Deadend



 時間の感覚など、当に薄れていた。
 だから悦には、今がいつなのかも、あれからどれ程の時間が経ったのかも解らなかった。何年にも思えるし、ほんの数日のような気もする。
 マットレスとトイレ、小さな洗面台以外には粗末な木の椅子と机しか無い独房には窓が無く、嵌め殺しの通気口以外は壁も天井も真っ白だった。食事は寝て起きれば机の上にあり、明かりは壁のスイッチで自由に点けることが出来たので、それ等の外的刺激から時の流れを大まかにでも掴むことを、悦は随分早い頃から諦めている。
 聞けば教えられるのだろうか。
 マットレスの上に横たわったまま、悦はふとそんなことを思って瑠璃色の瞳を少しだけ動かす。
 粗末な椅子の上で足を組む男、悦を捕えてこの独房へと閉じ籠めた軍人の藍色の瞳と、目が合った。
「……」
「…腰でも疼くか?」
 藍色の瞳を艶っぽく細めて冗談めかした口調で言う男から、悦はマットレスに頬を擦りつけるようにして目を反らす。ふざけるなと激してもこの外道を喜ばせるだけだと知っているからでは無い。反論が出来ないからだ。
「……」
「相変わらず素直じゃねぇな」
 愉しげに笑いながら、組んだ足に乗せていた本を閉じる。その音を聞くだけで小さく悦の肩が揺れた。繰り返し体の芯に叩き込まれた忌々しいまでの灼熱を、肌の上を這う悪魔のような指先の感触を、囁かれる耳障りな甘い声を思い出して、投げ出していた手が知らずシーツの端を掴む。
 ……自分は何時からこんなにも崩れてしまったのだろう。
「悦」
 ぎしりと粗末な椅子を鳴らして立ち上がった男の軍靴が、重い音を立てて傍らに近づく。
 思えば、堕落は体より心の方が早かった。組み敷かれる度に生娘のように泣かされる屈辱や、己を性奴のように扱う男に対する憎悪など、与えられる愉悦に跡形も無く塗り潰されてしまって、今となっては自己嫌悪に浸ることも無い。
「なぁ。もし今、ここに銃があったら」
 じゅう、ジュウ、銃。
 ほんの少し前までは肌身離さずにいた物の筈なのに、まるで架空の世界の物質のように聞こえるその名詞の意味を理解するのに、悦は少しの時間を要した。
 あぁそうだ、銃。鉛玉を音速で射出し人を撃ち殺すことが出来る銃が、この手の中にあったと、したら。
「お前は、俺と自分のどっちを撃つ?」

 どちらを、

「…弾は」
「一発」
 振り返りもせずに低い声で尋ねた悦に、傑はマットレスの半歩手前で立ち止まりながら答えた。微かに、愉しげに笑いながら。
「……なら、自害する」
「理由は?」
「一発じゃここから出られない」
「へぇ…」
 どこか含みのあるその声に、悦はじっとシーツの縫い目を見つめていた視線を上げた。
 傑は笑っていた。
「出たかったのか、ここから」
 笑って、そう言った。
「…り、…だ…」
「ん?」
「っ…あたりまえだ…!」
 よりにもよってここから、この独房から出たいか、なんて。
 答えるまでもない。当然だ。
 寝て起きる度に祖国を滅ぼした軍の将官に犯されるのを待つだけの、性奴のような現状を望んで受け入れるほど、まだ自分は崩れていない。
 崩れていない筈だ。
「そうか」
 気だるげにポケットに両手を突っ込んだまま、傑はその美貌を睨み上げる悦の視線などなんとも思っていないように涼しい表情で頷くと、目線を合わせるようにその場に、悦の目の前にしゃがみこむ。
「よかったな」
 甘ったるい声と共に頬を撫でる指先からは、微かに火薬の匂いがした。


 *


 照明を落とした独房で、悦は一人考えていた。
 とりとめの無い夢想に過ぎない事は解っていたが、自分の息遣いさえ煩く聞こえる暗い独房の中では、出来ることなどその程度しか無い。
「……」
 ここに囚われてから、傑とは随分と色んなことを話した。軍にとって有益になるだろう情報や、悦自身の生い立ち、今はもう無い祖国の文化のことまで。
 傑はいつもメモすら取らずにそれを聞いていて、捕虜への対応としては珍しく、情事の際を除けば、悦を侮辱したり嘲るような言葉を、あるいは悪戯に希望を持たせたり失望させるような言葉を決して使わなかった。気まぐれに他愛の無い冗談を言うこともあったが、あんな事を言ったのは初めてだ。
 ―――もしもここに、銃があったら。
 弾が一発だけ入った銃がもしあれば、例え傍らに無防備な傑が居たとしても悦は己のこめかみを撃ち抜くだろう。ここに囚われてから悦は傑以外の人間とは会ってすらいないが、ここは大陸の半分以上を掌握しつつある皇国国軍の牢獄だ。
 傑一人を殺した所で脱出などはとても出来ないだろうし、あの男を人質にして脱出を計るのは余りに危険過ぎる。再びこの独房に叩き込まれ、それこそ傑がいつか言っていたように、薬漬けにでもされて複数の男達に昼夜問わず物のように犯されるようになるだけだ。考えただけでも死んだ方がマシに決まっている。
 でも、それじゃあ。
「……もし」
 もし、弾が一発じゃなければ。
 二発でもいい。もし弾倉に残弾が複数あったとして、傍らに無防備なあの男がいたとしたら。その銃で撃ち抜くことが出来るのが、己のこめかみとあの男の左胸だけだったとしたら。
 どちらを、

 ガゴッ!

