塗潰し



 カーテンの隙間から差し込む人工の陽光を照り返しながら、滑らかに磨き抜かれた銀色のシリンジがくるくると回る。
 肩までシーツに包まったまま、凹凸のある銀の表面に反射した光が天井を粒となって滑って行くのを寝起きの瞳で眺めていた悦は、不意に流れていた光の動きがぴたりと止まったのを見て視線を傍らへと向けた。
「…さすがに無理じゃねぇの、もう」
「だな」
 掠れた悦の声に、上半身をベッドの上に起こして手の中で銀色の銃を弄んでいた傑が振り返らずに小さく笑う。
 常人ならばまともに引き金を引くする事すら難しい、拳銃では最大の口径を持つ傑の銀の愛銃は、粗悪なミサイル並みの威力を持つ改造マグダム弾を撃つ為の長く太いバレルの部分がぐしゃりと潰れていた。傑が“同族”と空で遊んだ時に、鉄骨の下敷きになったらしい。
「悪ィ、煩かった?」
「普通に起きた。“医者”は、…なんだって?」
 まるで粘土のように半ばから潰れたバレルを横目にしながら、悦はくぁ、と欠伸をしつつもぞりとシーツの中で仰向けになった。爆薬やミサイルを使ったわけでもなく鉄骨が降って来る、という状況がまず有り得無いが、二メートル近い鉄の塊に直撃されて折れなかったこの銃も銃だ。
「軍警の武器開発局にでも持ってけば直せるけど、見せた瞬間八か十は罪状が増えるってよ」
「ウェスでも無理か」
「型も図面も無いとさすがにな」
 シリンダーを回転させては指先で止める、という手遊びを繰り返していた傑は、そう言って軽く首を竦めると飽きたように銃をシーツの上に置いた。シリンダーを弄っていた所為か、微かに火薬の匂いがする指先がするりと悦の頬を撫で、寄り添うようにシーツの中に潜った傑の唇が悦の耳元で囁く。
「どうせ消耗品だし、新しいの探すことにした」
「ロケットランチャーでも担いでくのかよ」
「どんな目立ちたがりだそれ。…でも威力考えたらそーなるか」
「いっそナイフにすれば?」
 ベッドのマットレスの下に隠しているナイフの一本を引き出してくるり、と手の中で回して見せると、シーツの中で悦の腰に手を回し、その肩口に顔を埋めるような格好の傑がちらり、と伏せていた藍色の瞳を片方だけ開いて悦を見た。
「あー…まぁ、戦車くらいなら素手で壊せるしな…」
「…ホント凄ぇ銃だよな、それ」
 戦車の装甲に正面から喧嘩を売れる拳銃なら量産品にも幾つかあるが、喧嘩を売ってほぼ確実に勝てる銃、それも拳銃なんて悦の知る限りでは存在しない。
 元は軍警の武器開発局の重要ポストに居たという、隔週でILLに通っている武器の“医者”のウェスも、さすがに素材からして前例が全く無い銃では匙を投げて当然だ。
 これが人間なら生きるか死ぬかの中で“愛用”なんて言葉に拘るなどお話にもならないが、傑の場合この銃を持っているのは「手間を省く」為であって、勿論自分の身を守る為では無いし、それどころか戦闘力の補強の為ですら無い。傑があの銃の引き金を引くのは、手が届く距離まで近づくのが面倒な時だけだ。元々絶対に無ければ困る、という代物では無い(実際傑はよく仕事に持っていくのを忘れていた)。
 …無い、のだが。
「…なんか嫌だな」
 ナイフも銃も所詮は消耗品だが、あの特徴的な銀色の銃は傑に馴染み過ぎている。試しに見た事のある威力の高い既製品の銃を傑と重ねてイメージしたものの、どうも似合わずに悦は眉を顰めてぼそりと呟いた。
「なにが?」
「眼に慣れ過ぎてるからさ…別のだとなんかイメージ違う」
「ンなコト言ったってしゃーねーじゃん」
「そうだけどなんか…あ、」
 困ったように笑う傑の手が髪を梳くのにされるがままになりながら、納得いかない様子で小さく唸っていた悦の瑠璃色の瞳が、不意にパチリと開かれる。
 …ILLの設備と軍部警察武器開発局・元副局長の腕では無理でも、軍部警察の武器開発局の設備と、そこの現役の職人の腕で直せるのなら。
「ん?」
「…ツェザリカなら直せるかも」
「つぇざりか?」
「X地区に居る武器屋で、すっげぇ腕がイイんだよ。あの親父ならその銃でも多分直せる」
「軍警の開発局よりも?」
 起き上った悦を横目で見上げながら問う傑に、悦はこくりと頷いた。
「マジかどうかは知らねェけど、Xまで堕ちたのは開発局からの勧誘がしつこい通り越して恐喝並みだったから、って噂がある」
「軍警が?」
「しかも用意されてたポストが一番デカい部署の現場指揮レベル。噂だけどな」
「…へぇ」
 声音こそ気の無いものだったが、それまで眠たげに半ば伏せられていた藍色はしっかりと開かれていた。傑自身は悦のようにこの“街”の最底辺であるX、Y、Z地区のエリアに身を置いたことは無いが、銃火器をペンのように扱う連中ばかりの中でそんな噂が立つ、ということの意味は理解している。
「期待出来そうだな。一回見て貰うか」
「なぁ、今何時?」
「…二時ちょい過ぎ」
「間に合うな」
 中空鉄道ならI地区の半ばまでしか無く、勿論そこから先にはバスもタクシーも無いので徒歩になるから少し厳しいが、車なら十分間に合う時間だ。弄んでいたナイフをマットレスの下に滑り込ませてベッドから降りた悦を見て、シーツから持ち上げた銀色の銃を指先でくるり、と回しながら傑も上半身を起こす。
「今から?」
「どうせ暇だろ」
「いーのかよ、休み一週間ぶりだろ?確か」
「常連しか相手にしねぇんだよ、あの偏屈親父。どうせ明日も休みだし」
 床に投げ出されていたシャツに腕を通す悦を、傑はくしゃりと寝乱れた髪をかき上げながら見ていたが、その言葉を聞くと何かに納得したようにベッドの上に立ち上がった。
 綿とスプリングで出来た不安定な足場を感じさせない足取りでシーツの上を横切り、指先に銃を引っかけた手で悦が放った自分のシャツを受け止りながらベッドから降りる。
「今日はどこ?」
「Bのクレープ屋とDのパフェ。あと…土産にAのシュークリーム。飯は任せる」
「車回して来る」
「ん、」
 傑の言葉に頷く代わりに頬に添えられた手に逆らわず振り返り、悦は自分より少し高い位置からのキスを受け入れた。



