おかしいのだろうか。
どこから?
誰が。
「50…3、箇所かな。……多分ね」
片手にした端末に抑揚に欠けた声で答えながら、鬼利は壁一面を占領する本棚に並べられた、無数の本の背表紙を指先で撫でていく。
本を選ぶ手の動きに反して、その橙色の瞳は伏せられていた。立っていると眩暈が酷く、視界が使い物にならないのだ。
革、布、紙、紙、布、革、布、紙、革、革、
「そうだね。……いや、それは任せる」
指先に触れる背表紙の材質と、基準とする本との厚さ、そして高さの違いで目当ての本を探しながら、鬼利は端末越しに話す相手に気付かれないよう、深く息を吐いた。舌が重い。
「アレを、よろしくね。…解ってるよ。……それじゃあ、お休み」
ぷつり、と向こうから通信が切れたのを聞いた途端、持ち慣れた万年筆よりも軽い筈の通信端末を持つ鬼利の腕が、がくりと鉛でも持っているかのように垂れる。
本の背表紙を辿っていた筈の指先は、巨大な本棚を縦に区切る仕切り板に触れていた。確かにこの段だと思って探っていたのだが、一向に目当ての本が見つからない。隣の段だったか。それとも下の。
「は…っ、……っ」
右から3番目の仕切り板を掴んでふらつく体を支えながら、鬼利は浅く短い呼吸の合間で強く奥歯を噛み締める。
たった1637冊の内の、自分で仕舞った一冊の場所すら思い出せないとは。たかだか3、4日まともに寝ずに居ただけでこの様だ。
考えることしか能が無い癖に。
…それすら出来ないなら、お前が息をする価値がどこにある。
ざぁ、と音を立てて貧血を起こした頭から血が引いていく。慣れたその感覚に引き摺られるようにして沈み込もうとする意識に、鬼利は氷を宛てられたように冷えた指先で本棚に縋りながら強く舌を打った。
「っ…寝るな、……役立たず」
唸るように低い声で吐き捨て、意識の定まらない頭をガツ、と音を立てて巨大な本棚の木枠に打ち付ける。衝撃に少しだけ意識が明度を取り戻したが、こんなことが一時凌ぎにもならないことは今の鬼利にも解っていた。
痛みをほとんど感じない神経は自己管理すら碌に出来ない。あらゆる毒への免疫と引き換えに、常人よりも軟弱になった肉体は一定以上の無理など効かない。どこもかしこも欠陥だらけのこの体に唯一出来るのは、誰よりも深く多く考えることだけだ。
「っ…う、…」
額を預けたことで少し収まっていた眩暈が強くなってぶり返し、それに伴って込み上げた酷い吐き気に、鬼利は端末を握っていた手で口元を強く抑えた。
捨てられた端末が床に落ちるその音が、すぐ傍の筈なのに水中に居るように遠い。
「はぁ、…は…ッ」
深く息をして堪えようとしたが、内臓を裏返されているような酷い不快感は薄れもしない。今膝を折れば意識を失うからと、意地で立たせていた足からがくりと力が抜け、鬼利はその場に両膝をついた。板を掴んでいた腕が、道連れに何冊かの本を落としながらずるずると落ちる。
「っふ…、はぁッ…はぁ…っ」
荒い息を吐くのと同時にどくりと胃が脈打ち、逆流して来た胃液が指の合間から床へと落ちた。
「…く、…ぅう゛…っ」
一度溢れてしまえば止めることは出来なかった。耐え切れずに床に着いた手の傍らに、競り上がった吐瀉物がばしゃばしゃと音を立てて零れていく。
無理を強いた体がまともな食事など受け付ける筈も無く、夕食は既に幽利をあの部屋に入れる前に全て吐いていたから、もう吐ける物などほとんど残っていない。床を汚していくのはほとんどが胃酸で、それすら無くなってしまっても痙攣は止まらなかった。
「っふ、く……はっ…はぁっ…!」
奥歯を噛み締めてまだ何かを吐こうとする体を無理矢理押し留め、鬼利は本棚の木枠を掴む手に力を込める。がくがくと痙攣する腕を無理矢理動かして折れた膝を立たせ、感覚の失せた腕で乱暴に汚れた口元を拭った。
久しぶりに開いた視界は歪んでこそいなかったものの、嘔吐とまともに息が出来ない苦しさで滲んだ生理的な涙に滲み、不明瞭なことこの上無かった。探していた本が指で探っていた段のすぐ隣にあるのが視界の端に映ったが、それを引き出している余裕は無い。
「はぁ…っ……は…っ」
ふらつく足で本棚の前を離れ、鬼利は本棚のすぐ傍らにあるソファに倒れるようにして座りこんだ。柔らかい背もたれに頭を預け、閉じようとする瞼で無理にゆっくりと瞬きを繰り返しながら、停止しそうになる思考を回転させる。
両膝がやたらと熱い。あぁ、座りこんだ時に強く膝を打ったんだった。自重をそのまま受け止めたのだから当然だ。
