04.



 そこは異様な部屋だった。

「……っ」

 小さな鍵で開いた扉の先。窓の無い室内の、扉一枚隔てたリビングとは別次元にあるような異質さに、鬼利の後について扉を潜った幽利は小さく息を飲む。
 壁際に置かれた、扉のついた黒い棚。コンクリートが剥き出しになった壁には枷のついた鎖がぶら下がり、簡素なデザインの椅子が隅に置かれている。

 そして、ほぼ正方形に近い部屋の中心に据えられた、大きな鉄の檻。


「物置き…じゃァ、なかったンですねェ」

 動揺を殺し、へらりと笑みを浮かべて緊張感の無い声を出すが、後ろ手に扉を閉めた鬼利は何も答えてくれなかった。人が入れそうな程に大きな檻の手前で立ち止まった幽利を置いてそれを横切り、太いボルトで壁に固定された鎖の前で振り返る。


「おいで」


 異論も反論も許さない声が、混乱する頭の中に直接響く。
 その声に従えば何か“よくないこと”が起こるのは明らかなのに、逆らうという選択肢など端から存在していないように、幽利の足は自然とその声に従って鬼利の傍らに体を運んだ。

「膝を着いて」
「…え?」

 声は聞こえていたが、直ぐにはその言葉が示す意味が解らずに聞き返した幽利に、鬼利は硬質な橙色の瞳を軽く細めて幽利の肩に手を置く。

 ガクン。

「あッ…!?」
「……」

 膝裏を押すように蹴って、強制的に硬い床に膝を着かせた幽利の脹脛を軽く踏んだまま、鬼利は思わずその顔を振り仰いだ幽利を表情一つ変えずに見下ろしていた。まるで、こうすることが当然であるように。

「き、鬼利さ…?」
「大丈夫だよ。ちゃんと教えてあげるから」

 賢い彼には幽利の内心など手に取るように解っているだろうに、鬼利はにこりともせずにそう言うと、牢獄のような部屋が作りだす異様な雰囲気に呑まれて動けずに居る幽利の手を取った。
 淑女をエスコートするように柔らかく繋がれて鬼利の胸元まで持ち上げられた手首に、ガチリと金属音を立てて鉄の輪が絡む。咄嗟に引こうとした手は枷に繋がった鎖に阻まれ、冷たい手枷が肌に食い込んだ。


「な、に……っあ、!」
「無理に動くと腕の方が壊れるよ」

 戸惑い震える幽利の声に対して、思わず伸ばしたもう片方の手首にもガチリと枷を噛ませ、幽利を二本の鎖に繋いだ鬼利の声は怖ろしい程に淡々としている。その声音を聞いていると混乱している自分の方がおかしいような錯覚に陥るが、こんなのは普通じゃない。怒るか強請るか哀願か、どれをしたものか決められないまま、それでも外してくれと請おうと鬼利を見上げた幽利は、揺らぐ橙色の瞳を大きく見開いた。

「…っ…」

 混乱してまともに動けないのをいいことに、物でも扱うように淡々と鎖に繋いだのは間違いなく鬼利で、幽利自身は欠片だってこんなことは願っていないのに。なのに。


 …なのにどうして、アンタがそんな目をしている。


「…お前の言う通り、僕は嘘を吐いた」

 壁に向いて片膝を着き、両手を壁から伸びる短い鎖に繋がれた幽利から離れながら、鬼利が言った。
 “幽利”では無く、初めて“お前”と呼んで。

「お前の寝室はあの部屋じゃなく、ここだよ」
「…ここ?」
「そう。より正確に言うなら、」

 そこで一度言葉を区切り、鬼利は幽利に背を向けたまま、部屋の中央にある檻の傍らで足を止めた。
 “人が入れそうな程”、大きな檻の分厚い天板を、白い手がこつりと叩く。

「この檻がね」
「え……」

 あの寝室が自分の物だというのが嘘だと言うのは予想がついていたが、本当は檻が、あの硬質な金属製の檻が。
 膝を抱えなければ座れもしない、あの鉄に区切られた空間が、寝室?


