彼は貪欲な子供だった。
大陸最大のザドス皇国の皇族として、望んだものは全て与えられていたが、その知識欲が満たされた所をクロム・クラールは一度として見たことが無い。
3歳年上のクロムは、彼が1歳になった頃には将来の側近として彼の傍に置かれていたが、まだ喃語しか話せないような乳飲み子の頃からその片鱗は表れていた。
絵本を読み聞かせられている時には、それが優しい午後の日向でも柔らかいベッドの中でも関係無く、乳母が最後の一文字を読み終わるまで決して眠ることは無かった。角度によって違う音が鳴るキューブを与えられた時には、食事さえ拒否して3時間もそれを弄り続け、当時お気に入りだった童謡を完璧に奏でてみせた。
そうして、決まって最後に不満そうな顔をするのだ。
なんだもう終わりか、と言わんばかりに。
流暢に喋れるようになると、絵本は図鑑や事典に、知育玩具は様々な形状の難解なパズルや数式へと変わった。4歳の誕生日の時に叔父から贈られた喋ったり歩いたりする犬のぬいぐるみは、その日の内に中身の仕掛けを全て抜き取られて小さなネジや歯車に分けられ、次の日に元通りに組み立てられた仕掛けを腹に戻された。クロムが犬の腹を縫い合わせてやっている間も、彼はやはり、どこか不満そうだった。
病的な知りたがりの彼の奇行はそれからもエスカレートするばかりで、その度にお目付け役であるクロムはきつい叱責や折檻を受けた。幼少期にはそれが原因で距離を置いたことも幾度かあったが、泣き虫で甘ったれな彼がさみしい悲しいと恥も外聞もなく縋り付くので、それは大抵1日も持たなかった。
今となってはどうしてあの頃の内に彼の奇行を大人に告げ口しなかったのか不思議だが、その判断は正しかった、とも思う。相変わらず甘ったれではあるが、彼はその貪欲さを武器に、彼の母である烈女が望んだ濃紫の軍服を身につけるまでになったのだから。
「……今度は何が知りたいんだ」
軍部警察本部庁舎地下2階。かつての地下牢を改装した資料室の1つに粗末な机と椅子を持ち込み、膝に乗せたノートパソコンのモニターを食い入るように見つめている彼に、クロムは幼い頃から幾度も繰り返した問いを投げる。
「あ、クロちゃん。ねぇ見て見てこれスゴいんだよ」
ふざけた呼び名も、嬉しそうにモニターを向けてくる無邪気な笑顔も、彼は昔から何一つ変わらない。難解なパズルを与えられた時と同じように喜々として、モニターに映し出された画像を見せてくる。
100年以上前から存在する、顔写真だけが不定期に変わる零級指定賞金首の手配書を。
「ほら、ウィル君の報告書にあったでしょ。変だなって思って調べてみたんだけど、あり得ないんだよ」
自分が知っていることは相手も知っていると思っている彼の言葉は、いつだって説明不足だ。かと言って詳細を求めれば夜明けまで付き合わされる羽目になるので、クロムは「なにがだ」とだけ聞いた。
「だってこれは遺術の最高峰なんだよ?おかしいよ、どうしてなんだろう」
「洗脳のことか?」
「違うよ、そんなの嘘に決まってる。鬼利君のお芝居だよ。謎かけかな?まあそれはどっちでもいいんだ。問題はこの生き物がそれに付き合ったっていう事実だよ」
この生き物が、と繰り返しながら、彼は手配書を映したモニターを目の前に掲げた。うずうずと足踏みする特注の軍靴の下で、総帥の印がある書類がぐしゃりと捩れる。
「これは軍隊なんだ。総帥であり軍師であり部隊であり弾丸であり装甲なんだ。完璧なんだよ。そういう風に作られたんだ。なのに昔からこれを動かす司令は一貫してる。きっと制限があるんだ。どうして外さないんだろう。弄れる脳は4つもあるのに。そのくらいじゃ死なないのに」
ほう、と溜息を吐いた彼の手から、調べつくされた過去の玩具達のようにノートパソコンが滑り落ちる。騒々しい音を立ててコンクリートの床を跳ねた精密機械には一瞥もくれず、彼はゆらりと首を巡らせてクロムを見上げた。
「クロちゃん、お願いがあるんだ」
「……言ってみろ」
辟易と溜息を吐きながら促したクロムに、知識欲の権化である彼は、特務第十四部隊長にして皇国四軍師の1人であるアルファ・トゥーレ・ロイリリウ・アセドナリア・ゼウは、昔と変わらず甘ったれた猫撫で声で言う。
「あのね。俺、あの生き物と会ってみたい」
