ねぇ、知ってる?
人間はね、慣れることが出来る生き物なんだって。
同じことを何度も経験すれば、慣れるんだって。
平気になるんだって。
だからさ、仲間なんて毎日たくさん死んでるしさ。
だから、ねぇ、悦もさ。
「…あぁ、慣れたよ」
そっか。よかった。
よかった
別に、構わなかった。
拷問紛いの真似をされようが、腹が精液で膨れるまで犯されようが、そんなのは想定の範囲内だ。物として扱えと宣言したのは悦の方なのだから。
あの化け物がどう思っているかは知らないが、人間の欲望をドロドロに煮詰めたようなZ地区で育った悦は、それがどういうことかを知っている。人間として扱われない、というのがどういうことなのかを、身に沁みて理解している。
だから、何とも思っていなかった。
便器に沈められた時は、もがき苦しむ様が見たいのだと思ったから精一杯苦しんでやったし、足腰が立たなくなるほど散々に犯されている最中だって、「泣き叫ぶ丈夫な玩具」に「性欲処理器」という“使い道”が追加されたんだろう、としか思わなかった。悲鳴も嬌声も絶叫も、どれもZ地区で『売り』にしていたものだ。そういう方面で使われるなら、寧ろ予想していたよりも満足させられるかもしれない、なんて少し安堵さえしていた。
なにせ相手は神とも悪魔とも呼ばれている化け物だ。
そんな完璧な生き物の時間を、ほんの数日でもこんなクズの欲望の為に使わせるのだから、命を含めた全部を捧げるくらいしないと吊り合わないと、いやそれでも少し足りないと、悦は本気で思っている。
後は飽きた傑に殺されるか、心身の限界が来て勝手に死ぬか、捨てられて目の前で自殺するかのどれかで、それまでは所有物として少しでも上等に思ってもらえるように、出来る限り使い勝手良く泣き叫んだり喘いだりしていようと、本当に、心からそう思っていたのだ。
でも、どうやらそれは違うらしい。
悦がそのタイミングでそう言ったことに、理由も意味もない。
ただ、ふと目の前の美貌を見てそう思っただけだ。まだ動けたんだな、と目覚めた傑に相変わらず鬱陶しそうに言われながら、薄い毛布を剥ぎ取られ、汚れたままの、疲労で軋む体を硬いフローリングに押し付けられた時に、そう思ったから。そのまま言葉にしただけだった。
「…楽しくねぇなら止めれば?」
思ったから言いはしたものの、悦は物である自分の言葉になどなんの価値も見出してはいなかったから、精々煩いと殴られる程度だと思っていた。このままここで犯されたらいよいよ立てねぇな、なんて考えながら、上手く動かない足をどうにか開こうとしていたのだ。
「ははっ……なんだ、それ」
だから、心底驚いた。
だって今の悦の言葉なんて、機械のモーター音と同価値だ。それを咎めることも、聞き流すこともせず、人間相手にするように受け答えされただけでも予想外なのに、声が。
普段の美声が嘘のように錆びついた、そんな声で。呻くように言われるなんて、想像もしていなかったから。
「え、あ…悪い」
「…なんで、てめぇがそれを言う」
「もう言わない、黙るから」
「そうじゃねぇ」
目を伏せながら吐き捨てられた声は、地を這うように低かった。
深く息を吐いた傑が自分の上から退くのに合わせ、悦はガタつく体をなんとかフローリングの上に起こす。剥がれた毛布を纏いながら伺うと、ソファに座り直した化け物は、硬く冷たい藍色の瞳でじっと足元のフローリングを見つめていた。
どうやら、地雷を踏み抜いてしまったらしい。
それは解るが、考えなしに言った先ほどの言葉の、どこがどう不味かったのか悦には解らない。ただの物が人間気取りで勝手に喋るなとか、そういう雰囲気でも無さそうだ。
「っ…なぁ、」
じゃあ何が、とそれ以上考えることはしなかった。どうせ解る筈が無いと思ったから、それなら教えて貰うしかないと声を上げた悦を、温度の無い藍色が一瞥する。
「……お前、水飲んだか?」
「え?…や、まだ…だけど」
もしかして、声が気に食わなかったのだろうか。まともに喋れるだけまだマシにはなったが、確かに今の悦の声は酷いものだ。
「飯も、食ってねぇだろ」
「ん…まぁ、うん…」
そういうことなら、とキッチンに向かおうとしていた悦は、上げかけた腰を冷たいフローリングに戻して再び首を傾げる。
そう言えば、昨日ベッドに放り込まれてから丸一日近く何も食べていないが、飯と声は関係無いと思う。なら原因は声じゃないのか。1日食べずにいたくらいでやつれるほどヤワではないつもりだったが、動きが悪かったのだろうか。それが気に障った?