そう言えば、さっき幽利にも似たような事をした。無理に膝を着かされた事に驚いていたが、それと同時に痛みに顔を顰めていたような気もする。あの部屋の床はここより硬い。痛かったのだろう。
鞭打ちの最中も、口を塞がれながらもずっと悲鳴を上げていた。嗚咽のようなくぐもった悲鳴を。新しく刻んだ傷の他に、衝撃で古傷もいくつか開いていた。普段よりかなり弱く打ったが、鞭が鞭だ。
怯えた悲鳴を聞いて頬に触れるのを躊躇い、髪に触れた時。異常な行為を強いた自分への怯えと嫌悪に揺らぐあの綺麗な瞳は、薄らと涙の膜が張っていた。記憶を失う前なら、足りないと焦れてもどかしさに泣くような傷だったが、今の幽利にそんな異常な感覚は無い。泣くほど痛かったのだろうか。
解らない。
解らないんだよ。
ごめんね。
「……」
ああ、瞼が重い。
限界を超えている事くらい解っている。努力や根性なんてものがこの体には通用しないことも解っている。それでも、もう少し。考えなければいけないことが残っている。まだ早い。思考を止めるには、まだ。
考えることしか、能が無い癖に。
それすら出来ないなら、息をする価値が、どこに。
「……ふふ、」
沈み込むようにしてソファに座りこんだまま、鬼利はどんどん暗くなっていく視界の中で小さく自らを嘲笑った。
そんなもの、
はじめからどこにもないよ。
緩く歪曲した廊下の突き当たり。
そこには近代建築の粋を極めて建てられた本部塔の中で4つしか無い木製の扉の内、唯一両開きの造りをした最高幹部執務室の扉があった。ならず者ばかりの登録者は勿論、それを纏め上げる幹部達でさえ呼吸を整え、背筋を伸ばして立つその扉の前で、廊下の真中を歩いて来た零級賞金首は、立ち止まらなかった。
「…居たらごめんよ、っと」
やる気の無い声と共に床を踏むような気軽さで扉に宛がわれた皮靴の底が、内側に超硬度の合金を仕込まれた分厚く重い扉を、扉に入っているのと同じ合金で作られた閂式の鍵をへし折りながら踏み破る。
「……」
機械制御された油圧式の蝶番の一部が弾け、蹴り破られた力をそのままに、部屋の内壁に叩きつけられた扉が生んだ風圧で乱れた髪の合間から覗く藍色が、応接ソファの奥にある重厚な執務卓を映して細まる。
壱級指定の賞金首さえ怯える化け物に唯一、平気な顔をしてナイフを向け鉛玉をブチ込んだ脆弱で狡猾な人間が居る筈のそこに、人影は無かった。
「ったく…」
軽く舌を打ちながら乱れた髪を邪魔そうにかき上げ、傑はいつものように執務室の中を真っ直ぐに進み、いつもなら縁に腰掛ける執務卓を踏み越え、きっちりと机の内側に入れられていた椅子を後ろの簡易クローゼットまで蹴り飛ばし、一緒に傍らの小さなゴミ箱がひっくり返って中身をぶち撒けるのを横目に、すとんと足音も無く床に降りる。
普段は回り込む事の無い鬼利の居場所で、傑はクローゼットに支えられて辛うじて倒れて居なかった椅子を引き寄せると、片足を座面に上げた、恐らくこの椅子が造られて以来、最も行儀の悪い姿勢でそれに座った。体重を預けられた背もたれがギシリと、抗議するように鳴る。
「…硬ぇ椅子」
彼には少し低い背もたれの上部に後頭部を預け、傑は天井を見つめたまま呟いた。持ち主が座っている時はまるで玉座のように立派に見えていたのだが、実際はこの程度か。脂肪は勿論、筋肉だって普通程度にしかついていないクセに、こんな硬い椅子に何時間も飽きもせず、よくもまぁ座って居られるものだ。
「……」
片足を座面に上げ、片足を投げ出した姿勢のまま、少しの間傑は気だるげな表情で天井を見上げ―――やがて変わり映えのしないその風景に飽きたように溜息を1つ吐くと、座面に上げていた足をゴミの散らばった床の上に下ろした。
紙屑の一つを踏みつぶした皮靴が、足元を見もせずにその下にあったゴミを横転したままのゴミ箱の中に蹴り込む。
「……」
蹴り足をそのまま持ち上げ、すらりと長い足を整頓された執務卓の上に投げ出しながら、傑はぎしりと背もたれを軋ませつつ藍色の瞳を伏せた。
「…まぁ、そーだろうと思ってたけどよ」
主の居ない執務室で一人呟いた傑の唇は、変わらず気だるげなその声に反して薄い笑みを浮かべていた。
ここに居ない者に届かない言葉を紡ぐ“純血種”の傍ら。ゴミを蹴り込まれ、くるくると床の上を回転しながら滑っていたゴミ箱が壁に当たって止まり、円筒状のその中に唯一入っていたものが押し出されるように床に転がる。
からり、と軽い音を立てて転がったその「ゴミ」には錠剤が8つ、1つも欠ける事無く等間隔で並び、それがかつて極度の不眠症患者に処方される、精神安定剤の効果も含んだ強い睡眠薬であったことを示す印字がされていた。
>>
Next.