砲弾の速度で飛来する巨大な鉄骨が、巨大質量が移動する風圧で砂利を巻き上げながら床に激突する。
轟音。
分厚いコンクリートを易々と貫き、錆びの浮いた鉄の塊が床に突き立つ。轟音と爆風のような風圧は一度では止まない。1本目を背後に跳んで避けた傑を追尾するように、約8メートル上の梁の上から次々とへし折られた鉄骨が降り注ぐ。
1本目の鉄骨の背後、死角へと跳んだ傑を狙って2本目が1本目に激突しなぎ倒す。左へと最小限の動きで身を捌き、そのまま円弧を描くように疾走する傑の足元の床を3本目が破砕、急激に減速して直角に進路を変え、間を置かずに最高速に達した傑の進路を4本目が、そしてほぼ同時に放たれた5本目が壁際に追い込む。
「…どんだけ壊す気だよ」
鉄骨が発出される方向を横目で見ながら、傑は小さく苦笑した。そして支えとなる鉄骨を毟られ、崩壊していく屋根の合間から覗く冴え冴えとした上弦の月に青白く照らされた美貌が、直後に残像を生みそうな速度で反転する。
コンクリートを陥没させる程の脚力に押し上げられ、傑の体が壁へと斜めに跳ぶ。空中で身を捻り、背中が背後の壁に激突する寸前で膝を撓めた左足が床に垂直に立つ壁の柱へと垂直に着地。巨大な廃墟の自重を支える太い鉄骨を歪めながら、更に上へと跳ぶ。
“純血種”の卓越した筋肉は、不安定な姿勢でもその本体を屋根の梁に届く位置まで押し上げていた。飛燕の速度の跳躍を読み、戮耶の放つ鉄骨の砲弾が自らと同じ位置への移動を阻止しようと空中で身動きの取れない傑に迫り、身を屈めた傑の髪を数本引き千切る。
即座に掲げられる次の鉄骨を視界の端に捉えながら、傑は身を屈めた体勢のままで空中で縦回転、音速に近い速度で頭上を、いや今は足下を駆け抜けて行く4メートルの鉄骨の端を左足が蹴りつけ、地面へと急降下していく。
更に体を捻り片足で地面に着地した傑の足下で、最も効率良く膝と股関節から逃がされた着地の衝撃を身代わりに受けた床が、乾いた悲鳴を上げてへこんだ。衝撃吸収の為に撓んだ膝をそのままに横合いに跳んだ傑の傍らに、轟音を立てて鉄の塊が突き刺さる。風圧に細められた深い藍色の瞳の下、完璧な造形をした唇が小さく舌打ちの音を漏らした。
轟音。
「…おいおいおい、お偉い“成功例”様は俺より遅ぇ筈だろぉが」
「十分遅いだろ」
困惑と喜悦が入り混じった戮耶の燃えるような藍色に笑う傑の唇から、言葉と共に赤い血が零れる。
戮耶が放った鉄骨の最後の1本は、傑の左脇腹を貫き肋骨と内臓を粉砕し引き千切って地面へと突き立っていた。傑の反射神経ならそれまでと同じように避けることは容易だったが、今回の鉄骨には戮耶という最悪の付属品がついていたのだ。
投擲とほぼ同時に梁を蹴って傑の眼前へと迫り、鉄骨を避けた瞬間を狙っていた戮耶の右拳は傑の左手によって阻まれ、握った拳の上からその指の骨を砕かれていた。鉄骨の影に隠れた戮耶の姿を視認して、傑は敢えて鉄骨を避け無かったのだ。
「お前くらい速けりゃ、こんな痛い思いしなくて良かったんだけどな」
「へっ…そりゃ皮肉かよ」
内臓の損傷により逆流した鮮血で紅唇を更に赤く染めながら薄く笑う傑に、戮耶は半面が血に染まった顔を歪める。朱色は返り血ではなく、傑の抜き手に貫かれた左肩から吹き出した物だった。
正確に骨と腱を断裂された左肩の内部、敢えて抜かれずに傷口に留まり治癒を阻む傑の手が、傷口の中で無造作に捻られる。
「ぐ…、…ッ」
「……」
皮と筋肉の中で砕けた骨や腱、神経を掻き回されながら内側から腕を引き千切られる激痛に、戮耶の噛みしめた唇から僅かに苦鳴が漏れた。至近距離でそれを見据える傑の瞳が僅かに細まり、―――直後に眼前の戮耶の胴体を中段蹴りが強く突き飛ばす。
「ふっ…」
空中で回転して足から着地した戮耶の歪んだ唇が、小さく空気を漏らす。それは肺を圧迫され無意識に押し出された空気、では無い。
「ふ、ふふっ…ふは、…は、ははははははははははッ!」
皮膚と残った筋繊維で辛うじて繋がっている腕を揺らしながら、戮耶は体を反らせて哄笑していた。鋭く暗い藍色の瞳が、頭上の月を振り仰ぐ。
「ほら見ろ、そうだろ?そうだよ、そうだ。そうだろぉ傑?」
