01.



 完璧な作り笑顔で“依頼主”の話に相槌を打ちながら、鬼利は目の前の相手が気付かないようさり気なく時計を確認し、内心で小さく溜息を吐いた。

「しっかし笑えたぜ。あれだけ偉そうにふんぞり返ってた野郎が、脳みそぶちまけてアホみてぇな面してんだぜ。人間ってのは呆気ねぇよなぁ」
「ええ、全く」

 愉快そうな男の言葉に護衛として横に立つ仁王が眉を潜めたが、相槌を打つ鬼利の笑顔は筋一つ揺るがない。この男は自分が一週間後に似たような死に様を晒すことなど想像もしていないのだ。バカな人間の思考は実に気楽で羨ましい。

「アンタに頼んだ時は半信半疑だったが、本当に言った通りにしてくれるとはな。これで俺に楯突くバカが一人減ったってわけだ。感謝してるぜ」
「私共としても喜ばしいことです。T区の“ボス”とお近づきになれたのですから」
「おお、贔屓にしてやるから次も頼むぜ。…おい」


 低い呼び声に頷いた黒服の男が、無言でテーブルに重たそうなスーツケースを載せた。開かれた皮の箱に整然と並べられた札束を一瞥し、鬼利は組んでいた足を解く。
 無駄話に付き合ったお陰で予定が3分狂った。本部に帰るのはまた真夜中になりそうだ。

 ―――また1人で汚い傷をつけていないといいけど。


 まだ話し足りないらしい依頼主の無駄口の相手をしながら、鬼利はいくつかに区切られた思考の中で今も眠らずに自分を待っているだろう愛しい片割れを想う。
 最近どうも仕事が立て込んでいて、もう1週間もまともに相手をしてやっていない。堪え性の無い愚弟のことだ、あと10分もすれば1人でおいたを始めるだろう。この手でじっくり躾た体が1人きりで満足できる筈も無いのに。

「…では、そろそろ失礼致します」
「おう。また宜しく頼むぜ」
「こちらこそ。お待ちしております」

 この後のスケジュールと幽利のことを考えながら、鬼利は自然な流れでそう言うと一週間後には死体になる男に丁寧に頭を下げた。スーツケースを持った仁王が開いた扉を潜り、見送りの三下を横目に黒塗りの高級車に乗り込む。


「随分長く掛りましたね」
「遺言は長いものだよ。仕方ない」
「酷いなぁ鬼利さん。アイツまだ死んでないでしょう」
「同じことさ」

 滑らかに車を発進させながら、運転席のキュールは頬の傷を歪ませてくつくつと笑った。助手席で巨体を窮屈そうに屈めた仁王が、すぐ横を通り過ぎた軍警の巡回車両の青い光を横目にしながら軽く鼻を鳴らす。

「死者に唾するような愚か者だ。軍警も文句は言うまい」
「確かに。…鬼利さん、どうします?結構遅くなりましたけど、次も回りますか?」

 腕の時計を見ながらキュールが問うが、その手は次の取引先に向かう道路へとハンドルを切っていた。どれだけ予定が狂ったとしても、余程の事が無い限り鬼利が一度決めたノルマを覆さないと知っているのだ。
 薄く掛ったスモッグ越しに高く聳える“ILL”の本部塔が遠ざかるのを横目にしながら、鬼利はゆっくりと首を回す。

 そろそろ幽利はおいたを始めた頃だろうか。それとも、しなくてもいい仕事に手を出して暇を潰して、


 ―――…仕事?

「…キュール」
「はい?」
「今日はもう戻るよ。残った分は明日に回す」
「も、戻るんですか?」
「何故に。留守を任せた泪からは何の連絡も無いが…」

 揃って信じられないといった顔で振り返った部下を見ずに、鬼利は窓枠に肘を突いた手で己の口元を覆った。
 何故か、などと聞かれても残念ながら正確な解は出せない。この問いの解を理解出来るのは鬼利と幽利だけだ。

「鬼利さん…?」
「…キュール、車を戻せ」
「……」


 2人の会話を聞きながら、鬼利は深く息を吐いて一分の隙も無くスーツを着込んだ体をシートに埋める。急いでどうなるようなことでは無い。だが、どうでもいい仕事を続けられるほどの些事でも無い。
 予感というのは正確ではないが、この目で見ていない限り確信とも違う。機能を忘れた筈の痛覚が、頭の奥で鈍く蠢いていた。


