12.



 声音はそれまでと変わらず静かで穏やかであったが、2人は鮮やかな橙色がぐっと深みを増したのを見逃さなかった。

「どの時系列の、どの立場の人間から見ても完全に良い仕事は存在しない。勿論、逆も然りです」
「この組織は」
「“世界で最も純粋な悪”」
「なんでしょう?」
「それでも?」
「現代に於ける大多数の倫理観によれば、そうなのでしょうね。しかし大多数は全員と同義ではありませんから」


 さらりとそう言って、彼はシェナが喉笛を締め上げた細い首を巡らして背後を、天井に届かんばかりに高く聳える、世界の大多数の人間が“悪人”と認める人間を大勢収容した“ILL”本部塔を振り返った。


「視点を変えれば、完璧な善も完全な悪も存在しない。この世の全てがそうなんですから、仕事だけが別という道理はありません」

 2人に向き直った橙色が、真っ直ぐに藍色を見据える。


「完璧な“悪”など、この世には存在しないんですよ」



 …ああ、これだから。
 …人間という生き物は。


「…あぁ、もういいわ」
「ここの人達はみんなこうなの?」
「誰も彼もおかしな壊れ方をして」
「貴方までそうなのね」

 独白のような言葉はいかにも不快そうだったが、それを紡ぐ2人の唇には薄らと笑みが湛えられていた。

「失礼、無駄話が長過ぎたようですね。…あぁ、先程ご紹介したホテルの送迎車がもう表に来ている頃です」

 ちらりと腕の時計を一瞥し、人間は2人の向こう、石畳の端にある他と変わり無いように見える壁の一部を視線で示した。


「ええ、解ったわ」
「ありがとう」
「いいえ、碌なお構いも出来ず申し訳ありませんでした」

 再び腰を折った鬼利を横目に、今度こそ揃って踵を返した2人の背後で、顔を上げた人間がその瞳をすぅと細める。

「…また、お会い出来るのを心待ちにしております」


 高いヒールの靴で石畳を並んで歩く2人の化け物は、背後から掛けられたその言葉に同時に肩越しに振り返り、歩みを止めないままに、それぞれの美貌に見惚れるような微笑みを浮かべて見せた。


「どうもありがとう」
「安心して」



「「もう二度と来ないわ」」










 ぐつぐつと煮立つ鍋の中から引き出した菜箸に寄せられた唇が、触れる寸前で少し躊躇ってから箸先にふーふーと息を吹きかけ、冷ましたそれをぱくりと含む。

「ん…天才」

 ぺろりと唇を舐めながら自らの腕前を自賛し、悦はコンロの火を止めた。
 鍋に蓋を閉め、ナプキンが巻かれた取っ手を握ってコンロから持ち上げる。冷蔵庫から小さな瓶に入った生クリームを取り出し、それを持ったまま少し苦労して部屋の扉を開けた。

 時折廊下ですれ違う顔見知りに声を掛けながら、緩く歪曲した長い廊下の奥へ。

 目的の扉に辿りつく頃には、廊下ですれ違う人影は皆無になっていた。そこだけまるで切り取られたように静かで人気の無い、鍵の無い扉を、悦は鍋と瓶を持ったまま、少々行儀悪く膝でノブを下ろして開けた。


「っと…」

 傾いた鍋を慌てて持ち直しながら、自室よりも広く馴染みのある室内に入る。
 エントランスを抜けるとすぐに見える、ほぼ自分がゲームをする専用になっている大きなテレビ。ショーウィンドウで一目惚れして買ったローテーブル。ベッドに出来るくらいふかふかの黒いソファ。

 それから、

「…なんだ、意外と余裕あったな」


 思わず鍋を持ったまま立ち止まって呟いた悦を、ソファに埋まるようにして腰掛けた傑が片目を開けて見た。
 ローテーブルの上に鍋を置きながら壁の時計を見る。23時、少し前。

 …もっとぎりぎりかと思ってたのに。待たせたかな。

「…いーにおい」


 片方だけ開いていた藍色の目を閉じながら、ソファに背を埋めたままの傑が掠れた声で言う。喉に粘度の高い液体が、血が絡んだ声だった。

「だろ?今日のは自信作。ほら」

 傑の傍らのソファに腰を下ろしながら、悦はテーブルの上で引き寄せた鍋の蓋を持ち上げた。
 白い蒸気と共に立ち上る食欲をそそる匂いに、傑が目を閉じたまま少し考えるような間を取る。

「ん…ビーフシチュー?」
「正解」

 弾んだ悦の声を合図にしたように、傑の双眸が開かれた。藍色の瞳がちらりと鍋の中を見て、その中にたっぷりと作られたビーフシチューに小さく笑う。


「すげー量だな」
「好きだろ?」
「すき」

 素直に頷いた傑の表情で自分のチョイスが外れていなかったことを確認し、悦は満足そうに笑って傑の血に染まった真っ赤なジーンズをぱんと叩いた。

「早くシャワー浴びて来いよ、腹減ったろ。俺は準備してるから、」
「悦」

 言いながら立ち上がりかけた悦を、傑の声が引き止める。
 振り返った先の傑は、相変わらず背中をソファに埋めるようにしたまま、いつもの薄い笑みを浮かべて悦を見ていた。


「ん?」
「何か俺に聞きたいこと、ある?」
「…聞きたいこと?」
「色々言われただろ、あいつ等に」
「……」

 …確かに言われた。言われたけども。
 腰を浮かしかけたソファに座り直しながら、悦は腕を組んで虚空を見上げた。傑が居ない間、傑の“同族”の純血種達とした会話を思い浮かべる。
 あの会話を踏まえて、傑がここに帰るまでに外でして来たことを知った上で、傑に、改めて聞きたいこと。


