01.貪欲



 それは身震いするほどおぞましく、今まで見聞きしたどれより醜悪だった。
 けれどそれは、それでも。

 悦が生まれて初めて見た奇跡には違いなかったのだ。










 …もう、いいか。


 血と臓物と精液の臭いが充満する埃っぽい床の上で、悦は特に感慨もなくそう思う。
 照明も無い廃墟は、真夜中も随分と過ぎた時刻だというのに明るい。窓から差し込むサーチライトの所為だ。お蔭で自分の上で必死に腰を振る男の辛気臭い面が嫌でも見えてしまうので、悦は揺さぶられるのに任せて横を向いた。

 空薬莢と家具の残骸が散らばる床に、30分前まで“仕事仲間”だった男の残骸が転がっている。想定外の援軍に恐慌を起こし、廃墟に残っていた家具と共にフルオートの銃弾に食いちぎられたそいつは、もう人間の形をしていなかった。壁や床に散らばった血と肉片をかき集めてやっても、きっと元の体重には足りないだろう。

「はぁ、はぁっ…く、う…!」
「……」

 上に乗る男が息を詰め、体内に生暖かい体液が注がれるのを感じながら、悦は目を伏せる。
 死んだ男が遮蔽を蹴倒したお蔭で銃弾に抉られた自分の右足のことも、これから死ぬ男がしている無駄な繁殖行為も、どうでもよかった。


 そもそも、気づくなと言うほうが無理な話だ。

 依頼内容と不釣合いに高額な報酬に、集められたのは壱級指定が3人。国境付近の不安定な地理にも関わらず、ILLからのサポートは無し。死んだ男と死ぬ男は監視が無くて楽だと喜んでいたが、提示された条件はどれも、解り易い死刑宣告でしかなかった。

 ILLでは定期的に“間引き”がされていることは知っていた。どうして自分と他の2人が選ばれたのかは知らないが、きっと要らなくなったのだろう。登録者なんて元々居ない方がいい連中ばかりだ。ここでもそう判断されることに、何の不思議もない。

 だから悦は待っていた。
 自分を殺すために設えられたこの場所で、誰かが考えた通りに殺されるのを。


「っ…くそッ、なんで…!」

 死んだ男が喚いていたのと同じことを呻きながら、これから死ぬ男が乱暴に悦の体をひっくり返そうとする。
 シャツを裂いて止血しただけの足の傷に手が当たり、その痛みに思わず開いた悦の目に、体位を変えようと躍起になっている男の頭が、遮蔽にしている棚から少しだけ出るのが映った。



 あ、

 と思った時には、男の頭は破裂していた。
 びしゃり、と散った血と脳漿で視界を塞がれた悦の耳を、窓の向こうに据えられた5機の銃座が一斉に火を噴く地鳴りのような銃声が叩く。ガラスも窓枠もとっくに飛び散った廃墟のあらゆるものが、轟音と共に次々と破壊されていく。


「…またかよ」

 壁が家具が床が砕かれていく中で、悦は失笑すら浮かべて呟いた。
 “鴉”だった頃も、Z地区にいた頃も、そしてILLに来てからも、悦はずっと生き残って来た。誰も彼もが死んでいくような状況で、幾度となく最後の一人になって来た。死んでいった連中の方がずっとずっと生に執着していたのに。死にたくないと泣き喚いていたのに。今回ばかりは死ぬだろうと思っていたのに。また、最後の一人になってしまった。

 いい加減残弾が少なくなって来たのだろう、疎らになった銃声と怒号を聞きながら、悦はおざなりに目元を拭って体を起こす。

 無数の弾丸を遮っていた古びた棚は、端から削られて随分と小さくなっていた。よくもまあこんなものが今まで遮蔽になっていたと、感心すらしながら悦はずるりと床を這い、横倒しにしていた棚に手をかける。


 弾は尽きた。足は動かない。どうせ祈る神も遺す者も居ない。もういい。十分だ。
 もう十分だ。


 そして悦は躊躇うことなく、棚を倒した。





 奇跡なんてものに遭遇したことは一度も無い。

 頭をブチ抜かれて即死したのから腰から下を爆破されて5分泣き喚き続けたのまで、悦が見てきた死に様は色々だったが、いつだって何の奇跡も番狂わせも起きたことは無かった。
 奇跡的に息を吹き返したとか、奇跡的に生きていたとか、そういうのは1人も居ない。死にそうな奴はそのまま死んだし、死にそうになかった奴だってあっさり死んだ。

 だから悦は、まばらになった銃声が止み、その名残で聞こえの悪くなった耳に背後からの足音がようやく届いても、なんの期待もしていなかった。
 どうせこちらの人数も装備も割れている。トドメを刺しがてら死体確認にでも来たのだろうと思っていたから、廊下を進んで来た足音が扉のあった辺りで止まっても、振り返りもしなかったのだ。


