07.



 大穴の開いた窓から吹き込んだ風が、窓辺に立つ悦の蜂蜜色の髪を揺らす。

「…あの馬鹿」

 既に影すら見えない傑に向かってそう呟き、悦は僅かに赤く染まったのを隠すように、傑の唇が触れた頬を乱暴に手の甲で擦った。

「…ねぇ見た?シェナ」
「勿論よ、ゾイ」
「驚いたわ」
「私もよ」
「……」

 さっと暗色のカーテンで窓を覆って振り返った悦を、ソファに腰掛けた2人の美女が口々に囁き合いながら揃って見上げる。傑のことを“私達の王様”と呼ぶくらいだ、嫉妬されるか、もしくは嫌悪感も露わな反応を予想していたのだが、悦の考えに反して2対の藍色は好奇心に満ちていた。
 仕事を抜きにして人前でキスをされる、というだけでも照れくさいのに。居たたまれない思いで思わず2人から視線を反らした悦の視界に、黒い塊が映り込む。


「…悦君は傑のお気に入りなんだよ」

 シェナとゾイの足元、ソファの影に半ば隠れるようにして膝を抱え、フローリングの上に直接座り込んだヴェルディオが、先程シェナに引き千切られた掌の黒革を指先で弄びながらぽつりと呟いた。
 …まだ居たのか。

「…ね、悦君」
「あ?…あぁ、うん…」

 伸びた前髪の合間から頼りない藍色に見上げられ、あんな場面を見られては今更否定も出来ずに悦は鷹揚に頷く。


「そんなの見れば解るわ」
「貴方は黙ってて」
「ねぇ悦くん、私達貴方に聞きたいことが増えたの」
「私達とお話ししましょうよ」

 肯定して貰ったのが嬉しいのか、無気力な表情のままに悦にこくこくと頷き返すヴェルディオをぴしゃりと黙らせ、シェナとゾイは同時に座る位置を少しずらした。
 ソファの背もたれにしな垂れかかりながら、薄ピンク色のふわふわとしたトップスから伸びるゾイの腕が悦を手招くが、彼女達が招いているのは2人の間に僅かに出来た、人一人がようやく座れる程度のスペースだ。

 こんな美女2人を侍らせるなどなかなか出来ることではないが、いくら傑で慣れているとはいえ、さすがに化け物2人に左右を固められるのは遠慮したい。

「聞きたいこと?」
「…あら、ダメよ」

 何気ない調子で聞き返しながら差し伸べられたゾイの手を無視して、窓側の開いたスペースに腰掛けようとそちらに視線をやった悦を、ほんの少し不機嫌そうに眉を潜めたゾイが咎めた。


「こっち、≪悦くんは私の左隣に座るの≫」


 カクン。

「…え?」

 ゾイの言葉と同時に一気に力の抜けた足を思わず見下ろすが、完全に力が入らないのに何故か膝は崩れず、悦の体を支え続けていた。
 ぷつりと神経を切られたように悦の意思に従うことを止めた悦の両足は、戸惑う脳を置き去りにしてすいすいと進み、楽しげに笑うゾイの“左隣”のソファの上にストンと腰を下ろす。


「な…っ」
「…ゾイったら。驚いてるじゃないの」
「あら、ごめんなさい」

 くすくすと鈴を転がすような声で笑いながら、右側からゾイの白い腕が肩に、左側からシェナの褐色の肌が足に絡みついた。

「大丈夫よ、もう動くでしょ?今のは催眠術みたいなものだから」
「…催眠術?」
「ゾイの声帯は特別なの」

 左右から交互に囁かれる言葉に右足をほんの少し持ち上げてみると、違和感の消えた右足は確かに悦の意思に従って床から足を浮かせる。

「…聞きたいこと、っていうのは?」

 両足の感覚を確かめてソファの背もたれに体を預けながら、悦はゾイにちらりと視線を向けた。
 今の現象については激しく疑問が残る所だが、どうせ聞いた所で学の無い自分には仕組みを理解することなど出来はしない。そもそも普通ではない“純血種”が特別なのだと言うのだから、ゾイの声というのはそういうものなのだろう。


「私達、あの素敵な人のことを聞きたいの」
「あの脆弱で傲慢な人間のことを」
「ここで一番偉いって言ってたんだけど」
「お名前を知らない?」
「…心当たりはある、けど」

