横合いから正確に膝の関節を狙った戮耶の蹴りは傑の右足を完全にへし折り、鈍い音を立てながらささくれ立った骨が肉とジーンズを突き破った。
パンッ。
噴き出した血がひび割れたコンクリートに散るより速く、腰の銃を抜いた傑は左から肩を抱くようにして嗤う戮耶の頭に向けて発砲するが、既にそこに戮耶の姿は無い。
「来ると思ってたぜぇ、すーぐーるぅ」
まるでステップを踏むように、たんたんと軽快なリズムで間合いから後ずさりながら、戮耶はへし折れた傑の右足を見て心底愉しげにぞろりと舌舐めずりをした。
「お前は人間サマがだぁい好きだもんなぁ?来ないワケにはいかねぇよなぁ?」
「…まぁな」
藍色の瞳を爛々と輝かせて大げさに首を傾げて見せる戮耶に、傑は素っ気なく答えながらジーンズを突き破る足の骨だった物を根元からへし折る。稼働域を超えて内側へと折れ曲がっていた右足を床に叩きつけ正常な位置に戻すと、骨によって邪魔をされていた治癒が瞬く間にそこを修復した。
「おーおー、相変わらずお早いこって」
「お前が遅いだけだろ、“欠陥品”」
「…遅ぇのはお前だ、傑」
からん、と血にまみれた骨の破片を投げ出しながら薄く笑う傑に、戮耶はそれまでの喜色満面という顔から一転、憤怒も露わに鼻面に皺を寄せながら低く唸る。
「“欠陥品”の俺をこぉんなに待たせやがってよぉ。知ってんだろうが、俺様にはてめぇ等みたいにご大層な自制心なんぞついちゃいねぇんだぜぇ?」
心底腹立たしげにそう吐き捨てた戮耶は、ポケットに突っ込んでいた片腕を振るようにして傑の目の前に2つの白い球体を放った。
それは鳶色の瞳を持つ眼球だった。砂に塗れながら転がったそれは硝子体が抜けて僅かにしぼみ、二度と収縮することのない瞳孔で虚空を見つめる。
「……」
「18人、だ」
足元に転がった眼球を一瞥しても顔の筋一つ動かさない傑に、にたりと唇を三日月形に釣り上げた戮耶が告げた。
「お前が早く来れば死なずに済んだのになぁ?」
「そうだな」
淡々とした傑の言葉の語尾を、伽藍堂の廃墟に高く反響する発砲音がかき消す。連射される大口径の銃弾は全ての軌道が戮耶の急所を正確に捉えていたが、狂気の笑みを浮かべた戮耶は空気を裂きながら飛来する鉛玉に向かって、呼応するように床を蹴る。
低い姿勢で疾駆する戮耶の肩を、足を、弾丸が掠め血飛沫が散るが、愚直なまでに傑に向かって直進する戮耶の足は止まらなかった。地を這うように低い姿勢から伸びた腕が銃を握る傑の右手首を捉え、それを捻りながら指を揃えた手刀が傑の首に迫る。
指先が喉笛に触れる寸前で、首を狙った手刀は傑に掴み取られ強引に制止。関節の稼働域を超えて捻られた傑の右腕が、肘の関節を破壊される乾いた音を立てた。
「おいおいおい何だぁ?これ」
片目を眇め、もう片方の藍色の瞳をぎろりと剥いた左右非対称の顔で、戮耶は傑の手の中にある銀色の銃を一瞥する。
「こいつは人間を殺す玩具だろぉが」
「……」
関節を破壊された右腕が、肉の中で折れた骨が砕かれる音を立てながら反対側へと捻られる。神経が筋線維が皮膚が捩れ、柔軟性を超えた動きにぶつぶつと引き千切られて行くのを横目に、傑はぎりぎりと喉元へ押し込まれる戮耶の手刀を捉えた手を強引に自らの首筋へと流す。
頸動脈の上の皮膚を浅く切り裂きながら純血種の膂力で押し込まれていた手刀が脇へと流れ、膠着状態が解かれると同時に、肘の下から引き千切られた右腕が投げ飛ばされる。
弾丸の速度で至近距離から赤い肉と砕かれた骨の切断面を見せて放たれたそれを首を振って避け、引き戻した左腕で脇腹を狙った戮耶の蹴りを受け止める。血に濡れた戮耶の手が米神を狙うのを横目に半歩踏み込み、傑はガラ空きになった戮耶の胴体に短くなった右腕を突き立てた。
「…へっ」