「そこ、次の角を右」
「…角?」
 助手席でクレープの中のバニラアイスを掬いながらの悦の指示に、窓枠に頬杖を突きながら片手でハンドルを握っていた傑は思わずアクセルを踏む足を緩めた。
 ILLの本部塔がある中央区のド真ん中からB地区を通り、H地区を抜けたのはほんの五、六キロ前だ。標識など無くとも境界を越えたと解る程、X地区の車道の舗装はH地区の外れと比べても荒れてはいるが、未だ境界を越えたばかりの浅い地点である所為もあってか、崩れかけてはいるもののしっかりと歩道もあり、道路はしっかりと判別出来る。
 そして傑が見る限り、その道路は向こう五キロは直線で、T字路も十字路も横道も存在していなかった。
「…どこに角があるんだよ」
「そこだって、ほら、そこの家」
「家?」
 後続車が見え無いのを確認して更にスピードを落とした傑に、悦は当然のような表情で二十メートルほど先をプラスチックのスプーンで示した。見れば、隣の建物の壁に寄り掛かるようにして残った残骸で、辛うじてそこに以前建物があったのだと解る程度の廃屋がある。
「ここ…角じゃねぇだろ」
「曲がれるんだから角だろ。次は左な。多分幅ギリギリだから擦ンなよ」
「…了解」
 少し慎重にハンドルを切って歩道に乗り上げながら、傑は軽く藍色の瞳を細めた。四隅にだけ外枠の残った廃墟の中は確かに細かい瓦礫がまばらに散らばっているだけで、左右の建物と奥の建物との間に辛うじて左に曲がれるだけの狭い路地の入口が見える。
 X地区でさえこの有様だ。ここの更に奥にあり〟街〝で唯一、一つ前のエリアと全く接触しない形で境界線を引いているZ地区は更に荒れ果てているのだろう。
「……」
 積み上げられた大きな瓦礫に車体を擦らないようハンドルを切り、誰か人がいれば確実に轢く、という幅しか無い路地へと車を進めながら、思わず傑は横で幸せそうに苺とチョコと生クリームがたっぷり入ったクレープを齧っている悦を見た。
「…代わる?」
「いや、いい」
 視線に気づいた悦が唇の生クリームを拭いながら首を傾げるのに緩く首を振りながら、傑は狭い上に途中で緩くカーブしている路地を見据えて軽くハンドルを握り直す。
 前にこうして本部の車を借りて出掛けた時、A地区の公道で百キロ近いスピードを全く緩めないまま先行車をガンガン抜き去り、ブレーキなんて存在しないかのようにそのままの勢いでカーブに突っ込んでいく悦の運転を見て、傑は悦が誰と仕事に出ても絶対にハンドルを握らせて貰えない理由を身を持って知ったのだが、こんな所を道として走らせていたのなら、全うな道路に出た時にああなってしまうのも仕方の無い事なのかもしれない。
「…あ、ストップ」
「、っと」
 路地の突き当たりの壁が十メートル程前に見えた所で、クレープの最後の一口を放りこんだ悦が不意にサイドブレーキを引いた。強引に止められた車ががくん、と揺れシートから背が浮くが、悦はそれを気にした風も無くクレープの包み紙を丸めながら視線で路地の少し先を示す。
「そこの下に爆弾埋まってるんだよ。センサーがあれの裏」
 体を捻って後部座席のゴミ箱に丸めた包み紙を放りこみながら、悦は薄汚れた壁に張り付けられた張り紙を指差した。よく見ると確かに張り紙の表面が微妙に盛り上がっているが、これは言われていても相当注意していなければ解らない。
「凄ぇセキュリティーだな」
「センサーの位置も半月周期で変わるしな」
「偏屈にも程が有るだろ…」
「な?常連じゃなきゃ相手にもされねぇだろ?」
「確かに」
 ドアを叩く前から向こうが殺しに掛かっているのなら、客として相手にされるされない以前の問題だ。脱ぎ捨てていたブーツの紐を締めながら笑って言う悦に、傑は苦笑しつつ頷いた。



 頑丈な合金の扉と無数の錠を越えた先で2人を迎えたツェザリカは、腕のいい武器屋の偏屈親父、という肩書きから来るイメージを全て裏切った容姿で一人掛けのソファに腰掛けていた。
「随分と久しぶりじゃあないか、悦。そちらはお友達かね?」
 片眼鏡の奥の鳶色の瞳を温和そうに細めながら目の前のソファを勧めるツェザリカは、白髪の混じった髪を上品に撫でつけ、タイとシルクハットを加えればそのまま貴族達の社交場に立てそうな外見をしている。質素だが使い勝手の良さそうな室内の調度品と相まって、まるで老紳士という言葉を具現化したようだ。
「相棒の傑」
「どうも」
「やぁ、初めまして」
 慣れた様子でさっさとソファに腰掛けた悦の傍らに立ちながら軽く会釈をした傑を見上げて、ツェザリカは一つ頷くとすっと右手を差し出してソファを示した。悦の横に腰を下ろした傑の藍色の瞳を真っ直ぐに見据えたまま、それが癖なのかまた一つ頷き、仕立ての良さそうなブラウンのスラックスの上からぽん、と自分の右足を叩く。
「どうか迎えにも出ない不躾は許しておくれ。こんな脚では立つのも億劫でね」
「今時義足なんか着けてるからだろ。さっさと機械体部品にすりゃぁいいのに」
「鉄で出来たものに神経を繋ぐ、というのが私はどうも好かんのだよ」
 食卓に嫌いなものでも並べられたような顔で首を振って見せるツェザリカに、悦はやれやれといった表情で軽く首を竦めた。何年前からの付き合いかは知らないが、きっとその頃から悦とこの老人の間で繰り返されている問答なのだろう。
「…それで、今日は何かね?」
 自らの義足に立て掛けるようにした黒塗りのステッキを撫でながら、それまでと同じ穏やかな声音で軽く首を傾げて見せるツェザリカの前に、傑は腰のベルトから引き抜いた銀色の銃を置いた。
「…ほう」
 バレルが潰れた鉄クズ同然の銃を見て、ツェザリカのそれまで笑みの形に細められていた鳶色の瞳が僅かに鋭さを帯びる。
「アンタなら直せるかも、って聞いたんだけど、どうかな」
「その銃、もう型も図面も無くて、…」
 青く血管の浮いた手で銃を持ち上げながら、ツェザリカはそれをここまで持って来た理由を説明しようとする悦の言葉を軽く手を振って止めた。
 無言のまま手の中で銃を転がして一頻り観察すると、ゆっくりと一つ頷いてから顔を上げる。
「…君、傑君。この銃をどこで?」
「どこで?」
「私はこの銃を前にも一度…そう、三十年ほど前に一度見たことがある。軍部警察の大戦以前の軍事遺産保管所で、硝子ケース越しに」
 ツェザリカの表情はそれまでと同じく穏やかなものだったが、片眼鏡越しに傑を見据える瞳は銃を見る時と同じく鋭い。彼にとっては珍しい表情なのだろう、傍らでソファに背を埋めていた悦が僅かに目を見開くのを横目に、傑はツェザリカの視線を正面から受け止めながら薄く笑った。