 揃って首を傾げるシェナとゾイの表情を覗いながら、悦は敢えて言葉を濁した。
 不信感も露わな悦の表情を見て言いたいことを察したのか、ゾイがくすりと笑い、シェナが少し困ったようにゆるいウェーブの掛った金髪を指に絡める。

「大丈夫よ、別に聞いてどうしようってわけじゃないわ」
「あの子がサーニャに凄く似てたから、兄弟なのかどうか知りたいだけ」
「さーにゃ?」


 確かそんな名前の登録者が参級に居た気がするが、恐らく2人が言っている“素敵な人”というのは鬼利のことだ。勿論、あんなセコい強盗崩れと鬼利は似ても似つかない。
 2人の条件に符号するのは悦が知る限りでは1人だ。サーニャ、などという名前とは似ても似つかないが。

「…あぁ、もしかして」
「そうね、名前が違うのかも」
「今はなんて名前なのかしら」
「悦くん、知らない?」
「人の心が“視え”る、作業服を着た男の子なんだけど」


 …なんだ、もう知ってるのか。
 ここまで解っているのなら、今更名前なんて隠しても仕方が無い。この2人は本当に、確信が欲しいだけなのだ。

「…幽利」
「家名は?」
「佐緒。さっき言ってた“素敵な人”ってのは鬼利で、その幽利の双子の兄貴だよ」
「佐緒…」
「やっぱりね」

 悦を間に挟んで顔を見合わせ、2人の“純血種”は同時に嗤う。

「兄弟なら変だけど、双子なら」
「有り得ない話じゃないわ」
「どうりで、あんなに素敵なのね」
「お兄ちゃんですもの、頑張ったのよ」
「素敵ね」
「素敵」

 美貌を見合わせた2人は、ひとしきり継ぎ目の無い会話を交わしてくすくすと笑うと、同時に悦を振り返った。

「ありがとう、悦くん。お陰ですっきりしたわ」
「サーニャっていうのはね、私達の“同族”の名前」
「正確にはだった、だけれど」
「…だった?」

 訝しげに問い返す悦に、ゾイは寂しそうに笑い、シェナは悦では無くそのサーニャを侮蔑するように目を細める。


「あの子は酷い欠陥品だったの」
「“千里眼”は定着したんだけど、代替わりが出来なかったのよ」
「一代で死ぬ“純血種”なんて居ないわ」
「だから“千里眼”のプログラムだけ抽出されて、人間のお金持ちに売られたの」
「超人になりたい成金にね」
「今、“遺術”って言われている物の大半は、そうやって私達の“同族”から人間に移された技術なの」

「他の子はそれでも少しは遺せていたんだけど」
「あの子は無理だったみたいね」
「私達のことすら遺っていなかったもの」
「あるのは“千里眼”だけ」
「他はただの人間と変わりないわ」
「…じゃあ、鬼利も」


 200年前に佐緒家の先祖が買った“遺術”が幽利に遺伝しているなら、純血種のように“千里眼”が人間の中でも受け継がれていくものだとしたら、幽利の双子の兄である鬼利にも。
 知らなかっただけで本当は、という悦の疑問を、だがシェナとゾイは揃って首を振って打ち消した。

「それは無いわね」
「それならあんなに素敵じゃないわ」
「双子、なのに?」
「双子だから、よ」
「遺伝子が偏ったんでしょうね」
「あの人は正真正銘ただの人間」
「だから素敵なんじゃない」
「そうよ」


 当然のように言うゾイに頷いたシェナが、悦の肩に頭を乗せながらうっとりと遠い目をして虚空を見つめる。

「ただの人間だから美しいのよ」
「あの人はとても賢いでしょう?」
「…あぁ」

 確かに鬼利は賢い。悦には呪文にしか見えない本をすらすらと読み、数値化等出来る筈も無い登録者1人1人の技能を知り尽くし、荒事の経験など皆無だろうに割り振った仕事に対して正確な推測を立てる。
 世界唯一の犯罪斡旋機関であるILLを、事実上動かしているのは鬼利だ。学問のことは悦には解らないが、外側では巨大企業や国家を相手どり、内側では壱級指定の賞金首を纏めあげるなど、並みの才能では無い。


「頭が良いのは勿論だけど」
「あの人は物の使い方を知っている」
「状況を正確に把握して」
「最善の行動を取れる」
「きっと一生懸命努力したのよ」
「だから素敵なの」
「私達には真似できない」
「最初から完成してる私達には進化は出来ない」
「あの人は努力して進化したのよ」
「弟に負けないようにね」
「とても素敵」


