別け隔てなくと言えば聞こえはいいが、単に判別が出来なかっただけだ。
わからないからと切り捨てて生き延びられる環境でもなかった。
酸いも甘いも関係なく、喰らう以外に方法がなかった。
化け物は、世環傑と名乗った。
取り敢えず、と言って悦を首都の救急病院に運んだ彼は、その美貌にたじろぐ医者にも顔色ひとつ変えず、高価なメディカルプールへと悦を沈めた。
家が一軒買える値段の最新鋭医療の効果は凄まじい。寝ながら半日浸かって出てきた頃には、擦過傷のみならず、右足の銃痕にさえほとんど皮膚が貼っていた。
だが、それよりも悦は、半日経ってプールを出た自分を傑が出迎えたことに驚いた。
内部組織の修復にはまだ時間がかかるから大人しくしていろ、と医者と同じことを言って悦を後部座席に乗せ、滑らかに車を発進させた傑は、それから本部棟に着くまで車を降りなかった。
悦のために数回車を停めはしたが、30時間以上のドライブの10回あまりの停車のどれでも、傑は車を降りず、食べず、飲まず、眠らなかった。
思わずサイボーグか何かかと問うと、「中身なら見ただろ」と横顔で薄く笑った。
そう、やはりあれは、白昼夢や悦の妄想では無かったのだ。
沈黙と睡眠に費やした長いドライブの間に、擦り傷や鬱血が消え銃痕さえ塞がっていても、あれは現実だった。この男は現実だった。
それを確信したから、悦は差し出されたその手を、今度は拒まなかった。
部屋まで送る、というその指先をそろりと撫でながら、自分より少し高い位置にある耳朶に囁く。
「…あんたの部屋がいい」
ちらりと寄越された視線は冷たかったが、その瞳に嫌悪や困惑は無かった。
解かれなかった指を絡ませて、意図的に情事のように潤ませた瑠璃色で男を見上げる。
俺のこと、聞いてるんだろ。
聞いてなくても、見た筈だ。あの廃墟で。
そうだよ、俺はそうだ。
金なんて取らねぇよ。
救って、面倒を見てくれたお礼だ。
あんたが居なけりゃ死んでたカラダだ。
なんでもいい。
好きにしてイイから。
なぁ。
絡めた指を振りほどかれたことは、今まで一度だって無かった。
そうしない相手の見極めも、そうされないタイミングや言葉の選別も、悦にとっては文字を読むより容易いことだった。
そうやって生きてきたのだ。
だからそれ以外知らなかった。
そうでなければ満足出来なかった。
手中に収めるだけではいつか零れ落ちる。
それなら食い千切ってしまうしか無い。
醒めた瞳の化け物をその腕の中から見上げて、悦は陶然と目を細める。
綺麗な表皮の中身がどんなにおぞましく汚れて悪臭がしていたとしても、悦には関係無かった。眺めているだけで満足するつもりはさらさら無い。今までだってそうだった。そうして生きてきた。だから美しい宝石も、血反吐に塗れた弾丸も、苦い悪意も、甘い善意も、忠告や罵声や睦言だって、全部。
「あぁ、あっ…!」
腹に収めてしまえば、同じように血に溶ける。
ふぅ、と漂った苦い煙に目を覚ますと、完璧な造形の背中がベッドの縁に腰掛けて紫煙を燻らせていた。
「…吸うんだな」
肩甲骨の陰影さえ美しいその背中に、掠れた声で呟く。
「あぁ」
後ろ姿で寄越された声は素っ気ない。
ポーズだ、と悦にはすぐに解った。
車では一本も吸っていなかったし、請うままに押し倒されたベッドからも煙草の匂いはしない。行きずりの情事の後の怠惰な空気を繋ぐには、喫煙は有効な手段だ。この化け物はそんなことまで知っているのか。
「……どこ行くんだよ」
ぐしゃりと灰皿の上で押し潰された煙草を見ながら、悦はその背中に型通りの問いを投げる。
傑の考えていることも望んでいることも、これから言うだろうことも解っていたが、悦は男娼だ。それが相手が望む言葉なら、好悪も是非も考える暇すらなく舌が回る。
「仕事」
「しごと?」
「夕方には戻るから、それまでに出てけよ」
一瞥すらせずに慣れた口調でそう言い、傑は脱ぎ捨てられていた黒いシャツを取る。
前を留めないままドアへ向かうその背中を見ずに、悦は手繰り寄せたシーツに顔を埋めた。
「…わかった」
パタン、とドアが閉まる。
何百回と聞いた音だ。これに続くのはシャワーの水音と決まっているから、悦は早々にシーツから顔を出して寝返りを打つ。
キスをしなかったのを除けば、ありふれたSEXだった。
意図に反して悦が失神するほどの快感を生みはしたが、手順も内容も、教科書に載りそうなくらいに平凡で面白味の欠片も無い。素人相手なら十分だが、悦のような人間では“次”への期待が全く持てないお手本のように退屈なSEXだ。
傑はそれを狙っている。
繋がれた手を解かず、嫌々という素振りすら見せずにただ請われるがまま、機械のスイッチを順番に押すように退屈に抱いて、事後も寄り添い、そして柔らかく突き放す。こうも気を回されたら、素人は勿論、玄人だって引き下がる。悦の目から見ても完璧な手法だ。
でも、それなら。
傑が本心から悦をさっさと追い出してしまいたいと思っているのなら、今頃悦は服を着てベッドを整え顔を合わせないようにタイミングを図り、部屋を出ている。セオリー通りならそうするべきだが、そうしようと思えなかった。
理由は解っている。あの目だ。
「……」
暗い色合いの壁紙を見つめたまま、悦は情事の最中の傑の瞳を思い出す。
実験動物でも相手にするように悦をよがらせながら、あの藍色はずっと退屈と諦観に染まっていた。卑猥な睦言を囁きながら細められた時も、射精の快感に浸る演技の時も。
退屈なら悦もそうだった。
けれど傑はずっと、乱れる悦を見ながら諦めていた。
何かを。
何を?
「…ふぁ、」
…考えるのは苦手だ。
乱れたシーツの中でひとつ欠伸をし、悦は思考を打ち切って目を伏せる。
名前すら持っていなかった悦に、最初から全てを持っていたような男のことが解る筈が無い。例え人間同士だって無理だ。
だから、この部屋から出るわけにはいかない。
薄いシーツだけの体は肌寒さを覚え、枯れた喉は水分を求めてひりつき、脱ぎ捨てたジャケットには処方された薬が残っていたが、悦はそれら全てを無視して眠りについた。
緩く湾曲した廊下の突き当たり。
大きな窓から差し込む人工の陽光がその色を変え、陰っていくのを横目にしながら、彼はジャケットから通信端末を取り出した。
爪まで完璧な造形をした指先が一件の通信先を呼び出し、漏れるコール音を聞きながら、背にしていた壁にそってずるりと長身が沈む。
「…よぉ、俺。……生きてたぜ」
廊下の隅に座り込みながら、声色だけは平静に。
「あぁ。……でも、もうダメだわ。使い物になんねぇよ、アレ。……エツ?…あぁ」
唇に嘲笑さえ滲ませて。
「いいだろ、どうせ死んでたんだから。その、エツとやらの分も俺に回せば問題ねぇだろーが」
傲岸に不遜に。
「だから、俺が貰う」
言い切って一方的に通信を切ったその藍色が、俯いた美貌の中でどんな表情をしていたのか。
夕陽に暮れる廊下で、見ていた者は誰も居ない。
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人はいつだって
その可能性を考えもしない。