敢えて治癒を遅らせ飛び出したままの骨が戮耶の胸板に突き刺さる。咄嗟に傑の米神を狙っていた腕を引き戻し、右肩を掴んでそれ以上の侵入を阻止した戮耶が、額が触れ合うような至近距離で己を見据える傑を鼻先で笑った。
肩を掴む腕を支点に砂利を巻き込みながら引き上げられた足が傑の胸板を蹴りつけ、弾かれたように離れながら空中で回転、間合いから抜けた位置で両足で着地した戮耶の胸板から、衝撃に吹きだした血が灰色のシャツを濡らす。
傑の腕が貫いたのは戮耶の心臓の真上だった。もう少し押し込まれていれば、骨の刃によって純血種の唯一の弱点は破壊されていただろう。だが、腰を落とした低い体勢から傑を睨めつける戮耶の表情に、弱点を突かれた恐怖は無い。
「そうだ、そうこなくっちゃなぁ。俺達はこうだ、“こう”なんだよ、そうだろ傑!」
「…煩ぇよ」
楽しくて堪らないように叫ぶ戮耶に小さく吐き捨て、傑は砂利を踏みしめながら床を蹴る。卓越した脚力は床を踏み割り、一歩目で最高速度に乗った体から失った右腕の代わりのように尾を引く鮮血の合間から、じゅるりと白い骨が現れた。
完全な腕の形をした骨の周りに溢れる血が吸い寄せられるように絡まり、出血が止まると同時に筋肉と神経と血管に覆われた腕の上を、さざ波のように皮膚がぞわりと覆って行く。1秒足らずで再生された右腕の5指を感触を確かめるように握り、作られた拳が戮耶の側頭部を殴りつける寸前、ぐるりと縦に回転した戮耶の足が傑の顎を狙って下から伸びあがる。
空気中の分子が焦げ付くような速度で放たれた必殺の蹴りを眼前でクロスさせた腕で受け止め、逆立ちの体勢になった戮耶の頭部を狙った爪先が、片腕で全体重を支えた戮耶の掲げられた腕にめり込む。
筋肉を破壊し骨をひしゃげさせる蹴りを受け戮耶が後方に吹っ飛ぶが、傑の予想に反して爪先は腕を突き破らず負荷が軽い。受け止める寸前に地面に着いた片腕と、傑に受け止められた両足とで自ら後方に飛んだのだ。
速度に特化し過ぎた為に力が劣る欠陥品とはいえ、戮耶も純血種だ。蹴り足の生む風圧と、腕1本の犠牲では相殺しきれなかった衝撃で脳しんとうくらいは起こしているだろうが、頭蓋骨を陥没でもさせない限り反応速度の低下すら見込めない。廃墟内の暗がりに消えた戮耶を追撃しようと引き戻された足は、だが前ではなくその体を後方へと飛ばした。
「さっきのはそれなりに効いたぜぇ?」
先程まで傑が居た位置に、轟音を立てて錆びの浮いた鉄骨が落ちる。
せせら笑うような戮耶の声に顔を上げた傑は、剥き出しになった梁の上に立つ戮耶の、その体躯には大きすぎる影に軽く舌打ちをした。
「おら、お返しだァ!」
穴の開いた屋根から降り注ぐ月光に照らされた3メートル近い太い鉄骨が、巨大な砲弾となって傑に迫る。
左右の窓の全てをブラインドに遮られた渡り廊下のタイルを、“街”唯一の高等教育機関である第四スヴァイル皇国学院の女生徒指定ローファーが、一定のリズムで叩く。
「んー、それじゃぁー今日はお休みー?」
渡り廊下の端にある重厚な木の扉の前で立ち止まりながら、Fは不満そうな声を上げつつ巨大な熊のぬいぐるみがぶら下がった端末を持ち代えた。襟元で緩く蝶々結びにされたチェックのスカーフの端を弄びながら、表面上には何の変哲も無い扉に顔を近づける。
扉の内部に据え付けられた認証装置が作動し、かちりと小さな音を立てて開いた両開きの扉を、虹色のペンが挟まる分厚いファイルを持った手で押し開き、左側に窓の代わりに一定間隔で扉が並ぶ廊下を、膝下までを紺色のハイソックスに包まれた細い足が更に進んでいく。
「うんー……えー?」
緊張感の無い間延びした声で通信に答えながら、Fは並ぶ扉の1つの前で足を止めた。『フュルシアナ』と彫り込まれた銀のプレートの下、ピンクの猫のカバーが掛けられたノブをノックもせずに開く。
