「…わかった」
ぱちり、と音を立てて閉じられた黒塗りの通信端末が、皺一つ無い同色のスーツの胸ポケットへするりと呑まれるように滑り込む。
医局【過激派】の最奥にある個人用病室の一室は壁も床も白く、黒いスーツを着こんで丸椅子に腰掛ける鬼利の姿は酷く浮いている。微かに衣擦れの音をさせながら足を組み替えた鬼利の傍らに立ちながら、カルヴァは真っ直ぐに目の前のベッドを見据える鬼利に薄青のカルテを差し出した。
「……」
「目立った異常は何も無いわ」
カルテに並ぶ文字は医療従事者のみが使う特殊な言語だったが、青い紙を汚す黒いインクを追う鬼利の視線は、皇国共通語を読むのと殆ど変らない。
無言でカルテを見つめる鬼利に微笑みながら、カルヴァはベッドの端に腰掛け、完璧な曲線美を描く足をすらりと組んだ。
「脳波は異常だけれど、」
「幽利にとってはこれで正常値だよ」
「…そうね」
差し出されたカルテを受け取りながら、カルヴァは鬼利の視線を追って白いベッドに横たわる“患者”の顔を一瞥する。
「外傷は無かったけれど、何か精神的なショックでも与えられたのかしら」
「と言うよりは…スペックを超えた情報量にクラッシュしたんだろうね」
「クラッシュ?…あぁ、そう言えば、傑は普段から“視え”ないって言ってたわね」
「遺術とは言え、幽利の“これ”は人間に適応するよう劣化させられた粗悪品だ。“純血種”はその遺術の最高峰。ただの人間とは質も量も違うんだと思うよ」
「成る程ね」
淡々と話す鬼利に素っ気なく相槌を打ちながら、カルヴァは赤いフレームの伊達眼鏡をくい、と指先で押し上げた。
200年前の大戦以前の最先端軍事技術。最強の歩兵を造り出す為の人智を超えた研究にとって、幽利の“千里眼”などはその派生に過ぎないものなのだろうが、その欠片ですら現在の人間の理解を遥かに超えている。
いや、恐らく理解してはいけないのだ。
“遺術”の最高峰であるあの男がいい例だ。医者の目から見て、あれは既にあらゆる意味で人間では無い。あの術はそういうものなのだ。
「それで、どうするの?」
「なにも」
白衣の肩から流れる赤銅色の髪を耳に掛けながら小首を傾げるカルヴァに、鬼利はあっさりと答える。合わせられた夕陽色の瞳は相変わらず躊躇いなど欠片も見せず、可愛げの無いその視線にカルヴァはルージュを引いた唇を僅かに釣り上げた。
「…さっきの通信、傑でしょう?」
ピンヒールと同じ、眼が覚めるような赤に塗られた爪の先で、カルヴァは鬼利の通信端末をスーツの布越しにとん、と突く。
「珍しいわね、貴方が自分達以外を信用するなんて」
「それはこっちの台詞だよ」
妖艶に濡れた瞳を細めるカルヴァの言葉に、鬼利は小さく笑いながら背後の白い扉を一瞥した。
2人の純血種が正門を潜ってILLに入り、幽利を気絶させ、鬼利と共に迎えに出向いたキュールをその存在感でもって圧倒して放心状態にし、通された客間から消えたという話は既に幽利を運び込んだ仁王の口から語られている。
非戦闘員である雑務要員には既に極秘に情報を回し避難させている。仁王がカルヴァに話したのも避難を促す為だったのだが、扉の向こうの医局【過激派】の様子はいつもと変わりない。
「一応言っておくけれど、さっき言ったように僕はなにもしないよ」
「大丈夫よ、期待していないわ」
「万が一の時の為に、何か部下を護る秘策でも?」
「あら、私はただの医者よ?」
カルテを綴じたファイルをシーツの上に置きながら、カルヴァは心外そうに胸元に手をやった。
「私は貴方のように膨大な情報も、巨大な暴力も、何も持っていないわ。…ただ、私は女なの」
伏し目がちに白衣から伸びる自らの手を見つめていたカルヴァの瞳が、赤いフレーム越しに鬼利を見上げる。
