ふわり、と襟足を撫でた風に振り返ると、コンクリで固められた擬似夜空よりよっぽど昏い藍色と目があった。
「っ…鬼利さん!」
鬼利が訝しげに目を細める暇も無く、先立って周囲のクリアリングをしていたキュールが、鋭く叫びながら引き倒すようにして覆い被さってくる。頭上を過った影は、車の反対側に居た仁王のものだ。
巨漢の部下がその広い背中に並々ならぬ警戒を滲ませ、彼の嫌う銃を構えて藍色と対峙するのを、鬼利はキュールの肩口から見た。自分の体を鬼利の盾にして素早く退路を探る部下もまた、大きな古傷の走るその横顔に極度の緊張を貼り付けている。
「貴様、何のつもりだ」
「……」
…ああ、これは不味い。
仁王の言葉に何も答えない男を見て、鬼利は咄嗟にキュールの下から起き上がろうと部下の肩に手を掛けたが、小洒落たスーツに包まれたその筋肉はタイヤのように硬く、びくともしなかった。
それならと全力で自分を守ろうとする2人の部下の名を呼ぼうとするが、音になり掛けたその声は、壁として立ちはだかっていた仁王が糸を切られたように崩れ落ちる音に掻き消される。
声もなく倒れ伏した仁王を見て、傭兵経験のあるキュールの行動は迅速だった。自分の体は勿論、場合によっては生死の解らない仁王の体すら使って、なんとか数メートルの距離にある本部棟内に鬼利を逃がそうとしているのが、筋肉の動きすら感じられるほど密着した彼等の上司には痛いほど解った。
2人にはなんの落ち度も無かった。
だからこそ鬼利は、例え彼の頭の回転を持ってしても不可能なタイミングだとしても、最初に目が合ったあの瞬間に2人を止めるべきだったのだ。
「…お前に用はねぇよ」
荒事に慣れた彼が構えた銃を撃つ暇さえなく、そんな底冷えのする声と共にキュールの体は鬼利の上から引き剥がされた。仁王と同じく糸が切れたように力を失くした体が地面に放られ、その傍らに、紙くずのように丸められた銃がごとりと落ちる。
「……」
「……」
自分を見下ろす藍色の瞳と視線を合わせたまま、ゆっくりとその場に起き上がった鬼利の前に、凶器を持った部下2人を瞬きの間に無力化した男は、無言で手を差し出した。
月光に青白く滲む本部棟を背にしたその男は地面に伸びる影さえ美しく、鬼利の脳裏に、この場にはとてもそぐわない一級の芸術品の数々をいくつも想起させた。
そんな、鬼利の知るどの絵画よりも彫刻よりも魅惑的な美貌を硬く無表情に凍らせて、
「…話がある」
世環傑は、静かに言った。
ドアの内側に備えられたテンキーを操作し、小さな電子音と共にぱか、と開いたシートの一部から薄いノートパソコンを取り出しながら、鬼利は対面式シートの運転席側に腰掛けた。
「…2人に何を?」
「殺してはいねぇよ」
鬼利の斜め前に座り、窓枠に頬杖を付いている傑の返答は素っ気ない。そんな解りきった答えなど望んでいない鬼利が、パソコンを立ち上げながら尚もその横顔を見据えていると、窓から視線を外さない藍色が面倒くさそうに細まった。
「デカいのは鳩尾殴って脳揺らした。もう1人は絞め落としただけ。30分もすりゃ起きる」
「それは良かった。お陰で明日の予定が大幅に狂ったよ」
微笑みながらの鬼利の皮肉にも、傑は答えない。
頑なにこちらを見ようとしないその横顔に小さく溜息を吐き、鬼利は起動したパソコンを膝の上に乗せた。
「部下の安否も解った所で、話を聞こうか」
「俺の部屋に居座ってる死に損ない」
「名前は悦だよ」
淀みなく答えながら、鬼利は内心で首を傾げる。
今まで傑の“生贄”になった登録者は10人以上居るが、今までその内の誰ひとりとして、傑に名前を覚えられた者はいない。この化け物は自らの虜になった人間に対しては、努めて関心を持たないからだ。
それが、社外から帰った鬼利が執務室に戻るのも待たずに部屋から“落ちて”来て、正面玄関に横付けにされたままの車内で話そうとしているなんて。
「経歴…と、歳」
「Z地区で“鴉”の一員として育ち、“街”の権力者相手の売春で資金集めをしていた。いざとなれば護衛も出来る男娼ということで評判は高く、17になって“群れ”を追い出されてからも、当時の上客からの庇護を受けてZ地区に留まる。18で僕がスカウトして、今は20歳」
「…雑だな」
「そう言われてもね」
口元だけで嗤う傑に首を竦め、鬼利はパソコンをくるりと半回転させた。