長方形の部屋は角に大きな机と回転椅子、そして手前に2人がけのクリーム色のソファがあるだけで、他は全て本と紙片の山だった。壁一面に備え付けの棚には上から下まで本と書類が乱雑に詰め込まれ、大人が寝そべれる程の机の上には大きな液晶と、コードで繋がった正四角形の巨大な演算装置、そして色とりどりの付箋をはみ出させたファイルや書類が積まれている。
「…だってぇーそんなのつまんないよぉー。…むー…」
液晶の傍らに積まれた書類の山の上に持っていたファイルを投げ出し、解いたスカーフを指先に絡めながらFは机の傍らにある椅子に腰掛けた。ぎしりと背もたれを揺らしながら、液晶に表示された複雑な計算式に直接指を触れてファイルごと画面隅へと退かし、その後ろに展開されていたILLの応対システムを呼びだす。
「…それもそーだけどぉー……じゃあー、受け付けはぁー?」
かつかつと画面の縁を指先で叩くFの瞳は、ILLの本部塔から専用回線で転送されたリアルタイムの本部塔正門の映像を眺めていた。既に外は夕闇に呑まれた筈だが、高度な光感度を持つレンズを通された映像は昼間のそれと変わり無い。
「ゴシックがやってくれるのぉ?それならあたしも安心だけどぉー…うんー…あ、」
頷くと同時に画面を16に区切っていた映像が一斉に暗転し、通信の遮断と共にシステムそのものが停止、閉じられてしまう。恐らくゴシックが本部から回線を切ったのだろう。了承しない内からの締め出しにFは少し不満そうに切れた端末を見つめ、小さな溜息と共に閉じた。
「クレープ食べに行けばよかったなぁー」
スカーフをひらひらと空中で揺らしながら、Fはクリーム色の天井を見上げて呟く。薄い色のルージュを引いた唇があーあ、と溜息を漏らすのに答えるように、扉が鳴った。
「…あら、ここに居たのね」
開いた扉の合間から顔を覗かせたのは、柔和そうな顔に丸い眼鏡を掛けた小太りの女だった。Fの母ほどの年齢に見える彼女は穏やかに笑いながら部屋に入ると、ソファの上に投げ出されていた書類を手早く纏める。
「今日は“お仕事”は行かないの?」
「それがねー、聞いてよマーサぁー、酷いんだよぉー?」
「はいはい。どうしたの?」
椅子から立ち上がって駆け寄り、自分より少し低い位置にあるその腰に抱きつくようにして背中に持たれるFにくすくすと笑いながら、マーサは纏めた書類を足元に置いた。ぼすんとソファに座り込んだFの傍らに自分も腰を下ろしながら、不満そうなFの横顔を柔らかいグレーの瞳で見つめる。
「なんかねぇー?傑っちの仲間が来ててー喧嘩しててー危ないからぁ、今日は来なくていいって言われたのー」
「あらあら」
「もしそうならぁ最初から言ってくれたらいいと思うでしょー?お陰でクレープ食べ損ねちゃったよぉー、あたしミンジェのイチゴクレープ大好きなのにぃー」
「それは残念だったわねぇ」
こてんと自分の肩に頭を乗せてくるFの、頬にかかる緩くウェーブした柔らかな髪を払ってやりながら、マーサはうんうんと頷いた。Fの発言の理不尽さには気付いていたが、未成年としてのFの現在の保護者であり、皇国有数の数学者であるFのマネージャーでもあるマーサはそれを敢えて指摘しない。
仕事の同僚がFの身を気遣ってくれることも、自分が安全であるという状況の重要性も十分に理解しているが、きっと仲間外れにされているようで寂しいのだ。確かに甘い物は大好きだが、Fはそこまで頭の悪い子供では無い。
「でも、心配ね。傑さんって確か…」
「純血種だよぉー、それも“成功例”ー」
マーサの肩にすりすりと頬を摺り寄せながら、Fは何でもない様な声で頷く。パチンと片手で開かれた端末を手早く操作し、不安そうな顔のマーサに画面に呼び出した地図の一部を指差して見せた。
「ここの辺りで喧嘩してるんだってぇー」
