02.



 淡々と言葉を紡いだ鬼利の唇が閉じるより一拍前に、キュールは触れることも出来ないほどの棘を孕んだ薔薇のような馨しい香りと共に、今まで経験したことのない全身の細胞の軋みを感じた。

 そしてキュールの脳は、どんな絶望的な状況にあっても逃げ道を探し己を生かそうと働き続けて来た脳は、停滞した。


 薔薇の香りと共に現れ鬼利の白い白い喉に銀の爪を柔らかく食い込ませた褐色の掌を見た瞬間、逃げ道を探すことを止めたのだ。
 思考を止めた脳が最後に伝えたのは、「死」という酷く単純なキーワード。


「私達、内緒話は好きじゃないの」
「するのは好きだけど」
「…それは、失礼致しました」

 まだ10メートルはあった距離を一瞬で消失させた2人の美女に、目を見開く暇すらなく意志の光を飛ばして放心したキュールを一瞥し、鬼利は目の前の褐色の肌の女に微笑んだ。

「僕は此方で責任者を務めている者です。御名前をお聞きしても?」
「シェナ・ドリウスよ。シェナでいいわ」
「ビーアン・エゥ・ゾイ。ゾイと呼んで」
「ありがとうございます。当方の登録者に面会をご希望されているとのことですが…」


 喉笛に手を掛けられたままにこやかに話を進めて行く鬼利に、シェナとゾイは美しい顔を見合わせ、同時に傾げた。

「何分ご希望の男はご存知の通り“特別”でして…よろしければ面会の意図をお教え願えませんか?」
「彼に話したいことがあるの」
「聞いてほしいお願いも」
「「だから私達、同族の世環に今すぐ会いたいの」」
「そうですか」

 喉を捉えられたまま静かに頷き、鬼利は全て納得したように自らを今すぐにでも殺せる女ににっこりと笑って見せる。


「現在彼は仕事で遠出をしていまして。お部屋を用意しますので少々お待ち下さい。御手間を取らせてしまい申し訳、」
「ねぇ、貴方」
「少し鈍いのかしら?」
「とてもとても賢そうだけど」
「…っ…」

 2人の言葉がどういう意味かという問いは、喉笛を締め上げたシェナの手が喉元で封じていた。
 僅かに眉を顰めながらも口元からは笑みを絶やさない鬼利の端正な顔に己の美貌を音も無く近づけ、シェナは橙色の瞳を覗き込むようにしてぺろりと唇を舐める。

「私、今すぐにでも貴方のことを殺せるんだけど」
「ご存知の通り、なんて言って。そこまで解ってるのに」
「そこのお兄さんなんて今にも壊れそう」
「まさか一番偉いから自分は殺されないなんて、思って無いわよね?」


 底の見えない藍色の瞳の奥に暗い色を湛えてにっこりと笑って見せながら、鬼利の喉を締めていたシェナの指がはらりと解ける。

「いいえ。…ここでは、殺されないとは思ってますが」
「何か秘策でもあるの?」
「普通の人間みたいだけど、“純血種”より強いのかしら」
「いいえ。ご覧のように此処は広い」

 一度軽く息を吸い込んで呼吸を整えた鬼利はシェナからゾイに視線を移し、傍らに聳え立つ本部塔を一瞥した。

「内部に詳しくない貴女達が、この中から彼の住居を探すのは骨が折れる。貴女方のような麗しい淑女が、そのような面倒な行為を好むとは思えません」
「私達のどちらかが、簡単にあの子を探すことが出来たとしたら?」
「わざわざ貴方を呼びだしたのが気まぐれだとしたら?」
「それなら僕が劣ると言った瞬間に殺しているでしょう?」


 劣る、という言葉に同時に眉を顰めた2人にゆるりと微笑み、鬼利はその反応を愉しむように橙色の瞳を細めた。

「ただ…確かに貴女方はあの男に比べれば欠陥品のようですが、その力は貧弱な人間である僕には十分に魅力的だ」
「……」
「……」

 言いながら鬼利の手がゆっくりと、武器を持っていないことを示す為に掌を上にして持ち上げられる。
 2対の暗い藍色が見据える中、女のように白く華奢な手が喉元で止まっていたシェナの手を包んだ。

「是非その記憶の中に欠片でも遺して頂きたい。…申し遅れましたが、僕は鬼利と言います」

 胸元に手を当てて自己紹介をした鬼利の、恭しくシェナの手を持ち上げた手は、己を軟弱な人間と表現しながら“純血種”の手に人間のそれと変らず触れていた。
 そして傲慢な子羊は躊躇いなく、悪魔の麗しい掌に完璧な所作で口付けたのだ。


「…どうぞ、よろしく」


 その唇に、笑みさえ浮かべて。










 ―――30分前。


「うわ…HP多すぎ…」

 壮大なムービーの後に現れたラスボスの体力を示すバーの、昨日倒した中ボスの2倍近い長さに、悦はゲームのコントローラーを握り直しながら思わず呟いた。
 広い窓から差し込む人工太陽の光は次第に赤みを帯び始めている。傑が仕事から戻って来るのが2時間後だから、夕飯を用意する時間も含めて1時間くらいでクリア出来ればいいかと時計を見て逆算しながら、悦は皿に盛られた丸いチョコレートを1つ、口の中に放り込んだ。