「…全く、世話の焼ける」

 呟いた鬼利の視線の先。フロント硝子越しに、本部塔がその巨影を人工の夜に霞ませていた。










 白い壁に白い床。カーテンレールから壁に並んだ棚まで、まるでモノクロ映画のように白く染まった医局の中で、鬼利は橙色の瞳を軽く細めた。

「切れかけた蛍光灯を変えようとしていたみたいね。相変わらず仕事熱心な子だわ」

 仕事中は結い上げられている長い髪を払いながら、カルヴァは手元のカルテを鬼利に手渡した。白い紙に走り書かれた文字は医療従事者だけが使う特殊な言葉だったが、鬼利の視線は共通語を読むのと同じ速度で文字を追っていく。

 忘れかけた鬼利の痛覚が機能しはじめた頃、切れかかっていた武器庫の蛍光灯を変えようとして老朽化した配線に触れ、感電した幽利は乗っていた脚立から落ちたのだそうだ。気を失って、頭から。


「電気なら慣れてるでしょうけど、少し電圧が高過ぎたみたいね」
「誰が?」
「偶然通りかかった傑よ。もう帰ったわ」

 鬼利の手からカルテを受け取り、カルヴァは下着の透けた薄いネグリジェの上に羽織っていた白衣を脱ぎ捨てた。確かに、こんな時間にこの女を叩き起こそうと思うのは傑くらいしか居ない。
 代償に腕の1本くらいは要求されているだろう。カルヴァには勿論だが、あの男にも何か埋め合わせを考えなければ。

「連れて帰るなら呼び戻しましょうか?」
「いいよ。自分で歩かせる」


 カルヴァの作るカルテは正確だし、幽利の体が丈夫に出来ているのは鬼利が一番よく知っている。椅子に腰かけて足を組むカルヴァに軽く首を振り、鬼利は白いベッドの中で眠っている幽利の布団を剥いだ。

「幽利」
「……」
「幽利。帰るよ」
「…ん、…」

 伏せられていた瞼がゆっくりと開き、3回目の瞬きで焦点を結んだ橙色の瞳がゆっくりと鬼利の方を向いて、そして傍らのカルヴァに向けられる。

「…姐さん、俺ァ…」

 掠れたその声を聞いた瞬間、鬼利の背中をざっと冷たいものが走った。

「……感電して、脚立から落ちたのよ。少し頭を打っただけだから心配ないわ」

 静かな声で答えながら、カルヴァの視線が横の鬼利へと向けられる。声こそ揺らがないが、アイラインを引かれていない瞳は明らかに自分が最初に声を掛けられたことを訝しんでいた。


「感電…すンません、こんな夜中に」

 心底申し訳なさそうに眉を下げながら幽利はゆっくりとベッドから起き上ると、枕の横に置かれていた目隠しを手に取る。そしてそれを巻きながら、初めて鬼利へと視線を向けた。

 ―――…成る程。確かにこれは酷い。

 自分を見る為に敢えて着けられた目隠し。その黒い布地を見つめながら、鬼利は思わず額に手をやった。
 幽利の体が丈夫なのは鬼利が一番よく知っている。少し感電して脚立から落ちた程度で、あんな感覚が現れる筈が無い。仕事を切りあげようと思ったくらいだ。もっと酷い、そう、例えば、

 この身の存在価値を無にする、ような。


「兄サンが運んでくれたンですか?すンません、迷惑かけちまって」

 間違いなく鬼利を見たままそう言って、幽利はぺこりと頭を下げた。










「きおくそーしつ?」

 ガムシロップを3つ入れた甘いアイスティーを飲み込みながら、悦は素っ頓狂な声を上げる。額に包帯を巻かれた幽利の、目隠しのぎりぎり上にある眉が困ったように下がった。

「…俺の名前は?」
「旦那や傑のコトはちゃンと覚えてるんです。仕事のことも」
「じゃあどの記憶を喪失してンだよ」
「ILLに来るより前のコトと……あと、」

 手にしたコップの水滴を指先で拭いながら、幽利はちらりと目の前の悦を見上げた。
 昨夜の感電の後に頭から床に激突という事故を考慮してか、幽利には今日から3日間丸々休みが出ている。それを知った悦が部屋に呼び寄せたのだが、何度来てもソファに座るのを遠慮する所や、些細な持て成しにも大げさに礼をする所はいつもの幽利のままだ。事実、悦は幽利の口からそうと聞くまで彼が記憶を失っていることにすら気付かなかった。


