03.



 重厚な両開きの扉が音を立てずに内側から開かれ、その間から今礼をしたばかりといった姿勢のキュールが顔を出す。
 頬から目元にかけて大きな刀傷が残るその顔が、自分を見て驚きと少しの恐怖に強張るのを横目にしながら、傑はその手から扉の主導権をあっさりと奪い取って開きかけていた扉を大きく開いた。

「ちょっ…世環、何を」
「よォ、キュール」

 持ったままのドアノブに引き摺られるようにして廊下に出たキュールの傍らをすり抜け、傑はトンと軽くその背中を押して扉の開閉範囲から出してやりながら、きしりとも音を立てない分厚い木の扉を後ろ手に閉めた。
 バタン、と扉が閉まる音に、部屋の主が扉と同じく木造りの立派な執務卓の向こうで顔を上げる。


「……」
「……」

 その無表情な橙色の瞳を見据えたまま、傑はすたすたと華美では無いが高級な調度が揃えられた最高幹部の執務室を真っ直ぐに進み、顔の角度は変えないまま、僅かに上目遣いに自分を見上げる鬼利の黒いネクタイを掴んだ。

「…何か?」
「……」

 きっちりと結び目を造ったネクタイを上に引かれ、それに逆らわずに軽く顎を上げながら、鬼利は軽く目を細めて傑に問う。
 深い藍色の瞳を持つ人の形をした化け物は、息が詰まらない程度にネクタイを引いたまま、少しの間無言で鬼利の橙色の瞳を見つめていたが、やがて気が済んだのかいつもの軽薄な笑みを浮かべてぱっと手を離した。

「今日で4日目だろ?どの程度か見てやろうと思って」
「……」
「まだ持ちそうだな」

 表情を覗うように軽く首を傾げながら執務卓に腰掛ける傑を、薄いフレームの眼鏡越しに怜悧な橙色が一瞥する。射抜くように鋭いその瞳から一瞬焦点がぼやけ、天地が反転するような眩暈と共に暗転した視界に、血色の悪い唇がゆるりと弧を描いた。


「…いいよ」
「なにが」
「朝から眩暈が酷くてね。まともに見えて無い」
「……」

 いつも通りの声音で言いながら、鬼利は書類に必要事項を書きこんでいた万年筆をからりと転がすと、普段はほとんど使う事の無い椅子の背もたれに体を預ける。ゆっくりと焦点の戻った視界の中で傑が振り返るのが解ったが、藍色の瞳と目が合う前に、瞼を伏せてその視線を遮断した。


「…別人だな」
「だろうね。アレを“幽利”にしたのは僕だから」
「どこまで話した?」
「核心は何も」
「なんで言わねぇんだよ。お前が揺さぶりかければ―――」
「…思い出すかもしれない?」


 訝しげな傑の言葉を遮り、鬼利は目を伏せたまま小さく笑う。

 幽利が忘れてしまったここに来るより前のことを、1日のほとんどの時間を2人きりで過ごした数年を、或いはあの屋根裏での数年を話せば、それが記憶を呼び覚ます切っ掛けになるのかもしれない。
 道連れに汚してしまったあの愛しい片割れを、もう1度歪めれば。


「……いいのか?」
「あんな記憶、失ったところで何の問題も無いよ。寧ろ忘れた方がいいくらいだ」
「俺はお前のコトを言ってンだよ」

 きしり、と1人きりの暗闇の中で小さく木造りの執務卓が鳴る。傑が身を乗り出したのだろう。

「アイツは色々“視え”過ぎて、お前は頭が回り過ぎる。2人してまともじゃいられねぇから互いだけ見て来たんだろーが」
「違うよ」

 あっさりと傑の言葉を否定しながら、鬼利は伏せていた瞳を開いた。脳裏に描いていた通り、書類の上に片手を突いて軽く身を乗り出した傑を真っ直ぐに見上げ、退屈そうに軽く目を細める。

