06.妄執



 お前が死ぬのは何度目だ?










 うるさい。

 鍵をかける必要性のない自室の扉をガン、と片手で殴って、傑は不快そうに眉を顰める。蝶番ごと内側に吹き飛んだ扉を踏み越えながら、深く息を吸い込んだ。

 頭の中ではひっきりなしに軋み歪む音が響いている。
 ギリギリと錆びた歯車を無理に回しているような、あるいは金属板を巨大な鉤爪でガリガリと引っ掻いているようなその音が、肉と筋がぎちゅりと歪む音に合わせて不快に揺らぐ。頭蓋の内側で旧時代の粗悪な工場が全力操業しているような喧しさだ。いっそ頭蓋骨を抉り取りたくなる。


 舌打ちをひとつ、しようとした時だった。
 不意に、ぬるりと足元が滑った。


 咄嗟に壁についた手までずるりと滑り、脳内で響く音の所為で力加減すら禄に出来なくなっていた傑の体は、無様に壁に縋りながらその場に沈んだ。
 どさりと玄関からリビングへ続く廊下に座り込んで、ようやく傑は床や、壁や、元は扉だったものにべったりと塗ったくられた赤に気づく。足元にもじわりと蟠っているそれは、傑自身の鮮血だ。

「……」

 あぁ、そうだった。

 人事のように思い出して、投げ出していた手を自らの腹に当てる。そう言えば“仕事”の途中で機関銃に撃たれたんだった。
 手の下、ボロ布と貸したシャツからじわりと血が染み出てくる。足と頭と肺は治したが、それ以外は面倒で、一気に全身の銃痕を塞ぐような集中が今となっては保てなくて、痛覚だけ遮断して自然治癒に任せていた。前はそれでも15分もすれば皮膚くらいは張ったのだが、そうか。
 今じゃそんなことも出来ないのか。


「はぁ……」

 壁に背を預けたまま、傑は深く息を吐く。いつものようにさっさと眠ってこの騒音から逃れようと思っていたのだが、この調子なら何もしなくても気を失えそうだ。その方がいい。軋みに苛まれて集中を欠いた自我なんて無くとも、後は体が勝手に上手くやるだろう。
 失った血を補う為にどこかを失うかもしれないが、もしかしたらそれは腕や足では無くてもう2度と再生できないものかもしれないが、今更2、3失った所で何も変わらない。

 明度を落としていく意識に従って俯くと、床に広がった血溜りが、傑の視線に気づいたようにぞわりと蠢いた。

 無数の虫を内包したような赤い血溜りが、ぞわぞわとその表面を波立たせながら蠢いている。規定以上の血が失われた媒体の生体機能を保つ為、心臓にある核の司令で体内に戻るよう促されているそれを感情のない瞳で見下ろして、傑は小さく嗤った。


「…大人しくしてろ」


 低く呟かれた言葉を合図に、蠢く血の表面がぱちんと弾けた。
 糸を切られたようにじわりと広がったそれを見てもう一度深く息を吐き、傑はごつりと背後の壁に後頭部を預ける。

 手の下から、足の下から、己を化け物たらしめているモノが流れ出ていくのを感じながら、軋みと歪みの不協和音の中にゆっくりと呑まれようとしていた傑の意識を、


「な…にして、るんだよ」


 あの瑠璃色が絡め取った。










 返り血では無いことは、寝室のドアを開けた瞬間から解っていた。
 だから悦は、蝶番ごと壁の一部を剥がしながら転がっている玄関扉や、床や壁にべったりとこびりついている血を見ても、何があったのか、なんて無駄なことを聞いたりはしなかった。

 床で跳ねる血を気にも留めずに駆け寄り、引き剥がすような乱暴さでボロ布と化した傑のシャツを裂いた。数発の弾丸に食い千切られ、中身が見えるほどの穴が空いた傷口に脱ぎ捨てた自分のシャツを強く押し当てつつ、その肩を引いて血溜りの中に寝かせようとした右手首に、鋭い痛みが走る。


「いっ…!」

 骨が軋む音に顔を上げると、ぼんやりと霞んだ藍色の瞳と目があった。

「…なにしてんだよ、お前」
「はぁ!?なに、って」
「なんだよ」

 淡々と問う傑の声は、機会音声のように無機質だ。悦が何をしようとしているかなんて明白だろうに、霞んだ藍色は自分の腹に押し付けられたシャツと、悦の顔とを、初めての物を見る幼児のような目で見比べている。