いや、違う。そういうことなら解る筈だ。そんな顔なら“見慣れて”いる。でも悦は、今の傑のような表情を、目を、見たことがない。
「そ…それが…?」
「…それが、じゃねぇだろ」
出来るだけ下手にでてのお伺いを、目元を手で覆った傑にくくっ、と喉の奥で笑われて、ますます悦は解らなくなる。
そうじゃない、ってどういうことだ。それじゃないならどれなんだ。こちらの頭の出来が良くないことくらい解ってるだろうに、どうしてこの化け物はこんなに難解に喋るんだ。
「お前、生身だよな」
「は?」
「機械入れてるわけじゃねぇんだろ」
「あ…あぁ、うん」
「だよな」
やっと解る質問が来た、と大きく頷いてみせた悦を横目に、傑はぼそりと「音しねぇし」と付け足した。腕だの足だのならともかく、内臓系の機械体部品の駆動音なんて、聴診器を当てたって鼓動に邪魔されるほど微かなものだと聞いたことがあるが、相手は化け物だ。きっと傑には聞こえるんだろう。
「じゃあ、キツいだろ」
「…なに、が?」
「カラダ。お前の」
「…まぁ…それなりに…」
喉は乾いたし、腹も減ったし、関節は痛いし、確かに楽ではない。
でもそれは所詮それだけのことで、今すぐ死んだり壊れたりするわけじゃなし、傑には関係ない筈だ。
「…お前さぁ」
やっぱり解らない、と不思議そうにもう一度首を捻った悦を、長い指の合間から覗く藍色が見据える。
「なんで逃げねぇの、俺から」
「…は?」
「しんどいだろ、俺の所為で。そうなるようにしたからな」
淡々と紡がれる声に背筋を伸ばしながら、悦は昨夜の行為は遅漏で絶倫なわけじゃなく、自分を疲れさせるためにしていたんだなと、ひとつ理解した。
「その前は吐くまで沈めたし」
水責めなどの拷問行為に快感を見出す性癖でもなかったのかと、もうひとつ。
「あぁ、昨日は締りが悪いって首も絞めたな」
それは覚えていなかったし悦にしてみればよくある普通の方法だが、この化け物にとってはわざわざ付け足すほどの行為らしいと、もうひとつ。
これで3つ。ここまでの3つは解った。
でも。
「…なのに、なんで逃げねぇんだよ」
…これが解らない。
今までの話とどう「なのに」で繋がるのかも解らなければ、そう言う傑の声が一晩鳴かされた悦よりもよっぽど酷くひび割れている理由も解らないし、おまけにあの藍色に見られていると何故か息苦しい。
あぁ、さすが化け物と言われるだけはある。こんな人間のクズの頭では、その美貌の内側で何を思い考えているのかなんてさっぱりだ。
「…なんで、それで俺が逃げるんだよ」
だから悦は、それまでと同じように、いつものように、思ったままを口にすることにした。
「あ、ナメてるとかじゃなくてな。マジで解んねぇんだよ」
困りきって下がる眉尻を隠そうともせず、何も言わない傑を上目遣いに見上げる。
「確かにそういうことされたけど、お前のモンになる、所有物になる、って言ったのは俺だし」
「それも無理矢理、俺の勝手で。要らねぇって言われてるのに」
「だから、本当に邪魔なら殺せって言ったし、でもお前殺さねぇから」
「それなら……まぁ、俺も噂は聞いてたから、次の、手頃なのが見つかるまでの繋ぎくらいには、使って貰えんのかなぁ、と思って」
「だから……あー…んーっと…」
「…なあ」
どう言えばいいかと虚空を見上げて唸っていた悦は、不意にかけられた声に慌てて傑へと視線を戻した。
再び背筋を伸ばして聞く体制を取る悦に、恐ろしいほどの美貌を持つ化け物は、それまでと打って変わって柔らかい表情で、自分の胸元をトン、と叩いて見せる。
「俺のこと、好き?」
慈母のように穏やかなくせに、
「へ?」
「噂を聞いてる、つったよな。今まで俺が玩具にした連中がどんな有り様になったのか、どんな風に死んだのかも、知ってるんだろ」
「知…ってる」