「……」
月を睨めつけながらの吠えるような戮耶の問いに、傑は答えずに戮耶の血と肉片が絡んだ手を下ろした。
一頻り笑い、傑へと顔を戻した戮耶を見つめる傑は無表情だったが、その双眸は僅かに揺らいでいる。深い海の底のような藍色の瞳は、人間には決して向けられる事の無い苛立ちを滲ませて同族を見据えていた。
「結局そうなんじゃねぇか。なぁ、傑よぉ。いい加減人間共との慣れ合いごっこなんて止めちまえよ」
禍々しい笑みに唇を歪ませながら、戮耶は己の使い物にならなくなった左腕を右手で掴んだ。間に大量のささくれた骨片を挟んで傷口同士が強く押しあてられるが、戮耶は一切表情を変えず、呼気すら揺るがない。
“純血種”の中でも欠陥品、戦闘に特化して、より純粋な兵器として造られている戮耶が、膨大な血と体を維持する為に必要な内臓を掻き回された訳でもなく、末端に過ぎない腕の破損などで苦鳴を漏らすほどの激痛を感じる筈が―――体が注意喚起の警告を発する筈が無いのだ。
「あいつら揃いも揃って真性のバカと間抜けの集合体だ。お前が幾ら守ろうとしたってそんなのはぜぇえんぶ無駄なんだよ」
左半面が自らの血に染まった顔を歪めて、戮耶は傑を嘲笑する。刃のように鋭い藍色は狂気に近い喜悦を浮かべていた。
…そうだ、その顔が見たかった。その感覚を感じさせたかった。
「1つ前の俺を殺してくれやがった間抜け共なぁ、最初の俺が入れられてたポッドの番号知ってやがったぜ」
「……」
「お前がぶっ壊してひっくり返した残骸を、足りねぇ頭で一生懸命復元したんだとよ。てめぇ等の同族が1646万5398人死んだってぇのに、欠片も学んでやがらねぇ」
「…詳しいな」
応える傑の声は独白のように小さかったが、戮耶の聴覚はそれを聞き逃さない。腹部を貫く鉄骨から無造作に右へ動き、引き千切られた桃色の小腸が血と共に傑の脇腹から溢れるのを、楽しげに眺める。
「そりゃぁそうだ、今の俺の媒体は俺を殺してくれやがる為にいらっしゃった特殊大隊の人間様だからなぁ」
治癒が完了し、千切れた袖の合間から滑らかな皮膚を覗かせる左腕で、戮耶は己の胸板を軽く叩く。
刈りこまれた短髪が伸びた銀髪の下の戮耶の顔は、「人間だった頃」の名残を残して僅かに日に焼けていたが、他の“純血種”と同じく人外の完璧な造形をしていた。純血種に無駄な部分は無い。その容貌すら人間を殺す武器の1つとして、媒体とした人間の面影を残しながら最も人を魅了する造形に血が変異させる。
人間の時は精悍な軍人の容貌だった筈だが、血に飢え血に狂喜する化け物の媒体となった今は、元はあったであろう実直さや堅実さは見る影も無かった。
「お前がそのご慈愛とやらでわざわざ壊してやったってのになぁ。どぉせ同じだ。また造るんだろぉぜ、あいつ等」
嘲笑の矛先をここには居ない、そして世界中のどこにでも居る人間に向けて、戮耶は鋭い犬歯を剥き出して笑う。
「同族何百人も殺して、俺達みてぇな化け物をな」
「だろうな」
即座に肯定して見せた傑の唇には、笑みが浮かんでいた。嘲笑を消した戮耶の瞳が訝しげに細められる。
生命維持と血の保全に関するもの以外の信号を断ち、脊髄反射並みの伝達を可能にしている戮耶の背筋を、違和感が氷塊となって滑り落ちた。
「今は“大戦”前の置き土産の俺達を消そう、ってお題目だろうけどな。どうせすぐに切り替わる。いいんだよそれは。寧ろ遅い」
「…おいおいおい、てめぇは人間共の為にあの時施設をひっくり返してデータをぶっ壊したんだろぉが。ついにエラーでも出たか?」
つまらなそうな顔で問いかけながら、戮耶の重厚な軍靴に包まれた爪先が足元の床の破片を足首の動きだけで跳ね上げる。道端の枯れ葉でも跳ね上げるような動作だったが、戮耶の腰の位置まで跳ね上がった破片は大人の頭部より更に1周り大きい。
「たった15の“代替わり”で出るかよ。お前じゃあるまいし」
純血種の動体視力でも追いきれない、烈風のような戮耶の回し蹴りによって飛来した破片を軽く身を捌いて避けながら、傑はどこか呆れたように笑った。