「っ…!」
 傍目には他の壁と区別のつかない扉がこじ開けられた轟音に、悦はマットレスの上で素早く上半身を起こした。見れば、初めて見る扉の奥の通路の明かりを背に、見覚えのある軍服と防弾チョッキを着けた人影が立っている。
 訓練で叩き込まれた通りの機敏な動きをした体とは裏腹に、長い監禁生活で鈍った頭はそれに追いついておらず、ただ呆然とその姿を見上げる悦の前で、サブマシンガンを油断無く構えて室内を一通り確認した人影は、背後に居る仲間に手で何か合図を送ると、その頭部を覆っていた黒塗りのヘルメットを脱いだ。
『旧リラ国軍所属の悦さんですね』
「…え?」
『自分は旧リラ国軍第三部隊所属のライ一等兵です。確認の為、認識番号を』
 まだ顔立ちに幼さを残す軍人の言葉を理解するのに、悦は少しの時間を要した。状況を理解出来ていないことに加えて、彼が使っている言葉が皇国共通語ではなく随分と長く耳にしていない祖国のものだった為に、どうしてこの言語を自分が理解出来ているのかが解らなかったのだ。
「第十八特殊選抜部隊…1128…9976…階級、は…」
『確認しました。既にこの基地の制圧は済んでいます。さあ、脱出しましょう』
「…“脱出”?」
 手を引かれるがままに立ち上がりながら悦は問い返したが、通路を慌ただしく進む軍人達の軍靴の音に掻き消されて、その呟く様な声は一等兵には届かなかった。
 肩を抱くようにされて足早に独房の外へと連れ出されると、ヘルメットを装着したままの2人に引き渡され、両脇を抱えられた。周囲は独房の中と同じく白く塗られた廊下で、7色の軍服を着た軍人達が統制の取れた動きで忙しなく動き回っている。
『――、――』
『―――』
 悦の腕を掴んだままその合間を縫うように進む2人が、時折祖国の言葉で何かを言っていたが、視覚から入る情報の処理だけで精一杯の悦に、その言葉にいちいち反応を返す余裕は無かった。しばらく進むと上へと行く階段があり、その先の少し開けた場所で別の3人に引き渡された頃には、目まぐるしく変化する周囲の状況と喧騒に眩暈を覚えて目を伏せた。
 重い軍靴の音が幾恵にも重なり、そこに金属が擦れる音が、聞き覚えの無い声が合わさって、手を引かれるまま素足で進む自分の足音さえ滲んでいく。両脇から力強く体力の落ちた体を支えられている為か浮遊感があり、奇妙な程全てに現実感が無かった。
 ……“脱出”。
 そう、あの一等兵は確かに脱出と言っていた。そして自分は今、その言葉通りにあの独房から出ている。
「……」
 俯いたまま薄らと目を開くと、左腕を支えてくれている軍人の腿にある銃が見えた。両腕は抱えられているがこんな拘束を解くのは造作も無い。手を伸ばせば届く距離に、“もし”の話しだった銃がそこにある。
「……」
 ふと、奪ってみようかと考えて、悦はすぐにその考えを撃ち消して目を伏せた。
 そんなことをしたって意味が無い。ここには傑が居ない。
『―、―――』
『―――』
 例えあの銃に幾度となくあの体を貫けるだけの弾丸が込められていたとしても、あの美貌をただの肉片に変えてしまう程の威力の銃だとしても、それでは意味が無いのだ。条件が違う。
 もし、この手に弾丸が2発以上込められた銃があり、傍らに無防備な傑が居たとして。
 その銃で撃ち抜けるのが、このこめかみと傑の左胸だけだったとしたら。
 どちらを、
『―――!』
「……うるさい」

 どちらを、先に。



   *


 病室の壁は、あの独房よりもくすんだ白色をしていた。
「どうだ、経過は」
「極めて順調です。フラッシュバックが怖い所ですが、他は―――」
 ベッド脇で交される医者と面倒見役の軍曹との会話を背後に聞きながら、悦は狸寝入りをしたまま布団を口元まで引き上げた。薄いカーテンを揺らして入り込む風は、薬品臭い布団の中にいても幾分冷たい。
 それもその筈で、今は暦の上では既に秋も終わりの頃だ。
 祖国のリラが王族と軍部士官全員の斬首によって滅んでから、3ヶ月が経過していた。
「リラの諜報部隊には特殊訓練が―――」
「日頃の練磨が過酷な状況下で―――」
 何もかも心得ているような口調で悦のことを語る軍曹は元ゴルティガ国軍の所属、医者の方はリラを少し南東に行った所にあった小国、シルヴァン共和国の出身だった。
 どちらの国も悦の記憶ではリラと同じく皇国に攻め込まれて陥落し、国政の全てを皇国軍に握られていたが、今の彼等に敗戦国の軍人と軍医という気配は無い。
 それもその筈で、今彼等が所属しているのは、リラとゴルティガの国軍の生き残りを柱に、シルヴァンなど皇国に侵略された弱小国五ヶ国の義勇軍を加えた、七国からなる『連合軍』だった。悦があの独房に幽閉されていた三ヶ月の間に、祖国を奪われた彼等は秘密裏に結託し周辺諸国から援助を募り、皇国に反旗を翻したのだと言う。
 リラとゴルティガ両国を同時侵略したことで疲弊しきっていたとはいえ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった皇国軍を、敗戦国の軍隊の寄せ集めが凌駕するなど悦にはとても信じられなかったが、現に自分はここに居る。あの独房があったのは皇国軍の南の要であった基地らしいが、そこを制圧した連合軍はその後も進行を続け、あれから一週間経った今、皇国本土の東半分を既に制圧しつつあるそうだ。
 たった七日で13の基地と補給経路3本の掌握など、連合軍のどの国の歴史にも残らない奇跡的な快進撃に違いない。相手があの皇国軍ならば尚更のことで、「まさか」と思うのはやはり悦だけでは無いらしく、連合軍中枢のその危惧の為に、捕虜となっていた悦の待遇は、個人病室に専属医という戦時の元・特務中尉には破格のものだ。
「―――ので、あと一週間もお休みになれば」
「解った。では、目が覚めたらこの書類を―――」
 今はあくまでも「回復を待つ」という姿勢だが、医者がよしと言えばその時から悦は質問攻めにあい、尋問紛いの真似をしてでも捕虜となっていた間のあらゆる記憶を引き出されることになるのだろう。今の連合軍にとってはあの男との雑談すら何にも代えがたい敵国の情報で分析材料なのだから、それも仕方の無いことだ。
 催眠療法程度で彼らが望む事を思い出せればいいが、納得出来る中身でなければ薬漬けにされるかもしれない。
「強要は出来ませんが…」
「構わん。最悪、目を通させるだけで―――」
 助け出された牢の外で正気を失うなど、笑い話にもならないなと他人事のように考えながら、悦が薄らと開いていた片目を伏せようとした時。
 申し合わせたように、病室の扉が外からノックされた。
「おや…如何しました、このような場所まで」
 擦り気味の足音とスライドの扉が開く音に続いて、応対に出た医者が驚いたような声を上げる。
 吹き込む風に掻き回された空気が運ぶ血と硝煙の匂い。軍人だ。
「ご足労頂いて申し訳ありませんが、彼はまだ-――」
「…起きてる」
 それが信条なのかこの後のことに察しがついているからか、休んでいる最中は例え相手が士官位であっても追い返してくれる医者の言葉を遮り、悦はベッドの上に身を起こした。
 いつもならばそのまま狸寝入りを決め込む所だが、今日ばかりはそうする気にならなかった。療養を理由に日がな一日寝ているのにもそろそろ飽きて来ていたし、何か予感があったのだ。
 虫の知らせとでも言うのだろうか。胸騒ぎにも似た、「会わなくては」という奇妙な感覚が。
「失礼する」
 困ったような顔で振り返った人のいい医者の傍らを通り、軽く身を屈めながら病室へと入って来たのは、ゴルティガの軍服に連合軍の腕章を着けた禿頭の巨漢だった。
 直接会ったのはこれが初めてだが、ゴルティガ国軍所属時代はリラとの国境争いの最前線にある基地の司令官で、リラの軍人ならその名と顔を知らぬ者は居ない。戦車と素手でやり合うという噂まで流れていた、仁王という男だ。
「た、大佐殿」
 怪訝そうな表情でいた軍曹が、一転して緊張した面持ちで敬礼する。確か昔は中将だった覚えがあるが、連合軍での位階は過去のそれと必ずしも一致するものではないようだ。
「ご苦労。すまぬが、少し席を外して貰えるか」
「はっ…」
「しかし…」
「療養の身であることは知っておるが、内密な話なのだ。頼む」
 無骨な外見に似合わない丁寧な物腰で目礼されては、医者も強くは出られなかったらしい。いかにも渋々といった面持ちで軍曹と共に病室を後にすると、「あまり刺激しないように」という言葉を残して扉を閉めた。
「さて……体調は如何だ」
「良いです。医者の話しでは、あと一週間もすれば復帰出来ると」
「左様か。それは良かった」
 子を持つ親のような表情で軽く頷きながら、仁王は壁際に置かれていたパイプ椅子に腰掛けた。二メートルを超す筋骨隆々とした体躯に、粗末な椅子がぎしりと悲鳴のような音を立てて軋む。
「何か、俺にお話が?」
「うむ……」
 大佐が人づてではなく直々に、しかも人払いをしてするような話しだ。早急かつ重要な内容なのだろうと本題を促すが、丸太のような腕を組んだ仁王は如何にも話し難そうに低く唸って視線を床へと落とした。
「御前には少し、辛い話やも知れぬのだ。医者御にも釘を刺されて居る」
 重々しい口調の仁王に、思わず「何を今更」と笑いそうになるのを、悦は特務部隊仕込みの無表情の下に堪えた。
 かつて忠誠を誓った王家と国家の転覆。皇国による自軍の壊滅と、自分を一人前にしてくれた教官や上官含む士官全員の処刑。辛い話など助け出された翌日から山のように聞いてきたし、刺激的と言うなら今の自分には軍服でも十分だ。
「構いません」
「…うむ」
 特務中尉という大層な階級は貰っていたが、悦の居た特務部隊における大佐位下の階級などは、割り当てることのできる任務の重要度を計る為の物差しでしか無く、その命は機密文書の一節よりも軽かった。心身の健康など議題にすら上らない。
 いくら今は優勢であるとはいえ、相手が皇国軍である限りその戦線に余裕など欠片も無い筈だ。その最中で、間諜であった自分の精神状態を何故こうも慮ろうとするのだろう。渋い顔で頷く仁王を真摯に見つめる、振りをしながら、悦は内心で首を傾げた。
 こんな命など、どうせ使い捨てだろうに。
「…御前が捕えられていた基地は、皇国の南の要と言われていた」
「はい」
「攻めるには易いが、守るに難いと言われていたあの基地が要と呼ばれた理由は、御前なら良く知る所であろう」
 知っている。“あの男”が居たからだ。
 それを警戒して通常の三倍近い兵力でもって攻め込んだ連合軍に、指揮官以下士官位は呆れるほどあっさりと防衛を諦めて逃亡し、少数精鋭で近くの森での野戦に持ち込んだと聞いている。
 他の基地まで逃げられる前に討ち取る為、弱味でも聞き出そうと言うのだろうか。本題が見えずに訝しげな顔をする悦をちらりと一瞥し、仁王は深い溜息を吐いた。
「彼の基地を要としていた男を、一昨日の夜、我が部隊が捕えた」
「…それ、は」
 再び悦に据えられた視線は、今度は反らされることは無かった。