死んだカナリアを腑分けしていたあの春と同じく、稚気に満ちた青灰色の瞳を爛々と輝かせて。
拝啓、
―――世環傑様。
うららかな陽に誘われて世界各国で悪行が活発化しつつある今日此頃、貴殿に於かれましてはますます御活躍のこととお慶び申し上げます。
先日の旧フォルムダ聖堂暴徒鎮圧の折は、ご多忙にもかかわらず、ご足労頂きましてありがとうございました。一騎当千、まさしく人外と呼ぶべき御活躍の数々は、遺術の最高峰、世界の脅威と呼ぶに相応しく、御身に注がれた狂気の凄まじさにほとほと感服致しました。
(中略)
さて、当部隊では貴殿に対する日頃の敬意の念を表し、合わせて一層のお近づきをお願いしたいと存じます。
つきましては、簡素では御座いますが懇談の場を別紙の通り設けさせて頂きますので、時節柄ご多用中とは存じますが、何卒ご出席を賜りますようお願い致します。
貴殿の御健康と御多幸を心よりお祈りする人間―――
「……『皇国軍部警察特定任務専任第十四部隊部隊長、アルファ・トゥーレ・ロイリリウ・アセドナリア・ゼウより』」
諳んじているような淀みなさで署名までを読み上げて、鬼利は上質な便箋3枚に及ぶ長い手紙から視線を上げた。
眼鏡越しにも硬質な橙色は、“ILL”の最地下階駐車場の広大な敷地を真っ直ぐに見据え、そして僅かにその鋭さを増しながら左脇へと移される。白く刻まれた「ILL」の文字以外、ナンバープレートさえ黒く塗り潰された鬼利専用車の、鏡面のように磨き上げられたボンネットの上に。
「長っげぇわ」
その文字を、よりにもよってそのくっきりとした白い文字を片足で踏みつつ、ボンネットに腰掛けた“ILL”子飼いの化け物は吐き捨てた。
「名前まで長ぇとか何の冗談だよ。20文字で」
「特務十四隊の隊長が軍警本部で歓談をご希望」
「お前はそういうヤツだよ」
本当に20文字でまとめた鬼利に溜息を吐きつつ、傑は右足から伸びる紐をきゅっと引く。爪先から脛まで達する編上げを限界まで絞って縛り、膝下に巻かれた太いベルトを締めるその手つきに迷いは無い。
「使えんだろうな」
「東の三兄弟とドカルネの要塞」
「へーぇ」
足裏にある文字を注視したままの鬼利に呑気な相槌を打ちながら、傑は膝から下が固定された右足をようやくボンネットから下ろした。同じように固定された左足の膝上から伸びるベルトを右足に回し、ぴったりと太腿を閉じて締め上げる。
「他の条件は?」
「『本部までの移動は特別護送車にて行います。安全の為、無力化にご協力下さい』」
手紙を持った手をゆったりと後手に組んだまま、すらすらと“別紙”の内容を読み上げる鬼利を、傑はベルトを金具で留めながら一瞥した。知的生命体同士の会話にふさわしい場所に視線を移動させた橙色に、余ったベルトの端をつまんでひらひらと振って見せる。
「それでこれ?」
「治る度に四肢を切るのは非効率だからね」
丁寧に説明する鬼利の表情は凪の海のように穏やかだ。
「手足に穴開けてワイヤー通すんじゃ駄目?」
「駄目だよ、裸足なんて」
「オシャレは足元からだもんな」
生真面目な顔で首を振る鬼利に適当に頷いて、傑は右太腿の半ばから伸びたベルトを持ち上げた。幅20センチ程もある太いそれをボンネットから浮かせた両足に巻きつけ、ぎちりと金具を鳴らしながら締め上げる間にも、裸のその背に筋肉の隆起が影を落とすことは無い。
彫刻のように美しいその背が袖に手を通す為に丸められるのを見て、鬼利は手にした手紙を丁寧に折り畳んでスーツの胸ポケットにしまった。真後ろを向くために化け物が首の骨を折る音を聞くのは不愉快だったからだ、
「首から下をコンクリ詰めにする方が良かった?」
「固まるまですげー暇だなそれ」
「“世界自然探求”の一挙放送でも見ていればいいよ」
「嫌だよ途中で抜けなきゃなんねーんだろ。ウスバオオヤマヌタウィリアムの貴重な求愛ダンスの途中で出発になったら集中できねぇよ」
「ドドメバニラアリモドキの巣作りとかね」
「握手求められた瞬間に吹き出すわ」
「大丈夫だよ。コンクリ詰めだから出来てハグだ」
「大丈夫じゃねぇよ。お前が吹き出すだろ」
「悦には見せないでおくよ」
「お気遣いどうも」