 …あぁ、知っているのか。

「どこも何も、そこからだよ」
「そこ?…それは軍部警察の最深部に位置する、あの堅牢な軍事遺産保管所のことかね」
「そんなご大層な名前がついてるのは知らなかったけどな」
「……」
 警報が喧しくて案内版を見る暇も無かった、と。そう言って笑って見せる傑を猛禽類の瞳で見据えたまま、老齢の武器屋は僅かに唇の端を持ち上げた。
「…あそこには他にも〟君〝の興味を惹く物が沢山あったと思うが、その中からどうしてこれを?」
「それが一番まともだったからな、あの中じゃ。慣れりゃ誰でも撃てる」
「簡単に言ってくれるじゃあ無いか」
 くつくつと喉の奥で笑いながら、ツェザリカは年相応に皺の寄った掌で己の顔を撫でた。何かを考えるように軽く俯いたまま数度頷き、未だに鋭さを孕んだままの瞳を笑みの形に細めて悦を見る。
「悦。全くお前は、この老人の前にとんでもない友達を連れて来てくれたものだ」
「…ツェザリカ。言っとくけど傑は、」
「ああ、解っている。解っているとも。耳は遠くない、しっかりと聞こえているよ」
 傑を庇うようにソファから背を浮かせた悦の言葉を再び手を振って遮り、ツェザリカはズレた片眼鏡を直しながら一つ頷いた。
「彼は、傑君はこれを選んだ理由を誰でも撃てるからだ、と答えた。当にその通りだ。悦、この銃はだね、あの場所に並んでいた中で唯一、人間が試し撃ちを出来た銃なんだよ」
「それ一つだけ?」
「ああ、そうだ。これだけだ」
 手の中の銀色の銃を僅かに震える指先で撫でながら、ツェザリカは眩しいものでも見るように細めた瞳で傑を見上げる。
「あそこにあるのは大戦以前の、200年前の戦争に活用された銃火器だけだった。その頃銃火器を扱っていたのは…その時の戦争での歩兵は、彼等だ」
「……」
「…もう随分と長くこの仕事をやっているが、まさかこんな時が来るとは思ってもみなかった」
 静かに錆びついた声音でそう呟き、ツェザリカは胸ポケットから取り出した黒いハンカチで手の中の銀色の銃を包んだ。細い体の空気を絞り出すように長い長い溜息を吐き、…そして不意に、吹きだすようにして小さく笑う。
「やはり軍部警察の連中は間抜けだ。そう思うだろう、傑君?」
 痩躯を揺らして笑いながら、ツェザリカはハンカチに包まれた銃を膝の上に置きつつ、まるで子供のように悪戯っぽい目で傑を見上げる。
「連中は未だに君こそを最高の武器だと盲信しているよ。愉快なことにね」
「アンタは?」
「私はそうは思わんよ。君は〟誰でも撃てるから〝この銃を選んだんだと言ったじゃあないか」
「…なァ、あのさ」
 片眼鏡の奥で悪戯っぽくウインクをするツェザリカと、それを見て笑う傑の顔を頬杖を着いて見比べながら、痺れを切らしたように悦が小さく片手を上げた。
「結局直るのかよ、それ。なんか盛り上がってるトコ悪ィけど、知ってのとーり学がねぇんだよ俺」
 どこか呆れたような表情で二人を見ながら、悦は小さく溜息を吐くとテーブルの上に置かれた硝子の皿から、そこに盛られていたキャンディを一つ取って自分の口に放り込む。
「要するにアレだろ、その銃が凄くて、親父は傑が〟純血種〝だって気付いたんだろ?じゃあそう言えよ」
「ほう。学が無いと自称する割にはなかなか理解力が高いじゃあ無いか、悦」
 大袈裟に驚いたような素振りでからかうツェザリカに小さく煩ぇ、と吐き捨て、口の中の飴玉をからころと転がしながら、悦はぼふりとソファに背を埋めた。
「話が長ぇんだよ二人して。…で、直るのかよ親父」
「直るよ」
「え」
「…軽いなおい」
 何を今更、という表情であっさりと頷いたツェザリカに、悦は思わず頭の後ろで組もうとしていた腕を下ろす。さすがに驚いたのか傑も思わずといった風にそう呟いたが、改めて二人の視線を受けている当のツェザリカは、人の良さそうな微笑みの奥で鳶色の瞳を愉快そうに細めていた。
 …相変わらず食えない親父だ。
「なに、悦が珍しく深刻そうに言うものだから、少し引っ張って雰囲気を出そうかと思ってね」
「今の一言で全部ぶち壊しじゃねぇか」
「爺の長話に付き合うのも若人の義務だ。そう思わんかね?」
「思わねーよ」
 憮然とした表情で悦が即答してもツェザリカの態度は飄々としたもので、これは手厳しい、と呟きながら笑っている。悦が最初にツェザリカに会ったのは五年前、まだZ地区で男娼をやっていた時だが、その頃からずっとこの老人はこの調子だ。自分の事を老人だ爺だと自称する割には、ちっとも言動が見合っていない。
「どのくらい掛かる?」
「そうさな…少し見た所、バレル以外の部品にも多少ガタが来ているようだ。二…いや、三週間貰おうか」
「だってよ」
「直るんならいつでも」
 初めから無くて困るような物でも無い。軽く頷いて見せた傑に、ツェザリカはにっこりと笑って黒い布に包まれた銀色の銃を叩いた。
「それは実に賢い返答だ。私の腕に誓ってこのガラクタを君の愛銃に戻して見せよう」
「あぁ。よろしく」
「…じゃあ、そろそろ行くか。これ以上置いといたら車がヤバい」
 壁の時計を見ながら軽く傑の膝を叩き、悦はスプリングの利いたソファから立ち上がる。
「じゃーな、親父」
「ああ、今度はクッキーを用意しておこう。またお出で」
 傑に続いて廊下に出ながらひらりと手を振って見せた悦に穏やかに目を細めながら、ツェザリカは軽く片手を上げてそれに答え、小さく一つ頷いた。