「止血に、決まってんだろ」
「…止血?」
「お前だって血が無くなれば死ぬだろうが。離せよ、血が…!」
「……死ぬ」


 ふふ、と空気が漏れる様なその音が傑の笑い声なのだと気づいて、悦は今度こそ背筋をぞっと凍らせた。傑はいつだって無気力で退屈そうで何かを諦めていたが、今の声は今まで聞いたどれよりも危うい響きだったからだ。

「この程度で死ねるかよ」
「っ……!」

 ぼそり、と低く呟くと同時に掴まれた腕を凄まじい力で突き放されて、悦は廊下に倒れこんだ。咄嗟に受け身を取った右手がズキンと痛み、見ると傑に掴まれていた手首に赤黒く指の跡がついている。


「出てけ」

 ぬいぐるみでも放るように悦を突き飛ばした傑は、悦が押し当てたシャツをびちゃりと床に投げ出してそう言った。ぐったりと壁に凭れたその四肢には力など入っていないように見えるのに、起き上がった悦の体はその衝撃を物語るようにギシリと軋む。

「…嫌だ、って言ってんだろ」

 だが、悦は怯まなかった。傑の力の凄まじいことはもう幾度となく体感して知っている。今更、その片鱗を少し見せられたからと言って怖気づいて引き下がるほど、物分りの良い頭はしていない。

「折ってやろうか。指から一本ずつ」
「はッ、やってみろよ」

 ドス黒く変色した手首を視線で示しながらの脅しを、悦は立ち上がりながら笑い飛ばす。
 虚勢でも楽観でも油断でもなく、傑がそんなことする筈がないと確信していたからだ。そんなこと、この死にかけの化け物に出来る筈が無かった。

「てめぇの傷も治せねぇ癖に。頭でも腕でも治せるんじゃなかったのか?」
「……」
「なぁ。なんで治らねぇんだよ。どこブチ抜かれても死なないんじゃねぇのかよ!」

 投げ出された傑の足の数センチ前まで詰め寄って、悦は叫ぶ。腹の底も頭の奥も熱くて熱くて、その叫び声が今にも泣きそうに震えていたことには気づかなかった。
 睨むように見下ろす悦を億劫そうに見上げていた傑が、ふっと笑う。

「…じゃあ、出てけよ。俺の前から消えろ」
「ッ……だから!」
「わっかんねぇヤツだな…」

 ふふ、と溜息のような声で笑って、傑はずるりと投げ出していた左足を引き寄せる。
 何気なく、自然な風を装って、悦から遠ざけるように。


「お前がいる所為で治らねぇんだよ」


 独白のように静かな声で呟かれたその言葉に、悦は離れた分を更に詰め寄ろうとしていた足を止めた。

「…俺が?」
「そう。お前みたいな人間がこうやって付き纏う度に、色ンな所がエラー起こして滅茶苦茶になる」
「エラー…?」
「俺のココがな」

 とんとん、と血塗れの指で自らのこめかみを叩いて、傑は笑う。
 いつもの何かを諦めた退屈そうな笑みではなく、何かを吹っ切ったような笑みだった。

「個としての人間に執着するのは、第三者からそう見えるってだけでも“俺”にはタブーなんだよ。人間の自由意志を種の保存に反しない範囲で認め、愛し、慈しむってのが原則なのに、俺自身が道を踏み外させるなんて論外だろ?」

 問いかけの形ではあったが、傑が悦に同意や否定を求めていないのはその口調からしても明らかだった。相槌も打てない悦を見上げたまま、自らに確認するように言葉を続ける。


「まぁ、だからって“自由意志”で離れるように手ぇ回してみても、過干渉ってことになるんだけどな。何度目かなんて覚えてねぇけど、お前の前にもそうやって俺は繰り返して来て、だから」

 悦を通り越してもっと遠くを見ていた藍色の焦点が、ゆっくりと悦に合わさった。


「だから、もう限界なんだよ」
「…っ…」


 その声は春の陽だまりのように穏やかで、その表情は幾年ぶりに悪夢から醒めたようだった。
 見ている方が安堵の吐息を漏らしてしまいそうなほど、晴れ晴れと取り繕われたその様を見て、深く考えずともそれが取り繕われているものだと解ってしまって、悦は思わず自分の喉に手を当てる。