車内という小さな密室の中で唯一の光源となっているその画面には、白紙の背景に「削除済み」の大きな赤い文字だけが映しだされている。
「君が引き取ると言うから、あの日の内にデータは全て消したんだよ」
「……」
「略歴程度なら覚えているけど、詳細は改めて本人に聞くしか無い」
「そうか…じゃあ、」
落胆した風もなく言いながら、傑はすらりと長い足を組んだ。
「…“目がいい方”に聞くか」
「殺すよ」
パソコンから視線すら上げない鬼利の言葉に、分かりやすくそこから動く気配の無い傑が小さく笑う。
その乾いた声を聞きながら、鬼利はゆっくりと、役立たずの精密機械を閉じた。
「家族は」
「データでは母親は死去。父親、兄弟は不明。本人は顔も覚えていないそうだよ。強いて言えば“鴉”がそうだけど、それも過去だ」
「恋人、親友」
「本人の申告では、『全部死んだ』」
「精神疾患」
「無し。目立った病歴も無い」
「トラウマ」
「恐怖症の類も全て無し」
詩を暗唱するように答えて行きながら、鬼利は橙色の目を細めて傑の横顔を一瞥した。
相変わらず視線を合わせない傑は、頬杖を付いていた手で目元を覆いながら、疲労のようなものが滲む声で最後の質問を口にする。
「…特筆事項」
「それは、君の方が詳しい」
シートに背を預けながら言い放つと、笑った傑が小さな声で「そうだな」と呟いた。
それにもう一つ溜息を吐きながら、鬼利は眼鏡を外して目頭に指を当てる。今夜は仕事が立て込んでいて、時計の針は12時をとうに過ぎていた。明日丸一日は仁王とキュールを休ませ、その穴埋めを自分ですることに決めている鬼利には、だらだらと長話に付き合う暇は無い。
「手短に頼むよ。興味は無いけど、何があったの?」
「……」
「…傑」
閉じたノートパソコンを些か乱暴にシートの下の隠しポケットに放り込みながら、鬼利は敢えて苛立ちを隠さずに低い声を出した。このままでは埒が明かない。
「…目を抉ったんだよ」
促されるまま、素直にぽつりと零れた傑の声は驚くほど抑揚に欠けていた。
「誰の?」
「俺の」
「誰が」
「俺が」
なんだそれは。
「…あぁ、そう」
流石の鬼利も、これにはそんな下らない相槌しか返せなかった。人間の悦が抉られたか抉ったのなら驚くふりくらいしてやるが、やったのは眼球どころか頭まで再生して見せる化け物だと言う。そんなもの、例え目の前でされたって鬼利は何とも思わない。
「それで?」
「右目もやろうとしたらしがみついて止められた」
「…へぇ」
「離さねぇっつーから腕ごと千切ろうとしたら怒られた」
「怒られた?」
鬼利はその様を想像しようとしてみたが、彼の頭脳を持ってしても、この化け物がただの人間に怒られている所は想像し難かった。
「鬼利。お前、俺がここで同じことしたら止めるか?」
「止めるよ。シートが汚れる」
「怒るか?」
「汚したら怒るだろうね」
「ここじゃなかったら?」
「好きにすればいい」
「だよな」
冷淡な答えにくくっと喉奥で笑って、傑はどさりとシートに背中を預ける。
「お前が正しいよ」
「…意味が解らない」
鬼利は傑がどこを引き千切ったって何とも思わないが、経歴に似合わず妙に“真っ当”な所のある悦は違うだろう。手の施しようが無い、と判断されるほど傑の虜になっているのなら尚のこと、傑の自傷行為には思う所がある筈だ。怒ることもあるかもしれない。
それはほんの少し情け深くはあるが、至極当然の反応だ。目の前の男は人のかたちをした化け物だが、それ故に人間よりも人間に詳しい。そんなこと百も承知だろうに、何故傑がこんな話をしているのか、鬼利にはまるで解らなかった。
「俺も解ンねぇよ」
「そうじゃない。君が、」
「でもな、鬼利。それが解らない俺は」
らしくもなく不躾に鬼利の言葉を遮って、化け物は酷く遠い目をして言う。
「…俺は、かわいそうなんだってよ」
「……は?」
かわいそう。
…可哀想?
自分でも信じられないくらい緩慢にそれを噛み砕いて理解した鬼利が、珍しく狼狽を隠しもせずに橙色の目を見開くのを、傑は初めから終わりまで眺めていた。
そうして、聡明な鬼利が言われずとも全てを理解してしまうのを待ってから、ゆらゆらと揺蕩うようなこえで繰り返す。
「かわいそうなんだって」
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