 普通の物の二倍はある柄のスプーンで、同じく普通の二倍は深いグラスにたっぷりと盛られたチョコレートパフェの最後の一口を掬いながら、悦は目の前でロックグラスを傾けている傑をちらりと盗み見た。
「…ん?」
「や、…別に」
 この店にある中で一番強い酒をロックで、氷を溶かす暇も無く水でも飲むように飲み干した傑が、素っ気なくそう言いながら視線を反らした悦を見て軽く首を傾げる。
 ツェザリカの家からA地区まで戻った頃には、随分ゆっくりと走らせていた所為もあってか人工太陽は既に人工月へとその役割を変えていた。コースのメイン料理が終わる頃までは、悦も傑が夕食にと選んだこのレストランがあるホテルの豪奢な外装や、高級ホテルに相応しい味の料理に楽しげにしていたのだが、今はどうも様子がおかしい。
「なんか落ちつかねぇな、さっきから。こういう気分じゃ無かった?」
「そういうんじゃねーよ、ただ…」
 コースのデザートとは別に頼んだパフェのグラスを指先でテーブルの端に押し遣りながら、悦は少し気まずそうな表情でさっと周囲に視線を走らせた。ホテル内の敷地を贅沢に使ったこのレストランは全ての席が個室で、傑以外の視線と言えば壁の絵画の中で微笑む美女くらいのものであるのに、万が一にでも他の客やウェイターには聞かれたくないらしい。
「…ただ?」
「途中で気付いた。…ここ、前にも何回か来た事ある」
「あぁ、成る程」
 視線を合わせないまま呟くように言う悦の横顔を見ながら、傑はそれだけで全て解ったと言う風にからり、とグラスの氷を鳴らした。
 とても仕事帰りに他の登録者と来るような店では無いし、悦が一人で来るというのも考え難い。そして、ここは〟街〝でも五本の指に入る高級ホテルの中にある、鬼利のコネを使わなければとても飛び込みでは入れない一番人気のレストランだ。
 言われて見れば、いかにも男娼をやっていた頃の悦の客であった成り金共が好みそうな条件が全て揃っている。
「ごめん。ちょっとベタ過ぎたな」
「俺はいいんだよ、ここの料理ホントに美味いし」
 苦笑する傑に少し慌てたように首を横に振り、悦はそろりと傑の、黒いシャツにジーンズというラフな格好にも関わらず、着飾ったホテルの客の誰にも見劣りしない美貌を覗った。
 今更、昔男娼として他の男に抱かれていた場所だからと言って何か思うほど、悦は初心でも純粋でも無い。誰に無理強いされたわけでもなく、自分で生きる為にしていたことだ。悦自身は後悔どころか恥とも思っていない、が。
「傑が、さ…」
「……」
「やっぱ、いい気はしねぇよな、って…思って」
 傑の呑まれそうに深い藍色の瞳を直視出来ず、悦は言葉の途中で俯いた。
 聞くまでも無い事だ。色々と汚れ過ぎてしまった自分には普通の恋愛など解らないが、多少なり苦労して席を用意してくれた店で昔、一応は恋人である相手が他の誰かに抱かれていたと知って気分がいい筈が無い。
 ホテルの外装を見た時点で気付くべきだった。あの頃はどんな綺麗な内装でも、美味しい料理でも、一緒に居る相手は男娼としての客で楽しむような気分ではとても無かったが、それでも気付くべきだった。
 …入る前に気付いていたら、傑の気を悪くさせてしまうことも無かったのに。
「…まぁ、確かにいい気はしねぇよな」
「っ…ごめ…」
「いや、俺じゃなくて悦が」
「え?」
 予想外の言葉に顔を上げた悦の前に、傑はす、と指先で真っ黒なカードを純白のテーブルクロスの上に滑らせた。
「これ、って…」
 左端に金でホテルの紋章が入ったそのカードのデザインはこのホテルのカードキーのそれとてもよく似ていたが、悦にとって見慣れているカードキーは銀色に黒字だった筈で、黒に銀の文字が入ったこのカードとは色が真逆になっている。
 この色のカードキーでなければ開かない扉の部屋は、確か。 「いつの間に…取ったんだよ。スイートなんて」
「そこしか空いて無かったんだよ」
 目を丸くして自分を見つめる悦にさらりとそう答え、傑は黒いカードキーから離れて白いテーブルクロスの上を滑らせた手を悦のそれに重ねた。
「折角こんないいホテルなのに、愉しまねぇなんて損だろ?」
「っ…たのしむ、って…」
 頬に熱が集まるのを感じながら掠れた声で問う悦に、傑は言葉で何かを言う代わりにするり、と重ねた手を動かした。
 掌の筋を辿るようにして競り上がった長い指が、隠しナイフを仕込んだ悦の黒いパーカーの袖から入り込み、手首の内側の薄い皮膚をゆるりと撫で上げる。
「今更帰る、なんて…」
「…っ…」
 触れられた箇所から染み込むように広がった淡い痺れにぴく、と指先を震わせた悦に甘い声で囁きながら、傑は額縁の中の美女も頬を染めるような美貌で薄らと笑った。
「言うなよ?…悦」