「なんだ、生きてンのか」


 そんな呑気な男の声が聞こえて、悦はやれやれと息を吐く。言っている暇があるならさっさと撃てばいいものを、段取りの悪い馬鹿だ。
 ”空”ならともかく、背中を撃てない馬鹿などここには居ないだろうから、絶対的優位で嬲り殺したいタイプの馬鹿だろうか。どちらにしろ馬鹿には違いないので、悦は心底うんざりしながら足元に転がっていた銃を引き寄せる。

 確認するまでもなく弾は入っていなかったが、構わなかった。どうせ後ろのアレを殺したって結末は変わらないことは解りきっている。悦はさっさと全てを終わらせたいだけだ。

 当てるつもりは無かった。そもそもこの軽い銃には弾が無いのだ。
 それでも、体に染み付いた感覚のままに振り向けた銃口は、ぴたりと背後の男の体の中心を捉え、そして。

「まぁ、落ち着けって」

 引き金に指までかけて見せたというのに、そこに居た男のリアクションはそれだけだった。
 銃もナイフも、武器らしいものは何も構えていないどころか、両手はワインレッドのライダースジャケットのポケットの中にある。黒っぽいジーンズに、艶のある革靴。すらりと伸びた体躯。そこらのファッション誌の表紙を飾っていそうな出で立ちには、この場での実用性は欠片もない。

「…は…?」

 瞬きの間に相手の装備を確認してから男の顔を見た悦は、思わず目を見張る。
 男は、恐ろしく綺麗な顔をしていた。
 綺麗な顔の人間は男女問わず見てきたが、この男は次元が違う。美貌、という言葉をそのまま体現したような、ゾッとするような美しさだ。

 それこそ、人間ではないもののような。


「なんだ、お前……?」
「お迎え」

 半ば呆然と問うた悦に、美貌の男は冗談めかして答える。悦は銃の引き金に指をかけているというのに、相変わらずポケットから手を出さず、それどころかあっさりと悦から視線を外して室内を見渡した。

「やっぱ1人か。怪我は?」
「ま、てよ。迎えって」

 凄惨な有り様の死体にも眉ひとつ動かさず、当然のように歩み寄ろうとする男から、悦は無意識の内に床を這って距離を取る。
 男の言っていることが解らない。自分はここで殺される予定のはずだ。


「だから迎えだって」
「どこの」
「“ILL”の」

 世界唯一の犯罪斡旋組織、“ILL”。悦は確かにそこの登録者で、そしてつい数時間前に捨てられたはずだった。

「俺、は」
「予定が変わったんだってよ」

 訝しがる悦に、男はどこまでも気楽な調子で告げる。
 曰く、悦がここに居たのはただの手違いだった。この依頼は確かに“間引き”の為のものだったが、本当なら悦がそこに混じる予定はなく、既に1ヶ月先のスケジュールも組まれている。絶望的な状況ではあるが、実力を鑑みれば生存も考えられるので、この男が迎えとして送られた。報酬は勿論、口止めを含めた破格の迷惑料を支払う準備もある。


「…手違い」
「システム上の、らしいぜ。金が嫌なら他の準備もあるってよ」

 システム上の手違い。実力を鑑みれば生存も。迷惑料。
 …なんて酷い冗談だろう。

 死ぬ所だったが間一髪で助かるなんて、悦にとってはお菓子の家と同じくらいの御伽噺だ。そんな話、今どき子供だって信じない。この男に伝言をした幹部だってきっと信じていないだろう。つまりはそういうことだった。


「…あぁ、そう」

 だから悦はぽつりと呟いて、役立たずの銃を下ろす。
 明日か1年後かは知らないが、終わりはもう決められている。今より“ILL”にとって利益を生む形で、今度こそ。考えるまでもなくそう解りきっていても悦の帰る場所は他に無いし、それならそれでいいと思った。

 奇跡は起こらない。どうせ同じことだ。

 染み付いた諦観と共にそう結論づけて、悦は腰骨の辺りにひっかかっていた防刃繊維のズボンを引き上げた。片手でおざなりにベルトを締めながら、じゃり、と砂と血を鳴らしながら歩み寄った男の手を借りて、撃たれた足を庇いつつ立ち上がる。

「おんぶしてやろうか?」
「…いらねーよ。なぁ、そこの、」


 からかう男に首を振り、杖代わりになりそうなアサルトライフルを視線で示した悦の視界の端で、赤い飛沫が上がった。

 ……連なった発砲音は、随分と遅れて聞こえた。

 体重を預けていた男の腕が糸を切られたように力を失い、自重を支えきれずに床に倒れこみながら、悦は男の綺麗な顔がトマトのように弾けているのを見た。整った顔は右半分が大きく抉り取られて、辛うじて残った眼球がぐるりと裏返り、趣味の悪い精巧な人形のようだ。
 右半身に衝撃を感じながら、悦は斜めを向いた藍色の瞳に小さく笑う。