 ああ、まただ。
 また、息苦しい。

「…それなら」

 瞬きもせずに傑を見据えて、悦は絞り出したように掠れた声で吐き捨てる。
 肺を握りつぶされているように息がし辛くて、それなのに、何か言わないと今度こそ喉が潰れてしまいそうだった。

「それなら、なんで、俺を殺さないんだよ」

 悦は確かに言った。この化け物の“仕組み”なんて知らなかったけれど、説明されたってその半分も理解出来ていないけれど、邪魔なら殺してくれと、確かにそう言った。

「殺すべきじゃないからだよ」
「壱級指定の賞金首なのにか」
「人間の基準は関係ねぇからな」
「お前をそんなにしたのに」
「好きでやったわけじゃねぇだろ」
「でも、邪魔してる」
「関係ねぇよ。そんな理由で殺したんじゃ暴発だ」
「お前は銃じゃねぇだろ」
「大して変わらねぇよ」
「どうして」

 純粋な疑問に、化け物は少し困ったような顔をした。


「だって、そのほうが便利だろ?」


 聞き分けのない子供を諭すように、当たり前みたいな顔をして。
 平然とそんなことを言うから、悦はとうとう禄に息が出来なくなって、ぎちりと音が鳴るくらいに奥歯を噛み締める。

 もどかしい、と思った。どうしてと苛立つ一方で、当然だと達観していた。だってそれは悦にすら形さえ掴めていなくて、複雑怪奇なそれを言語化するなんてことは、悦の語彙力や話術ではとても不可能だと解っていたからだ。胸ぐらを掴んで怒鳴りつけてやりたいのに、肝心の中身が白く濁って抜けている。これでは駄目だ。駄目だけど。

 嗚呼、何か言わないと、喉が。
 喉が潰れてしまう前に、何か。
 言わないといけないのに。


「…ッそれなら、さっさと」

 いくら考えても言葉にもなり損ねた残骸がぐるぐると巡るばかりで、悦は炙られるような焦燥感に耐え切れずにそれを振り払った。
 結局さっき言ったことを繰り返すだけになってしまった悦の言葉を、その思考も感情も全て見透かしたような顔で、傑は遮る。

「突き放せばいいのに?」
「…っ…」

 息を詰め、吐く。その間すら知り尽くしたようなタイミングで。

「そうだな。二度と寄るなって叩き出したり、三日三晩かけて説得したり、病院に叩きこんだり、大陸2つ分離れたり……すればいいのにな」

 どうしてしないんだろうな、なんて。
 他人事みたいな顔で、笑うから。

「……そうか」

 水面にインクが一滴、ぽとんと落ちるように自然に、悦には解ってしまった。
 考えてみれば当たり前のことだった。悦は考えるのが苦手だが、それでも少し考えれば解るくらいに。だってそうだろう。人間の、その中でも出来がいいとは言えない頭で考えつくようなことを、この化け物が考えつかない筈がない。
 この化け物は全部やったんだ。

 そして。
 それでも。
 だから。


「…そうか。そうだよな」


 ぽとん、と零して、悦は背後の壁に背中を預けた。
 つかえが取れたように息がし易くなった喉と肺で、血腥い空気をすぅと吸い込む。ちりちりとした焦燥の消えた背中を壁に凭れさせたまま、ずるずるとその場に座り込んで、傑と目を合わせた。

 真正面から見る藍色の瞳は、呑まれるような深さを失って平坦に真っ暗だった。
 それを見て、あぁ、と思う。
 解ってしまえば簡単なことだ。物事というのは大抵がそうだ。
 結局はこの化け物も、悦も、そういうことだったのだ。

「……なぁ」

 時折滲むように焦点を失う藍色を見据えたまま、悦は問いかける。

「殺してくれって言われたこと、ねぇの?」
「あるよ」
「殺してやったのか?」
「いいや」
「そっか」

 その話の結末は聞かなくても解ったから、悦はただ小さく頷いて、右腿の内側に手を伸ばす。
 この部屋に来た時に履いていたそのジーンズには裏に隠しがついていて、悦はそこに隠されていたものを、刃渡り数センチの薄いナイフを、隠しを裂いて引き抜いた。

「そうだよな。殺せないんだよな」

 確認するように言いながら、廊下の間接照明に照らされてぬらりと光るそれを、慣れた手つきで逆手に握り直す。
 傑はそれをただ見ていた。嘲笑うことも呆れることも諦めることもなく、ただ見ている傑を見つめながら、悦は傑の唇に残っているのと同じように笑う。