 二十八階建てのホテルだというのにボタンが四つしかない、いかにもな赤いベルベットの絨毯が敷かれたエレベーターが止まったフロアには、ベージュの扉が一定間隔でずらりと並んだ他の階層とは違って、両開きの黒い扉が一つしか無かった。
 黒いカードを滑らせて開いた扉の先で、淡い間接照明が次々と点いていく。壁の殆どを占領する窓の向こう、最上階から望む夜景は一般客室から見るそれとは桁違いに幻想的だったが、今閉じたばかりの扉に背中を押し当てられて唇を塞がれた悦に、その景色を楽しむ暇はほとんど無かった。
「ん、んっ…は、…んっ…」
 くちゅり、と濡れた音を立てて絡め取られた舌の隅々までを舐め溶かすように愛撫されて、咄嗟に傑の肩を押し返そうとした手から力が抜ける。扉に着かれた傑の腕を滑り落ちようとしたその手は、だが寸前で傑の手に手首を掴まれ壁に押し当てられた。
「ふ、…すぐ、る…っん、ぅん…ッ」
「……」
 閉じていた瑠璃色の瞳を薄らと開き、それだけで腰が痺れるようなキスの合間にその名を読んだ悦に、キスの最中でも目を閉じない傑はその双眸を軽く細めると、片手を掴まれて逃げ場を失った悦の足を膝で割り開く。
 厚いジーンズの生地越しに太股をなぞった膝に反応し始めていたモノを緩く擦られ、悦は扉を背にした体をぴくりと震わせながら手首を囚われた手をきゅっと握り締めた。
「んん…ふ、ぁッ…す、傑…待っ…ぁあっ」
「もうこんなにしてるのに?」
 折角のスイートルームで、ここから見ても呆れるほど広いリビングの奥には綺麗なシーツを敷かれたベッドがあるのに、と悦は自由な方の手で傑の胸板を押し返そうとするが、笑みを含んだ甘い囁きと共にモノをぐっと押し上げられる快感に、縋るように傑の黒いシャツを握り締めてしまう。
「…悦」
「はぁ、あっ…?」
「そのまま脱がせて。…アツい」
 強弱をつけて膝に裏筋を擦りあげられながら、耳元に寄せられた唇に低く掠れた声でそう囁かれ、悦は傑のシャツを握っていた指先をぴくりと震わせた。今まで傑とはもう何度も何度も数えるのも面倒なくらいにシているが、肌に触れたくて悦が勝手に脱がせたことはあっても、傑の方から脱がせてくれと頼まれたことは一度も無い。
「いつも、…んっ、自分で、脱ぐ…クセに…っ」
「いつもは、な」
 いつも傑にされていることをする、と思うと妙に気恥しくて、自分でもそうと解るほど頬を染めながらボタンに伸ばしかけた手を引っ込めた悦に、扉に抑えていた悦の手首から手を離した傑は思わせぶりに言いながら膝に押し上げられていた悦のモノをする、と指先で撫でた。
 巧みなキスと膝の刺激で悦のモノはキツいジーンズの中で勃ち上がり、布越しとはいえ傑がそれに気づかない筈も無いのに、指先は形をなぞるように緩慢に動くだけでベルトのバックルすら外そうとはしない。
「あっ、ぁ…ぁあぁ…ッ」
「…えーつ?」
 分厚い布を挟んだ緩慢な愛撫にもどかしげに身じろぐ悦の耳元で、腰に直接響く傑の声が促すように囁く。
 骨抜きになるほど優しい癖に有無を言わせないその声に、悦はとろりと瑠璃の瞳を潤ませながらきゅっと唇を噛み締め、微かに震える指先を傑のシャツのボタンへ伸ばした。
 恥ずかしいのは相変わらずだが、ここで嫌だと言ったって傑が大人しく引き下がる筈が無い。悦以上に色事に関して手慣れているこの鬼畜な恋人は、その甘い声以外にも悦を自分の言いなりにさせる術をいくつも持っているのだ。
「…ん、ん…ッ」
「……」
 布越しに裏筋を押し上げ、先端をくるくると撫でる指先の動きに噛み締めた唇の合間から熱を孕んだ吐息を漏らしながら、このまま焦らされるくらいなら、と半ば自棄になって悦はボタンを全て外した傑のシャツをその肩から引き下ろす。
「よくできました」
「あ、あぁッ…も、傑…!」
 手首の辺りで引っ掛かったシャツを軽く腕を振って床へと落とした傑に、ご褒美のように頬に触れるだけのキスを落とされながら布越しに先端を引っ掻かれて、悦は露わになった傑の肩に緩く爪を立てながらふるふると首を横に振った。触られた場所から体中に響く痺れが甘すぎて辛い。このまま下も脱がせと言われるかもしれないと思ったが、さすがに傑もそこまで焦らす気は無いらしく、驚くほどあっさりとバックルを外され抜き取られた悦のベルトが黒いシャツの上に落ちる。
「…濡れてる」
「んぅッ…そ、ういうこと…っあぁあ!」
 わざとイヤらしく掠れさせた声で囁かれた言葉に傑を睨みつけようとするが、下着の中に滑り込んで来た冷たい手で直に裏筋を押し潰され、直接的な刺激にそんな余裕はすぐに悦の中から消し飛んでしまった。
「あっぁ、ああぁ…ッ!す、すぐ…っんぅう…!」
 分厚い布越しの愛撫で焦らされた体はいつも以上に快感に貪欲で、根元から扱かれただけでどっと溢れた先走りが傑の手を濡らす。今にも達してしまいそうな愉悦に縋りつくように傑の背中に手を回しながら、悦は微かに震える手で傑の手首を掴んだ。
「は、あっぁあ…ッは、はや…そ、な…っした、らぁ…ッ」
「もうかよ。まだ扱いただけだぜ?」
「だ、だって…っあぅ、う…!」
「ったく…」
 全く力の入っていない悦の手をやんわりと振り解き、逆にその手を掴んで指先に口づけながら、傑は言葉の通りに全く余裕の無い様子で喘ぐ悦に小さく苦笑すると、緩く悦のモノを扱いていた指先をひたりと奥へ宛がう。
「すぐだから、ちょっとだけ我慢な」
「んんっ…ひ、ぁあぁあ…ッっ」
 宥めるように優しい傑の声にこくこくと頷き、悦は自分の先走りをローション代わりに奥に埋められた指に甘い悲鳴を上げながら、両手を回した傑の背中にしがみついた。慣れた体が圧迫感を感じるのは最初のほんの一瞬だけで、探るように中でぐるり、と回された長い指がイイトコロを掠める度にがくがくと膝が震える。
「はぁあ、ぁッ!ぁ、やッ…そ、こっ…んんぅうっ…!」
「…前、開けて」
 中の指を二本に増やしながら囁かれ、今更恥ずかしい等と思う余裕も無く悦は言われるがまま傑のジーンズに手を伸ばした。上手く力が入らない所為で拙い手つきでバックルとボタンを外し、その下にある熱を感じて震える指先でチャックを下ろすと、支えるように腰に宛がわれていた傑の手が膝裏に差し入れられ、器用に下着ごとジーンズを抜き取りながら掬い上げるように悦の片足を腰の辺りまで持ち上げる。
「っぁ、は…傑、すぐる…ッ」
「…背中、痛かったら言えよ」
「あッ、あぁああぁッ…!」
 いつの間にか三本に増えていた指に代わって内壁を押し広げた熱いモノに、悦はぐっと深さを増した傑の言葉に頷くことも出来ず、持ち上げられた足をふるふると震わせながらその背中に爪を立てた。
「はッ…はぁ、あ…っ」
「キツい?」
「だ、い…じょぶ、だから、…ぁっすぐ、る…!」
「それじゃ、遠慮無く」
 言葉だけはおどけたように言って悦の足を持ち上げる手に力を込めた傑のモノが、ずぐり、とピンポイントで悦の前立腺を突き上げる。
 レストランからここまで、キスだけで体が反応してしまうくらいに煽られ、疼いて疼いて仕方が無かった体にその刺激は鮮烈で、立っていられなくなる程の快感に持ち上げられた足をびくりと震わせながら、悦は潤んだ瑠璃色の瞳をぎゅっと瞑った。
「ひッ、ぁっあぁ!あッ、あ、ふぁあッ」
「気持ちイイ?」