「“男を見る目”ならあるつもりよ」
「…確かに、それは敵いそうもないな」
人を見る目ならともかく、男と限定されてカルヴァに敵う気はしない。笑いながら軽く首を竦めて見せた鬼利に、カルヴァは頬杖を突きながら探るような視線を向けた。
「それで、貴方はどうなの?」
「君の言う通り、僕は僕等以外を信用しない」
「あら。そうなの?」
驚いたように顔を上げたカルヴァの仕草はとても自然でわざとらしい所など1つも無かったが、鬼利にはカルヴァの内心がその仕草通りで無いのが手に取るように解る。
嘘吐きは嘘を見破るのが上手いものだ。
「僕は幽利と違って遺術の恩恵を受けているわけでもない、ただの貧弱で臆病な人間だからね。切り札が、単に勝率を上げるだけのモノじゃ意味が無いんだ」
「…その切り札が、あれなのね?」
言いながら、カルヴァは鬼利の胸元、正確にはそこに入っている通信端末を一瞥する。
「信用ではなく、確信ということかしら?」
「そうなるね」
「…そう」
鬼利が躊躇い無く頷いて見せるのを横目にしながら、カルヴァは腰かけていたベッドから立ち上がった。シーツに投げ出されていたカルテを片手に病室の扉へと向かいながら、再びベッドの中の幽利に視線を落とした鬼利をちらりと一瞥する。
「ありがとう。お陰で安心したわ」
毒を含んだ言葉と共に、黒い異物を呑み込んだ白い病室の扉が閉まった。
「…あーァ、怒らせちまッた」
巻かれたままの目隠しの布を指先で押し上げながら、幽利はぽつりと呟く。
「そうだね」
「姐サンになら言っちまってもイイんじゃねェの?」
「見破られるなら同じことだよ」
「素直なのが好きだッて知ってンだろォに。性格悪ィなァ」
呆れたような言葉とは裏腹に笑みを含んだ口調で言いながら、幽利はごろりと白い布団の中で寝返りを打った。ベッドの中から、鬼利と同じ橙色の左目で黒いネクタイを解く片割れを見上げる。
信頼、切り札、確信。狸寝入りをしながら聞いていればどれもこれも嘘ばかりだ。それを言えばきっと、この“ただの人間”である双子の兄は相手を安心させる為の方便だと言うに違いないが、嘘と悟られることを知って吐くのだから本当に性質が悪い。
「確信じゃなく諦観だ、とでも訂正すれば良かった?」
「嘘じゃねェか」
ベッドに腰掛けた鬼利が伸ばした手に甘えるように頬を寄せながら、幽利はくすくすと笑う。
望むモノがないのに、諦めるなど無理な話だ。
「そうだね」
「…ぁ、…」
鬼利の指先に首筋を擽られるのに小さく体を震わせながら、幽利は片目を塞ぐ目隠しを剥ぎ取ってベッドの下に投げ捨てる。“千里眼”は千里を見通せることからその名がついたというが、幽利の目に映るのは愛しい片割れだけだ。
「…もしかしたら、今日中にこの“街”が沈むかもしれない」
「ん、ん?」
耳元に寄せられた鬼利の唇が囁いた言葉に、幽利は邪魔な布団を退けながらほんの少しだけ鬼利の頭の中を、そこに記憶されている傑との通信端末での会話を覗き見る。
「…こりゃァ大変だ」
「嘘吐きはお互い様みたいだね」
そう、見え透いた嘘だ。2人の世界は2人だけで完結していて、外界で例え何があろうと、なかろうと、2人の箱庭には何の関係も無いのだから。
寄せられた手に甘えるように頬を寄せながら、幽利は自らの首筋に顔を埋める鬼利の耳元に囁く。
「…なァ鬼利。負けるかな、アイツ」
「さぁね」
「どォでもイイ?」
「今度は本当だよ」
「わかってる」
扉の閉まった白い病室の中。
2人は顔を見合わせて少しだけ笑い、キスをした。
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