「最高幹部の…」
「…え」
「姐サンが言うには、俺の…双子の兄貴、らしィんです、けど」
「ちょっと待てよ」

 思わず声を上げて身を乗り出した悦の瑠璃色の瞳が、信じられないと瞠目する。
 幽利の口から聞くと酷く性質の悪い冗談のような言葉だった。だが、同時に悦は幽利がこんな冗談を言うような男で無いことも知っていた。ましてや鬼利のことだ。
 鬼利、あれを幽利は片割れと読んでいた。それを。

「…忘れたのか」
「……」
「鬼利のことだけ?」
「…はィな」
「……マジかよ」

 嘘である筈が無い。でも、だけど、どうして。
 どうして、よりにもよって鬼利のことだけ。

「旦那はご存知なんスね。姐サンの話しじゃァ、登録者には秘密だってコトだったんで」
「知ってるも何も…だって、鬼利だろ」
「…仲、良く無かったンですかねェ?」
「ッ…は?」

 氷の入ったグラスを額に押し当てながらぽつりと呟かれた幽利の言葉に、危うく悦は落ちつこうと口に含んでいたアイスティーを噴き出しかけた。


「いや…あんまり綺麗にあの人のことだけ忘れちまッてるンで、もしかしたら凄ェ仲が悪くて、忘れたいッて思ってたりしたンじゃねェかなァと…」
「あり得ねぇよ」

 悩みながら恐る恐る口に出したであろう言葉を、悦はだが即座に否定せずにはいられなかった。
 自分と同じく碌な物では無いであろう2人の過去の詳細など知らないが、幽利の“今”を形成したのは間違いなくあの双子の兄である筈だ。互いを片割れと呼び、兄弟愛と称するには余りに深く重く愛していた。

 幽利と鬼利が不仲?鬼利を忘れたい?そんなことは例えこの“街”に天然の太陽が輝こうともあり得ない。


「俺はお前みたいに人の腹の中なんて見えないけど、それでもお前と鬼利の仲が悪く無いってのは解る」
「…腹ン中?」

 きっぱりと言い切った悦に、だが幽利は訝しげな声を出して軽く首を傾げた。
 感電した時に火傷を負ったらしく、包帯を巻かれた手がぎこちない動きで後頭部に伸び、そこにある目隠しの布の結び目を解く。はらり、と解けた黒い布の下から現れたのは、鬼利と同じく鮮やかな、橙色の。

「いいのかよ、それ外して」

 悦には仕組みなど解らないが、遺術が発動した幽利の瞳は、壁も鉄もあらゆる障害物を突き抜けて半径200キロにある見たい物を、そして幽利自身の意思に関係無く他人の思考や記憶を“視る”ことが出来る“千里眼”だ。
 前者はともかくとして、後者に関しては欠点の方が多い。だから幽利は、いつも光のほとんどを遮断する特別な布で作られた目隠しをして、濡れても汚れてもそれを外そうとしないのに。


「旦那」

 鬼利以外の誰かと一緒に居る時は、例えそれが悦であっても外そうとしなかった目隠しを握る手に力を込めながら、幽利は悦の問いには答えずに静かな声でその名前を呼んだ。

 …あぁ、そんな目をすると、本当にそっくりだ。


「俺ァ、そんなモノまで“視え”るッて旦那に言いましたか」
「だからそんなの着けてるんだろ?他人の心の中が見えるなんて、悪いコトの方が多いから」

 少なくとも、いつかの幽利はそう言っていた。例えそれが内心の正反対の表情や言葉であっても、それに騙されていた方が良い事の方が圧倒的に多いからと。
 もしあの言葉が内心の正反対のものであったとしても、幽利の記憶力は複雑な重火器の説明書を一読しただけで、その中身を全て記憶出来る程に優れている。思いつきで咄嗟に言った事であっても、忘れる筈が無い。

 …無い筈なのだ。悦が知る幽利なら。


「…覚えて無いのか」
「すいません…その辺りの記憶も、抜けちまッてるみてェです」
「…抜けてる、だけ?」

 打った箇所が痛むのか、僅かに眉を顰めて額に手をやる幽利の表情を覗いながら、悦は秘密を喋る時のように潜めた声で尋ねた。
 自分への言葉を覚えていないだけならいい。それなら何の問題も無いのだ。先程から悦の胸の内をざわざわと波立たせているのはそんなことでは無くて、今までの幽利の言動が導き出した、もう一つの。