「御前を我が祖国ゴルティガで虜囚の身とした、皇国国軍世環傑少佐だ」

 開け放たれたままの窓から吹き込む冷たい風が、ベッドの上に上半身を起こした悦の背中を撫でて行く。髪を揺らす程度のその空気の流れに押されたようにシーツの上で揺らぎそうになる体を、悦は布団の中でシーツを握り締めて堪えた。
 捕えられた?
 …あの男が?
「報告を聞いた時は、我も己が耳を疑った」
 軍服を窮屈そうに押し上げる太い腕を組み直した仁王が、軽く頷きながら言う。軍功でしかあの男を知らない仁王なら、確かに耳を疑うような事実だろう。
「…捕虜、ということは」
 だが、悦は知っている。“軍人”としてではなく、人間としてのあの男を知っている。
「む?」
「生きたまま、ということですか」
「…うむ」
 睨むような眼光で淡々と言う悦に、仁王は訝しげだった表情を引き締めながら重々しく頷いた。伏せられた瞳は、恐らくその裏で悦があの男の存命に憎しみを募らせていると予想しているのだろうが、その憂慮は的外れだ。
 悦には、あの男が命を惜しんで投降する所も、周囲を銃に囲まれて武器を手放す所も、全く想像することが出来ない。呼吸すら止めて狙いを定める兵を嘲弄するように銃に手を掛け、心臓を撃ち抜かれる姿の方がまだそれらしい。止むなく捕虜になった、等というお粗末な理由はあの男に限っては決して当てはまらない。
 驚きというよりは疑惑だった。まだ息があるなら、あの男は何でも出来るし“何でもする”。捕虜になどなって、今度は何をする気だ。
「…御前には辛い話だろうが、此処からが本題なのだ。一昨日の夜捕えられたのは実は彼奴だけでな。従う兵は僅か十人余りであった」
「決死隊、という訳ですか。本隊は?」
「それが解らぬ。恥ずべき話ではあるが、追撃しておった我が部隊はその僅か十人の兵と子供騙しの罠を、一個中隊規模の夜襲と思い込んでおってな」
 本隊を相手にしていると思わせて、その裏で基地の指揮官含む本隊を逃がしたのか。土地勘の無い森に足を取られ、思うようには進め無かったであろう追撃部隊相手に。
「明朝には制圧し世環含む三名を捕えたが、他二名は本隊の動向については全く知らされていなかった。本隊が南西の第六基地に辿りつくまでおよそ三日。あと一日ばかりしか猶予が無い」
「雑魚はそうでも、撤退のルートを世環が知らない筈が無い」
「左様。然したる負傷も無かった為、直ぐに尋問を開始したのだが、喋らんのだ。自白剤の類も全く効かん」
 それはそうだろう。間諜の経験のある者なら万が一捕虜になった際の対策として薬品や拷問には一定以上の耐性を持っているし、自害せずに捕えられたのなら、次にやることは交渉と決まっている。
「知らないと?」
「否。…昨夜までは、貴様等には喋らん、の一点張りでな」
 眉根に深く皺を寄せたままの仁王の言葉に、悦はざっと体中に鳥肌が立つのを感じた。
「情報と引き換えに、幹部との謁見を叶える為の交渉だろうと取り合わなかったのだが、時が迫っている。今朝、譲歩のつもりで誰になら喋るのかと尋ねたのだが、其処で彼奴が指名したのが」
 頬に深い憂いを含んだ仁王の視線を感じたが、悦は目を合わせることが出来ずに手元のシーツに視線を落とす。
 脳裏にフラッシュバックしたのは、あの時の。
「……御前なのだ、悦」