 深い突き上げに押し出されるようにして嬌声を上げながら、耳元で囁かれる言葉に何度も頷く。犯すのにも犯されるのにも慣れ切っているが、入れられただけでイきそうになるくらいに感じるのは傑とシしている時だけだ。
「き、もちっ…はぁ、あッ!も、イき、た…ッ」
「もう?」
「ぁんンっ、おねが…あぁぅッ…すぐる、す…ぐる…っ!」
「っとに堪え性ねぇな、この淫乱は」
 既に息も絶え絶えな自分とは対照的に余裕のある声音で呆れたように言われる言葉すら、その藍色の瞳が柔らかく細められていることを知っている悦には堪らなく甘く聞こえて、体の芯を犯す熱がじわりと上がる。
 自分の快感を追うことしか考えられなくなる程溺れるなんて、これなら偽物の嬌声を上げながら男を煽って締めつけを加減出来ていた男娼の頃の方がまだマシだ。熱に浮かされた意識の片隅で誰かがそう冷笑するのが聞こえたが、解っていてももう昔のようになんて出来なかった。
「…ほら、イけ」
「ひぁああぁっ、あぁッあーっ!」
 一際深く重い突き上げと共にとろとろと先走りを溢れさせる尿道口を引っ掻くようにされて、腰から下が蕩けてしまいそうな愉悦にどくり、と零した精液で傑の手を汚しながら、悦はぎゅうと傑に縋りつく。加減を無くして立てられた爪が滑らかな皮膚を破り薄く血が滲むが、深い藍色の瞳を愛おしげに細めた傑は手を払うことも無く、射精の余韻にひくりと体を震わせる悦の頬に触れるだけのキスを落とした。
「っはぁ、…ぁ…」
「…そのまま抱きついてろよ」
「え…?…っひぁ!?」
 甘い余韻に浸りきって力を抜こうとした途端、艶っぽく掠れた声と共にぐっと体を持ち上げられ、熱を保ったままの傑のモノにイったばかりで敏感になった内壁を擦られる痺れるような快感に、悦は力の抜けた体を跳ねさせる。
「な、にっ…ちょ、下ろし…ッ」
 何のつもりだと力の入らない体を身じろがせて腕から逃れようとするが、傑に比べれば背が低いとはいえ小柄でも、相応についたしなやかな筋肉の所為で軽くも無い悦を軽々と抱き上げた傑は、そんな抵抗などまるで感じていない涼しい顔で淡い間接照明に照らされた豪奢なリビングルームを振り返った。
「続きはソファでする?」
「んぅっ…!」
 リビングに置かれた革張りのソファを見ながら言う傑に、中を貫いたままのモノの存在を思い出させるように抱き上げられた体を軽く揺すられ、腰から背骨に駆け抜ける愉悦に暴れていた悦の体から目に見えて力が抜ける。
「っ…ベッドが、いい…」
「だよな」
 ぶり返して来た熱にぞくぞくと背筋を震わせながら呟くように言った悦に薄く笑い、傑は抱き上げた悦の背中を扉から離した。浮遊感にその背に腕を回し直した悦の背中を労わるように撫でながら、人一人抱えているとは思えない確りとした足取りで二人の服が散らばったエントランスを抜ける。
「ふっ…ぅ、んッ…ぁっ、すぐ…るっ…!」
 重さを感じていないように歩いていく傑の腕の中の安定感は抜群だったが、傑が一歩進む度に深く貫かれたままの体が揺れ、蕩けた内壁を緩やかに突かれる耐えがたい刺激に、悦は震える手で傑の肩を叩いた。続きをするなら勿論ベッドがいいし、腰から下が甘く痺れた今の状態では自分では歩くこともままならないだろうが、これではベッドに着くまでにまたイってしまう。
「ん?」
「ゆ、…っ揺ら、さな…あぁッ…おく…こす、れ…てっ…」
「浅いトコの方がイイ?」
「ひぅッ…ち、ちが、…あッや、やめ…んぁあっ」
 意地悪く笑った傑にほんの少し腰を持ち上げられ、抱き上げられた体をびくびくと震わせながら悦は首を横に振った。最奥に当たらなくなった代わりに歩幅に合せて擦り上げられる範囲が広がり、悦ぶように絡みつく柔肉を緩やかに掻き乱されるとまるで焦らされているようで、激しい快感に慣れた体がじわじわと疼きだす。
「ぁっあッ…お、…おろし…っんぅう…!」
「もう着いたって。ほら」
 リビングの更に奥にあるベッドルームの扉を後ろ手に閉めながら促すように頬に触れるだけのキスを落とされて、悦は額を擦りつけるようにしていた傑の肩口からふらふらと顔を上げた。暖色の照明に淡く照らされたベッドは大きく、傍から見ても寝心地が良さそうで、上品なクリーム色のカバーには精緻な刺繍まで施されていたが、熱にぼやけた視界ではその豪華さも良く解らない。
「さすがスイートだけあるな。ウチのより広いかも」
「も、…すぐる…ッ」
「はいはい」
 確かにスイートルームなんて滅多に泊れるものでは無いが、今は部屋の豪華さも、ベッドの広さもどうでもいい。すっかり息の上がった体を上下させながら握り締めた手で弱々しく肩を叩く悦に小さく笑い、傑は宥めるようにその背をぽんぽんと撫でながらベッドの端に腰を下ろした。
「はぁ、あっ…ひ、ぁあああッ!」
 柔らかく沈むマットレスに合せて深く突き上げられるのと同時に再び勃ち上がったモノの先端を緩く引っ掻かれて、溢れる先走りを掻き乱すように敏感な箇所を嬲られる気の遠くなりそうな快感に、震える悦の足が皺一つ無いシーツを乱していく。
「さっき抜いたばっかりなのに、もうイキそう?」
「あぁああッぁ、あぁっ!ひ、ゃめっ…あぅううっッ」
 薄く笑いながら首を傾げて見せる傑にがくがくと頷くが、傑は悦を嬲る手を少しも緩めてくれなかった。咄嗟に傑の手を止めようとするが、尿道口をすりすりと指の腹で擦られ、弄られて赤くなったその周囲を焦らすようにくるくると撫でられては力など入らずに、逆にねだるようにその手首を掴むことしか出来ない。
「あッも、もぉ…で、ちゃ…は、ぁああ…ッ!」
「それはダメ」
「ひぃッぁああ!?」
 どくり、と腰の奥をざわめかせた熱に叫ぶように言った途端、先走りでぐっしょりと濡れたモノの根元を指先に締めつけられて、悦は涙の膜が張った瞳を大きく見開いた。震える指先がかり、と傑の手首に爪を立て、傷痕一つ無い滑らかな皮膚に赤い線を引く。
「悦はさっきイっただろ?今度は俺の番」
「そ、なっ…あッや、やだっぁあ…はな、し…あッぁあっ!」
 射精を寸前でお預けにされる辛さに泣きじゃくりながら悦は嫌々と首を振るが、昔、男娼として相手をしていた数多の客をオトしてきたその仕草も、傑には効果が無かった。
 聞きわけが無いのを叱るように根元を戒められたまま、充血して苦しそうに震えるモノの先端をくり、と指先に抉られて、押し留められてぐるぐると渦を巻く熱が容赦なく射精を止められた体を責める。
「俺のこともヨくしてくれたら、さっきより気持ちよくしてやるから」
「ひ、ひぅッ…!」
「…悦」
 説き伏せるように優しい声音で名前を呼ばれて、悦は虚ろに焦点をぼやけさせた目で傑を見た。その膝に乗っている所為でほぼ同じ高さにある藍色の瞳に正面から射抜かれた瞬間、自分の快楽を追う事に夢中になっていた悦の意識がほんの少し明度を取り戻す。
 すれ違った十人中十人が振り返るような美貌を持つ恋人のベッドの中での性癖は鬼畜そのもので、もう悦は何度その手管に泣かされて来たか知れないが、例え強すぎて辛いくらいだとはいえ、傑が与えてくれるのはいつも紛れもない快感だけだ。今のように寸止めにされるのは勿論辛いが、こうして我慢した後の絶頂が普通よりずっとイイことも傑に教えられて知っている。
 やり方は少し意地悪でも、傑はいつだって自分を最高の快感に溺れさせてくれるのに。なのに、自分は。