「ここに来てからは、ずゥっとこれ着けてたってェのは覚えてるんです」

 手の中の黒い布を見つめながら、幽利は独白のように呟く。

「ただ、どォして着け始めたのかが思い出せなくて。ちょッと気ィ抜くと壁突き抜けて裏ッ側の配管やらまで“視え”ちまうから、最初はそれの所為かなって思ってたンですけど」
「……」
「それも、今日起きたら目隠し越しじゃァ輪郭くらいしか解らなくなっちまッてて。外しゃァはっきり見えるンですが、どうも…“視え”る範囲が、前よか狭くなッてるみてェなんです」


 困ったように垂れた眉と、笑みを浮かべた口元。その表情の中では見慣れない橙色の瞳が、上目遣いに悦を見上げてゆるりと細まった。

「昨日の今日でこのザマだ。一週間もすりゃァ、何にも見え無くなッちまうのかもしれませんねェ」










 ほんの2、3秒足らずの小さな電子音を目覚ましにした起床は、計ったようにぴったりと午前7時。簡単な朝食と身支度を1時間で整え、コーヒーをゆっくりと一杯飲む間の15分ほどの間に1冊の本を読み、前日の書類の再確認に30分。
 本来10時までに入ればいいらしい最高幹部執務室に9時5分前には入り、昼食の休憩は幹部の誰よりも遅い午後2時過ぎ。膨大な書類の処理や、他の幹部を護衛につけての依頼主との会談や報告を休憩らしい休憩も無くこなし、自室に戻るのは午後9時から、翌日の午前2時の間。


「凄ェ人、なんだよなァ…」

 壁に掛けられた質素なアナログ時計の滑らかに動く長針を見上げながら、幽利は抱えた膝の上に顎を乗せてぽつりと呟いた。

 自分の双子の兄であるらしい彼を思い出すせめてもの手がかりになればと、総務のスタッフの1人が教えてくれた鬼利の1日のスケジュールは、勤務時間内は全ての項目が分刻み、そしてプライベートでも何時寝ているのかと不思議に思う程忙しいものだった。
 執務室に向かうまでの行動は定期健康診断時の自己申告らしいが、聞けば彼は一週間の内6日はこのような時間軸の中で動いているらしい。

 週に一日休みはあるが、それも形式上のことだ。何かあれば直ぐに連絡が入り、その処理の為の指示をその日の内に出すらしい。いくら最高幹部、“ILL”の実質上の総責任者とはいえ、普通ならノイローゼにでもなりそうな程の激務だ。それをほとんどミスも無く、就任してから3年間ずっと続けている。


「…ふたご、ねェ…」

 機能美を重視した調度で揃えられた、広いリビングルームの大きなソファの上で膝を抱えて座りながら、幽利は自分の言葉に小さく苦笑した。
 確かに顔はよく似ている。鏡にでも映したように瓜二つだ。背格好も、自分の方が少し筋肉質ではあるがほぼ同じ。その上声まで似ている。傍から見れば疑いようも無く、全く同じ遺伝子情報を分け合った双子だ。

 だが、違い過ぎる。

 双子だからといって中身までそっくり同じ、等ということは有り得ない。本元が同じ細胞であったとしても、一度分かれた後はそこから独自の成長を遂げていくのだから、全く別の生き物だ。そのくらいの道理は幽利にも解っている。
 解っているが、それでも、完璧という言葉に限り無く近い鬼利という男の存在は、自分とは余りにかけ離れた、とても双子などという関係が当てはまるものでは無いように思えてしまう。


「あ、…」

 ぼんやりと長針を眺めていた“視界”の端で壁の向こう側の玄関扉が開き、幽利は抱えていた両足を慌てて柔らかいラグの上に下ろした。壁の向こう側の風景は輪郭でしか判別できず、ほとんど色も解らないので誰なのか視認することは出来なかったが、多分鬼利が帰って来たのだろう。
 前はこんな薄いコンクリートの壁などあっさりと透かし見て、少し集中すれば色は愚か分子の並びまで“視え”ていたような気がしたが、今はよく思い出せなかった。


 輪郭でしか無かった人影が、明度を持って幽利の知らない双子の兄の姿になる。
 喪服のように真っ黒なスーツ。キッチリと締められた黒いネクタイ。磨き上げられた革靴。宝石のように硬質な橙色の瞳。


