伸べられた手を取ったのは、それが血に塗れていたからだ。
是非も好悪もなくそうしろと、遠い遠い昔に、誰かに刻み込まれていたからだ。
『覚えていて頂戴。人間はとても脆く弱いの』
ああ、反吐が出る。
喪失の感覚は、際限なく落ちていくのと似ている。
底のない深い穴に、重力に引かれるがまま、ただ落ちていく。距離感もわからぬ程に遠く遠く、恐らくは上方にあるだろう淡い光を見ながら、為す術もなく、ただ落ちる。
それに抗うことは出来ないと解っていた。彼の力を持ってしても抗いがたい重力と同じくらい、それは自然で、不可侵で、どうしようもなく必然であることを、彼は考えるまでもなく知っていたからだ。
ゴボゴボと水泡が弾ける音を、自らの足下で慈しみ愛すべき「人間」が藻掻く様を、路傍の石でも見るように眺めながら。
傑はもうずっと、落ち続けている。
ジジ、と這い上がった火がフィルターを焦がす音を聞いて、傑は咥えていた煙草を吐き捨てた。
水浸しになった床に落ちたそれが音を立てて鎮火するのを合図に、左足を持ち上げる。延髄を踵で捉えたまま鼻先が僅かに水面から浮く程度の位置で足を止め、肺に残っていた紫煙をふぅと吐いた藍色に、感情は無い。
あらゆる毒物を無効化する純血種の体にとって、今しがた吐き出した紫煙の影響は皆無だ。ニコチン等の中毒性物質すら受容体と結びつく暇もなく中和されるので、それは脳内物質的な快楽すら傑に齎すことはない。だから美味いとも不味いとも思わない。
彼にとってそれはどこまでも無意味だった。
今正に行っている拷問紛いの水責めや、その他のあらゆる事象と同じように。
「がはッ、はっ、はぁっ……ゴボっ」
「……」
忙しない二度の呼吸を確認して再び足を下ろしながら、傑は彼にとっては無意味な嗜好品を咥え、火を点けた。大分水の少なくなった便器の中に額が着くまで沈められ、足掻く生き物が死なない為の時間を分かりやすく計る、その為だけに、傑の体に害を成すにはか弱すぎる毒物を肺まで吸い込む。
ある人間に懇願され、聞き届けてみたらその様が好きだと言われたから。
口で何を言っても理解しなかった人間が、呼吸を阻害してみたら顔を蒼白にして走り去ってくれたことがあったから。
だから傑は、彼にとっては無意味でも、それを見る人間にとっては意味があるらしいこの行為を続けている。どうせこれもまた本当の意味で無意味になるだろうと、考えるまでもなくご丁寧に進言してくる自分の脳漿に、少しばかりうんざりと目を伏せながら。
半日近く座り込んでいた廊下から立ち上がった時には、コンクリートの空は「夕刻」と呼べるような色をとうに失っていた。
予想通り部屋から出てこなかった人間は、どこから引っ張りだしたのか、裸体に傑のシャツのみを着てリビングに居た。その存在にあからさまに眉を顰めた傑を見ても顔色一つ変えず、電源の入っていない据え付けの冷蔵庫に突っ込んでいたレーションを齧りながら、悪びれた風もなくこう言い放ったのだ。
「あ、お帰り」
まるでそこに居るのが当然のような顔で。
考え難いことではあったが、この人間はどう贔屓目に見ても頭の良さそうな方では無い。だから傑は出掛けの会話を記憶していなかった、又は理解出来ていなかった可能性を考えて、うんざりするほど真っ直ぐに自分を見上げる瑠璃色に、もう一度「出て行け」と言った。
今までの人間はこう言えば嫌だ嫌だと泣き喚くか、明らかに正気を失った目をして縋り付いてきたのだが、面倒なことにこいつはそうでは無かった。
「嫌だ」
食い終わったレーションの包装紙をグシャリと丸めながら、事もあろうにそう言ったのだ。昨夜は聞き分けよく「わかった」などと言ったその口で。しかもその目に正気と理性を保ったまま。
前代までの『傑』ならばその反応になんらかの感動を覚えたのだろうが、生憎傑の脳裏に浮かんだのは「面倒」という言葉のみだった。人間のあらゆる自由意志を尊重し、種の存続を脅かさない範囲でその言動の全てを愛し慈しむのが『世環傑』という生き物の基本思考らしいが、そんなことは傑の知ったことではない。