 …きっと傑が与えてくれるうちの半分も、返すことが出来ていない。

「はッ…は、ぁっ…ん、んん…ッ!」
 がくがくと震える膝をシーツに着き直し、悦は傑の肩に縋りながらゆっくりと腰を上げた。抜ける寸前まで引き抜き、熱く蕩けた内壁をそれ以上に熱い傑のモノに擦られる気の遠くなりそうな愉悦に背筋を震わせながら、軽く息を吸って一気に腰を落とす。
「ひッ…!ぁ、あぁああっ!」
「…っ、…」
「あッ、ぁ…ふ、ぅんンっ…は、ぁ…あぁあっ!」
 奥まで突き上げられて、そのまま力が抜けてしまいそうになる腰を緩く動かしながら、悦は今日初めて意識して傑のモノを締めつけた。ぎゅう、と絞り取るように絡みつく柔肉に軽く目を細める傑の表情が堪らなく扇情的で、出せないままの体を自分で追い詰めるような行為は辛い筈なのに、傑も感じているんだと思った瞬間じんとした甘い痺れが指先にまで走る。
 …あぁ、欲しかったのはこの熱だ。独り善がりじゃなくて、二人で。一緒に。
「はぁあ、ぁッ…ぁ、うっ…ひぁッんン…!」
 擦られる内壁から頭まで響く快感が強すぎて、体中の感覚が痺れたように鈍い。ほとんど気力だけで動かしている腰を落とす度に、傑の膝の上で不規則に背筋を痙攣させる悦の脇腹を、パーカーの裾から滑り込んだ長い指が撫でた。
 しっとりと汗ばんだ肌を辿るように撫で上げながら胸元まで裾をたくし上げられ、荒い息に合せて上下する胸の先端をくに、と押し潰された途端、触れられた箇所から背筋を駆け抜けた甘い電気に、悦は溜息のような声を漏らして背を反らせる。
「あ、はっ…!だ、め…いま、そ…こ…ぁっ!」
「好きだろ?ここ」
 霞みがかった意識が更に遠のいてしまいそうで、悦はふるふると体を震わせながら小さく首を振るが、乳首をかりかりと引っ掻く傑はそう言って意地悪く笑うと、ちろりと自分の赤い唇を舐めた。
 傑に指と舌で快感を覚えこまされた乳首は自分でも驚くほど敏感で、力の入らない体をなけなしの気力を振り絞って支えているような今の状態でそこまで愛撫されたら、きっともう指一本動かせなくなってしまう。
「ぁ、…あ…っ」
 そう思うのに体は快感に従順で、濡れた傑の唇がキスでもするようにそっと胸元へ寄せられるのを魅入られたように見つめたまま、悦はこくりと息を飲んだ。
「あっ…んぅう!ふ、ふぁっ…ぁああッ」
「…腰、止まってる」
「あぁぅッ…は、はぁっ…あッ、ぁ、あっ!」
 ぷっくりと赤く膨れた乳首をちろりと舐めながら軽く下から突き上げられて、悦はそれに頷きながらがくがくと痙攣する腰を持ち上げた。既に悦の気力が限界に近いのを解っているのだろう、スプリングを使って緩く下から突き上げてくれる傑の動きに合せて腰を動かしながら、震える指先でそっと傑の髪を梳く。
 擦られ、舐められて、触れられている箇所全部が熔けそうに熱い。根元を戒められていなければもう何度もイってしまっているような愉悦に、赤く充血したモノはひくりと震えながら濁った先走りを零していたが、お預けにされている辛さも切なさも、神経が焦げ付くような快感と泣きたくなる程の幸福感に溶けてしまって解らなかった。
「は、…すっげ…っ」
「あぅッふ、ぁああ…っ!す、すぐ…ぁっあッ…すぐ、る…ッ!」
 技巧も何も無く、ただひたすら夢中になって与えられる快感にきゅうきゅうと締めつけていた傑のモノが中でぐっと硬さを増し、それを感じるのと同時にがくりと力強く体を揺さ振られて、悦は許容量を当に超えた刺激に涙を零しながら傑に縋りついた。
 パーカーをたくし上げていた手に腰を支えられ本格的に腰を使われると、力の入らない体ではもう合わせる余裕も無く、前立腺を抉りながら深くまで突き入れられる熱に、とろとろに蕩けた内壁が悦ぶように絡みつく。
「傑、すぐる…っひあぁ、あ!す、ぐ…あぁああぁッっ」
「…悦、愛してる」
 されるがままにがくがくと揺さ振られながら、掠れた嬌声を上げていた悦の耳元。濡れた唇が熱っぽく掠れた声で囁いた甘い睦言に、悦はしがみついた傑の見惚れるほどの美貌を見上げて何度も頷いた。
「ッ…れ、もっ…あんンッ…お、れも…っ!」
「…ん」
 忙しない呼吸の合間の泣きじゃくるような声に、傑は薄く笑いながら海の底のように深い藍色の瞳を伏せ、
「あッぁああっぁ、あーッ…!」
 体の深い所を熱い欲に叩かれるのとほぼ同時に緩んだ戒めに、悦も甘い悲鳴を上げながら傑の下腹を白く汚した。
「…は、…」
「はぁ、あッ…ぁん、…んん…っ」
 整った眉を軽く顰めて傑が息を吐くのにぞくり、と背筋を震わせながらぐったりと力を抜いた悦の唇を、傑のそれが柔らかく塞ぐ。
 軽く合わせられただけで離れようとするのが物足ず、追い縋るように滑り込ませた舌はすぐに絡め取られて、望み通りの激しいキスに薄らと開いた瑠璃色の瞳をとろりと潤ませる悦を、傑はそっと白いシーツの上に押し倒した。
「ふ、ぅ…ん、…はっ…」
「…ほら、さっきよりヨかったろ?」
「ん……」
 額が触れそうな距離のまま、おどけたように言われた言葉に素直に頷きながら、悦は力の抜けた体を包むシーツの柔らかさに伏せようとしていた目を開いて傑を見上げる。
「傑、は…?」
「俺?」
 …傑がくれた快感の少しでも、返すことが出来ただろうか。それだけが不安で尋ねた悦に訝しげな顔をした傑は、だが直ぐに全て理解したように小さく笑った。
「聞くまでも無いだろ、そんなの」
「…え…?」
 不安げに眉を顰める悦の頬を安心させるように撫でながら、柔らかく細められた瞳が正面から悦を射抜く。
 深い藍色の中に悦だけを映したまま、そっと囁かれたその言葉は、今日注がれたどの睦言よりも甘かった。

