02.



「すンません、ちょッとボーっとしちまって…何でもないです」
「そう」

 へらりと笑ってそう言った幽利に、鬼利はそれ以上何も聞かず、また必要以上に心配する素振りも無く微笑む。

 己のことだけを忘れてしまった幽利に対して、話したいことも問い詰めたいことも山のようにあるだろうに、鬼利の言動は少しも幽利に負担を掛ける事が無かった。聞かれたく無いと思ったことは決して聞かず、知りたいことは解り易く教えてくれる。
 怖ろしくきめ細やかに気を遣われている筈なのに、鬼利はその気遣いの気配を滲ませることも無い。その証拠に、幽利は意識を取り戻してから1日半、鬼利と居る時に一切不自由を感じたことが無い。

 鬼利の、幽利の扱いは完璧だった。まるで心が見えているかのように。


「そういう傷には栄養と休息が一番薬になる。今日はもう休むといいよ。寝室は見た?」
「はィな、一応…」

 こくりと頷きながら、幽利はちらとリビングの奥から通じる扉の一つを見る。鬼利が戻る前に主要な部屋は一通り回ってみたが、この家にベッドがある部屋はあそこだけだった。
 大人が3人は優に寝られるほどの、大きく立派なベッド。鬼利の物であるとは思うが、それ以外にベッドが見当たらないのが少し気に掛っていたのだ。まさか一緒に寝ていた、なんてことは無いだろうから、見落としてしまっただけだとは思うが。


「あの部屋が幽利の寝室だよ。僕は別に部屋があるから、あそこは自由に使うといい」
「…そォ、なんですか」
「クローゼットだけは兼用だから、朝はお邪魔するけどね。落ちつかなければ別に部屋を用意するから、今夜はあのベッドを使ってくれる?」
「は、はィな…」

 あんな上等のベッドを使うのかと思うと気が引けたが、自分のものだからと言われてしまえば頷くしか無い。

「…あの、」
「なに?」
「その…鬼利サンは…?」

 明らかにこの部屋は最高幹部である鬼利の為に用意された部屋で、それなら幽利は弟であるという理由で居候をしていることになる。その居候にどうみても主寝室の部屋が与えられているのなら、家主である鬼利の部屋は一体どこにあるのだろう。
 一つだけ鍵のかかった物置きらしい部屋を除いて、この広い家の中は全て見て回ったつもりなのだが、輪郭だけとはいえ壁の向こうまで“視る”ことが出来るこの目で、見落とした部屋があるのだろうか。


 訝しげにその表情を覗う幽利に、だが鬼利は何時ものように柔らかく微笑む。

「僕はもう暫く起きているつもりだから、先にどうぞ」
「あ…そォ、ですか…」

 聞きたかった事とは別の意味で解釈されたようだが、その綺麗な微笑にそうじゃない、と言い募ることが憚られて、幽利は素直に頷くとソファから立ち上がった。


「それじゃァ…お休みなさい」
「お休み」

 “視る”ことが出来る物や範囲は今朝から変わって居なかったが、強く頭を打ったのだ。もしかしたら一時的に千里眼にも不調が出て、壁の奥を透かし視ることが出来ずに見逃した部屋があったのかもしれない。
 まるで自分に言い聞かせるようにそう思いながら、幽利は全く見慣れず、また自分の身の丈にはとても合わない寝室の扉を開けた。









 気が付くと、窓の外を見ていた。

 冷たい硝子と硬い格子の向こうには広い広い庭があり、その向こうの地面は緑色で、更に奥に小さく家の屋根がたくさん見えた。庭に大きな木があって、その木の枝の数は67本。葉の数は592枚。

 もうずっとこの景色を見ている気がしたが、何時から見ているのかは解らなかった。今いる場所は狭くて、隅に布を掛けられた箱がたくさん積んであった。
 中身は何だろう。いくら目を凝らしても、集中しても、箱の内側は見え無かった。その上に掛っている日焼けした布に手を伸ばそうとして、これに触ってはいけないと思った。

 どうして触ってはいけないんだろう。
 だって勝手に触ると痛い事をされるから。


 振り返ると扉があった。硬くて大きな、鉄の扉。下の方に小さな窓があって、そこに皿とコップが乗ったトレイがあった。コップは水が入っていて、皿には色んな食べ物がごちゃ混ぜになって乗っていた。

 でも今はもう無い。食べてしまったからだ。

 窓の外はいつの間にか暗くなっていて、たくさんの星と月が見えていた。喉が渇いて、お腹が空いていた。
 今度は扉の方を見て座った。

 天井が三角になったそこは寒かった。骨ばった両足を抱きかかえて、体を丸めるようにしてじっと扉を見ていた。誰かがそこを開けてくれるのを、誰かがその皿に何かを乗せて、コップに水を注いでくれるのを待っていた。