 当たり判定の大きなラスボスの攻撃をギリギリでかわしながら、悦は真剣な表情でテレビ画面を見据えて反撃の隙を覗う。緊迫感を煽るBGMと、それに重なるゲームの中の破壊音。

 きし、

 スピーカーから流れるそれらの音に混じって、不意にフローリングが微かに鳴った。常人ならば間違いなく聞き逃しただろうその小さな音に、悦は何気なく視線を右へと向け、目を見開く。


「っ…!」


 夕陽も届かない壁際に、黒い男が立っていた。
 傑の部屋であるここの扉に鍵が掛けられる事は無いが、扉が開く音はしなかった。勿論、ここに来るまでの足音も。気配すら全く無かった。

 いつ。どこから。

 BGMが主人公の死を大仰に伝える音も、今の悦の耳に入らない。ローテーブルの裏に張り付けられたナイフを抜くことも出来ず、振り返ったそのままの姿勢で影から湧き出た様にそこに現れた男を凝視する悦を後目に、男はゆっくりと部屋の中を見渡した。

  「…傑は?」
「……いねぇよ」

 低い声で答えた悦を、男の双眸が再び捉える。
 これが自分や傑の命を狙った者ならば悦は即座に反応出来ただろうが、男にはそのような様子が全く見られなかった。殺気は微塵も感じない。それどころか、目の当たりにしていなければ存在を忘れそうになるほど気配が無い。

 そこにいるのか?
 本当に?


「いつ戻るの?」
「…あ?」
「すぐる」

 幻覚かと自分の目を疑いたくなるほど存在感の無い男は、両手を体の側面にだらりと垂らしたまま悦の表情を覗うように首を傾げた。
 残暑も厳しい晩夏のこの時期にはとても似合わない、男の着こんでいるぞろりと裾の長い漆黒のロングコートが僅かに揺れる。


「あと2時間くらいだと思うけど。傑に用があンのか」
「うん」

 素直にこくりと頷き、男は黒いコートを揺らしながらするりと一歩、悦の方に歩み寄った。

「…、…」
「……」

 咄嗟に立ち上がり、窓を背にして後ずさった悦を真っ直ぐに見据えたまま、更に一歩。
 窓から差し込む夕陽の中に入り込んだ得体の知れない黒づくめの男は、どこか気だるげな印象を受ける無表情のまま足音も立てずに進み、何をする気かと距離を取る悦からふっと視線を反らすと、その場に座り込んだ。


「…おい」
「え?」

 丁度、先程まで悦が座っていた場所から1人ぶん離れたソファの端を背もたれにして、ラグの無いフローリングの上に直接座り込んだ男は、拍子抜けして思わず声を掛けた悦を振り返りながら、細い背中を丸めて自分の両膝をもぞもぞと抱え込む。

「え、じゃなくて…何しに来たんだよ」
「傑に会いに」
「お前、傑のダチか何か?」
「ううん」
「……」

 …なんなんだコイツ。
 足音も気配も完璧に消して部屋に侵入して来たのだからただ者では無い筈なのに、男はぼーっとゲームのオープニング映像を流すテレビを見つめるだけで、悦に危害を加える素振りどころか、後ろから刺せそうなくらいに油断しきっている。

「大丈夫だよ」

 相変わらずテレビをぼんやりと見つめたまま、男が不意に呟いた。
 一体この状況で何がどう大丈夫なのかと、不信感たっぷりに男を見返した悦を見上げて、男はもう一度同じ言葉を繰り返す。

「…何が」
「俺は君に酷いことなんてしないよ」
「……」
「傑が帰ってくるまで、大人しくしてるから」

 こうやって。ぼそりと口の中で呟きながら、男は膝の上に揃えて置いていた手を抱きしめるようにして自分の足に回した。
 太股に纏わりつく長いコートの裾にこの体勢は動き難いのには間違いないが、とても無力化を示すものにはならない。その上“大人しくする”とは何だ、傑より背は高いが、言動はまるであどけない子供だ。

「…嘘じゃないよ?」
「あー…うん、解った」

 ぴったりと揃えた膝の上に顎を乗せて上目遣いに見上げてくる男に、悦は鷹揚に頷くと男が背を預けているのとは逆のソファの端に腰掛ける。

 勿論男の言葉を鵜呑みにしたわけでは無いが、これ以上この男と問答を繰り返しても無意味だと判断したのだ。本当に「大人しく」傑を待つつもりなら放っておけばいいし、こちらの油断を誘う演技だとすればいずれ本性を現すだろう。男がコートの中に何を仕込んでいるかは解らないが、これだけの距離があれば初撃は確実に避けられる。