そんな基本思考を擬えていたのなら、それが出来ていれば、こんな有り様にはなっていないのだから。
流石に否と言うだけでは不足だと思ったのだろう。無言のままの傑に、人間はペットボトルの水を呷りながら、何故部屋を出て行かないのかを貧弱な語彙で説明しはじめた。
死ぬ筈だったかの人間を生かしたのは他でもない傑で、その礼として全てを傑の所有物として捧げることに決めたから、傑の物であるそいつは部屋を出て行かないのだそうだ。そもそも彼を助けたのは傑の意志でもなんでもないのだが、そんなことは関係が無いらしい。
おまけに意味不明なのも身勝手なのも承知の上だそうだから、人間とは本当に素晴らしい生き物だ。
「…要らねぇよ」
「俺、要らない?」
「ああ」
「そっか」
敢えて何の配慮もせずに言い放った傑から、人間はそこで一度、視線を外した。
しばらく虚空を見つめていたその瑠璃色に一体何が写っていたのか、その奥でどんな処理が行われていたのか、傑は知らない。
「じゃあ、殺せよ」
けれど、再び傑を見据えてそう言ったその双眸は、相変わらず欠片の狂気も孕まずに透き通っていたので。
「……」
傑は溜息をひとつ吐いて、髪を鷲掴んで持ち上げた蜂蜜色の人間の頭を、手近にあった便器の中へ沈めたのだ。
希望を持っていたわけでは無かった。
トイレのノブを捻って水を入れ替えつつ、傑は音を立てて流れる水流に巻き込まれ、ガボゴボと不規則な痙攣を始めた頭を見下ろす。
統計的に人間にとって好ましく造られた外見だけならともかく、“中身”まで見た上で嫌悪しないのなら、その個体は間違いなく狂っている。例えどれだけ正気に見えたとしてもだ。傑はそれを、純血種としての知識以上に、経験としてよく知っている。
最初はいつだってどれだって穏やかだった。
けれどそれは間を置かずに狂気へと変わる。掬い上げようが引きずり出そうが傍観していようが同じことだった。どれもこれも皆、望んで傑には理解できない深みへと嵌っていき、ドロドロとした汚泥に溺れて、そうして最期は同じ有り様になる。
傑はそれを、経験としてよく知っている。
「っはァ゛…っが、ぅ、…ぅえ゛、ぇ…ッ!」
「……」
今までより3秒早く水から引き出してやると、顔と言わず頭と言わず、全身をぐっしょりと汚水に濡らした人間は、がくがくと震えながら綺麗にしてやったばかりの水に吐瀉物をぶち撒けた。と言っても、腹に収めていたらしいレーションはこの30分あまりでほとんど吐いてしまっていたから、その細い喉を逆流しているのはほとんどが水だったが。
「…出て行く気になったか?」
やっと嘔吐が止まった人間の頭を少し持ち上げて、傑は静かな声で聞く。
返事が無いのは解っていた。気絶出来ないように調整されながら30分も溺れるのは、人間にとっては極大の苦しみなのだ。そんな苦痛を味わいながら酸欠に喘ぐ脳が、音を言葉として捉え、更にその内容を理解するのは不可能に近い。
だから返事が無いのは百も承知だったが、傑は敢えて1分ほど正常に呼吸をさせてから、返事を促すように後ろ髪を掴んだその頭を、陶器で出来た水面の底に打ち付けた。
掌に伝わる鈍い衝撃と共に、ずぶ濡れの脆い体が強張る。額を打ち付けられた痛みに少しだけ覚醒した脳を、今度は再び溺れることへの苦痛と恐怖が塗り替えていく。藻掻けば藻掻くだけ苦痛は増すのだが、恐慌を起こした非効率な脳では、そんな単純な理屈さえ解らない。
「ぶはッ…!…はっ、は、…!」
「…なぁ」
手から力を抜いた瞬間、大きく仰け反ろうとするのを水面から30センチばかり上で押さえつけながら、傑はその顔を覗きこむようにして膝を折る。
寒さだけではない理由でがくがくと震える体が酸素を取り込むのを待って、火を点けていない煙草を持ったままの右手で濡れた前髪を払ってやりながら、先ほどと全く同じ声音で。