 出たかったのか、ここから。
 よかったな。


     *


 案内された尋問室はかつてはゴルティガ国軍のものだった基地の地下にあり、近代的に改築された地上部分とは反対に、映画のセットのように古めかしい石畳の牢獄だった。
 強引に引かれた配線と電灯がアンバランスな細い廊下を通り、表面が風化しつつある壁の中では新しく見える鉄扉の前に立つと、電子制御された扉の鍵がガコン、と重たい音を立てた。解錠の反動で僅かに開いた扉の奥は暗い。
「明かりは入って右手にあります。何かありましたら、すぐお呼び下さい」
「解った」
 ここまで案内してくれた兵士に軽く頷き、悦はそっと鉄扉に手をかけた。内開きの扉は見た目よりもずっと軽く、少し押しただけで蝶番も軋ませずに滑るように開いたその奥へ、悦は足を踏み入れる。
 電灯のスイッチはすぐに解った。悦がそれを指先で押し、天井の蛍光灯がちかちかと瞬きながら光度を上げる間に、背後で扉がモーター音を響かせながら閉まっていく。
 石畳に囲まれた正方形の尋問室には中央に椅子が一脚だけ置いてあり、その真上に一本だけある蛍光灯の明かりが頼りなく照らす南の壁面に、傑が居た。
「……」
 藍色の瞳を眩しそうに片方だけ細めた傑は、彼から見ると逆光の中に立つ悦を見上げて、血濡れの唇で笑う。
「久しぶり」
 まるで旧友に会ったように、絡む血に掠れた声で。
「ここの頭はイイ奴だな」
 答えない悦を片目で見上げて世間話でもするような口調で言いながら、傑は床に鎖で繋がれた足の膝を片方立てた。
「半日と掛けずに俺の“お願い”を聞いてくれた」
 靴を取られたその足に、爪は無い。
「腕か足の一本は覚悟してたんだぜ?…なぁ」
 反らしもせずにこちらを真っ直ぐ見上げる傑の、投げ出されたままの足は、血と泥に汚れた軍服越しにも折れているのがはっきりと解った。三か所は叩き折られているだろう。
「……お前を尋問するよう命令したのはアイツだ」
 伸ばされた足先の一歩手前で立ち止まりながら、悦は低い声で言った。腹の奥底がざわざわと騒がしい。
「それをイイ奴なんてよく言えるな。薬でイカれたんじゃねぇのか?」
「そうか?」
 軍人に似つかわしく無い美貌を血と打撲痕に汚し、藍色の瞳の片方を流れ込んだ血で潰されたまま、傑は奇妙な程に艶のある仕草で小首を傾げる。
 あの独房で見上げていたのと同じ、薄い笑みを浮かべて。
「大して酷いことはされてねぇだろ。人道的な扱いに感謝したいくらいだ」
「へぇ…」
 強がっている風でも無く言ってのける傑に、悦は小さく笑った。腹の底にわだかまる黒い靄がざわり、と強くうねる。
「…じゃあ、」
 ごつ、とわざと音を立てて傑の脚の間に立ち、悦は壁に後頭部を預けながら眩しそうに自分を見上げる傑と視線を合わせたまま、頭上に鎖で縛り上げられたその手を握った。
「っ……!」
「……これは?」
 関節を丁寧にへし折られ、歪に曲がって鬱血した、傑の手を。
「これも、“人道的な扱い”なのかよ」
「う…ぁ、…ッ」
 見せつけるように首を傾げ、抵抗と呼ぶには余りにも微かに手の中で震えた指先にじわじわと力を込める悦から、苦痛に眉を潜めた傑はそれでも視線を反らさなかった。
 暗い靄がざわざわと蠢く。藍色の瞳は呑まれそうに深く、魅入られたように悦も視線を反らすことが出来ない。
 パキリ、と手の中で折れた骨が小さく鳴った。
「…っ…」
「ッく……ふ、ははっ」
 その音に我に返り予想以上に力を入れて握っていた手を離すと、小さく息を詰めて俯いた傑が、噴き出すようにして笑った。
「……何がおかしい」
「いや……なに」
 憮然とした悦の問いかけにひとしきりくつくつと肩を震わせてから、傑はやっと俯かせていた顔を上げると、再び射抜くように真っ直ぐに悦を見上げながら、両の手首を拘束する枷をがしゃり、と揺らして見せる。
「まさかお前から手を握ってくれるなんて思ってなかったから、ちょっと驚いた」
「……」
 これは嘲弄だろうか。
 だが、苦笑混じりに首を竦めて見せる傑の表情からは、そのような意図は欠片も汲み取れなかった。得は無くともこの男ならしたいと思えば悦を揶うだろうが、それならもっと効果的な方法がいくらでもある筈だ。こんな照れ隠しのような仕草以外にも、もっと悦を容易く激昂させるやり方が。
 解らない。いくら裏をかいてもそれすら誘導された偽物のように思える。
 あの独房に居た頃からそうだ。この男は、いつも。

 ……止めよう。

「…そんなことを言う為に俺を呼び出したのか?」
 ゆっくりと瞬きをして加速しそうになる思考を中断してから、悦は呆れたように言ってくるりと傑に背を向けた。面倒見役の軍曹に借りた、着なれない連合軍の軍服が肌に纏わりつく。
「まさか」
「じゃあ、何だよ」
「何ってコトねぇだろ?お前の上官が知りたがってた事さ」
 苦笑混じりの声に重なって、がしゃりと背後で鎖が鳴る。振り返りそうになるのを堪えてそのままの体勢でいる悦の背に、傑は焦るでもなく、宥めるような口調で言った。
「地図持って来いよ。隊列の組み方まで全部話してやるから」