 今では想像も出来ない程に進んだあらゆる技術の粋を集め、今では狂人と隔離される程に明晰な頭脳を持った人間達に造られた、最高にして最悪の兵器。
 200年という経験を記憶しているこの化け物なら或いは、と考えたのだが……この程度か。


「…2人じゃないと居られなかったのは“僕等”じゃない」


 …そう、2人じゃない。


「幽利に名前をつけたのは僕なんだ。それまで、アレは簡単な言葉すら知らなかった」
「5歳だろ?」
「そうだよ。立つことも、歩く事も出来るのに、脳の成長は完全に停滞していた。上手くやったものだと感心するよ」

 親も親族も使用人も例外無く、当時自分と幽利に関わっていた者は1人残らず殺してしまった今では詳細を知る術も無いが、屋根裏に幽閉されていた頃は勿論、乳母に育てられていた3歳までの幽利の生活は、幼児童保護局に知られれば半世紀は投獄されるようなものであったのは間違いない。

 あの連中は本当に、幽利を鬼利の体の交換パーツとしか考えていなかったのだ。言葉も覚えられない程に接触は最小限、情緒も乳幼児のように大雑把のまま、いつか必要になるかもしれない体の部品だけは全て完璧になるように“管理”していたのだろう。


「『怖くて痛い』と、『痛くない』しか無かったあの“人形”を、僕無しじゃ居られない“人間”にしたのは僕だ。自分のエゴの為だけに、色んなことを教え込んだ」
「エゴ、ねぇ…」

 すい、と鬼利から視線を反らして虚空を見やった傑の瞳が、独白のような言葉と共にぐっと深さを増す。
 それはかつての幽利の、脳内で電気信号化された記憶まで読み取ろうとする時の瞳の色ととても良く似ていた。


「実際、今まではそれで上手くいってたんだろ」
「当然だよ、そういう風にしたんだから。…でも今は違う」
「今の幽利にお前は要らない、ってか?」
「現に、僕を忘れても幽利はちゃんと生活しているしね」


 自分のことを忘れてしまっても、幽利にはもう生きていけるだけの知識はついている。鳥の声も他人の体温も知っている今の幽利に、自分は必要無い。
 今では、必要なのは自分だけだ。

 2人きりで先の見えない狭い狭い箱庭でしか生きられないのは、何もかもが思惑通りに進む発狂しそうに退屈な外側の世界に居られないのは、自分1人だけだ。


「…まぁ、お前がそれでいいって言うならいーけどよ」

 興味が失せたようにくしゃりと髪を掻き、傑はいつも通りの表情で鬼利を横目にしたまま、ポケットから取り出した銀色のプレートを差し出した。

「……」
「なぁ、鬼利」

 錠剤が等間隔で並んだプレートの印字には見覚えがあった。極度の不眠症患者に処方される、精神安定剤の効果も含んだ強い睡眠薬だ。

「最初はそうだったかもしんねーけどさ、」

 パチリ、と音を立ててプレートを執務卓の上に置いた傑が、鬼利に背を向けながら唇を開く。
 声音も調子もいつもと変わらない、下らない暇つぶしの軽口を叩き合う時と同じ、普段通りのものだった。


「いつからかは知らねぇけど、アイツはずっとお前の頭ン中“視て”たんだよな」
「……」
「実験体の発狂率があと6%低かったら俺もあの“目”だった。お前の想像より、ずっと綺麗に深いトコまで“視え”てるぜ」
「…傑」
「しかもアレはお前の弟だろ?何でも出来る頭を幽利の為だけに使って、自分だけが泥被るようなやり方で邪魔なモン全部壊して来た、お前の」
「傑、」


