巨大な円柱の形状をしている本部内の外周に走る、緩く弧を描いた廊下を進みながら、鬼利は背後から自分のものに重なった2つの足音にネクタイに伸ばしかけた手を下ろした。
「司令官」
「鬼利殿」
それぞれの呼び方で鬼利を呼びながら、鬼利の仕事上の左腕と右腕である仁王と泪が鬼利より一歩下がった位置で歩調を合わせる。
「あの2人の女性は“本物”でしょうか?」
「だろうね」
「ならば、世環と接触させるのは危険なのでは」
「そうだね」
常よりも硬度を増した泪と仁王の口調に僅かに笑みを浮かべつつ、鬼利はいつもと変わらない声音であっさりと部下の言葉を肯定した。
「大丈夫だよ」
「……」
「…お言葉ですが、我等にはとてもそうは思えませぬ」
右後ろに感じる仁王の威圧感が増したのを感じながら、鬼利はちらりと腕の時計に視線を落とした。
「そもそも我には得心がいかぬ。世環に“同族”が接触を計る可能性を考えつかぬ貴殿では無い筈。何故、このような極めて危機的状況を想定した図面を引かれておられぬのか」
「軍部警察の特殊部隊に本部塔周囲を占拠された場合へのマニュアルはあるのに、です」
硬い足音を鬼利のそれに重ねながら、まるで詰問するような口調で言う仁王と泪に、鬼利は足を止めぬままに小さく溜息を吐いた。
「…何度も言わせるな」
「っ……」
「……!」
「僕が大丈夫だ、と言ったのは」
数歩進んでから歩みを止め、2人よりも歳若く、2人に比べ格段に戦闘能力の劣る鬼利は、自らの一言によって立ち止まった泪と仁王を振り返る。
「例え僕等がどんな悪足掻きをしても、しなかったとしても、君達の言う“危機的状況”が少しも回避されないからだよ」
「……」
「…世環が戻る前に連絡を取り、接触の場を他に移せば、」
「泪」
すらりと伸びた指先を体の横で握りしめ、彼女にしては珍しく追い縋るような泪の言葉を、鬼利は教師が出来の悪い生徒を窘めるような笑みを浮かべて遮った。
「君達は傑を含めた3人の化け物がここで暴れ回る可能性だけを考えているようだけど、もし泪の言う様に3人の接触の場をここから離したとしても、ここには変わらず2人の化け物が居ることになる」
数式の解法を解説するように淡々と、解りきった過程を改めて説明するように澱みなく、鬼利は説明する。
「貴女達のお目当てはここでは無く、X地点に居ると告げたとして、あの麗しい淑女達がそんな無駄足を快く踏んでくれるか?既に傑がILLの登録者であることを彼女達は知っている。呼び戻せとごねるか?勿論断る。彼女達は無能な人間を見逃してくれるだろうか?」
「…彼女達が、素直にここを離れてくれた場合は」
「本部塔完全崩壊という可能性は、去るのでは?」
「“同族”との不仲は傑に確認済だ。傑に真実を伝えた場合、アレは間違いなく僕達の要求を無視してここに戻る。悦が居るからね。真実を伝えなかった場合、アレが勘付かずに要求に従ったと仮定しても、連絡を取り、説明をして…そう、こうして僕等がここで話している間にも、彼女達は痺れを切らして本部内を探し回っているかもしれない。彼女達にとっては膨大なここの全ての部屋を回るなど造作も無いだろうからね。唐突に現れ部屋を物色する美女2人に登録者の3割は無謀にも自衛手段を取るだろう。服に傷をつけられ、あるいはつけられそうになった彼女達はそれを傑のように許すか?可能性は極めて低い。そもそも部屋を回る必要性があるか?彼女達は“同族”の世環傑を探している。本当に居ないのか、確認するならこの本部塔を破壊して“生き残り”を探した方が早い。普通なら考えられない手段だが、彼女達にはそれが出来る。僕ならそうするだろうね」
