「…そんなのって」
揃えた白い膝の上にチョコレートが盛られた皿を置きながら、ゾイがぽつりと呟いた。
「ええ。…堪らないわ」
その傍ら、先程まで悦が座っていたソファに腰掛けながら、シェナは小さく顎を引く。
「……」
寄り添うように座る2人の“同族”の下、ソファの影に隠れるようにしてそれまで黙っていたヴェルディオが、無言のまま音も無く立ち上がる。
生気の感じられない硝子玉のような藍色の瞳は、悦が出て行った玄関の扉をじっと見つめ―――
「…ずるいよ」
「……」
「……」
覇気の無い声にシェナとゾイが、同時にヴェルディオの、漆黒のコートに覆われた背中を見た。
本人の意思に関係なく、触れたもの全てを泥のように腐らせてしまう化け物を包むロングコートがゆらりと揺れ、存在感の希薄な長躯が風に膨らむカーテンへと、滑るような足取りで近づく。
暗色のカーテンが、近づく化け物を畏れるように大きく膨らみ、
その向こう側の暗い穴へ、するりと黒い体が落ちて行った。
骨が砕け肉が潰れ、筋肉が断裂し皮膚が弾ける。
空気を、肉を介して伝わるその音に、振動に、全身の細胞の1つ1つが余す所なく歓喜していた。
臓腑を抉られ、口元に跳ねた血を無意識に舐め取った舌先に、痺れるような愉悦が走る。
気付けば笑っていた。声も無く。
「…休むなよ」
「ッが…!」
伸びきった肘に下から掌底を叩き込み、ささくれた白い骨が皮膚を突き破って跳び出てくるのを横目に鳩尾を膝で抉る。ひしゃげた肋骨を通じて内臓が破裂した音が伝わり、眼を見開いた戮耶の口から血の塊が吐きだされる。
それを避けもせずに浴びながら、傑は鉤爪となった戮耶の左手が己の腹腔に入り込み、臓腑を掻き回していく目の前が深紅に染まる激痛に血に染まった唇を舐めた。
…懐かしい。
傷口を大きく広げながら戮耶の手が腹から抜け、血の尾を引きながら距離を取る。突き出した骨が無理矢理関節に嵌めこまれる音。狂喜にぎらついた藍色が地を這うような疾走の途中で見開かれ、軍用ブーツに包まれた靴底が床を踏み割りながら縺れる。
咄嗟に体勢を整えようとした膝から、膨張し過ぎた風船が割れるように血が迸った。
「だから休むなって」
「ッ…!」
「お前は速さだけが取り柄だろ?」
ぐらりと体を大きく傾かせた戮耶の脇腹に、薄く笑う傑の爪先が深くめり込み、真上へと跳ね上げる。肝臓が潰れる感触を残しながら人形のように空へと飛んだ戮耶は、血に染まる歯をぎちりと食いしばりながら空中で身を捻り、ひしゃげた梁を血を流す膝で蹴りつけた。
兆弾する弾丸のように地上へと迫る戮耶の踵落としを傑は軽く後ろに跳びのいて避け、踵が崩壊した床を踏み割り―――その脚が、膝下からがくんと関節の可動域を超えて上へと折れる。
「な、ん…ッ!」
「ははっ」
驚愕に見開かれていた戮耶の藍色の瞳が、傍らから響いた笑声に更に大きく開かれた。膝から下が完全に崩壊した左脚を引きずり、距離を取ろうとした右足の大腿骨が血に染まった皮靴の底に踏み割られ、その靴の、膝の、腰の、胸の、先で。
「…ンだよ。やっとノって来たトコなのに」
紡がれた声は退屈そうだったが、それを吐く唇は三日月形に裂けていた。
両足が使い物にならず、逃げる事も進むことも出来ない戮耶を見下ろした傑は、戮耶の大腿骨を踏み割った脚でその胸板を蹴りつけ、上半身を床へと縫い止める。
「もう限界?」
「く…っそ…!」
真上からぐっと近づけられた美貌が、折れた肋骨が肺に突き刺さり喘鳴混じりに吐き捨てた戮耶を見下ろして、蔑むように細められた。
衝撃に耐え切れず自壊した左足の膝も、踏み割られた右大腿骨も動く気配が無い。血を流し過ぎて、もう治癒すら儘ならないのだ。鮮血の色に染まる視界の中、胸板に乗せられたままの傑の足に両腕を絡めその足首を砕くが、気にも留めない傑は戮耶の胸板を踏む靴底に、更に力を込める。
「ごッぉ…っ!」
「走れねェんじゃ仕方無いか」
折れた骨が更に深く突き刺さり、骨や筋肉の抵抗を物ともせず、胸板が本来の半分の厚みになるほど押し込まれた靴裏に、心臓の鼓動すら阻害されびくりと跳ねた戮耶の口から、絶叫の代わりに血塊が吐きだされる。