「出て行く気になったか?」
「っ…ぁ、…ひッ…!」
溢れんばかりに見開かれた瑠璃色が少しだけ動くのを確認してから、掴んだ頭を水面に鼻先がつく寸前まで下げさせる。
ただそれだけで、傑が髪を引き上げてやらなければ水面から顔も上げられないほど弱っていた人間は引きつった声を上げ、禄に感覚が無いであろう手を精一杯床と便器に突っ張って抵抗した。水面を凝視していた瑠璃色の瞳が、不安定に揺れながら傍らにしゃがみ込んだ傑を見る。
拷問の初歩の初歩だ。こうして耐えられる程度の苦痛を、定期的に、途切れることなく、淡々と与えてやれば、恐怖を植え付けるには事足りる。恐怖を覚えた人間は更なる恐怖や苦痛に敏感になり、こんな風に声も届くようになる。
その分、精神は体力以上にがりがりと削られて衰弱していくわけだが、勿論そんなことは知った上で、傑はすっかり怯えきった瑠璃色を覗きこんだ。
「出て行く気になったか、って聞いてんだよ」
「…っぁ…う……!」
不安定に揺れていた瞳が、傑の声を聞いて明滅する。
常態ならばとっくに落ち着いても良い筈の呼吸を、濡れた細い喉がぜえぜえと荒く忙しなく繰り返すのを聞きながら、傑はその唇が動くのを待った。
このように恐怖に囚われた人間がこの状況下で吐く言葉は決まっている。
それによってその人間にとって大切な、本能的な恐怖を凌駕するほどの重要な「何か」が失われるのでない限り、それは疑いようもなく決まっている。少なくとも純血種としての傑の脳に蓄えられたあらゆる知識は、そう結論を出していた。
希望を、持っていたわけでは無かった。
「…ぃ…嫌、だ…っ」
「……」
だから絶望もしなかった。
ただ、その言葉はあまりにも予想通りだった。
あらゆる人間の思考パターンを知識として蓄えている純血種の推測に反したその言葉は、傑にとってはあまりにも、あまりにも予想通りだったのだ。
「…あぁ、そう」
独り言のようにそう言って、傑は今度は気絶させる為に、僅かに浮かせていた人間の頭を水に沈める。
がりり、と爪が半ば剥がれるのにも構わずに傑の腕を引っ掻いて藻掻いていた人間は、人体を知り尽くした純血種の予想通り、1分と経たずに死んだように静かになった。本当に死んでしまわない内にその頭を水から引き上げて床に転がし、傑は服が濡れるのも構わずにその傍らに座り込む。
「……」
爪の跡すら残っていない傑の左手とは対照的に、濡れた床に横たわる人間は酷い有様だった。
額は赤くなって血が滲んでいるし、右手の人差し指と左の薬指の爪は剥がれかけ、衰弱した体は血の気が引いて唇まで青白い。
傑にとっては気にも留めぬような小さな傷だが、脆い人間の体にとっては立派に死因になり得る大怪我だ。このまま放置しておけば目を覚ました頃には風邪を引いているだろうし、爪はきちんと処置しなければ膿んで腐り、吐いた分以上の水と食料がなければ半月と持たずに衰弱死する。
部屋から追い出すくらいなら、要らないのなら殺せと宣ったこの人間は、傑が何もしなければその望み通りに呼吸を止めるのだ。
それはもうあっさりと、造作も無く。
「あー…、…ったく…」
低く唸り、傑は放っておけば死ぬ人間に手を伸ばした。
横向きにさせたその腹を押して余分な水を吐かせ、濡れて張り付いたシャツを引き剥がし、ぐったりと力を失くした、傑にとっては硝子細工と同じくらい脆く弱い体を抱き上げる。
「……勘弁しろよな」
祈るような声音で呟かれたその言葉は、気を失った人間には届かなかった。
今までと同じように。これまでそうだったように。
けれどもそれさえ解りきったことだったので、傑は冷たい体を抱きながら、ただ泥のような諦めに従って目を伏せる。
ギシリギシリと軋む音と共に、
淡い光が、少し遠ざかった気がした。
>>
Next.
要るものも、要らないものも
何もかも持っている。