「これが1つめの答え」

 枷に繋がれた体を捻り、背後にある檻を凝視する幽利を横目に、鬼利は変わらず冷静な声音で言いながら、壁際に置かれた黒い棚の扉を開く。
 鬼利の言葉は完全に“今の”幽利の常識を超えていた。言葉の意味は理解できても信じることが出来ず、半ば呆然としていた幽利の意識を、金属が擦れる甲高い音が現実に引き戻した。

 音のした方を見ると、着ているシャツの袖が大きな裁ち鋏の刃で袖口から切り裂かれている。シャキン、シャキン、と音を立てながら袖をただの布に変えていく鋏を、持っているのは。


「な…に、してンですか…?」

 震える声で問う幽利を、硬質な橙色の瞳が一瞥する。

「…見ての通りだよ」

 呆れたような声音だった。確かにその通りだ。でも違う、聞いているのはそういうことでは無くて。聞きたいのは。


「新しい傷もある、と言っていたね。でも、それは違う」

 シャキン、シャキン、

「見て解る傷は全部、僕が2週間の内につけた新しい傷だよ」

 シャキン。

 迷いの無い動きでシャツを切り裂いていた鋏が止まり、袖から襟元までを切り裂かれ、2枚の布になったシャツを取り払いながら、鬼利はその顔を見上げた幽利を見下ろして軽く目を細めた。

 視界の外で鋏が鳴り、床に落とされたシャツの残骸の上に、用済みになった鋏がごとりと重たい音を立てて落ちる。


「あ…あの、鬼利さ…」
「あぁ、構わないよ」

 淡々とした声音で幽利の言葉を遮り、鬼利は手にしていたシャツの切れ端をくるりと丸めると、ポケットから白い布を、食事の時に使っていた真っ白なナプキンを引き出した。

「…口で言っても理解出来ないのは解ってるから」

 今度は何をするのかと、戸惑いながらも開きかけた幽利の唇を、丸められた布が塞ぐ。

「ッんぐ!?」

 咄嗟に首を振って逃れようとするが、鬼利は慣れた手つきでシャツの切れ端を幽利の口内に押し込むと、幽利がそれを舌で押し出そうともがく前に、ナプキンを猿ぐつわにしてあっさりと幽利の口塞いでしまった。後頭部でキツく結ばれたナプキンは首を振った程度で解ける筈も無く、唾液を吸った繊維が重く舌に纏わりついて言葉を奪う。


「……ッ!!」

 口が自由であってもまともに抗議すら出来なかったが、話せなかったのと、話せなくなるのとでは意味合いが全く違う。理解を越えた状況に鈍っていた頭がようやくまともに働きだし、重く自由を奪う鉄の枷と、言葉を奪う薄い布にぞっと幽利の背筋を冷たいものが走った。

「ん、…んんっ…!」
「…大人しくしてるんだよ」


 囁くように言って幽利の背後に回り込んだ鬼利の手が、檻の上に置かれていた黒く長い物を手に取る。

 淡い照明を妖しく照り返す、黒革の鞭を。


「…ん、…ッ」
「……」

 息を飲んでその端正な顔を振り返った幽利に、鬼利は何も言わずに静かに微笑んだ。

 …あぁ、そうか。


「ッんぐ!」

 鋭く空気を切り裂いた鞭が傷の残った背中で弾け、皮膚を裂き肉を打たれる痛みに、幽利は不自由な体を仰け反らせた。
 殴られるのとも、切られるのとも違う鞭での痛みはその簡素なフォルムから想像出来る範囲を有に超えていて、じわりと滲んだ涙に視界が曇る。

「んンッ!ん、…んむっ、んんンっ!」

 痛い。痛い痛い痛い。

 自由を奪われて理由も無く鞭打たれる、という状況を理解する暇も無く鞭は立て続けに振られ、その度に無抵抗な幽利の背中を容易く切り裂いていった。経験した事の無い痛みに悲鳴を上げるが、布に遮られたそれは容易く鞭が立てる残酷な音にかき消されて、すぐ後ろで鞭を振るう鬼利にさえ届かない。

