07.慈愛



 子を想う母のように深く
 仇を見る人間のように重く
 行きずりの他人のように無関心に

 世環傑は、人を愛する。










 昔から、夢は殆ど見ない。

 初めて誰かを殺した時も、目の前で仲間を嬲り殺された時も、5時間かけて腕の皮を剥がされた時も、そしてその後も、悦はその時の有様を夢に見たことは一度も無い。
 もしかしたら見たことがあるのかもしれないが、悦にとってそれは確実に起こった過去の焼き直しでしか無かった。内容を一言一句覚えているテレビの再放送のようなものだ。それは実に不毛で、生産性が無く、退屈で、悦はいつだって起きた時には欠片だってその内容を覚えていない。

 悪夢を見たことは一度も無かった。
 夢でさえ禄に見たことが無いのだ。

 いつだって、悦の記憶は間断なく連続している。夢も悪夢も挟み込まず、朧げな眠りの、或いは失神の記憶から、起きたと自覚し目を開けるその瞬間まで。


「…しょーがねぇな」


 だから、焦点のぼやけた視界に見慣れた天井が映るなり、悦は盛大に溜息を吐いてそう言った。
 やれやれと呆れた表情を隠しもせずに、鈍く痛む首を巡らせる。寝かされているソファがキシリ、と小さく軋む音に、傍らのローテーブルに座った人影が微かに身動いだ。

「……」

 無言で見据えてくる藍色を同じく無言で受け止めながら、悦は口元だけで笑う。

 藍色は気絶する前の平坦さを失って、海の底のような深さを取り戻していた。窓から差し込む人工の陽光は、その美貌を鮮やかな橙色に染めている。ある一点を除けば人間よりずっと賢い化け物のことだ。きっと悦が寝ている半日の間に、色々と折り合いを点けたのだろう。
 けれども藍色の奥は暗いままだ。恐らく、いや確実に、悦がいる所為で。


「捨てればいいのに」

 ただ見ているだけじゃなくて。こんなクズ、どんな殺し方をしたってどこの誰も責めやしない。笑い安堵する奴はいても泣き憤る者など1人もいない。お前が頑なに背負い込んでいるその重そうな義務だの仕組みだのと一緒に、窓の外に捨てれば良かったのに。

 他人事のようにそう言う悦を、藍色の瞳の化け物はじっと見つめていた。
 そして、悦がその美貌を眺めるのにも飽きて小さく欠伸をした頃、ようやく口を開いた。


「お前、俺のどこがイイんだよ」


 軽い口調に反して、実に重そうな問いだった。
 きっと色々な意味や思惑が裏にあって、そういう全部が、この短い問いにぎっしりと詰まっているんだろう。もしかしたらこの答えは、悦のこの先の生死を左右するものかもしれない。
 そう思いながら、悦は口を開く。

「死なないから」

 すっぱりと断言した悦に、藍色がぱちりと瞬いた。

「……それだけ?」
「そうだけど」

 何だよ悪いのか、と少し拗ねたような顔で見返すと、化け物はなんだか不思議そうな顔をした。
 それに、ったく、と溜息を吐いて、悦は頭の後ろで腕を組む。

「頭吹き飛ばされても死なない奴なんて、お前以外にいねぇだろ」
「……4人いる」
「あ?」
「俺の同族。聞いたことあんだろ?」
「……」

 相変わらず不可解そうに言う藍色を、悦は胡乱げに見やった。

「あるけど。そいつ等もお前と一緒なのかよ」
「一緒?」
「よく解んねぇけど、エラーだのなんだのでお前は壊れる寸前なんだろ」

 他の、お前が同族と呼ぶ化け物もそうなのか。と問うと、化け物は訝しげな顔で首を振った。それにほら見ろ、と鼻を鳴らして、悦は片腕を枕に体ごと傑に向き直る。

「それじゃ駄目だ」
「どうして」
「付け入る隙がねぇだろ」
「…ははっ」

 悪びれもせずに真顔で言い切った悦を、傑は笑った。
 何の含みも、影も無く、ただ普通に。


「付け入る隙があるから、俺にしたってことか」
「悪いかよ」
「いや。お前、案外賢いな」

 当たり前だ。そうやって生きてきたんだから。
 絡めた指を振りほどかれない相手を見極めるのは、文字を読むより容易いことだ。いつだって寸分の狂いなくそれをしてきたら、悦は今もこうして自我を持って息をしている。御伽話も信じなければ、夢も見ない。

 届かないのなら、最初から手を伸ばしていない。


「言ったろ。好きとか、愛とか、そういうんじゃねぇって」
「あぁ、そうだな」

 確かに言った。
 噛みしめるように呟いて、化け物はぐしゃりと前髪を掴んだ。

「そんなに死んだのか」
「人数なんて解んねぇよ」
「だろうな」
「だから、もう飽きた」

 最後の1人になるのも、誰かの最期を看取るのも。

「どいつもこいつも、俺で良かったって言いやがる」

 顔も名前も次の日には忘れるのに、それが良いと言う。
 終いには、自分が死ぬ時は傍にいてくれ、なんて予約までされる始末だ。悦だってそいつと同じように一瞬後に頭を吹き飛ばされて死ぬかもしれないのに。冗談にしたって笑えない。

 夢に見ることも、ふと思い返して胸を痛めることもないけど。
 笑えない冗談を、何十何百と聞くのは。

「どうでもいいけど、なんか腹立つだろ」

 まるで、生き残れと言われているみたいで。
 死にたいと思ったことなんて一度も無いし、雑魚に殺されてやるつもりは欠片も無い。どれだけ痛くて苦しくても足は動いたし、嫌でも目は生き残る道を探し出してきた。そうやって悦はただ生きているだけなのに、何百という笑えない冗談が、それに御大層な意味を持たせようとしてくる。