「その繋ぎ、って言うくらいだから、それと同じか、もっと酷くされてもいいってことだろ?昨日までのがガキの遊びにもならねぇのは流石に解るよな。それでも逃げる気が起きねぇくらい、そんなに、」
酷く歪んだ笑みで。
「…そんなに、俺のこと、好きか?」
宥めるような、嘲るような、祈るような声音で問うから。
悦はこくり、と一度乾いた喉を鳴らして、
「そんなんじゃねぇ」
真っ直ぐに傑を見据えて、そう答えた。
いっそ清々しいほどの失言だ。解っていたが、言わずにはいられなかった。例え傑を怒らせても、その結果として死ぬより酷い目に合うとしても、これだけは譲れない。
好きだの嫌いだの、愛だの恋だの、そんな浮ついた言葉で片付けられては堪らない。
悦の根源にあるのはもっと汚くて、仄暗くて、どうしようもない類のものだからだ。この化け物はどこもかしこも完璧に美しいが、悦が欲しいのはそんなものじゃない。そんな、いくらでも替えの効くものなんかじゃない。
あらゆる人間の欲望の果てを見てきた悦が、そんなに薄っぺらなものに、自分の全てを差し出せるわけがない。
「そんなんじゃなくて、俺は…俺は」
「…そうか」
ぎゅう、と眉根を寄せてフローリングを睨んでいた悦は、傑の声に顔を上げた。
全ては無理でも、半分でも、ほんの少しでも、自分の思いを解ってくれたのかと、僅かな希望さえ湛えていたその顔に、ぴしゃ、と赤いものが散る。
「じゃあ、これなら?」
そう言って嗤う傑の、ぽっかりと赤黒く空いた左の眼窩からは、赤い血と、白い筋が垂れていた。
「お前、俺の目ばっかり見てたもんな」
穏やかな声と共に差し出された赤い赤い傑の掌の上で、やけに生白い目玉が、血を纏ってころりと揺れる。
視神経と肉の糸をひくそれの虹彩は、藍色をしていた。
「…ッ…!」
「やるよ。保存効かねぇからオススメはしねぇけど」
全身が、ざわりと音を立てて総毛立つ。
「それとも首そのものがいいか?アレがいいならそれでもいいぜ、腰からくれてやるよ」
「…っ、…ぃ…」
「要らない?……あぁ」
わざとらしく首を傾げて考える風にしてから、傑は心得たように頷いた。
抉り出した自らの左目をゴミのようにフローリングに落として、赤く染まった手を、指を、
「“コッチ”のほうが良かったか」
右へ。
「ッやめろ!」
咄嗟に叫びながら飛びついて抑えた腕が、予想よりもずっと軽く下がったのを感じて、悦は更に背筋を凍らせた。
この抵抗の無さはそのまま、傑が最初から目を抉るのに必要な分だけの力しか入れていなかったことの証明だ。山積みのクッキーの一枚を摘むような気軽さで、自分の目を、自分の手で、抉ろうとしていたのだ。
「痛く…無い、のか?」
血まみれの傑の腕に両手でしがみついたまま、悦は初めて、恐る恐る化け物の顔を見た。
悦が一縷の望みを託して発したその問いに、閉じた瞼の合間から血を流す化け物は、残った右目を胡乱げに細める。
「痛いに決まってンだろ」
ああ、そうだろう。そうだろうとも。この男は、噂を信じるなら遺術の最高峰、最強で最悪で完璧な兵器だ。一度でも死線に晒された人間なら、戦闘において痛みを感じないのがどれほどの欠陥かなんて説かれなくても解る。最高峰の化け物にそんな欠陥があるわけない。
だから傑の言うとおり、痛いに決まっているのだ。
なのに、この男は。それなのに。
「なん、で…!」
なんで、なんでこんなことを。
なんてことを。
「離せよ」
「……嫌だ」
「あぁ、そう。どうぞお好きに」
おどけたような声と同時に、ミチ、と皮と肉が破ける音。
しがみついた腕から弾かれるように顔を上げた悦は、自分が抑えているその傑の右腕が、傑の左手によって、肩口の辺りから引き千切られようとしているのを見て、今度こそ何かの糸がプツンと切れる音を聞いた。