目の前に伸びる先の見えない大きな弧を描く廊下を見据えたまま、朗読するように途切れなく言い切り、そこで鬼利はふと自嘲するように笑った。
「勿論、全て仮定の話だよ。僕の話も、君達の話も。相手が“純血種”であるという時点で、僕等に確定要素なんて1つも無い。全ては彼等の気分次第だ」
「……」
「……」
「だから、これで“大丈夫”なんだよ」
口を噤む2人の部下に微笑んで見せながら、鬼利は胸の内だけで己の論理の破綻の多さに失笑した。
たとえ相手が“純血種”であっても、本当に打つ手が無いわけでは無い。危機の回避は不可能だが、この本部塔にいる人間を生かす手段などいくらでもある。実行に移すことが出来ないだけだ。
いや、許されない、と言うべきだろうか。
犯罪者が犯罪者を殺すILLのシステムを必要悪と表現する者がいるが、所詮そんな言葉は後付けだ。このシステムの生みの親であり、鬼利の唯一の上司である『ボス』は、単に犯罪者をこの世界から効率よく抹殺したいだけに過ぎない。
そんな思想を持つ『彼』が、登録者とはいえ犯罪者共の命を助けるような行為を許可する筈が無いのだ。
♪、♪、♪
不意に、小さな電子音が沈黙を破る。
鬼利のスーツの内から発せられたその音に、仁王と泪の目つきが厳しいものへと変わるのを横目にしながら、鬼利は慌てるでもなく取り出した通信端末を、フリーハンドの状態で繋げた。
「はい」
『2件』
鬼利の声を聞くなり、間髪入れずに端末から発せられた言葉は極めて短い。
「どうぞ。…ゴシック」
『化け物2匹が5秒前に部屋から消失、熱残量から第4エレベーターへ移動、今映った』
「そう」
パソコンの電子音と激しくキーボードを弾く音をBGMにした“一切無駄の無い”報告に、泪が視線を反らし仁王が眉を顰めた。鬼利だけがどこか退屈そうな表情のまま静かに相槌を打ち、2つ目の報告を促す。
「もう1つは?」
『…外壁のセンサー106機の内、南東側67機が外壁を垂直に移動する発熱体を観測。特定は不可能、火薬等使用痕跡無し、破壊箇所は“鍵の無い部屋”』
「……」
「まさか」
淡々と、と言うよりは押し殺したような声で早口に告げられる報告に、仁王が地を這うように低い声で唸った。
「また新たな“純血種”、が…?」
「違うよ」
「しかし、有り得ません」
緩く首を振る鬼利に、泪が窓の外へ視線をやりながら呟く。
「30分前の通信により、あの男の所在はシェリグラ国内北部と特定しています。どんな移動手段を使ったとしても、これは余りに…速すぎる」
「あの国からここまでは陸続きだ。“直線距離”で考えれば、あり得ない話じゃない」
そう、確定要素など1つも無いのだ。
「御苦労さま、ゴシック。警報はそのまま鳴らさずに。Fはまだ学校だね。迎えの車は要らない、今日は彼女はオフだと伝えて。さすがに皇族までは手が回らない」
『り…了解』
「その他は通常業務。血の気の多い連中が騒ぎだすと面倒だ、手回しを宜しくね」
「御意に」
「はい」
通信を切った端末をスーツの内ポケットへと滑り込ませ、鬼利は2人の頼もしい返答に微笑んで見せてから―――ふう、と溜息を吐くと指先でネクタイを緩める。
仁王と泪が軽いアイコンタクトの後、揃って鬼利に一礼をして執務室の方角へと戻っていくのを横目にしながら、鬼利は廊下にそって続く広い窓の外を見やった。
―――…速すぎる?遅いくらいだ。
「…今度の“期待”は裏切らないでくれればいいんだけどね」
窓から差し込む人工太陽の光は、既に夕陽を模した橙色に変わっている。
その己の瞳と酷似した光を見て僅かに目を細めながら、鬼利は遠ざかっていく2人の部下には見えない角度でほんの少し、
楽しそうに笑った。
まるで、重力が狂ったようだった。