 悦が兵士に頼んで皇国南部の地形を詳細に記した地図を持ってくると、傑はその言葉通り、己が命を賭して逃がした筈の本隊の撤退ルートから各所における隊列の組み方まで、詳細に全てを説明した。
「二日前の二二三〇時点で負傷兵が三十七人。最低でも八人は山手前で脱落してる。水と食料は一日分を残してそこの、山間で破棄。中身は野犬に食わせて、残骸は纏めてどっかに埋めてある筈だ。今の時刻は?」
「十時半」
「なら山下ってる最中だろうな。中腹で休んで、今日の夜中に平野を突っ切る。障害物の多い山だ、叩くならそこが一番」
「……」
 言われるがままに床に広げた地図にペンを走らせ、端に傑の言葉を書きとめながら、悦はちらりとその美貌を一瞥した。
 傑が話す本隊のルートは、本来なら三日掛る道のりを二日に縮める山越えで、地図の上からでは解らない山の地形や木々の遮蔽性を最大限に利用したものだった。上層部が予想していたどのルートからも近いが的中は無く、必ずその間に川や林などの障害を挟んでいる。損害は少なく無いが、傑が言う通りなら士官クラスは必ず基地まで逃げ伸びることが出来るだろう。
 撤退戦としては完璧なルートだった。
 ……この男が話してしまわなければ。
「突っ切る時の隊列は矢印形だ。指揮官連中は矢じりの付け根の辺りに居て、前衛に重火器固めて一気に押し切る。横から攻めるなよ、尾を切られて逃げられる。足止めだけしたら、後方の遊軍がボロボロだからそっちから行け」
「包囲すれば…」
「突破されるぜ。それ想定して考えてあンだから」
「……」
「逆に言えばそれ以外には脆いんだけどな。……ん、こんなトコか」
 広げられた地図をざっと見渡し、傑はコキリと首を鳴らした。
 書き込みは図形や文字数字を含め数十に及び、白地図に近かった紙面の一部を赤く染めている。全て、悦が聞くまでもなく傑が自ら喋った情報だ。
「何か質問は?」
「…本当か?」
「こんな状況で嘘なんて吐くわけねぇだろ」
「……」
 吐きそうだから聞いたんだ。
 指や足の骨を折られ爪を剥がれたこんな状況でも、お前なら平気な顔で何の得にもならないような真似をしそうだから。
「……なんで俺に」
「その方が辻褄が合うからな。…この後、色々と」
「この後?」
 含みのある言葉にぞわりと怖気を感じて、悦は地図を畳む手を止めて傑を見上げた。壁に凭れた満身創痍の捕虜は、愉しげに笑っている。
 真偽については定かではないが、最も欲しかった情報は既に得た。情報を吐いた捕虜の末路などは、その脳にある限りの情報をあらゆる手を使って絞り出されて処刑、というのが相場だ。
 その上傑は連合軍にとって憎くて堪らない皇国軍で、人並みでは無い軍功を納めている士官位。尋問とは名ばかりの拷問で、心身共に責め抜かれて嬲り殺されるに決まっている。
 この男に限ってまさかその程度の事を予想出来ない訳では無いだろうに、“この後”とはどういう事だ。一体何を、
「何をする気だ」
「そう睨むなよ。正確な情報提供のご褒美に、いくつか“お願い”するだけだ」
「交渉の余地なんてあると思ってるのか?」
「勿論」
 事も無げに即答して見せた藍色の瞳が、悦の手の中で半分に畳まれた地図をちらりと一瞥した。
「その為に考えりゃ解ることまで全部教えたんだ。俺の言う通りに進軍してこれが全部当たってたら、上層部が俺を殺すと思うか?」
「変わンねぇよ。戦争が終わるか、お前の気が狂うまで拷問が続くだけだ」
「戦局は逐一変化するんだぜ?ココの上がよっぽどの馬鹿じゃなけりゃ、わざわざ後手には回らねぇよ。釈放してくれ、って頼むわけじゃねぇしな」
「……なら、何を」
 手の中で地図がぐしゃりと歪む音を聞きながら、悦はその場に立ち上がった。傑は文字通り指一本動かせない満身創痍で、その上四肢を鎖で拘束されているというのに、少しでも優位な場所に居ないとその瞳に呑まれそうだった。
「大したコトじゃねぇよ。俺のこの国での待遇をちょっと上げて、“管理”をお前の独占にしてくれってだけだ」
「どういうことだ」
「こんな所に居たんじゃいつか嬲り殺されンのが目に見えてるからな。お前、こっちでも軍人やる気は無いんだろ?」
 かつて所属していたリラ国軍は既に無く、今の悦の立場は連合軍に仮の籍を置いているだけに過ぎない。望まれる情報を話したら後は退役するつもりだったが、それは医者にすら話していない事だ。にも拘わらず、傑の言葉はそれが当然であるかのように迷いが無かった。
「祖国にとって不利な情報を何一つ漏らさず、敵陣で三ヶ月間、国と王への忠誠を貫いた忠臣だ。捕虜になったのも仲間を庇う為なら、退役しても“英雄”並みの待遇だろうな」
「…は?」
「有益な情報提供と軍略補助で、俺の待遇は……監禁紛いの保護観察くらいまでには持って行けるか。俺は少し前までお前を監禁してた悪役で、お前は英雄。死なない程度に私刑したいって自宅での観察役を申し出ても、反対する奴なんて一人も―――」
「っ待てよ、誰がそんな…!」
 無事な片目を伏せて後頭部を壁に預けたまま、暗唱でもするかのような口調で続く傑の言葉を、悦は思わず遮った。
 保護観察?自宅での観察役?例え傑の言う通りに要求が通ったとしても、そんなことをする気は無い。第一、自分は傑が言うような英雄などでは無いのだ。国家への忠誠どころか、この連合軍で軍法会議に掛けられてもおかしく無いようなことを、
「…あ……」
 そういうことか。
 元・特務中尉には破格の待遇。長い療養期間。考えて見れば、いくら中枢の意向があったとしても不可解だ。即軍法会議とは行かないまでも、反逆を疑われない筈が無い。
 ……悦の所業が、ありのまま伝わっていたとすれば。
「お前、が」
「余計な事は言うなよ、“英雄”」
 体勢は変えないまま、囁くように低い声で言った傑の視線が、悦を通り越してその背後に滑る。先程の悦の声を聞きつけた兵士が、扉の向こうで聞き耳を立てているのだ。
「…最初から、そのつもりで捕まったのか」
「まぁな」
 答える傑の声音は謡うようだ。
「何の為に」
「前に言わなかったか?気に入ってるんだよ、お前のことが」
「……」
「どっちにしろあの基地は落ちて皇国は滅ぶ。こっちの誰かに軍功を立てさせるなら、お前がイイって思ったんだよ。それに、」
 そこで一度言葉を区切り、傑は開いていた片目を再び伏せた。
「……俺以外じゃダメだろ、もう」
「ッ……!」
 傑の声は揶うでも嘲るでもない静かなものだったが、その一言に悦の奥底でわだかまる得体の知れない暗い靄が、音を立てて波打った。
「誰の、所為で…っ!」
 目を伏せたままの傑を睨めつけ、悦は押し殺した声で叫んだ。屈辱なのか、憎悪なのか、後悔なのか、その全てか。それすら定かではないもので目の前が赤く染まる。
「解ってる。だから、責任取ろうと思ってな」
「足の二、三本へし折るだけで、俺の気が晴れるとでも思ってるのか」
「見えない所で死ぬよりはマシだろ? 自分の手でする方が」
「…ふざけるな」
「“英雄”に仕立てたくらいで脅しになるとは俺も思ってねぇよ。甲斐性の無い真似はしたくないだけだ」
 笑ってしまう程に白々しい言葉とは裏腹に淡々とした静かな声でそう言って、傑は伏せていた片目を開く。
「まぁ、どっちにしろ“おねだり”は今夜俺の価値が証明された後だ。騙されたと思って一晩考えてみろよ」
 子供を宥めるような調子で言いながら、傑は千切れんばかりに地図を握り締める悦の眼光を易々と受け止めて、投げ出していた無事な片足を引き寄せた。
「お前のナカを滅茶苦茶にした俺を、これからどうするのか」
 呑まれそうに深い藍色の瞳は、揺らぎもせずに悦を見据えたまま。血に濡れた唇で、あの独房で見上げていたのと同じように、
「決めるのはお前だ。……悦」
 笑う。