 いつの間にか寝ていた。

 窓の外は明るかった。扉の前の皿には、スープと、パンの欠片と、少しのサラダと、黒く焦げついた肉がぐちゃぐちゃになって乗っていた。
 お腹が空いていたのでそれを食べて、コップに入った水を飲んだ。

 窓の外には鳥が飛んでいて、嘴を動かしていた。鳴いているのだろうか。
 音を聞きたくて、格子に頬を押し当てて硝子に耳を近づけてみた。何も音は聞こえない。

 あの緑色の丘の向こうはどうなっているんだろう。あの青い屋根の家に、窓はいくつあるんだろう。そこの窓にも、ここと同じように硬い格子が嵌まっているんだろうか。
 知りたくて、見たくて、じっと窓の外を見ていた。
 不意に、窓の外の景色が変わった。


 違う。景色が変わったんじゃない。
 見える範囲が変わったんだ。


 さっきまで遠くて霞んでいた家の屋根が、木と緩く盛り上がった丘が邪魔で見えなかった家の塀が、まるですぐ近くにあるようにはっきりと見えた。家の中が見たいと思うと、家の中が見えた。自分と同じくらいの背丈の子供が、手の中に隠した物が見たいと思うと、その中にそっと閉じ込められた白い蝶が見えた。

 そこにある93の家の中を全て見終わってしまうと、今度はそこにいる人達を一人ずつ見た。違う顔と背と格好の人が、そこには428人居た。一度太陽が沈むと、もう居なくなっている人も居た。

 髪の長い大人が、白い服を着た子供の背中に手を回して、腕の中に閉じ込めていた。
 何をしているんだろう。子供は笑っている。あれをすると嬉しいんだろうか。
 見よう見真似で、自分の腕を自分の体に回して見た。硬いものが腹に食いこんで痛かった。
 子供を見ると、大人を見上げてしきりに口を動かしている。何を言っているのかは聞こえない。大人が何か言う。子供が笑う。何を言っているのかは、聞こえない。


 ここには誰も居ない。誰の声もしない。


 こんなにはっきりと見えているのに、誰の声も聞こえない。誰も自分には気が付かない。
 声が聞きたかった。誰かの声が。誰も居ないので自分で声を出した。


「あ…あー…ああぁああああ…」

 少しの間続けていると、扉が開いて大人が一人、入って来た。

「あ…あ…」

 嬉しくて、さっき見ていた子供がしていたように手を伸ばした。さっき見た子供は、こうすると大人の腕に閉じ込められて、そしてとても嬉しそうにしていたから。

「――――」

 何かを言いながら大人が近づいて来る。とても大きな声だった。
 言葉の意味は解らなかったが、声が聞けたことが嬉しくて、その言葉を真似ながら手を伸ばす。

「だ、ま…レ…?」
「――――!」

 がつん、と大きな音がして、体の右半分が床に打ちつけられた。
 頬が熱い。痛い。どうして、だってあの子供は、こうしたら。

「あ、あぁあ…ッぅぐう!」
「――、―――ッ」

 解らなくて、怖くて、それでも伸ばそうとした腕を蹴り飛ばされ、床に這い蹲った背中を踏まれた。大人がとても大きな声で何かを言っている。痛くて声を出すと、もっと強く踏まれた。ひっくり返されて腹を蹴られた。腹を蹴られるのは背中より痛くて、必死に声を出すのを我慢した。

「―――!!」
「…ッぅ…う、…」

 最後にがつん、と音がするほど強く頭を踏みつけて、そしてとても大きな声で何かを言って、大人は扉の向こうに帰って行った。硬い扉が勢いよく閉まる。

 体の全部が熱くて痛かった。泣きたかったが、声を出すとまた蹴られるのが怖くて必死に我慢した。あの大人が何を言っているのかは解らなかったが、とても、とても怒っていたことと、自分が声を出すと痛い事をされるのは解った。


 同じ事をしたのに、どうして痛いことをされたんだろう。あの子供をもう一度見た。子供の肌は白くて、ふっくらと丸くて、埃に薄汚れて骨ばった自分の腕とは随分違っていた。

 ああ、そうか。
 自分があの子供とは違うから、だから痛い事をされたんだ。自分はあの子供とは違うから、あの子供と同じ事をしちゃいけないんだ。

 あそこにいる子供達は、扉から出ても痛いことはされない。
 外を走り回っても、痛いことはされない。
 箱を開けても、痛いことはされない。
 皿の中身を落としてしまっても、痛いことはされない。
 自分が同じことをすると痛いことをされるから、しちゃいけない。