鬼利が腰から首まで等間隔に並ぶ穴に通した紐を受け取って、足と同じく指先まで袋状の布に包まれた傑の腕が鈍色に光るそれを引き絞る。緩みがないよう見守る鬼利の目の前でぎゅっと締められた黒い布は、発注通り、吸い付くように傑の首の半ばまでを覆った。
「採寸された覚えねーんだけど」
伸ばした左腕の二の腕から手首にかけてを編み上げる紐の一方を右手で握り、もう一方を歯で咥えて同じように締め上げながら、傑は気味悪げな声で呟く。
「してないからね」
「下ンねぇことに、……腰落とせ」
笑いかけた傑に注意されて、右腕の紐の一方を持った鬼利は素直に重心を下げる。鬼利の拳に巻きつけられた片方を見ながら傑は左と同じように歯で咥えた紐を、鬼利の指を折らないようゆっくりと引き絞った。
「コンクリ詰めの方が楽だったかもな」
「お互いね」
背中で組まれた両腕を背中の3本のベルトで固定し、鬼利はふぅと息を吐きつつ傑の正面に回る。
絹の滑らかさと鋼の鈍さを湛えて傑の首から下を隙間なく覆うのは、幽利の“目”で測った寸法を元に作らせた特別製の“拘束衣”だ。
未だ量産化が成されていない特殊繊維を贅沢に使ったこの”服”は、仕様書によれば紐一本切るのにも専用の器具を必要とし、ベルト一本で既存のあらゆる動物を拘束可能だと言う。技術的にも金額的にも、一個体の拘束に使うにはオーバースペックな代物だが、それを眺める鬼利の表情に満足感は無い。
「どう?」
「お前が作らせたんだろ」
「そうじゃない」
「よく言う」
神妙に首を振る鬼利に、手紙を取り出した時点でスーツケースに収められていた拘束衣を勝手に取り出し、全く受け取られない手紙を仕方なしに鬼利が読み始める頃にはそれを着始めていた傑は、紐やベルトを鳴らしながら滑らかに首を竦めて見せた。
「期待してるクセに」
蕩けるように甘い声で、あらゆる枠組みの外に居る化け物は笑う。
それを聞いて今度こそ溜息を吐いた鬼利は、赤黒く紐の跡が残る手で襟元を2度正し、監視カメラ越しに上階に待機させていた人員を下がらせた。
「全く、酔狂なお方だよ」
「暇つぶしにはなるだろ?」
「まさか」
開け放たれたスーツケースの端に引っかかっていた口枷を持ち上げながら、鬼利は憂い顔で首を振る。
「少ない手札の中でもとっておきの一枚を、12時間も軍警に奪われるんだ。小心者の僕は心臓が止まりそうだよ」
ふぅ、と溜息まで吐きながら胸元を擦る鬼利を傑は完全な真顔で凝視してやったが、自称手札の少ない小心者のILLの最高幹部は、その全てを事も無げに黙殺してマスク状の口枷で傑の顎を固定した。
「……あぁ。それに、君が軍部警察でどんなすり潰され方をするのかと思うと、友人としてとても心が痛むね」
「……」
「歓談と言うくらいだから、麻酔無しで解剖されるくらいだとは思うけど……相手はあの恐ろしい軍警だ。機嫌を損ねると、僕には想像もつかないような拷問をされるかもしれない。とても心配だよ」
「……」
声色だけは気遣わしげに言いながら、鬼利は枷で顎関節を固定された傑から離れる。磨き上げられた革靴を鳴らして数歩下がり、地上から続く通路の真ん中に踵を揃えて立つと、ゆるく背中で手を組んだ。
ぴしりと背筋の伸びた漆黒のその立ち姿を、高い天井にエンジン音を反響させながら降りてきたバンのヘッドライトが照らし出す。目を細めることすらなく迫る車体を見据えながら、山ほどの手札を持つ双子の弟以外の命は塵芥程度にしか思っていないILLの支配者は、隙のない微笑で自らの手札に命令を下した。
「では、手筈通りに」
「……」
敬礼の代わりに面倒くさげに天を仰いだ傑の数メートル先で、滑らかに停車したバンの扉が開く。
>>
Next.
傑のぶらり軍警本部訪問(拘束衣つき)
ウスバオオヤマヌタウィリアムの求愛は5匹以上の雄が雌を円形に取り囲み、2本の足を振り回しつつカバディに似たステップを踏むことで行われます。
雌はその中から最も腕の回転率が良くステップが軽妙な雄を選び、錐揉み上に突進してそのまま交尾に及びます。
現在確認されている中で最多の求愛チームの数は雌一匹に対して雄108匹とされており、その様子を発見者であるスティッパ昆虫博士は著書の中で「足が絡んだ雄がドミノ倒しになったシーンはマジに爆笑もんだった」と評しています。
(お察しの通り全て嘘です)