     *


 悦が傑の居る牢から情報を持ち帰ってから二時間後に、追撃の為の増援部隊が基地を出発した。
 書き込みで赤く染まった白地図を見た仁王は目を丸くしていたが、勿論その全てを鵜呑みにはしなかった。一部でも合っていれば僥倖程度の考えで、あらかじめ予想していたルートに加えて、傑の示したルートにも対応出来るように一部の隊の配置を組み替えた。

 結果として、傑が逃がした本隊は深夜に打ち取られた。

 ルート取りから兵の装備、残弾、隊列の組み方まで、全て傑が話した通りだった。余りにも細部に至るまで的中するので、情報源を知らない兵士がこの基地には予知能力者でも居るのかと訝しむ程に。
 戦果は仁王の口から直ぐに連合軍の中枢へと伝えられ、翌日に仁王を呼びだした傑が、あの薄暗い牢で悦に話した通りの要求をしたと。今はまだ検討中だが、恐らくその要求は受け入れられるだろうということを、悦は特別待遇の個人病室で昼食後に聞いた。
 傑は一晩考えろと言ったが、冷静になってみれば考えるまでも無いことだった。
 渋面の医者を後目に己の足で仁王の元へと出向いた悦は、その場で、要求通りに条件付きの保護観察処分へと格上げされることがほぼ確定していた傑の、自宅での観察役を申し出た。
 人格者の巨漢は目を丸くしていたが、傑が言った通りに捕虜として嬲られた報復の私刑を匂わせると、悲しそうな顔でそのように中枢に推薦することを約束してくれた。
 夕暮れ時には、中枢が傑の要求を受け入れ、その観察役として悦を指名する決定が下された。同時に悦の退役が認められ、“英雄”的働きをした軍人として連合軍本部のある元ゴルティガ王都のマンションの一室が与えられ、有事の軍事協力を条件に、破格の年金が今後支給される事が約束された。
 傑の保護観察処分に付けられた条件は戦争終結までの観察役宅での軟禁だったが、その為に改造されるという窓一つ無い部屋の構造を見れば、それが中枢の方便であるのは明白だった。
 仁王がどこまで話したのかは解らないが、私刑を推奨するようなお膳立てをする辺り、皇国軍で目覚ましい功績を上げていた傑を中枢は余程嫌っているらしい。