「…ねぇ」
「ん?」

 垂れ流されているムービーが3周目を終えた頃、不意に男が悦を振り返った。

「俺はヴェルディオって言うんだ。Y0073:ヴェルディオ」
「ワイ…ダブルオーセブンスリー?」

 まるで“街”の地名のような家名に悦は訝しげな顔をするが、ヴェルディオはそれを気にした風もなくこっくりと頷き、膝を抱えたままもぞもぞと動いて体ごと悦の方を向く。

「うん。ヴェルディオでいいよ。…君は?」
「俺は悦」
「悦君は、傑の友達なの?」
「と…もだちっつーか…相棒、かな」


 伸びた黒い髪の合間から真っ直ぐに自分を見上げる男―――ヴェルディオの視線に少し居心地の悪さを感じながらもいつものように答えると、ヴェルディオは口の中で「あいぼう」と呟いて小さく首を傾げた。

「おかしいな」
「何が?」
「だって、悦君からは傑の匂いがとても強くするよ」
「…匂い?」

 今度こそふざけているのかと思ったが、ヴェルディオは俯き加減だった顔を上げ、演技と判断するには真剣過ぎる表情ですん、と鼻を鳴らして見せる。

「ほら、ね。本当に相棒なの?」
「…そういうお前は傑とどういう関係なんだよ」

 悦と傑が相棒や友達などという健全な関係で無いのは、ILLに所属する者にとっては周知の事実だ。今更はぐらかす必要など無い筈だが、ヴェルディオのあまりに真剣な表情に奇妙な胸騒ぎを感じて、悦はいかにも詮索が不快だという表情を作って話題をすり変えた。


「友達じゃねーんだろ。知人か何かなのかよ」
「似てるけど、そう言ったら傑が怒ると思う」

 上げていた顔を再び俯かせて自分の膝を見つめながら、ヴェルディオは自分の両足を抱きかかえていた手を膝の上に乗せる。
 膝頭に揃えて置かれた手には黒い革が爪の先まで一部の隙も無く包帯のように巻かれており、コートから僅かに覗いた手首にまで伸びていた。見れば同じような革が首にも巻かれている。


「傑は、“俺達”のことをあんまり良く思ってくれてないから」


 口を最低限にしか開けずに喋るヴェルディオの声は覇気も生気も無く、本来なら聞き取り難い筈なのに、紡がれる言葉は驚くほどよく通った。ゲームのオープニングムービーが延々と流れる横で、不自然なほどに。

「悦君は、傑と仲良しなの?」
「あー…うん、まぁ…」
「いつから仲よしなの?」
「1年…ちょいくらい」
「…1年…」


 機械的な癖に機械音のような不快さの無い、それどころか耳に心地よくすら思える声でぽつりと悦の言葉を反復し、ヴェルディオはコートの上から自分の膝をかりかりと引っ掻いていた手をぴたり、と止めた。

「それじゃあ…悦君はお気に入りだ」

 長く伸びた前髪の合間から覗く双眸が、ゆっくりと悦を捉える。
 唯一紙のように白い肌を露出させた顔の中で特に目立つ赤い唇が、にぃ、と笑った。


 悦の、目の前で。


「ッ……!」
「傑が1年も飽きないなんて、」

 ぞく、と。
 悦は背中を氷塊のような怖気が駆け上がるのを感じた。


 ソファの端から端までの、およそ2メートルほどの距離を一瞬で消失させて衣擦れの音すら無く自分の目の前に現れたヴェルディオに、では無い。

 ゆっくりと顔を上げたヴェルディオの姿が視界の中でぶれ、次に目と鼻の先に現れて笑うのを見て、それまで会話をしている最中でもあらゆる事態に備えて筋肉を張り詰めさせていた体が、一瞬、確かに、

 緊張を、解いたことに対してだ。


「悦君はとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとてもとても、お気に入りだ」
「…、…ッ」

 滑らかな声で呪詛のような言葉を紡ぎながら、ヴェルディオの黒い手がそっと頬に伸ばされても、悦は反応することが出来なかった。

 物心ついてから今まで、悦は常に死ぬか生きるかというギリギリの生活をしている。生き残る為に危機察知能力を極限に高めた自分の体が、道ですれ違う幼児がポケットに手を入れただけで自然と袖の中でナイフを抜き、無意識に回避行動の準備をするこの体が、目の前の得体の知れない男に対して一瞬でも緊張を解いたことが信じられなかった。

 裏切りだ。それも、最悪の。


「…なん、なんだよ、お前」
「俺はヴェルディオだよ」

 やっとの思いで絞り出した震える声に反応した体がソファの上で僅かに後ずさるが、既に悦の両足を跨ぐようにしてソファに膝をつき、片手を悦の顔の真横に突いているヴェルディオを前にして、それはあまりに微々たる反応だった。


「傑の“同族”の、ヴェルディオだよ」
「…お前も、」

 …おまえも、純血種なのか。
 傑と、同じ。


「ねぇ悦君、傑のとてもとてもとてもお気に入りの君を殺したら」

 柔らかくなめされた黒い革に包まれたヴェルディオの指先が、つぅと悦の頬の上を滑り落ちる。

「傑は、俺のことを、」


 覆いかぶさるようにして悦を見下ろす髪の合間から覗く双眸は、呑み込まれそうに深い、


「殺して、くれるかな?」


 藍色。



 >>Next.




long