 ほら、やっぱり奇跡は起こらない。

 死にそうな奴はそのまま死ぬし、死にそうにない奴だってあっさり死ぬ。
 だからほら、この男も。悦だって。


「……っあー、ったく」

 忌々しげな声は思いの外近くで聞こえた。床に横倒れになったまま視線を巡らせるが、声の主の姿は見当たらない。窓の外、通りの向こうの距離で数人分の声と足音が聞こえたが、さっきの声はもっと近かった。
 染み付いた習慣から襲撃者の位置を探ろうと、研ぎ済ませた悦の聴覚に、

 じゃり、と砂が鳴る音が響いた。

「折角見逃してやったのに」

 染み付いた習慣に従って、そう意識するより早く声の出処を辿った瑠璃色の瞳に、ぐらりと揺れる長駆が映る。


 中途半端に頭をふっ飛ばされた時にはままあることだ。脳の中でも大事な部分が運良く残って、残った血液のお陰で少しの間なら意識が残る。もっと運が良ければ喋ることだってある。別に何も不思議なことは無い、ただの偶然の産物だ。放っておいてもおかなくてもすぐに死ぬ。何の不思議もない。幾度か実際に見たこともある。

 こんなの何の奇跡でもない。ないけど。でも、あれ、だけど。

 どうしてこの“死体”はまだ立っている?


「え、」

 血を啜るような、酷く不快な音が皮切りだった。
 紅色がじゅるりと欠けた脳漿を補うように蟠り、ぐぶぐぶと沸騰するそれを白い白い骨が覆い、赤く白い筋繊維がぞろりと這い上がる。肌色の皮膚がざわりと全ての朱色を塗りつぶし、長い睫に縁どられた眼窩の中で、裏返っていた眼球がぎょろりと蠢き、悦を見た。

 血色に濁った藍色の瞳で。

「…っ…」

 ひゅっ、と喉が鳴った。

 頭を吹き飛ばされた人間が、数秒の間意識を保つことなんて、おまけに少し喋ることなんて、なんの奇跡でもない。

 じゃあこれは?

 悦から視線を外さないまま、滑らかな動作で腰の銃を抜き、ろくに照準も定めずに銀色の銃口から銃声にしてはあまりに重い轟音を上げさせた、これは。
 コレはなんだ。


「…吐かなくていいのか?」

 目元だけで悦を嘲笑った男が、睦言のような声色で言う。
 男があの酷くおぞましく不快な光景のことを指しているのは、学のない悦でも解った。

 つまりあれは白昼夢でも幻でもなく、ただの現実で、この男は生きている。
 ゾッとするような美貌は傷ひとつ無く、悦を見る目も、声も、全てが撃たれる前と同じだ。
 あらゆる贋作や偽者を見抜いてきた目と勘が、同一人物だと言っている。
 頭を撃たれたのに。
 人間を人間たらしめている脳が吹き飛んだのに。
 機械体部品?
 あの頭自体が贋物?
 生身でないのなら、本物でないのなら。
 だからなんだ、そんなことはどうだっていい。
 機械だろうが贋物だろうが、元通りになったのなら。
 そっくりそのまま、治ったのなら。
 そうだとしたら、それは、

 それは。


「……変な奴だな、お前」

 身動ぎもせずに凝視する悦から、男はそう言って視線を反らした。
 その声が何故か嘲りも侮蔑も含まず、ただ退屈でつまらなさそうに響いたことなど、今の悦にはどうでも良かった。

 ずるりと傷ついた足を引きずって身を乗り出し、微かに震える手を伸ばす。


「…な、ぁ」

 掠れた声で、指の届かない位置にいる“それ”を呼ぶ。
 喉が干上がったように乾いていて、まるで死にかけた時のようだった。

「あァ?」

 胡乱な藍色が再び悦を捉える。
 呑まれそうに深く暗いその色に見据えられた瞬間。悦は確かに、随分と長く脳内を満たしていた泥のような諦観が霧散する音を聞いた。
 空の頭蓋に代わりに満たされたのは、強く、熱く、昏く、純粋な欲求。


 本物だろうと贋物だろうと、瞬きの間にそれが治るのなら。
 記憶も意識もそっくりそのまま、綺麗に元通りに治るのなら。
 頭を吹き飛ばされても、死なないのなら。
 どんなにおぞましい化け物でもいい。
 それでいい。

 それがいい。


「…あんた、」


 届かない手を差し伸べたまま、悦は思う。
 灼けるような欲のままに、ただただ純粋に。

「……あんた、名前は?」


 この化け物が、欲しいと。



 >>Next.



空の頭蓋の内側で、ドクリと音を立てて。

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