「ただいま」
「……お、かえンなさい」

 まるで造り物のように綺麗な微笑と共に声を掛けられて、幽利は思わずソファの上で背筋を正しながら頭を下げた。双子の兄の帰りを迎えるにしては少し大袈裟過ぎるかと思ったが、鬼利はそれを指摘することも無く、瞳を柔らかく細める。

「ご飯は、もう食べた?」
「はィな。あの、先に…頂きました」
「そう。…今日は何を?」

 脱いだスーツの上着を背もたれに掛け、軽くネクタイを緩めながら鬼利はL字型のソファの、幽利とは反対側の端へと腰掛けた。
 一緒に暮らしていて、悦の話ではかなり仲が良かったそうだから、きっといつもなら隣に座っていたのだろう。3人分の距離を開けて座る鬼利の顔色をそっと覗いながら、幽利は軽く俯いた。

 時計の針は午前0時を回っている。いつものこととはいえ朝からの激務で疲れているだろうに、鬼利の表情からは疲労感など少しも覗えない。幽利とよく似た顔の双子の兄が浮かべているのは柔らかく美しい微笑みだけで、それは幽利が記憶喪失だと彼が知った瞬間から一度も揺らが無い。
 今日一日を掛けて再確認をしてみたが、幽利が名前すら忘れてしまったのはやはり鬼利のことだけだった。幽利自身も不安だが、忘れられた彼の心中とて穏やかである筈は無いのに。


「姐サンのトコでもう一回診て貰ってから、旦那…あ、えっと旦那ってェのは登録者の…」
「悦だね。大丈夫、解るよ」
「…そォ、ですか。あの…それで、悦の旦那の所で、ちょッと話を聞いて貰って」
「うん」
「あとは…その、鬼利サンのことについて、ちょッと総務のスタッフに…」
「僕のことを?」

 少し意外そうな鬼利の声に、幽利はその表情をそっと覗いながら小さく頷いた。

「すいません、勝手にコソコソ嗅ぎまわるよォな真似しちまッて。ちょッとでも…手がかりになれば、と思って」
「構わないよ。他の誰かが知っている事で、幽利に知られて困る事は何も無い」


 言い訳がましい幽利の言葉にも柔らかく微笑んで、鬼利は膝の上の両手の指を絡ませた。
 まるでお手本のようにぴんと伸びた背筋。無理をしているようにも緊張しているようにも見えないのに、爪の先まで常に意識を張り巡らされているようなその挙動には品があり、幽利が覚えている誰よりも高い教養を感じさせる。

 その振る舞いに違わず、きっとこの人はとてもとても賢いのだ。思い出したいという純粋な思いとは別に、同じ部屋に住んでいる「知らない男」の全体像を把握しておきたいという、幽利の思惑にも気付いている。
 気付いていながら何も言わない。その事を表情筋の筋一つにすら出さない。


「…あぁ、でも1つだけ。僕等が双子だってことを知っている者はスタッフや登録者には少ないから、そこだけは気をつけて貰えるかな?」
「あ…はィな」

 “気をつける”。
 …つまり、それについての口外はするなということだ。

 そのことについては昨日の内に、カルヴァからもキツく口止めをされていた。自分と鬼利が双子である事を知っている者はごく僅かで、それ以外の者にはその事を言わないように、と。

「思い出そうとしてくれるのはとても嬉しいけど、無理はしないようにね。…傷の調子は?」
「もう大分楽です。軽ィ火傷と打ち身だけなんで、このくれェの傷なら慣れて…」

 自分の舌が紡ごうとした言葉に不意に違和感を感じ、幽利はそこでぴたりと言葉を止めた。

 …慣れている?

「どうかした?」
「あァ…いや、…」

 腕の火傷も頭から背中にかけての打ち身も確かに大怪我では無いが、自分が覚えている限りの日常生活で負うようなものでは無い。それなのに、何故今自分はその傷を慣れていると言ったのだろう。
 心配を避ける為の建て前だろうか。いや違う。さっき自分は、確かに「大したことの無い傷だ」と本心から思った。医局で包帯を換えて貰う時には、皮膚が剥がれた傷の大きさに驚いたのに。

 …忘れているのか。
 目の前の自分とよく似た顔をした男のこと以外にも、何かを。


「…幽利?」
「っあ…はィな」

 先程よりも静かで密やかな声に現実に引き戻され、幽利はじっと足元のラグを見つめていた視線を慌てて上げた。



 >>Next.




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