「…いや、無いけど」


 特に何を思うでも無く、悦は熟考の果ての自分の結論をそのまま口にした。

「確かに色々話したけどさ、人間がどーのとか、純血種がこーのとか。でも実際よく解んなかったし」
「そっか」
「なんでそんなコト聞くんだよ?」
「別に?…ただ、」

 普段通りの表情で頷く傑に訝しげに問い返すと、傑は血が乾いてぱりぱりになった自分の前髪を一房摘まんで眺めながら、にやりと笑った。

「ヴェルディオに、なんで悦から“俺の匂い”がするのか突っ込まれてたら面白かっただろうなー、って思って」
「あぁ、そーいやそんな事言ってたな」

 確か、傑の匂いが強すぎて間違えたとか何とか。傑に腕をへし折られながら、あの根暗そうな“純血種”が言っていた。
 同じ部屋で過ごして同じベッドで寝ていれば匂いもつくだろう。そういう嗅覚的な意味での“傑の匂い”だと、今の今まで疑いも無くそう解釈していたのだが、違うのだろうか。


「犬並みの嗅覚持ってますとか、そういう意味じゃねぇの?」
「体臭とかそういうのじゃねぇんだよ、アイツが嗅ぎ分けてンのは。解り易く言えば俺の血の…まぁ、遺伝子情報とかその辺」
「解り易くねーよ」

 自慢じゃ無いが学など全く無いのだ。
 それで無くとも今日はあの2人の美女に何やかんやと小難しい話をされているのに、と眉を顰める悦に、傑はくすりと笑ってソファから背を離した。


「つまりアイツが言ってた“俺の匂い”ってのは、」

 嗅ぎ慣れた濃厚な血の匂いと共に耳元に寄せられた傑の唇が、ベッドの中と同じ声音で囁く。

「…昨日、悦のナカに上と下からたっぷり注いだ、俺のアレのこと」


 …アレ?
 昨日上と下から、中に、ってことは…つまり。

「……はあぁああッ!?」

 叫び声と共に、悦はソファの上を飛び退くようにして後ずさった。思わずソファの下、ヴェルディオが膝を抱えて座っていた場所を見たその顔が、みるみる内に赤く染まっていく。

「そ、それじゃあアイツ…あ、だから…」

 悦の脳裏を、ヴェルディオの『本当に相棒なの?』という言葉が過った。言われてみれば確かに、そんな“匂い”が解っているのなら「相棒だ」と言われて疑いを掛けてくるのも頷ける。
 ヴェルディオからしてみれば愚にもつかない誤魔化しに過ぎなかったであろう自分の言葉を思い出し、悦は更に顔が熱くなるのを感じた。これなら正面から認めてしまった方がまだマシだ。


「中出しの方は俺がちゃんと掻き出したから、きっとフェラで飲んだ時の精液が、」
「煩ぇはっきり言うな馬鹿!つーかそれならそうって先に、…いや先に言われてもアレだけどッ」
「確かになぁ。俺の“匂い”イコール“精液”って考えるとかなり、…いて」
「あぁもう有り得ねぇ色々と…!」

 横で余計な解説を加えてくる傑の肩を取り敢えず殴って黙らせながら、悦は頭を抱えて俯いた。それでもくすくすと傍らから聞こえる笑い声に、蜂蜜色の髪の合間からじと目で傑を睨みつける。

「…もう2度と飲んでやんねーからな」
「えー?でも昨日のは悦から咥えてくれたじゃん。別に俺は飲んで欲しいなんて一言も、」
「余計な事ばっかり覚えてンじゃねぇこの色情魔!もうさっさと風呂入って来い!」
「っ…はいはい」


 半乾きの血に汚れた傑の体を無理矢理ソファから引き摺り起し、その背中を叩きながら叫ぶ悦に、傑は笑いを噛み殺しながらソファから立ち上がった。
 そっぽを向いたまま相変わらず顔を赤くしている悦の傍らに、ソファの背を軋ませながら手を突き、軽く身を屈めて甘く囁く。

「晩飯よろしく。楽しみにしてる」
「…わかった」

 上手く機嫌を取られた事は解っていたが、それでも悦はこくりと頷いた。毎度毎度言われていても、やっぱり自分が作った料理を褒めて貰うのは嬉しい。特に今日のは腕によりを掛けた自信作なのだ。

「……」

 いつもならここでキスの1つでも寄越す筈だが、傑はそれきり何もせずに体を起こすとバスルームの方へ向かって行く。その後ろ姿をこっそり横目にしながら、悦は傑が帰って来てから一度も自分に触れていないことに気がついた。

 …ああ、そうだ。そう言えば。


「傑、」
「…ん?」

 いつもの過剰なスキンシップが無いことと同時に、あることに気が付いてその背中に呼び掛けた悦を、歩きながらシャツのボタンを外していた傑が振り返る。
 同族と自分の血、そして恐らく血では無いものも浴びている事を除けばいつも通りの恋人に、悦は何気なくその言葉を口にした。


「おかえり」
「……」

 いつも通りのその言葉に、傑はいつも通りには返してくれなかった。
 肩越しに悦を振り返ったまま、僅かに驚いたような顔で悦を見つめて数秒口を噤み、


 そしてふっと、気が抜けたように笑った。


「…あぁ、」





「ただいま」





 Fin.



長らくお付き合い下さいましてありがとうございました。
初連載「世界の敵」これにて終了で御座います。

気付けば書き始める前よりかなり長くなった上、色々と変化してしましたが、ひとまず書きたいことは書けたので満足。
しかし長編やっぱり難しい…!

long