それはほんの一瞬、時間にすれば1秒にも満たないであろう瞬きの間だったが、その間確かに、悦と、悦が座っていたソファ以外のモノにかかる重力は、45度反転した。
そうとしか思えない光景だった。
ミサイルの直撃にも耐えられる特殊強化硝子の窓が砕け、その音が悦の鼓膜を震わせる前にヴェルディオの体が消えた。砕けた硝子の破片は、彼が最初に立っていた壁際の黒い塊の上に真っ直ぐに降り注ぎ、窓際の床には塵の1つも残っていない。
黒い塊からは赤い水が漏れ出して床に広がっている。アレは何だ?どこかぼんやりと現実味を欠いた世界の中、眼を凝らそうとした悦の視界の端を、見慣れた影が横切った。
「ただいま、悦」
「…傑」
壊れた窓の前。目に痛いほど差し込む偽物の夕陽を背中にした傑は、いつもと変わらない声音でそう言って、薄く笑う。
その怖い程に整った美貌を視認した瞬間、紅の光に霞んで見えていた悦の世界は音を立てて現実を取り戻した。
…なんだ。
傑がやったのか。
「平気?」
「あぁ…うん、ギリギリ」
「悪ィ、ちょっと遅くなった」
申し訳なさそうに目尻を下げて悦にそう言うと、硝子の破片1つ散っていない窓の近くのフローリングを皮靴で踏みながら、傑は藍色の瞳を鋭く細めて黒い塊を見下ろす。
今まで悦が見たどれよりも冷たい目で。
「…で、何してンだよ。お前」
パキ、と靴底で硝子を踏みながら黒い塊に近寄った傑は、何気ない口調でそう言いながら塊を足でごろりと転がした。
「…ひ、ど…いよ、傑。いきなり」
「……」
塊―――黒いコートを纏ったまま長躯を丸めて蹲っていたヴェルディオは、肺に穴でも開いたように不明瞭な声で力無く不平を口にしながら、本来関節の無い場所から奇妙に折れ曲がった腕を持ち上げて、自分の側頭部に突き刺さった掌ほどの大きさの硝子の破片を引き抜く。
コートの下、顔以外の皮膚全てを覆い隠すように巻かれていた筈の黒革は、首の左側だけが引き千切れ血に染まっていた。先程窓から飛び込んだ傑に殴られた時に折れた首の骨が、内側から突き破りでもしたのだろう。赤黒い革の合間から覗く病的なまでに白い肌を見て、傑は小さく溜息を吐いた。
「俺はただ、傑が帰って来るまで悦君とお話して―――」
メキっ、
言い訳がましく言いながらもそもそと起き上ろうとしたヴェルディオの右半身が、厭な音と共にかくんと揺れた。
おかしな方向に折れた右腕が傑の右足によって手首の辺りを踏みつぶされ、圧迫された骨が筋肉ごとひしゃげた音だった。
「あ…」
「その前に、なんでお前がここに居るんだよ」
「それは、」
ゴキっ、
「それは?…俺はお前を招待した覚えなんてねーんだけどな」
「…だって、」
メリっ、
「っ…い、痛いよ、傑。…あ、」
ぐしゃ。
淡々と聞く傑に少しずつ位置を変えながら踏み潰され、コートの上からでも解るほどに滅茶苦茶になった右腕を押さえながら頼りない声を上げたヴェルディオの左手が、その下の右肩ごとひしゃげる。
傑の動きは特に力を入れたわけでも無く、蹴ると言うより踏むという表現が似合うものだったが、稼働域を超えて指の反りかえった左手ごと、そのコートは靴底の形にべっこりと陥没していた。
「それに、“お喋り”だけじゃなくてしっかり触ってただろうが。その手で」
「ぇう゛っ」
コートの下でぐちゃぐちゃになったヴェルディオの右手を一瞥しながら、傑は淡々とした、どこか呆れたような声音で言いながら、軽く振りかぶった爪先をヴェルディオの肋骨の下にめり込ませる。
尖っている訳でも無い靴の爪先はコートの上からヴェルディオの皮膚を紙でも裂くように貫き、その内臓にまで潜り込んでいた。くぐもった呻きと共に血の塊を吐き出すヴェルディオを退屈そうに見下ろしながら、傑は体の内側から肋骨に爪先を引っかけるようにして浮かせたヴェルディオの体を壁に叩きつけ、強制的にそこに寄り掛かるような体勢にされた彼の黒髪を乱暴に引き上げる。