 そんなのにはもう、うんざりだった。
 死んだ連中に意味だの義務だのを背負わされるのもそうだが、自分が誰かにそれを背負わせるなんて、考えるだけで不愉快だ。人間は脆い。次の瞬間には死ぬかもしれない誰かに、俺の分まで、なんて反吐が出る。
 だから。


「だから、お前がいいんだ」

 化け物だから。
 強い強い化け物だから。
 お前に殺されるんなら仕方がないと思えるし、人間や他の生き物のようにあっさりと死ぬことも無い。俺の分だろうが全人類の分だろうが、そんな呪いは、最初から決められた分だけを過不足なく生きる化け物には何の意味も無い。そういうお前の傍にいれば。


「お前がいいんだよ、傑」


 もう二度と、最後の1人にはならないだろうから。










 差し伸べられた手は、夕陽に照らされていてもそうと解る程に白かった。
 過労と栄養不足の所為だろう。空中で静止状態を保てずに微かに震えるそれを見て、傑は目を細める。

 今までなら嫌悪感と共に無条件で掴んでいたそれを見ながら、穏やかに笑う。


「……じゃあ、こんなのはどうだ」

 手の向こうで、瑠璃色が怪訝そうに瞬く。
 それを見ながら、傑は膝の間に投げ出した両手の指を絡ませた。

「……俺は、」

 すぅ、と息を吸う。

「人間から離れられない」

 ぱしり、長い蜂蜜色の睫毛が瞬く。

「それが過干渉の原因になると解ってても、仕組みに反してても。独りにはなれない」

 いや。傑は自分の言葉を笑う。

「なれない、んじゃないな」

 なりたくないんだ。
 愛し慈しめと血の一滴にまで刻み込まれた人間達を、人類という種で一括りにして、実験動物を見るように傍から眺めているのは。それだけしか出来ないなんてことは、傑にはどう考えても無理だった。


「その所為で、俺の中は歪みっぱなしだった」


 元々の素質か、触媒の欠陥か。ただひとつ、それだけが消えなかった。

「でも、今は止んでる」

 それが何故かは、どこまでも不完全な化け物でしかない傑には解らないけれど。
 そういうことなら、四六時中響いていたあの不快な軋みと歪みが止んだのは。
 自分の鼓動が聞こえるくらい、この世界が静かになったのは。


「だから、悦」


 初めて舌に乗せた筈のその音は、何故か驚くほど馴染んだ。

「“死なない化け物”が欲しいなら、俺がそれになってやる。だから」

 傑以上に驚いてまんまるになった瑠璃色を見つめて、傑は絡めていた指を解く。


「だから、お前を俺に寄越せ」


 低く言われたその言葉に、瑠璃色は更に丸くなった。
 血の気のない唇が呆然と開かれて、閉じて、意を決したように開く。

「そ、れって」
「……」
「そう、すれば、くれるのか」
「あぁ」
「全部」
「何もかも」
「…何でも」
「お前が死ぬか、俺が壊れるまで」
「こわれるのか」
「お前次第だな」

 その言葉の重さは知っていたが、傑は敢えて包み隠さずに答えた。とんとん、と指先で自分のこめかみを叩いて見せる。

「お前のお陰でようやく収まったんだ。それが消えるか失くすかすれば」
「こわれるのか」

 幼子のように拙い発音で繰り返して、悦は下がっていた手を伸ばす。
 真っ直ぐに、傑の心臓へ。


「あぁ。振り出しに戻る」
「あのくらいじゃ、死なないんだろ」
「そうだな。少しマシになったとしても、精々5年ってとこだ」
「じゃあ、俺が死んでも」
「直ぐには死なねぇよ」

 後追いなんて願い下げだ、そうだろ。そう言って笑ってやれば、悦は零れそうに見開いていた瑠璃色を数度瞬かせて、小さく頷いた。

「あぁ、」

 ゆっくりと傑の体の芯を辿るように下がった手が、そろりと、いつかのように傑の指に触れる。
 今まで傑が何をしようが澄み切って狂気の欠片も映さなかった瑠璃色が、吐息のような声と共にゆるりと細まり、


「……いいな、それ」


 どろりと蕩けた。


「いいよ。なんでもくれてやる」

 それは恍惚に違いなかった。謡うように言いながら絡みついた華奢な指が淫猥に傑の掌を辿り、手首に至り、腕を這う。

「だから、これで」

 音も立てずにソファを滑り落ちて、満身創痍の脆い人間は、そっと傑の頬を包み込んだ。
 陶然と細められた瑠璃色に傑だけを映し込んで、悦が微笑う。


「全部、俺のものだ」
「…ああ」


 澄んだ瑠璃の奥に隠されていた奈落を見つめて、傑は頷く。
 どうりで狂わない筈だった。この人間は、はじめから、こういうふうにできていた。


「それでいいよ」

 睦言のように囁きながら、傑は頬に添えられた手にそっと触れた。
 ようやく飢えが満たされたように微笑む、今更化け物如きが歪められるところなどひとつたりともない瑠璃色を見つめて、柔らかくその手を握る。



「俺も、それがいい」



 吐き気がするほど甘い呪詛は、空気に溶ける前に貪欲な瑠璃色に舌ごと絡め取られ、唾液と共に飲み干された。



 Fin.



ここが地の底。

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