 …それは違う。

 左右で顔を見合わせる2人を横目に、悦は内心で呟いた。

 2人の分析はきっと正しいのだろう。だが、鬼利は幽利に負けないように努力したわけでは無い。
 きっと鬼利はつり合いたかったのだ。
 人間離れした“千里眼”という能力を持った幽利に、その片割れとして。


「でも、それなら悦くんだってそうね」
「…俺が?」

 不意に話を振られて思わず聞き返せば、シェナとゾイは揃って頷くと左右から悦に顔を寄せた。
 非の打ちどころのない白と褐色の美貌。藍色の瞳が真っ直ぐに悦を見つめる。

「そうよ。だって傑のお気に入りだもの」
「獅子を怖がらない鼠なんて普通じゃないわ」
「あなたもあの人も壊れてる」
「残念なのはあなたもあの人も傑のお手付きだってこと」
「横取り出来ないのが残念」
「そうね」
「…ああ、でも」

 揃ってどこかつまらなさそうな顔をした2人は、だが同時に顔を見合わせると同時に互いに向かって微笑んだ。

「そうね」
「もしかしたらこれは絶好のチャンス?」
「今なら横取りできるかも」
「だって相手は戮耶だもの」

 戮耶。
 悦がまだ顔を知らない5人目の純血種。4人が揃って一番の欠陥品だと言っていたが、その戮耶と言う同族の呼び出しに傑は一も二も無く応じて出て行ったのだ。

「…そんなに強いのか、その戮耶って奴」
「強くは無いわ」
「とても速いだけ」
「でも…そうね、相手が戮耶だから」
「悦くん、傑がさっき“すぐに戻る”って言ってたと思うけど」


 思わせぶりにそこで言葉を切り、シェナとゾイは左右からそっと赤い唇を悦の耳元に寄せ、笑みを含んだ声を吹き込む。


「…多分それは」
「無理」


 穴の開いた窓を覆う暗色のカーテンが、吹き込む風にふわりと揺れた。










 地面を固めたコンクリートは所々に亀裂が走り、その合間から伸びた雑草が、その工場が既に廃墟となって久しいことを示していた。

 Y地区真上、空。
 皇都の発展に従って捨てられた廃墟群は既にその存在を忘れ去られ、朽ち果てた姿を天然の月光の下に晒している。


「……」

 じゃり、と靴底とコンクリートに挟まれた砂が音を立てるのを聞きながら、傑は屋根が落ち梁が剥き出しになった工場をぐるりと見渡した。
 既に骨だけとなった屋根から差し込む月光に照らされた屋内はガランと広く、片隅に機械の残骸が積み上げられている。壁には以前ここに居た人間が使っていたであろう工具がまばらに掛っていたが、錆びついたそれ等はもう二度と使われることは無い。


 風の流れる音すら聞こえそうな程静まりかえった伽藍堂の廃墟の中で、傑の足音だけがやけに大きく響いていた。

 今、ここで動いているのは傑だけだ。
 傑をここに呼び出した“同族”―――戮耶の姿は無い。ヴェルディオは確かにこの場所を指定したが、あいつがこんな何も無い所で大人しく待っていられるとは思えない。

 皇国に忘れられたこの廃墟群の片隅は、移民難民の格好の潜伏場所だと聞く。ここからは随分と離れているが、あの戦闘狂のことだ。暇つぶしにそこの人間達を虐殺しているのかもしれない。


「……」

 最後に一度ぐるりと工場内を見渡し、傑は中央に向かって進めていた足を止めた。靴裏で砂が鳴るのを聞きながら、シャッターが崩れ落ちた入口を振り返る。

 トン、

 踵を返して再び歩き出そうとした傑の肩に、腕が乗った。
 剥き出しになった梁が月光を遮って出来た影から伸びたその腕は、まるで抱くようにして背後から傑の肩に回され、足を止めた傑にぐっと体重を掛ける。


「…ひっさしぶりぃ、待ってたぜぇ?」
「……」

 見せびらかすように月光の中でぱきぱきと指を鳴らす腕を払うこともせず、無言で振り返った傑を、藍色の瞳がにたりと嗤った。


「“王様”」


 ゴキッ



 >>Next.




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