「…やめろ、っつってンだろうが。化け物の癖に言葉も解んねぇのか」
右腕を膝でソファの手すりに押さえ付け、瞬きの間に両手で左手の関節を極めながら、悦は鼻先が触れるほどの距離で残った傑の右目を覗きこむ。
わざとらしく見開かれた隻眼に映る瑠璃色は炯々と輝いていて、悦はそこでようやく、自分がいつになく怒っているのだと気がついた。指先まで冷えて感覚がないのに、腹の底だけが妙に熱い。こんなのは初めてかもしれない。
「頭が治るのに、目や腕が治らねぇと思うか?」
「でも、痛いんだろ」
「……」
傑は答えず、鬱陶しそうに目を細めて、悦が肘関節を極めたままの左腕を動かした。
途端にごきん、と嫌な音が傑の左肘から響いたが、悦は手を離さない。こんな拘束など物ともせずに振りほどける筈の傑もまた、それ以上動こうとせず、呆れたような溜息をひとつ吐く。
「そりゃ、多少はな。こんなの、お前らで言うかすり傷みてぇなモンなんだよ、俺にとっては」
「…程度の問題じゃねぇ」
「じゃあどういう問題があるんだよ」
あの廃墟で最初に会った時と同じ声音で問いながら、傑は悦から視線を反らさないまま、軽く首を傾げて見せた。
「どこが潰れようが千切れようが気が触れるわけでもない化け物が、いくらでも再生する腕の2、3本てめぇで千切り取った所で、人間のお前になんの問題があるって?」
「それは、」
「あぁ、不快だってか?俺と違って、部屋の1つ2つ隔てれば音も匂いも解らなくなる便利な体してんだろうが。しがみついてンのはお前の方だ、嫌ならさっさと離れろよ」
「……っ」
挑発するような内容とは正反対に、傑の声色は説き伏せるように穏やかだった。
そしていちいち最もだ。どれも真っ当な正論で、少なくとも悦の頭では、そこに反論の余地など欠片も無いように思える。
口喧嘩は苦手だ。これが昔なら、相手が傑でなければ、とっととその頭を吹き飛ばして黙らせる所だった。少なくとも悦が知る今までの悦なら、傑の話の半分を聞いた辺りでそうしていた筈だ。
けれど、そうしようとは思わなかった。
相手が撃っても死なない化け物だとか、今手元に銃が無いとか、そんな理性的な判断をしたからではない。火に油を注いだように沸騰する筈の悦の頭は何故か冷めていくばかりで、傑の話を聞いている内に、ついには微かに残っていた火種さえ消え失せてしまったからだ。
どうしてかは解らない。
ただ、傑が敢えて悦を逆上させるような言葉を選んで、あんな風に言っていたのだと思うと、酷く息苦しかった。
「…ほんとに、わかんねぇのか」
「あぁ」
「……そっか」
呟くように言って、悦はそっと傑の両腕を解放した。
関節を極めた所を無理に動かした所為で、傑の左腕は歪んでしまっている。どこかで骨が折れているのだろう。普通に藻掻いたってこうはならないから、きっとこれさえ計算ずくでやったのだ。左目を抉り出したのも、あんなことを言ったのも、全部。
悦が自分から離れていくように。その為だけに。
何故かは解らない。そんなに邪魔なら、何故こんな手間を掛けずにさっさと殺してしまわないのか、悦には相変わらず解らない。
けれど、ここまでヒントが揃えば推測くらいは出来た。幸か不幸か、悦の周りではいつも、どうしたって救いようのない悲劇が何重にもなって蟠っていたから。
それだけあれば、この化け物のはらわたではない内側の部分がどうなっているのか、想像するのには十分だった。
ミシリ、ギチリ、と骨と肉が擦れる不快な音を立てて、少しずつ、他のどの動物を基準にしても凄まじい速度で元の形に戻りつつある傑の左腕を優しく撫でながら、悦は目を細める。
「なぁ、お前…傑ってさ」
ギシリ、とどこかで
「…かわいそうだな」
なにかが軋む音がした。
>>
Next.
ただひとつ、それだけを捨てることが出来たなら