 悦には解っていた。

 騒々しさと血臭に飛び起きて最初に開けた扉が、どうして玄関ではなく寝室だったのか。
 何でも出来るくせに何もしない化け物の、はらわたではない内側がどうなっていたのか。
 どうしてこんな有様に成り果ててしまったのかも。

 成る程、それはそうだ。
 傑の言動を思い返す毎に、悦は心からそう思った。もう、どう考えたってそれしかない。それが正しいよ。最善ではないけど、それどころか最悪の1つ前くらいだけど。それでも最悪よりはいくらかマシだ。

 だから。
 でも。


「……ふふ」

 刃と同じ厚みしかない柄を握る手から一度力を抜いて、人差し指から順番に、丁寧に、体に染み付いた感覚の通り、最適な力加減でナイフを握り直しながら、悦は溜息のような声で笑う。
 それは傑が零したそれととてもよく似ていて、それに気づいた藍色の焦点がじわりと戻るのを見ながら、悦は穏やかに笑って、心の中で呟く。

 だから。
 でも。
 ごめんな。


「…じゃあ、俺がやるよ」


 鋭く研がれた刃が、慣れた感触を切り裂いた。










 ―――ギギギギギ

 強く頭蓋に反響した音に目を瞬くと、目の前に澄んだ瑠璃色があった。
 絶叫するような軋りに眉を顰めながら、擦り切れそうな精神を総動員して閉じようとする掌を止める。止めろ。止まれ。

 じわり、と血が通うように感覚を取り戻した指を無理に開いて、掌を貫くナイフごと握り潰そうとしていた手から遠ざける。びきり、ぶつん、と神経か何かが切れる音がしたが、それが頭蓋の内側で響いたのか、空気や他の何かを震わせて響いた音なのか、今の傑には解らなかった。

 どちらでもいい。
 自我ではない意識によって伸ばされた手のお陰で本来の標的ではなく、傑の掌に突き刺さったナイフを握り潰しながら、傑は覆い被さるような格好になった人間を見た。
 静かに直線で彼を見上げる、自らの喉笛を裂こうとしていた瑠璃色を見た。


「…お前」

 零れ落ちるように言った傑に、瑠璃色がゆるりと細まる。
 力加減も禄に出来ていない、化け物の膂力でナイフを取り上げたのだ。骨は無事にしろ、筋のひとつふたつは切れている筈なのに、そしてそれは人間にとっては激痛である筈なのに、柔らかく傑を見据える人間は眉を顰めることすらしなかった。


「だって、お前には殺せねぇんだろ?」

 薄く笑いながら問う人間は、きっと傑の答えを知っていた。

「俺はお前の“物”なんだ。邪魔なら捨てろって、最初に言ったろ」

 だから傑は何も答えなかった。

「お前が捨てられないって言うから、代わりに捨ててやるだけなのに」

 掌の中で歪んだナイフを横目にして、内心でだけ溜息を吐く。
 ああ、全く。どうして。


「どうして駄目なんだよ」


 どうして。

 音にしていない筈の声とその音がぴったりと重なり、傑は僅かに目を見開いた。
 どうしてって、だからそれは。
 それは。

 ―――ぷつん。

「…ッ…!」

 騒音に紛れそうな程小さな音と共に激痛が走り、傑は咄嗟に額に手をやった。血管と筋を浮かせて不規則に跳ねる指先が、めきりめきり、頭蓋骨を軋ませる。
 痛覚はとうに遮断している筈だった。
 その証拠に、突き刺さったナイフが歪んで引っかかっている手にも、薄皮が張っただけの腹にも、痛みは無い。なのに。

「っ…ぐ、…」

 頭の中を、血液の代わりに返しの付いた細い細い針が流れているようだ。純血種の精神力をもってしても微かな苦鳴が漏れるのを抑えられないそれは、明らかにこの構造の生物が感じることの出来る痛みの限度を超えている。
 存在しない筈の神経が微細な針によって抉られ、裂かれ、刻まれる。

「ッ…くそ…!」

 ギチギチギリギリと鳴る軋みと歪みに合わせて脳髄を抉る激痛が、とうとう霞む視界すらぐにゃりと歪めるのを見て、傑は低く唸った。きつく目を閉じて、漏れようとする声を喉奥で押し潰しながら深く息を吸う。