血の気の無い白貌を朱に染める戮耶を愉しげに見下ろしながら、傑はやっと出血が止まった戮耶の左足を無造作に掴んだ。
関節の治癒までは済んでいない足が、太股の筋肉によって逃れるように動くのを空いた靴裏で易々と抑え込み、そのまま掴んだ脛をゆっくりと持ち上げて行く。
「て、め…ぐぅうッ!」
「ほら、暴れるなよ。ただでさえ血が足りてねぇんだから」
皮膚が、筋繊維が、ぶつぶつと千切れ、蝶の羽を毟るようにもがれた戮耶の左足を揺らして見せながら、傑は自分の足下でもがく戮耶に優しく説き伏せるように言う。
「零さないでちゃんと仕舞っとけ」
聞きわけの無い子供に言い聞かせるようにしながら、傑は片手にした戮耶の足に手を掛けた。力の源である血を送り出す心臓の動きを邪魔され、ほとんど力の入らない腕で傑の足を狂ったように殴りつける戮耶の顔に、びちゃりと赤黒いものが降って来る。
まだ仄かに生温かいそれは、見慣れた布の切れ端を纏っていた。
「…絞り出すのは俺がしてやるから。な?」
睦言を囁くような声音で言いながら、傑は戮耶の左足から剥がした肉片をびちゃり、とその口元に落とした。呆然としたように見開いた目で自分を見上げる戮耶に微笑み、足首から下の肉を剥がされ骨となった戮耶の左足を逆手に握り直す。
「おま…なに、して…」
「…言って欲しい?」
未だ靴を履いたままの、趣味の悪いオブジェのようになった戮耶の左足を、傑はそっと抵抗すら忘れてその顔を凝視する戮耶の右肩に宛がった。
ずん、と力を込められた足の骨が、傑の手に握られた左脛骨が、戮耶の右肩甲骨を貫いてその下のコンクリートへと突き立つ。
「これからお前をこーやって磔にして、肉を剥いで、はらわた引き摺り出して、」
「ぐ…ぅ、が…ッっ」
「左目を潰して、右目を潰して、声帯を裂いて、心臓をゆっくり握りつぶして、殺すんだよ」
愛撫の手順を説明するように甘ったるい声で言いながら、傑は戮耶の脛骨から離した手で、戮耶の血と脂肪と肉片に汚れた完璧な造形の手で、瞠目する戮耶の頭を恋人にするように撫でた。
「大丈夫。お前が何にも見えなくなっても…今お前の体がどうなってるのかは、俺がちゃんと、教えてやるからな?」
「っ―――!!」
背骨を引き抜かれたような怖気と共に、戮耶は己でも気付かぬうちに声にならない絶叫を上げていた。
生命の危機。“成功例”を、絶対の支配者を前にして、それまで戦闘への喜悦に覆い隠されていた本能的な恐怖が怒涛のように戮耶の脳内を埋め尽くし、全身の細胞が目前に迫る終わりに軋む。
無意識の制御を外された体が思い出したように激しく足掻き、己の脛骨によって床に縫い止められた肩を破壊しながら戒めから逃れる。残った片腕が胸板を押さえつける傑の太股に爪を喰い込ませ、その下から逃れる為だけに、神経と筋を引き千切った。
振られた頭から傑の手が離れ、引き剥がされた己の肉片が床に落ちる。片腕と片足を失いながらも、戮耶の体はこれまでに無い程の恐怖に突き動かされるがまま、心臓を踏みつぶされる危険性も無視して転げるように傑の足下から逃れた。
残った腕と足で、虫のように無様に這い蹲りながら逃げる戮耶を、傑は少しの間驚いたように見つめ、
「……ったく」
苦笑混じりに言いながら歩み寄った傑の足が、逃げる戮耶の右膝を踏み潰す。
腕一本になっても足掻く戮耶の、焦点が結ばれていない顔を軽く首を傾げて覗いながらその体を仰向けにひっくり返し、大きく陥没した胸ではなく鳩尾に踵を減り込ませるようにして、その体を再び床に縫い止める。
「あ、がァ゛ッ!」
「そんな顔で足掻くなよ。最期くらいは思いっきり遊んでやろうと思ってたのに」
残った腕で、爪が剥がれるのも構わずコンクリートを引っ掻く戮耶にそう言いながら、傑はぐしゃりと血に濡れた自らの髪を掻き上げる。
血みどろの同族を見下ろす深い深い藍色は、油を引いたようにぎらついていた。
「前戯も無しにガッツくのは趣味じゃねーんだけど……まぁ、いいか」
誰にともなく呟きながら、傑は左手の五指をぱきり、と鳴らす。
鉤爪となった指先が、大きく陥没した戮耶の胸板に、その下にある心臓に向かって残酷な程にゆっくりと伸ばされ、
そしてその完璧な造形をした指先が、どろりと溶け崩れた。