「俺のモノに手ぇ出すなって、何度言えば覚えるんだよ」
「ち、違う…違うよ。ちゃんと覚えてるよ。悦君に酷いことなんてしてないよ」
「俺が途中で帰って来たからだろ」
傑と視線を合わせるのを怖がるように、手首の砕かれた右手とひしゃげた左手を顔の前に掲げるヴェルディオに、傑はにべも無く言い捨てて髪から手を離すのと同時に右足を軽く浮かせた。
「…酷いよ」
情けなく言い訳を繰り返す“同族”の頭を潰そうと持ち上げられた足は、だが風圧でその長く伸びた前髪を揺らしただけで、額に届く寸前でヴェルディオの両手に受け止められ阻まれる。
瞬きの間に治癒された、黒い革を隙間なく巻き付かせた右手が、掴んだ傑の足首に指先を食い込ませた。
パキ。
「悪いのは傑なのに」
「……」
覇気の無い声で言いながら、ヴェルディオは掴んでいた傑の右足を強く上に持ち上げる。純血種の腕力によってまるで人形のように体ごと中に浮いた傑は、ヴェルディオが素早く立ち上がるのを下に見ながら空中でその手を振り解くと、足首を折られた右足で天井を蹴った。
天井を蹴ったことによって増した落下速度の中、更に体を捻って勢いを増した傑の左足がヴェルディオの首に叩き込まれるが、首の骨が砕ける音を響かせながらもヴェルディオは怯まない。己の首筋にめり込んだ傑の左足を引いて右足1本で着地した傑の体勢を僅かに崩し、その隙をついて真っ直ぐに突き出された手刀が、その右胸を貫いた。
「…いってぇな」
「だって傑が悪いんだ」
ずぼッ、と血と肉片を纏わりつかせながら腕を引き抜き、ヴェルディオは真っ直ぐに自分を見据える傑から目を反らす。
傑の背後に飛び散った血飛沫を追うようにして彷徨った視線は、少しずつ暗くなり始めた窓を背中にしてソファに座ったまま、静かにこちらを見据える瑠璃色と合った。
「…傑が悦君にこんなに強く匂いを残すから。俺は間違えただけだよ。傑のお気に入りに酷いことをしようと思ったわけじゃない、ここに傑が居るってアイツが言うから来てみたら、悦君が居て」
「……」
「悦君からこんなに強く匂いがしなかったら、俺だって中に入らずにすぐに帰ったよ。間違えちゃっただけなんだ、本当に…」
「…へぇ」
ちらちらと悦と傑の間で視線を彷徨わせながら、情けなく目尻を下げるヴェルディオに、傑は鷹揚に相槌を打つ。
その声に覗うように傑へと視線を向けたヴェルディオは、ちらりと背後の悦を一瞥してその無事を確かめる傑の胸を見て、常に陰鬱に沈んでいた藍色の瞳を見開いた。
「…お前がここに居る、ってことの言い訳は解った」
肋骨をへし折り肺を潰したというのに、傑の声は明瞭に響く。向こう側が見える程大きな穴の開いていた傑の右胸には、既に血の痕すら残さずに滑らかな皮膚が張っていたのだ。
千切れた服の合間から覗く傑の右腕を凝視したまま、ヴェルディオは咄嗟に自分の首へと手を伸ばす。傑の胸を貫くより早くへし折られた筈の脛骨の治癒は、つい先程終わったばかりだ。
「…なんで。治癒なら、俺の方が、」
「その前に言う事あンだろうが」
退屈そうな声で言う傑の右手がかき消える。ヴェルディオの、“純血種”の動体視力でも追えない程の速度で動いた傑の右腕は、次の瞬間にはヴェルディオの眉間に向かって真っ直ぐに伸ばされていた。
その手の中に、銀色の銃を持って。
「“ごめんなさい”、はどうした。出来損ない」
パンッ。
>>
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