 なんで。どうしてこんな。


「んッ!ふ…ぅぐっ!ぐぅうッ…!」

 痛みに身を捩れば更に強く打たれる。大人しくしていろ、という言葉を思い出し激痛を堪えてじっとしていても打たれる。悲鳴を押し殺そうとしたが、それは無理だった。

 鬼利は自分のことが嫌いなのだろうか。あんなに優しくしてくれたのに。…本当は、こんなことをされるほど嫌われていたのか。


「ッう、ぅ…!んぅう゛うッ!」

 傷口を広げるように鞭が叩きつけられ、激痛に目の前が赤く染まる。血に濡れた背中を微かに震わせながら、幽利は自由を奪う手枷の鎖を縋るように握り締めた。

 もうどこを打たれているのか解らない程、背中全体が熱くて痛い。そしてそれ以上に、自分の悲鳴を風の音のように聞き流しながら淡々と鞭を振るう鬼利が怖かった。


 痛みに身を捩りくぐもった悲鳴をいくら上げても、鞭を振るう鬼利の表情は変わらない。少しでも愉しそうに、或いは罵倒の一つでも上げながらであれば、この理不尽な痛みが鬼利の傍に置いて貰える代償だと自分を納得させることも出来たのに、鬼利はこうすることが義務であるかのように淡々と鞭を振るう。

 悪いことなんて何もしてないのに。優しくしてくれたのに。
 やっぱり鬼利も、痛いことをするんだ。

 …鬼利、も?


「んんっ…ふっ…ふ、ぅんンッ!」

 痛みにちかちかと明滅する視界の奥で、朦朧としてきた意識の端で、あの夢の中の風景が見えた気がした。

 夢の中で唯一、自分に手を差し伸べて、優しくしてくれた、顔の解らない、きれいなこども。

 ああ、でもあれは夢の中の話で。現実は。現実では、自分は。


「ふ…っふ…ぅ、…ッ」

 気付けば鞭の雨は止んでいた。
 背中に新しく刻まれた、無数の傷痕がずきずきと鈍く鋭く痛む。濡れた音にそろりと背後を振り返ると、幽利の血を吸って赤く染まった鞭が床に落ちていた。

「…幽利」
「ッ…!」

 そっと、驚く程近くで囁かれた声に痛みに強張った体が跳ね上がる。
 咄嗟に逃げようと身じろぐが、背中の傷の全てが一斉に激しく痛んだ所為で動くことは出来なかった。縋りついていた手枷の鎖が耳ざわりな音を立て、その音にか、それとも怯えきった幽利の表情にかは解らないが、鬼利が橙色の瞳を僅かに細める。


「これが2つめだよ」


 つい先程まで鞭で散々に自分を苛んだ張本人とは思えない程、幽利の耳元でそう囁いた鬼利の声音は穏やかだった。
 後頭部に伸ばされた、鞭を握っていたのと同じ手が口枷になっていたナプキンの結び目を解き、唾液でぐっしょりと濡れたシャツの切れ端ごとそれを取り払う。

「幽利」
「っひ…!」

 伸ばされた手に小さく悲鳴を上げて身を竦ませた幽利の髪を、鬼利の手がそっと梳いていく。

「幽利…」


 何度も、何度も。
 まるで縋るように、名前を呼んで。


「…愛してる」


 聞き違いようのない至近距離で囁かれたその睦言が、幽利の思考を真っ白に染めた。

 …愛してる?
 それならどうしてこんなことを。こんな酷いことを。
 嗜虐趣味だというのならこの行為の意味も解る。歪んだ愛情表現の形だと言うのなら納得も出来る。だけど、アンタは少しも愉しそうじゃなかったじゃないか。

 痛い思いをしたのはこっちなのに、まるで自分が酷く苛まれたような瞳をして。


「…こ、んなの…っ」
「おかしいと思う?」

 微笑んで軽く首を傾げてみせる鬼利の瞳は相変わらず硬質で、その表情は完璧な微笑のまま揺るぎもしなかった。
 それでも何か。
 その表情は何かが違う気がして、何か言わなければいけない気がして。


「っ…ん…!?」
「……」

 何かを言おうとした幽利の声は、鬼利のキスに塞がれた。

 舌先を絡めることも無ければ、互いの呼吸を奪うことも無い。
 それは唇を柔らかく合わせただけの、子供のように無垢で不器用なキスだった。


「…そうだね」
「…っ…」

 触れた時と同じくそっと離れた鬼利が、独り言のような声音で呟いた。
 あの、綺麗な微笑みのままで。


「……僕も、そう思うよ」



 >>Next.




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