「…最高」


      *

 寝ぼけながら探ったシーツの感触が指に慣れたものより滑らかで、その微かな違和感に、悦は昨夜散々泣かされた所為で重たい瞼をこじ開けた。
「んー…」
 掠れた喉で小さく呻きながら暖かいシーツの中でごろりと寝返りを打ち、寝起きで上手く焦点の合わない目で周囲を見渡す。シーツの感触と同じく、全く見慣れない部屋の中はスイートルームの主賓室らしく高そうなアンティークの調度品で揃えられていて、悦が寝ているベッドの枠にも繊細な彫刻が施されていた。
 シーツの端にある刺繍と同じく、蔦に埋もれるような模様でベッドの木枠に彫り込まれた細かい紋章をぼんやりと見つめ、ようやくまともに焦点があって来た所で、悦はもう一度ぐるりと部屋の中を見渡す。
「…傑…」
 ―――ガチャリ。
 ベッドの中に居ない姿を探して、もぞりとシーツの中で身を起こした悦がその名前を呼んだ途端。まるで聞いていたように絶妙のタイミングで開いた白い扉の奥に現れた傑の姿を見て、悦は眠たげに半分伏せていた瞳を大きく見開いた。
「ッ……!」
「おはよ、悦。…どした?」
 絶句する悦を見て不思議そうに首を傾げた傑の髪は濡れていつもより色が濃くなっていて、毛先から滑らかな肌に伝う水滴を見る限りシャワーを浴びて来た所のようだ。それはいい。人工の朝日がさんさんと降り注ぐスイートルームで腰にタオル一枚も巻かず、無駄なものが何一つ無い完璧な肢体を惜しげもなく晒しているのも、あまり良くは無いが慣れているからいい。悦が絶句した原因はそんなことではなく、“水も滴る”という慣用句がぴったりと当てはまる傑の美貌の、その下だ。
「どう、ってお前…ッなんだよそれ!」
「ん?」
「なんで…た、勃ってンだよッ」
「なんで、って…」
 びしり、と傑の顔の下―――すらりと長いその脚の間で立派にその存在を主張しているモノを指刺して叫ぶように言った悦に、傑は何を今更といった表情で小さく苦笑した。
「朝だから」
「そっ…そう、だけど…」
 言いたいことは色々とあったが、こうもあっさりと生理現象だと言い切られてしまっては二の句が継げずに、悦はすたすたとベッドに歩み寄って来る傑の裸体から顔ごと目を反らした。
「…せめて服着ろよ」
 拗ねたようにそっぽを向いたままぼそりと呟くように言った悦に、柔らかいマットレスを沈ませながらベッドに乗りあげた傑がくすくすと笑う。
「ンだよ、照れてんの?」
「ッそんなんじゃ、…んぅっ」
 そんなんじゃない、と反論しようとした悦の言葉は、その途中でいつのまにか背後にいた傑の唇に呑み込まれた。
 笑みを含んだからかうような言葉はもっと遠く、ベッドの端の方から聞こえていたのに、と見開かれた悦の瑠璃色を真っ直ぐに見据えながら、傑の舌がするりと悦の中に滑り込む。逃げるように引っ込めた舌はすぐに絡め取られてしまい、くちゅりと卑猥な水音を立てながら口内の敏感な箇所を探られれば、もうまともな抵抗なんてほとんど出来なかった。
「ッ…あ、れだけヤっといて…まだ満足できねぇのかよ」
「出来るワケねーだろ、あれだけで」
「…っ…」
 せめてもの反抗に叩いた憎まれ口を正面から肯定されて、小さく肩を震わせた悦の頬が薄らと赤く染まる。あんなモノを見せられて、その上こんなことを言われて嫌だと傑の体を突っ撥ねられるほど、悦は節操のある体をしていない。
「…じゃあ、何回…?」
「そうだな…」
 立て続けの行為に対する不安よりも、その行為による快感への期待の方が強く滲んだ瞳で自分を見上げる悦から、傑は考えるように少しだけ視線を反らした。
「悦がこのホテルを好きになれるくらい、とか?」
 ふざけたような口調に反して真剣な視線の先にあったのは、ベッドの木枠に彫り込まれたこのホテルの紋章。
「っ…はは」
 そのことに気付いて思わず笑ってしまいながら、悦はまだ少し湿ったその首に手を回して傑を抱き寄せた。
 傑が自分に際限無く優しいのはいつものことだが、この期に及んでそれは少しやり過ぎだ。
「…ばーか」
 赤くなった顔を見られないよう引き寄せた傑の頭を肩口に抱き寄せ、逆らわずに軽く体重を預けて来た傑の腕が自分の背中に回されるのを感じながら、シャンプーの香りがする髪に鼻先を埋めて悦はぽつりと呟く。

 傑と過ごした昨晩以外のこのホテルでの記憶なんてものはとっくに甘い藍色に塗りつぶされて、もう思い出せもしなかった。



 Fin.



ILL =virgin= 収録

off