 カチ、

 波の無い水面のような声と共に響いた小さな金属音に、鬼利の方を見ずに両開きの重厚な扉を見据えていた傑は、深い藍色の瞳を軽く細めた。


「…もういいよ」


 黒いシャツに覆われた傑の背中にこつ、と撃鉄を上げた銃の先を押し当てながら、鬼利がぽつりと呟くような声音で言う。
 まるで透かし見たように正確に、肋骨と背骨の合間を縫って心臓の中心に押し当てられた硬く冷たい銃口の感触に、傑は“純血種”としての本能で鬼利の手首を掴み、骨を砕いて銃を奪おうと執務卓の縁から浮かせた右手を、小さな溜息と共に自らの額に宛がった。


「…似合わねぇ面してんじゃねーよ、バァカ」










 柔らかくて暖かい声。
 白い腕。橙色の瞳と、赤い唇。

 顔の解らない、綺麗な子供。


「…どうかした?」
「ッ…あァ、いや…」

 軽く首を傾げつつ掛けられた声に、幽利は白い皿の縁をじっと見つめていた視線を上げて首を横に振った。

「あンまり美味しいんで驚いちまッて。これ…全部、鬼利サンが?」

 脳裏にチラつく昨夜の夢の残滓を払いつつ、テーブルの上に並んだ料理をぐるりと見渡して尋ねる幽利に、鬼利は鮮やかな薄黄色のスープを掬いながら柔らかく微笑む。

「そうだよ。気にいって貰えて良かった」
「すげェや…本当に何でも出来ちまうンですねェ」
「レシピが優秀だからね」
「それだけじゃァねェでしょう」

 謙遜している風でも無く当然のように答える鬼利に、幽利はサーモンのマリネにフォークを刺しながら苦笑した。
 深みのあるトマトソースで煮込まれた牛肉をメインに、滑らかなコーンスープ、絶妙な酸味のマリネ、一口大にカットされたフランスパン。どれもこれもどこかのレストランから持ち帰ったような見栄えと味で、鬼利がキッチンに立っている姿を見て居なければ、1時間足らずで用意されたものとはとても信じられなかっただろう。

 9時間の激務を終えて直ぐ、休みもせずにこれだけの料理を作り、その上テーブルマナーも完璧で、鬼利が手にした食器は幽利のそれとは別物であるかのようにカタリとも音を立てない。鬼利と向かい合って食事をするのは記憶がある限りでは初めてだが、双子の兄は知れば知る程に荒探しのしようも無く完璧だった。


「…あの、鬼利サン」

 綺麗に空になった皿を前に軽く姿勢を正しながら、幽利は膝の上のナプキンを畳んでいる鬼利を上目遣いに覗う。

「なに?」
「俺達…ここで、その…一緒に、住んでたンですよね?ご飯は、いッつも鬼利サンが作ってくれてたンですか?」
「朝と夜はね」
「俺は、なンかお手伝い…とか」
「料理に関しては、今日みたいに僕が1人で作ってたよ。その後の片付けや、他の家事については幽利に任せっきりだったからね」
「そォですか…」


 小さく頷きながら、幽利は自分ととても良く似た鬼利の顔から目を反らして俯いた。
 自分の身分が居候であったのはほぼ間違いが無いから、料理以外の家事の一切を任されていたというのには納得が行く。寧ろ、肉体労働が多いとはいえ鬼利に比べれば自分の方が拘束時間は短いのだから、料理を鬼利に任せていたことすら図々しく思える。

 …あぁ、やっぱり駄目だ。

 知れば知るほどに荒探しのしようが無く完璧なこの人と、欠点の方が多い自分が双子で、その上同じ部屋で生活していたという事実が、鬼利からその詳細を聞くほど幽利には信じがたい。もしや自分は、鬼利の前では図々しくその優しさに甘え、主寝室を奪うような、そんな人間だったのだろうか。