「B16廃墟群ね。皇都からは離れているけれど…」
「んーきっと半径5キロ範囲はぁ、軍警指定で言う危険レベル5だよねぇー」
言葉と共にカチカチと操作された端末の中の拡大地図の一部を、半透明の赤い円が囲む。輪の端は僅かに皇都の郊外に掛っており、その円から数キロの位置に、地下の“街”へと降りる唯一の垂直鉄道の乗り場があった。
「そんなに広いの?」
「そーだよぉ。もう1人は速度特化型みたいだしぃ、傑っちはアレだしー」
通信端末を閉じて栗色の髪を指に絡めながら、Fは眠たげに半眼に伏せられた目で天井を見上げる。
「個体の戦闘能力を単純計算すればぁ、このくらいが妥当なんじゃないかなぁー?傑っちは人間のこと好きだからぁ、実際はもうちょっと狭まると思うけどー」
やる気の無い声で言いながら、Fは床に積まれた書類を伸ばした手で摘まみ上げた。書類とファイルの間に挟まっていた真っ白な封筒が落ち、赤く封蝋がされたそれを見たFの瞳が僅かに細まる。
「あら…でも、現存5種の“純血種”の力量はまだ数値化出来ていないんじゃなかった?」
「んーん、もう出来てるよぉー。さすがに詳細なデータは出てないしぃ、取れないけどぉー、各国の研究所がぁ“大戦”前のデータを色々復興してるみたいだしー」
一般公開はされていない国家機密レベルの情報を漏らしながら、Fは皇王と一部の皇族だけが掲げることを許された紋様で封をされた手紙を開いた。中から出て来たのは1枚の羊皮紙。
「…酷い話だよねぇー」
「え?」
羊皮紙を開き、文末の差出人の名を見た瞬間書かれた文字を読もうともせずに手紙を仕舞い込みながら、Fは怪訝そうな顔のマーサに微笑んだ。
「だってねぇ?14代前の傑っちはぁ、もう2度と“純血種”みたいな化け物が作れないようにー、わざわざ世界中のデータを壊したんだよぉ?」
「そうね」
「そうやって一生懸命守ろうとしてくれたのにー、わざわざ必死になって直してるんだもんー。これじゃぁ無駄だよねー」
そう、彼はきっと守ろうとしてくれたのだ。各国“遺術”研究機関はそれを自己防衛の為と判じているが、Fにはそうは思えない。何十年と掛けて先日やっと復興したデータの中では、彼等の中で傑だけが成功例である理由も解明された。彼にだけ残された慈愛という感情を、研究機関の人々は未発動か、一時的な不調としているが、きっとそうではないだろう。
神の真似ごとをした人間に造られた彼は賢いのだ。
「でも…それじゃあ、どうして4人だけ残したのかしら。他の4人は、純血種とはいえ欠陥品なんでしょう?もし1人が人間に捕まったりしたらデータを壊しても…」
「それは仕方が無いんだよぉ、マーサ」
封筒の端を丸めながら、Fはゆっくりと首を横に振る。
「…だって全部殺しちゃったら、誰も彼を殺せなくなるんだもの」
ぽつりと呟かれた声は低く、マーサがぴくりと肩を揺らした。一瞬だけ真顔になったFは即座にいつもの緩んだ笑みを浮かべると、手紙をひらりと床に落としながら再びマーサを見上げる。
「報われないよねぇー。ねぇマーサぁ、あたしねぇ?自分の名前もー、血もー大っ嫌いー」
「フュルシアナ…」
「でもねぇ?もし生まれ変われるとしても、」
ひらりと視界の端で揺れる白いものに、マーサが床に落ちた手紙を一瞥する。Fに宛てて出された白い封筒の裏には、宛名としてフュルシアナ・セルヴィール・ザドス・アセドナリア・シビと書かれていた。
大陸一の国土と経済力を持つこのザドス皇国の国名を名に持つ、正当な皇族の血を引く少女は、淡い菫色のカーディガン越しにマーサの腕に縋りながら、独り言のように潜めた声で呟く。
「“純血種”だけは絶対に嫌」
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