「……」
戮耶を踏みつけたまま、傑は前屈みにしていた体をゆっくりと起こし、どろどろと溶けるように腐り落ちて行く自分の手首を握る男を静かに振り返る。
「…違う」
「……」
「約束が、違うよ。…傑」
覇気の無い、風が吹くような声と共に。手首から黒革の帯を垂らした白い腕が、腐った肉と骨の塊になった傑の腕をそっと引き寄せる。
「ヴェ…ルデ、ィオ…ッ?」
「……」
喘鳴と血泡に掠れた戮耶の声に、月明かりが作る影から湧き出たような姿の“同族”は、ちらりと傑の足下にいる戮耶に硝子玉の瞳を向けた。
瀕死の戮耶を無感動に一瞥し、ぼたりと溶けた肉を崩れさせた傑の腕を、自らの胸板に、心臓の真上に押し当てる。
「……」
手首から這いあがった腐敗の波が、血に塗れた袖の下で自分の腕を浸食していくのに任せながら、傑は無表情に傍らに立つヴェルディオの顔を見据えていた。
深い藍色の瞳が伏せられ、そして溜息と共に、骨すらぼろぼろと崩れ始めた手が無造作に振られる。
「あッ…!」
残像を生む程の速度での裏拳がヴェルディオの米神を正確に打ち抜き、脳を揺らしてその長躯をよろめかせる。踏み留まろうとした漆黒のブーツに包まれた足を戮耶の鳩尾から上げた足ですぱんと払い、這い蹲ったヴェルディオを、海の底の色をした瞳が見下ろした。
「お前はホントに…こーゆー事ばっかり得意だな」
思い出したように速度を上げた治癒力が侵攻する腐敗を上回り、じゅるりと肉が神経が血管が這い皮膚が覆い尽くして元通りになった手で、傑はヴェルディオの襟を掴む。
喉を締め上げながら、痩躯とはいえ自分より身長の高いヴェルディオの体を目線の高さまで持ち上げ、ぬいぐるみでも持っているかのように軽く揺らした。
「…で?何の約束が違うって?」
「っさ…いしょに、ころし…てもらう、のは戮耶…じゃ…」
「……」
「俺が、いちばんって…やく、そく…」
「あぁ…そうだっけか」
気道を塞がれ途切れ途切れのヴェルディオの訴えに鷹揚に頷き、傑はヴェルディオの胸倉を掴み上げていた手を離した。
糸を切られたようにその場に座り込んだヴェルディオを横目に、肩越しに背後に沈む戮耶を一瞥する藍色には、先程までの血と破壊への愉悦など欠片も残っていない。
どこか気だるげで退屈そうな、いつもの“傑”の双眸だった。
「まぁいいや。お前の所為で興も醒めた」
「傑…」
「そこの“ゴミ”、片づけとけ」
自分を凝視する戮耶の視線を背中に感じながら、傑はそう言いつつ座り込んだヴェルディオの体を軽く蹴って自分の進路から退かす。
「“俺”はその馬鹿の相手は二度とごめんだ。代替わりさせンなよ」
「うん。…傑は、どこに行くの?」
「帰る」
振り返りもしない傑の視線は、真っ直ぐに半壊した廃墟の開け放たれた巨大な扉を見ていた。
化け物同士の激突による余波でコンクリートに覆われた床は砕けひび割れ、不規則に巨大な鉄骨が突き立っていたが、まるで最初からそう計算されていたかのように、傑の直線の歩みを遮る物は1つも無い。
「…どこに、帰るの?」
遠ざかっていく傑の、自身と戮耶の血に濡れた背中に、ヴェルディオは淡々とした声で問いかける。
「知ってるよ。…悦くんは、知ってるよ」
「……」
「傑が一生懸命隠してた、傑を。…悦くんはもう知ってるよ」
「……」
「…もう、帰る所なんて、」
「ヴェルディオ」
冷たく吐き捨てられようとしていたその言葉を、歩みを止めた傑が遮った。
少し低く、妙に甘い声。大多数の人間を陶酔させる“成功例”のその声は、“欠陥品”がそれ以上の無駄口を叩いてその手を煩わせることを許さなかった。
床に突き立った鉄骨と、ひび割れた床の向こう。ひしゃげた鉄骨と剥がれた屋根の合間から差し込む月光を浴びて、傑がゆっくりと振り返る。
蒼い光に照らされた美貌は、
「…ずるいよ」
街灯、車のヘッドライト、ショーウィンドウから漏れる明かり。もう日付が変わろういう時刻にも関わらず、“街”の中央区は人工月の淡い光をかき消す程の光源で満たされていた。
高く白い壁の外側から溢れる、夥しい量の人工物の片鱗にその美貌を照らさせながら、褐色と純白の女は壁の内側を並んで歩く。
「お帰りですか」