 その、耳元で。


「…ほら、だから言ったのに」


 酷く無機質な声が言った。
 目を開いた傑の視界に、自分の耳元に唇を寄せる人間の、細く生白い首筋が映る。
 薄くて柔い。簡単に潰せるし、折れるし、裂ける。こいつらはどこもかしこもそうだ。容易く死ぬくせに。化け物が触れるには、どこも余りに脆い。


「なぁ、俺は離れてやるつもりなんかねぇからな」


 瞬きすら忘れた傑の耳元で、人間が睦言のように呪詛を囁く。
それに、重なって。

 ―――そうだ。そうだよ。そうよ。離れない。絶対に。離れたりしない。出来ない。そんなことは。そんなの許さない。

 幾重にも折り重なった呪詛が、軋みと歪みを伴って頭蓋の内側に反響する。


「俺の所為でお前が壊れるまで」


 ―――だって愛してるの。無理なんだ。好きなの。愛してる。貴方が壊れるなら私も。一緒に死んで。愛してる。好き。愛してる。愛してる。


 これは誰の声だ。
 話しているのは誰だ。


「こうやって止められないくらい、駄目になるまで」


 ―――それが許されないのなら。離れるくらいなら。別れるくらいなら。
 ―――そんなの耐えられない。我慢できない。壊れてしまう。だから死ぬけれど。
 ―――ただ死ぬのじゃ悔しいから。

 あぁ、雑音が酷い。
 煩くて解らない。
 これは誰だ。
 この人間の、名は。



 ―――アナタの内側を歪ませる、消えない傷のひとつに。



「俺は―――」

 ブチブチと、何かが引き千切られていく音が聞こえた。
 目の前が赤く黒く明滅する程の激痛を伴って、歪み捻れて果てたものが終には耐え切れなくなってしまったように。

「……黙れ」

 鈍い衝撃が掌から肩に伝わった。
 ぶつん、ぷつん、と何かが切れていく。それを聞きながら、傑は神経が通いきっていないように感覚の鈍い自分の手が、何かを言いかけた人間の首を掴み、壁に叩きつけているのを見た。

 鈍い衝撃を伴って、蜂蜜色の頭が不安定に揺れる。
 指の下で歪む皮膚は薄く、肉は柔かった。
 わざわざ力を込める必要も無い。
 開いた掌を閉じるだけで、この首は折れて千切れる。
 息を止める。

「…っ…」

 苦しげに息を詰まらせる人間を見ながら、傑は奥歯を砕けるほど強く噛み締めた。
 ほんの少し腕を前に出せば、喉笛が潰れる。
 激痛に痙攣する腕を押さえ込んでいる意識を、一瞬緩めるだけで。
 そうすれば。
 それが出来れば。
 それだけは。


「…ふふ」

 溜息のような声が、赤と黒に明滅する視界の中で傑を嗤う。
 造作もなく息を止められる癖に、何もできずにいる化け物を見上げて。
 いつかの夜のような、いつかの夕のような、翳りひとつない瑠璃色が笑う。

 慈しむように。
 憐れむように。



「……かわいそうに」



 …あぁ、まただ。

 不意に、ぱちん、と電気を切ったように静かになった頭蓋の内側で、傑はそう思う。
 明度を取り戻した藍色で見下ろした人間は、呆然とした傑を見上げて。
 ゆっくりと、眠るように。


 目を閉じた。


「…おい」

 何の雑音も無い中で聞く自分の声は、なんだかやけに掠れて聞こえた。
 そっと力を抜いた手の中で、華奢な首がかくりと傾いて。
 細い体が、ずるずると壁を伝って崩れていく。
 音もなく床に横たわったその首に残った指の跡を見て、傑は愕然と脆く柔い感触を伝えてくる自分の掌を見た。

 そうだ。
 今は、加減が。
 ほんの一瞬、気を逸らしただけで。

「……」

 掌には生々しく感触が残っていた。
 骨の折れる感触も、喉笛が潰れる感触も無かった。
 残っているのは柔らかく脆い皮膚と肉が歪む感触だけだ。
 それなのに、傑はすっかり感覚の戻った手を人間の口元に翳すのに、その呼気を確認するのに、随分と長い時間を要した。

 そうして、そろそろと伸ばした指先に、暖かく湿った吐息が触れた瞬間。


「…は…」


 意図せず漏れた、自らの吐息を聞いて、

「………あぁ」

 知らず強ばっていた掌で目元を覆いながら、傑は何かも解ったような声音で呟いた。
 あぁ、そうだった。



 こいつの、名は。



 >>Next.



憐れで愚かな出来損ないの
末路は。

long