」


 こんなことは子供でも解る。解ってた筈だ。こうなるってことくらい。
 解ってたんだろう。

 全部。


「……鬼利」



 >>Next.




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