 それからは窓の外を見ていた。窓の外を見ても、痛いことはされないから。この家の別の部屋を見て見たいと思ったけど、あの大人を見てしまうのが怖くて、また痛いことをされるのが怖くて、見ないようにした。


 太陽が昇って、沈む。
 昇って、沈んで、また昇って、また沈んで、昇って、沈む。


 毎日毎日毎日毎日毎日、窓の外を見ていた。それしか出来なかったから。


 カタン。


「……?」

 聞いた事の無い音がした。扉が開くのとも、扉についた小さな窓が開くのとも違う音だった。音のする方を見ると、壁の隅が、そこにある板が小さく揺れていた。

 なんだろう。解らない。またあの大人だろうか。そう思うと少し怖くて、前よりコップ1つ分伸びた自分の骨ばった足を抱えて、お腹を隠した。お腹を蹴られるのが一番痛いから。


 板はしばらく揺れていて、そしてパタンとこちら側に倒れた。板の向こう側には穴が開いていて、そこから少し埃に汚れた黒い頭と白い腕が見えた。
 黒い頭は壁の穴からゆっくりと出て来て、そして立ち上がった。

 とても綺麗な顔をしていた。目が橙色で、唇が赤い。今まで見て来たどの子供より、どの大人より、その子供は綺麗だった。

 顔を上げた子供の、橙色の目が少し大きくなる。その綺麗な色の中に、ぼろぼろの服を着た子供がいた。今まで見て来たどの子供よりも痩せていて、寒そうだった。剥き出しの細い腕が所どころ青い。あの子供も自分のように、何もしていないのに時々痛いことをされているのだろうか。かわいそうに。


「――――」

 子供がこちらを見ながら何かを言う。大きくも、低くも無い、柔らかい声だ。今まで聞いた中で、一番優しくて暖かい音だった。
 夢中でその声を聞いていると、子供がゆっくりと近づいてきた。あんなに優しい声だったのに、この子供もあの大人のように痛いことをするのだろうか。伸ばされた手が怖くてぎゅっと目を瞑ると、頭の上に暖かい物が乗せられた。

「…ぁ……?」
「――――」

 閉じていた目をそっと開いて子供を見る。子供は綺麗に笑っていて、何かを言っていた。頭に乗せられた手が、いつか見た外の子供がされていたように自分の頭を撫でている。
 あぁ、何を言っているんだろう。何かとても大切なことを言われているような気がする。聞きたい。聞かなくちゃ。


「もう大丈夫だよ」

 声が言葉になった。
 そうだ、この声が言葉であることを自分は知っている。この声を知っている。

「今までずっと、一人ぼっちでさみしかったね」

 子供が言う。知っている声で。
 この子供は誰だろう。必死に顔を見ようとしたが、その顔は解らなかった。橙色の瞳がただ綺麗だ。

 今まで見た1869人の人間の内、誰よりも綺麗な姿をしたこの子供を、自分は知っている筈なのに。


「でも、もう大丈夫。これからはずっと、僕が―――」


 優しく笑う子供の橙色の瞳が蕩けてぼやけ、そして何も見えなくなった。










「……」

 自分の指先さえ見えない、暗い部屋の中。コンクリート打ちっぱなしの壁の方向にある暗闇をじっと見据えたまま、鬼利は自分の下にある冷たい鉄にそっと手を這わせた。
 冷たく硬質な感触。鋭利な角。指を伸ばすと、二枚の鉄の板を支えている円柱に触れた。一定間隔で並んでいるその円柱を、大型犬用の大きな鉄檻の柵を、暗闇の中で細い指が辿るように撫でて行く。

 ここはかつての幽利の“寝室”で、そして今鬼利が腰掛けているのは、かつての幽利の“ベッド”であった檻だった。
 この部屋の扉にはトイレと浴室以外で唯一、鍵がある。幽利に請われて後からつけたもので、外側からしか締められず、そして開けられない鍵だ。


「もう少し…」


 そこにあるものの輪郭すら定かではない暗闇を見据えたまま、鬼利は一人きりで小さく呟く。冷たい檻を撫でていた指先がそこから離れ、掌に収まっていた鍵が小さな音を立てて床に落ちた。
 その音を追うようにして俯いた鬼利の瞳が、深い呼吸と共に伏せられる。


「…まだ、」


 己の額に宛がわれた細い指先に、ぎちりと力が込められた。
 前髪が乱れ、髪に隠れた頭皮に強く爪が食い込むが、指先から力が抜かれることは無い。


「…まだ、早い」


 抑揚の無い声を紡ぐ唇は、色を無くして微かに震えていた。



 >>Next.




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