 そして、半月後。




    *


 旧ゴルティガ王都郊外に位置する、閑静な住宅街。
 かつては王都内でも有数の一等地として知られていたそこに建つマンションの一室で、悦は二週間前に越して来て以来、リビングを除いて三つある部屋の中で唯一これまで開けたことの無かった扉を開けた。
 外側に付けられた無骨な鍵が示す通り、室内での監禁を想定して作られたその部屋の造りは、かつて悦が入れられていた独房と酷似していた。違うのは壁や床がコンクリートの打ちっぱなしであることくらいだ。
「…歩け」
 あの忌々しい独房を思い出すかと今まで入らずに居たが、中を見ても不思議な程心は平静を保っている。そのことに若干の違和感を覚えつつも、本体と同じく無骨な造りの鍵をポケットに押し込みながら、悦は傍らに立たせていた傑の肩を軽く押した。
 周囲の住民に配慮してか、先程軍から大型宅配物を模して送り届けられて来た傑の双眸は、黒い布の目隠しで覆われている。ギプスを嵌められた両手は重厚な枷で体の前で一括りにされ、片足は鉄と布で作られた器具で固定されていたが、素直に室内に入ったその背中はふらつきもしなかった。
「コンクリ?」
 部屋の中ほどまで進んだ所で立ち止まり、素足で確かめるように床を擦りながら振り返った傑には答えず、悦は足元でじゃらじゃらと音を立てていた鎖を拾い上げる。丁度室内を自由に歩き回れる程度の長さの鎖の先は、傑の無事な方の足首にある黒い枷だ。
 見えもしない癖に室内を見渡すようにゆっくりと首を巡らせている傑を後目に、悦は鎖を片手に重い扉を後ろ手に閉める。窓の無い室内の圧迫感を強調するような音は確かに聞こえた筈だが、傑は振り返りすらしなかった。
「夏は涼しそうだな」
「…あぁ」
 場違いに暢気な傑の声に短く答えながら壁際にしゃがみこみ、悦は見慣れないパーツのついた鎖の端を、壁から突き出たパイプに繋げた。傑を届けに来た兵士が言うには、このパーツは特殊な器具を使わなければ絶対に外せないらしい。鎖の反対側にある傑の足枷の鍵は、この部屋の扉や手枷の鍵と同様悦が持っている。
 これで嘗て悦をあの独房で好きなように嬲っていた傑は、悦が枷を外してやらなければ、例え足や指の骨が元通りに繋がってもこの狭い部屋から自由には出られなくなった。そして、傑がここに居ることは連合軍の中枢と一部の者しか知らず、悦が軍の要請に応じる限りは、一兵卒の一人すらここに来ることは無い。
 つまり。
 ―――ここで傑がどうなろうと、それを知るのは悦一人しか居ない。
「……」
「…ん?」
 外れなくなった鎖を乱暴に足元に投げ出し、悦はその場に立ち上がった。あの独房と酷似したこの部屋を見ても波一つ立たなかった体の奥深くが、あの牢で捕虜となった傑を初めて見た時と同じくざわざわと騒いでいる。
 鎖が繋がれる音には反応しなかった傑が振り返るが、あの藍色の瞳は薄っぺらい布きれが塞いだままだ。どれだけ勘が鋭かろうが、動物並みの反射神経を持っていようが、今の傑は悦の様子が変わったことは察知出来ても、悦がこれから何をしようとしているのかは解らない。解ったとしても対応出来ない。
 そう、例えば。
「ここだけ、壁も厚くしたらしいからな」
「…へぇ。どうりで新しそうだ」
「だろ?」
 足で軽く床を擦る傑に友人に対するように気さくに答え、そして実際ににこりと笑いながら、悦は体ごと振り返った傑の胸倉を掴んで固めた拳をその鳩尾に叩き込んだ。
「ッが…!」
 ……こんなことを、しても。
「…だから、防音も完璧なんだってよ」
 幾分か痩せた長身を折って呻く傑に穏やかな声で言いながら、悦は胸倉を掴んだ腕を振って、踏ん張りの利かない傑の体を床に転がす。想像よりずっと容易く倒れ込んだ傑は床の上で苦しそうに咳込むばかりで、枷の所為で受け身すらまともに取れていなかった。当然、抵抗など出来よう筈も無い。
「よかったな、死に場所があの牢じゃなくて、こんな立派な所で」
「げほっ…は、…ごフッ…!」
「なんとか言えよ」
 咳込む傑を見下ろして軽く首を傾げながら、悦はぎこちない動きで腹部を守ろうと動いた傑の両手を蹴り飛ばし、体重を乗せてその脇腹を踏みつけた。関節技を警戒して即座に足は引いたが、傑は無抵抗に転がっているだけだ。
「ここなら、他の奴等に嬲り殺される心配も無いし」
「は、はっ…ぐぅ…っ!」
「それは嫌だって言ってたもんな」
「ぅあ、あ゛…!」
「そうだろ?返事くらいしろよ」
 声を荒げるわけでも無様な姿を笑うでもなく、いっそ穏やかとも言える声音で声を掛けながら、悦は淡々と蹴りつけていた傑の胸倉を掴んでその体を引きずり起した。
 傑には牢の中で言われ、仁王にもそう言ったが、悦は傑のことを私刑にかけようと思って観察役を引き受けたわけではなかった。連合軍に伝わっている経歴が傑による偽造であるのが発覚するのを恐れたわけでも無い。勿論、償いをしたいという傑の言葉を信用したわけでもない。
 ただ、悦は嫌だった。
 あのまま捕虜として捕えられたままでは、傑はいずれどこかの誰かの憂さ晴らしに嬲り殺されていただろう。祖国を滅ぼす戦争の引き金を引き、自分を散々嬲った男だ。ざまあみろという気持ちが無いわけでは無かったが、ただ漠然と不愉快だった。
 今の傑は連合軍にとって必要であると同時に、軍を退いた悦は今はただの民間人だ。直接にしろ間接にしろ殺すことなど出来る筈も無いのは理解しているが、それでもこの男が、傑が、自分以外の誰かの手で殺されるのは嫌だった。この手が持つ銃に撃ち殺される以外の、結末は。
 ただ、それだけだと思っていた。きっと今もそれだけだ。
「……なぁ」
 これは、少しも己の立場を理解しているようには見えないこの虜囚に、自分の立場を解らせる為にしているだけだ。犬猫の躾と代わりない。私刑を名目にと言ったのは傑だ。この程度で非道だと責められる筋合いも無い。
「なんとか言えって」
 体の奥底のざわめきは嘘のように静まり、悦はその内心の通りに穏やかな声で言いながら、無理矢理膝立ちにさせた傑の頬を殴った。
「…ッ…!」
「ンだよ。借りて来た猫って柄じゃねぇだろ、お前は」
 声も無く後頭部から壁に叩きつけられた傑に歩み寄りながら、固めていた拳を軽く振る悦は、自分が笑っていることに気づかなかった。こんなことに暗い愉悦など感じる筈も無いからだ。これはただの“躾”なのだから。
「っぐ、…げほっ…」
「仕方ねーな…」
 さも呆れたように言いながら髪を掴み上げた傑の後頭部を壁に打ち付け、壁にもたれるようにして座っていた傑がずるずると倒れ込むのを横目にしながら、悦は器具で固定された傑の長い足を軽く、中の骨がずれない程度に加減して蹴り飛ばす。
「昼飯には早いけど何か持って来てやるよ」
「うぁ…っ!」
「何か食えば、少しは落ち着いて考えられるだろ?」
 …色々と、と低い声で付け足し、悦は床に倒れ込んだまま荒い息を吐く傑の体を軽く爪先で小突いた。傑は無抵抗に体を揺らされるだけだ。
「……」
「はっ…は……ッ」
 捕えられて約半月、牢では碌な食事も無く、いくらそれを想定して鍛えているとはいえ体力は確実に落ちているだろう。減らず口の一つも叩かずにされるがままであるのを見ると、最初のあの態度もただの強がりだったのかもしれない。
 頭を冷やす為、と称して冷水でも被せてやるつもりだったが、そう考えると途端に気が抜けた。力無く横たわる傑の体から足を退けると、悦は玩具に飽きたように傑に背を向ける。
 ポケットの中の鍵を探りながら扉へ足を向けた背後で傑が身じろぐ気配がしたが、悦は振り返りもしなかった。鍵を引き出しつつ扉の取っ手に手を掛け、そのまま部屋を出ようとする悦を、掠れた声で傑が呼び止めた。
 勿論、そんな声に応えてやる義理も必要性も無い。無視して扉を開けようとした悦に、暴行されている間は軽口の一つも叩かなかった傑は、
「…愉しかったか?」
 どこか楽しげに、そう言った。
「……なに?」
「愉しかったか?今の」
 先程までの苦鳴も喘ぐような呼吸も全て演技だったのではないかと思うほど静かな声で、傑はそう繰り返す。
 ざわり、と冷めきっていた体の奥底が波打った。
「…だったら何だよ」
 良心にでも訴えかけるつもりだろうか。自分は顔色一つ変えずにあんな真似をした癖に。立場が反転すれば善人ぶるのか。自分がそうしろと言った癖に。
「お前が言ったことだろ。今更、報復の私刑なんて非道なことは軟弱者がすることだ、とでも言うつもりか?」
「いや」
「だったら……っ」
 取っ手を握り締めたまま振り返った悦は、そこで思わず口を噤んだ。
 背中を壁に預けて座っている傑の目隠しが、ずれていた。片方だけ覗いた藍色は悦を見ておらず、自分を閉じ籠める灰色の壁を面白くも無さそうに眺めている。
「そんな、道徳の教科書みてぇなこと言うつもりはねーよ」
「……」
「見えねぇから聞いただけだ。どうだった?」
 両足を投げ出して壁を見たままの、天気でも尋ねるような気安い問いかけに、悦は軽く目を見開いた。
 どうだった?
 …“どうだったんだ”?
「…っ…」
「そうか」
 答えることが出来ずに小さく息を呑む悦に、傑は全て解っているような様子でそう呟くと、気だるげに首を巡らせて悦を見た。