2人の背中に向かって掛けられた声に、壁の外側からのクラクションの音が重なった。
微笑しながら、気だるげに、揃って振り返った2対の藍色を、硬質な橙色が真っ直ぐに見据える。
「ご希望の男は、まだ中座から戻っていないようですが」
「…いいのよ」
「もう用は済んだから」
「そうですか」
口元に笑みを湛えた人間が、壁の外へ向けていた視線を2人へと戻しつつ軽く頷いた。
喪服のような黒づくめのスーツ。隙の無い立ち姿。橙色の瞳。違うのは、その通った鼻梁に薄いフレームの眼鏡が乗っていないこと。
…あぁ、こうして見ると確かにそっくりだ。サーニャに、いや、今は違う名前で違ういきものになったあの子に。
「あの子は」
「大丈夫?」
「あの雑用員のことでしたら、先程目を覚ましました。きっと貧血でも起こしたのでしょう。お目汚しをしまして、失礼致しました」
苦笑しつつ、黒いスーツ姿の人間は完璧な所作で2人に頭を下げて見せた。
その姿に2人は同時に顔を見合わせ、そして同時に苦笑する。
「いいのよ」
「平気なら」
「それが何より」
「あのお兄さんは?」
「大丈夫かしら」
「お迎えに同行させた部下のことでしょうか?彼なら常の通り、業務に精を出してくれているようです」
顔を上げた人間が裏など何も無いような声音と表情で言っても、2人はもう顔を見合わせはしなかった。
この徹底された“何の影響も無かった”という空気を引っ掻き回すのも面白そうだ、という悪戯心が無いわけでは無かったが、この貧弱で傲慢な人間が取り乱す姿はどうにも想像が出来無かったし、また2人とも、それを見たいとも思わなかったからだ。
「そう」
「なら良かった」
美姫の微笑みと共に踵を返そうとした2人は、そこではたと足を止めた。こんな舞台でなら、茶番に付き合うのも悪く無い。
「あ、…そうだわ」
「そうね。…ねぇ」
「1つ我儘をいいかしら」
「私に出来る事なら」
案の定、戸惑うことも躊躇うこともなく即座に応えた人間ににこりと笑い、2人はちらりと藍色の瞳で壁の外を一瞥した。
「私達、今夜泊る所が無くて困っているの」
「本当はあの子のベッドを借りるつもりだったんだけど」
「思っていたより早く要事が済んでしまったから」
「あの偽物の月が見える場所で、ベッドが大きくて」
「ご飯が美味しいホテルをどこか知らない?」
言いながら揃って左右対称に軽く首を傾げて見せた2人から、人間は少し考えるように視線を反らした。真っ黒なスーツの胸ポケットを探った華奢な指が、そこから白く細長い封筒を取り出す。
磨き上げられた黒い靴で、継ぎ目の無い壁にまで一直線に続く石畳を2人に歩み寄った彼は、隅に白馬を象ったマークが金色に印刷されたそれを2人の前で開くと、中に入っていたものを差し出して見せる。
「……」
「…っふふ」
思わず瞠目し、思わず笑ってしまった。まさかと思ったその想像通り、彼が封筒から取り出したのは品のいい高級ホテルのパンフレットだったのだ。
「こちらのスイートでしたら直ぐにご用意出来ますが…」
「っ…ええ、いいわ」
「ありがとう」
笑いを噛み殺しながら頷くと、彼は相変わらずの裏に何も思惑が無いような顔で「よかった」と微笑み、真っ白な封筒を添えてそのパンフレットを2人に手渡した。
「凄いわね、貴方」
「まるで魔法使いみたい」
「こんな所じゃなくて、もっと」
「人を喜ばせるお仕事をした方がいいんじゃない?」
きっと壁の外には、既にこのホテルからの送迎車が横づけにされているのだろう。その病的なまでの手回しにいっそ呆れながら、2人は揶うように言って彼の背後にそびえる巨大な円柱の建物を一瞥した。
「喜んで頂けたのなら何よりです。…他の仕事、ですか」
「例えば慈善事業とか」
「人を殺したり騙したりする仕事じゃなくてね」
「そうですね。…あまり、変わりは無いと思いますが」
苦笑とも嘲笑ともつかない笑みを浮かべて、黒いスーツの人間は橙色の瞳を軽く細める。
「そうかしら?」
「正反対だと思うけれど」
「本質は同じですよ。どちらでも、どんな事でも」
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