弾丸となったコンクリートの塊が頑丈な筈の廃墟の壁を突き破り、背後から響く轟音を聞き流しながら、深い藍色の瞳が思案するように右上に動く。
「それでも本媒体だけでも5つ。繋ぎの10を合わせて、…ざっと劣化は0.3ってとこか」
何気ない口調で、傑は初代との劣化率を口にした。代替わりによる血の劣化率の計算は、自分を含めた15の媒体の個体能力を数値化し、血の適応程度を推測し確立。更に個々の媒体が存在した諸々の環境をも数字として導き出し、方程式に組み込むという、“大戦”前に存在した高性能演算機でも1分ないし2分の時間を要する極めて複雑なものだが、“純血種”の脳はその解を導き出すのに5秒と掛らない。
「成る程成る程、そんじゃぁあとてめぇが10か12も本媒体で代替わりをしてくれりゃあ、成功例様は俺様のお仲間の欠陥品になってくれるわけか」
破片を蹴り抜いた右足でじゃり、と破片と砂利の混じった床を踏みながら、戮耶はその唇を凶暴に吊上げる。片目を眇め、片目を見開いた左右非対称の藍色は、鈍い嘲弄の輝きを孕んで傑を見ていた。
「9割方間に合わねぇな」
表情に反して静かな声が、腰を落として直線で肉迫した戮耶の背後に流れる。足下の床を踏み割ることもなく、筋肉が生んだ力を全て疾走へと変えた同族の喉への抜き手と、腕と百分の1秒遅れて脇腹を狙った爪先とを、傑は掌と膝で受け止めた。鋼鉄をも貫通する重い2撃を受け止めた傑の片足が、じゃり、と靴裏で砂利を鳴らす。
「また壊すか?お偉い慈悲心とやらでよぉ、また億が死なねぇように千を殺すのかよ?なぁ傑」
「お前さ、少しは考えてから物を言えよ」
「あ?」
疲労感すら滲ませながら溜息を吐いて見せた傑に、戮耶は跳ねるように後退しながら怜悧な美貌を歪めた。白磁の彫刻のような五指が、顔を傑に向けたまま傍らの床に突き立つ鉄骨を握る。
「お前のポッド番号なんて下の下の末端情報が今頃解ったようじゃ、“造り方”まで辿りつくのにあと何百年要ると思ってンだよ」
「750か800年だろ。試作品ならその3世紀前くらいには造れるだろぉけどな」
「その試作品の辺りで俺が狂って、お前等が暴れる。“その時”の俺がどこに居るかにも因るけど、」
言葉を区切った傑の視界を、戮耶が片手で投擲した巨大な鉄骨の断面が埋め尽くした。大気中の分子との摩擦による悲鳴を置き去りに、音速を超えて迫る鉄骨を、風圧に目を細めることすら無く傑は跳ね上げた右足で蹴り上げる。
軌道を変えられた鉄骨が歪みながら、天井から皇国の上に広がる夜の帳の中に突き抜けた。蹴り足を下ろした傑は表情も変えず、指先で自らのこめかみをとん、と叩いて見せる。
「俺のここが狂ったんなら、きっと人が多い場所だろうな。地形次第じゃ国3つは潰れる」
「それで残った間抜けが“こんな恐ろしいものを造るのは止めましょう”ってか?」
「まさか。加速はしても減速なんてするかよ」
大仰に両手を広げて見せる戮耶に苦笑しながら、傑は退屈そうにこめかみに宛がっていた手をジーンズのポケットに突っ込んだ。
「5匹の化け物が自滅してくれて万歳、って思う裏側で残った連中が国力として“後輩”を造ろうと躍起になる。その頃には俺が適当に壊しといたデータも全復旧、そこで俺の欠陥に気付けばそっから2世紀、気付かなかったら50年」
淡々と、まるでそこに見えているかのように遠い先の話をしながら、傑はそこで虚空を見つめていた藍色の瞳を僅かに細めた。
「…どっちでも、100年以内に人間は全滅するだろうな」
平坦な声で断言し、傑はようやくその視線を戮耶へと戻した。長語りの最中でも自分の隙を覗っていたであろう戮耶の、己と同色の藍色の瞳を真正面から見つめる。
「1000年以上延ばしたんだ、及第点くらいは貰えるだろ」
深い海の底、或いは夕と夜の狭間のような瞳は、どこか寂しげな笑みを孕んでいた。
その双眸に真正面から見据えられた戮耶は、しばらく表情も無く傑の美貌を見つめていた。噤まれていた唇が開く。
「……ふぅん」
気の無い感嘆符を零した唇が、三日月に裂けた。
「そぉか、てめぇはそぉだったな。それじゃあつまり、だ」
喜悦に歪んだ唇を、赤い舌先が毒蛇のようにぞろりと舐める。