「…何か聞きたいことでも?」

 自分の思考に思わず眉を顰めた幽利に、鬼利が変わらず柔らかい声と表情で尋ねる。

「色々、あるンですけど…」


 此方に一切負担を与えないその態度からは相変わらず鬼利の真意は解らないが、それでも幽利には確信があった。

 鬼利は嘘を吐いている。
 自分の為だけの、嘘を。


「…鬼利サンは、自分の部屋が別にあるって言ってましたけど、いくら“視て”も俺がつかったあのベッド以外、この家に人が寝れるよォなモンは見当たらなくて」
「……」
「あと…これは、ご存知か解らねェんですが…」

 鮮やかな鬼利の橙色の瞳を見据えたまま、幽利は着ていたシャツの裾を胸元近くまでたくし上げた。

 武器庫での仕事はほとんどが肉体労働で、役割と性格の所為か登録者に暴力を振るわれることも偶にあったのは覚えている。左の胸にだけ通ったピアスについても、今の自分には考えられないがそれほど奇妙な物でもない。
 …というより、胸板から腹にかけて、そして背中にもあった無数の傷痕に比べれば、そんなものは無いのと一緒だった。


「俺の覚えてる限りじゃァ、こんな怪我するよォなコトはまず無いンですけど…結構、新しいモンもあるみてェで」
「……」
「鬼利サンのコト以外で、他にも…何か、忘れちまッてることがあるんじゃねェかなって、思ってるンですが…」

 幽利が確認した限り、肌に残る新しい傷痕はどれも殴る蹴るでつくようなものでは無く、そして刃物でつけられた傷でも無い。悪質な登録者に目をつけられていたのかとも考えたが、鬼利がそれを見逃すとは考え難いから、きっとこれはこの部屋でも仕事場でも無く、別の場所…今は思い出せない場所と条件で負った傷なのだろう。


「…その傷の中で、まだ痛むものは?」

 畳んだナプキンをテーブルの上に置きながらそう言った鬼利の声は、欠片も揺るがずいつもの通りに静かだった。

「や…今は、特に…」
「そう。…幽利」
「は、はィな」

 見た事の無いその表情に小さく肩を跳ねさせた幽利を、胸の内まで見透かすような瞳が真っ直ぐに見据える。


「僕はその問いのどちらにも答えることが出来るけど、きっとそのどちらの答えを聞いても、幽利の為にはならないよ」
「…っ…」

 静かな声音で告げられた言葉に、幽利は小さく息を飲んだ。
 怒鳴られたわけではなく、さほど厳しい言い方でも無いのに、鬼利の声には息を飲むような力があった。ただ柔らかく通り過ぎていった今までのそれとは違い、深く体の中に突き刺さって背筋をぞくりと震わせる、そんな力が。


「…それでも、知りたい?」


 威圧感に二の句が継げずにいる幽利に、鬼利は促す様に尋ねる。

 根拠は無いが、鬼利が吐いた全ての嘘は自分の為のものだということを、そして今の言葉に嘘は無いことを幽利は理解していた。
 この聡明で優しい人がそう言うのなら、きっと知らない方がいいのだ。知った所で失った記憶を取り戻せるわけでは無いし、良すぎる記憶力の所為でどんなことでも忘れることの出来ない自分の脳が、過去にあっただろう嫌な出来事をやっと忘れることが出来たのだから、寧ろこのままの方が自分は幸せなのかもしれない。


 …でも、もしこれが、切っ掛けの1つにでもなるのなら。


 例えその方が幸せであったとしても、このまま自分と似ていて正反対の、賢く優しい双子の兄のことを思い出せないままでいるのは、嫌だ。


「…知りたい、です」
「……」
「知らねェ方がイイ事もあるッてのは解ってます。でも、…これで何か、思い出せるかもしれねェから」
「…解った」

 呟くように言って、鬼利はゆっくりと目を伏せた。畳んだナプキンの上に置かれていた細い指を持つ手が、役目を終えた筈のそれを掴む。


「…教えてあげるよ」


 再び開かれた瞳は幽利を見ることは無く、手の中で歪んだ真っ白なナプキンを見つめていた。



 >>Next.




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