「てめぇのその筋書きが完成する前に、俺がそれをぶっ壊そうとしたら、さぞかしてめぇは怒るんだろうなぁ。代替わりした全部の“成功例”様が、今までみてぇな生温いお遊びじゃなく、どれもこれもみぃんな俺を本気で殺そうとするんだろぉなぁ」
抜き身の刃のように鋭い戮耶の瞳が、傑を見据えたまますぅと細められる。視界には傑の一挙一動が映り、意識は全身の筋肉の動きを油断無く観察しているが、破壊と殺戮を存在意義とする武器としての意識は既に傑を見ては居なかった。
殺し壊す為の刃として造られたにも関わらず、誕生の瞬間から3代までその本能に従う事を微塵も許されなかった戮耶の飢えは強い。代替わりの度にその時の“世環傑”に挑みかかって来るのも、その破壊衝動の捌け口を求めてのことだ。
軟弱な人間や、その人間が繰る劣悪な兵器を幾ら壊しても、殺しても、物足りない。殺さずに敢えて残したことへの責任として相手をして来た先代の“世環”達も、欠陥品の戮耶如きに殺意など向けない。媒体が死ぬ程度にあしらわれるだけだ。
だが。人間の剣士や闘士のように、愚直なまでに兵器としての闘争を望むことが戮耶の本能であるのならば、“成功例”の本能もまた別にある筈だ。それを刺激すれば殺意を引き出せる。
欠陥品の自分がその果てに死ぬこと等、戮耶の眼中には入っていない。未だ経験した事の無い程の窮地と死闘こそが“戮耶”の目的であり、それ以外の事は全て取るに足らないどうでもいい事だからだ。
「…やっぱ、お前ならそう来るか」
戮耶の内心を見透かしたように小さくそう呟き、傑はポケットに突っ込んでいた手をゆっくりと引き出す。紅唇には薄い笑み。
「でもまぁ…さすがにそう出られると俺も困る」
まるで冗談でも言うように、傑は軽く首を竦めて見せた。深く腰を落とし、爪先でミリ単位の間合いと隙を計る戮耶に対して、ただ突っ立っているようなその姿勢はあまりにも無防備だった。
「どうせ俺の足止めくらいにしかなんねーだろうとは思ってたし、残りの連中の劣化率も合格点。ついでにあの2人にも脅されてるし。…そうだな」
独白するように言う傑の視線が僅かに左へと逸れる。その瞬間を、戮耶が見逃す筈も無かった。
疾風となって刹那に距離を詰めた戮耶の動きが傑の眼前で軌道を変え、“成功例”をも超えた瞬発力で右、傑の動体視力を超えた動きで更に死角へと回り込む。治癒の間の1秒という、最速の“純血種”にとっては十分に過ぎる隙を造るべく突き出された、生身の刃をも超える抜き身の手刀が、破壊を求めて傑の右肩に迫る。
月光の中、黒々とした鮮血が戮耶を、傑を染めた。吹き上がる血が未だ雫として跳ぶ1秒の百分の1の世界の中、完璧に美しい唇が笑みを浮かべる。
「…お前は、もう要らないか」
ゆっくりと動く唇が発した言葉を鼓膜で捉えた直後、戮耶は自分の内臓が体内で握り潰される音を聞いた。
何故?何故と聞くの?
決まっているわ、そんなの。生き物が必ず死ぬことくらい当たり前の事よ。
だって私達は“化け物”ですもの。
人間を殺す為に人間が造った人間に良く似た別のモノ。
100人の人間を犠牲に造られた私達の血の一滴、細胞の1つが全てその為に造られたの。
あなた達が見惚れてくれるこの顔だって。
“純血種”という災厄を招く最悪の武器で兵器の付属品。
私達は1つも無駄な部品なんて無いのよ。
私達はどこを取っても完璧に武器なのよ。
そしてあれは私達の中で最も優れた。
私達の“王様”。
あの武器の安全装置は人間以外には作動しないの。
私達はあなたが享受している恩恵が受けられないの。
武器は何の為にあるか解るでしょう?
だってそれが存在意義なんだもの。
仕方のないことよ。
あの子は“すぐ”には帰って来ない。
あの子は“絶対”に帰って来る。
ずっとずっと安全装置を掛けられた意思ある銃が
ずっとずっと獲物を前に待てをされていた猟犬が
安全装置を外されて
命令を解除されて
圧倒的な暴力で獲物を食い散らかす事を
我慢出来る道理も必要も無いもの。
私達の王様は、私達の誰より残酷なのよ。
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