「じゃあ、これでお揃いだ」

 睦言のように甘ったるい声。愉しげに細められた、呑まれそうに深い、
 藍色。
「っ……!」
 ざっと全身に怖気が走り、悦は視線から逃げるように部屋を出た。
 勢いよく引かれた重い扉が背後で地響きのような音を立てて閉まり、知らず握りしめていた鍵を鍵穴に差し込もうとするが、かちかちと震えるばかりで入らない。
 …お揃い。
 ……お揃い?
 何がだ。監禁したことが?身動きが取れないよう拘束したことが?非道な真似をしたことが?
 違う。

 “何でも”出来るという状況に、愉悦を感じていたことがだ。

「っ……」
 ガチガチと鳴るばかりで鍵穴に入っていかない鍵を握り締め、悦は分厚い扉を叩いた。いくら厚い扉とはいえ、こんなことをすれば中の傑に聞かれてしまう可能性があったが、そんなことはどうでもいい。
 考えて見ればすぐに解ることだった。今の状況はあの独房と同じだ。
 あの独房に訪れるのは傑一人だった。壁一枚隔てた向こう側に兵士が何人いようと、民間人の夫婦が平穏に暮らしていようと、中から出られず、中の様子が解らないのなら同じことだ。
 傑が悦を飼い殺しにしていたように、今の悦もまた、同じように傑を飼い殺しにしている。傑の言う通りだ。
「……」
 あの男はこれを想定していたのだろうか。その為に捕虜に身を落とし、祖国を、軍を売り渡したのだろうか。今やっていることは“お揃い”だと、俺とお前は所詮同じなのだと、自分に思い知らせる為に。思い知らせて何になるというのだ。あの男に崩されつつあった自分の精神を崩壊させて、傀儡にでもするつもりなのか。何の為に。売り渡した皇国軍の為に?それとも征服した国々に反旗を翻されて滅ぼされつつある祖国の為に?あの男なら一時の戯れという可能性も有り得る。自分がこうして混乱する様を見て愉しみたかったのか。その為だけに全てを売ったのか?
 解らない。あの独房に居た時からそうだ、あの男の考えていることなんて解った試しが無い。
「…お揃い」
 ……ああ、そうか。これもか。
 指が白く成る程鍵を握り締めたまま、悦はいつの間にか伏せていた瑠璃色の瞳を開いて目の前の分厚い扉を見上げた。
 傑は悦が居ないとこの部屋からは一歩たりとも出られないが、悦も傑が居る限りどこにも行けない。祖国も自軍も滅んでしまった今、こうしてここで生きる以外に方法が無い。この分厚い扉を挟んであちら側か、こちら側か。それだけの違いだ。
「…ははっ」
 手の中から落ちていく鍵を拾い上げる事も無く、悦は冷たい扉に額を押し当てて小さく笑った。解ってしまえば滑稽なことだ。内側か、外側か。それ以外は何一つ変わっていない。ただ鏡合わせのように反転しただけだった。
 他はあの時と同じだ。独房から出て、半月が経った今でも。

 …逃げられない。



    *


 向こう側からドン、と一度叩かれた扉を眺めていた傑は、しばらくして足音がその前から遠ざかって行くのを聞いて小さく笑い、じゃらじゃらと鎖が伸びる足を引き寄せた。
 悦が想像した通り、捕虜として牢に入れられている間、傑にはまともな食事など出ていなかった。体力と共に筋肉も落ちている為、悦に殴られ蹴られた体はじっと座っているだけでも各所が鈍く痛んでいたが、そんなことは傑にとって外界で行われている戦争の行く末と同じくどうでもいいことだ。
 しばらく会わない内に連合軍とやらの連中に何か要らぬことを吹き込まれているかもしれないと思っていたが、それは杞憂だったようだ。外側は変わっても、中身は何も変わっていない。握り潰してしまいそうに成る程、綺麗で脆い所はそのままだった。
 舞台はこれ以上無い程に整っている。後は時間を掛けてゆっくり崩してやるだけだ。
「…さてと」
 食事がどうのこうのと言っていたが、きっとあの扉は明日になるまで開かないだろう。悦が居なければ特にすることも無い。
「…ん…」
 天井で光ったままの照明に軽く目を細めながら引っ掛かったままの目隠しを取り、その場に横になろうとした傑は、そこでようやく気がついたように自由に動かない自分の両手首を見下ろした。
 不自由であるのも当然で、そこには黒い枷が血流を妨げないギリギリのきつさで嵌められている。
「……」
 視界の端に入った鎖を辿って足首を見ると、そこにも同様の枷が嵌まっていた。鎖の反対側は壁から突き出た太いパイプに繋がれていて、専用の工具でも使わなければ外せそうにない。
 それ等の拘束具をしばらく眺め、目算で計った鎖の長さがこの部屋の中を歩ける程度であるのを確認してようやく、傑は今の自分ではどうやってもこの部屋からは出られないと納得した。大概の枷なら外せる自信があるが、これでは両手が治ってもまず無理だ。
 悦が枷を外してくれない限りは。
「…ふーん」
 つまり、今この命は悦の掌の上。生かすも殺すも悦の自由で、あの扉が開かない限り、傑には文字通り手も足も出せないということだ。
 そんな自分の境遇を現実として実感し、不安にかられる訳でも恐怖するでもなく、どこか気の無い声を漏らした傑は、再び手首の枷に視線を落としながら愉しそうに笑った。
「悪くねぇな」

 その日、扉は開かなかった。



   *


 傑が来てから一週間後の正午。自分と傑に与える為に食事を作ったものの、食べる気にならずにリビングのソファで転寝をしていた悦の元に、軍からの通信が入った。
 皇国本土にある、周囲を山と湖に囲まれた天然の要塞を制圧する為に、傑の助力が欲しいと言う。抜け道や補給経路など要塞内部のことから、配備されている兵士や指揮官以下士官の人間関係まで、解る限りの情報を開示せよとのお達しだ。
 情報提供の際は必ず観察役である悦を通すことを、傑は自分の待遇向上よりも強く中枢に求めていたから、近くこうした連絡が来るのは予想出来ていたが、悦は正直気が進まなかった。
「……」
 温めなおした昼食と、軍から送られて来た書類を乗せたプレートを片手に分厚い扉の前に立ち、悦は一度深く息を吸い込む。
 内と外で入れ換わっただけの現状には傑が来たその日に理解させられたが、多少の衝撃は伴ったものの、それについては悦は直ぐに受け入れることが出来ていた。考えた所でどうにもならないので、仕方ないと諦める他無かったと言うのが正しいが。
 それでも、あの藍色からは逃げることが出来ないと諦めてしまってからも、悦は傑と顔を突き合わせて喋ることに異様な体の奥底のざわめきを覚えるのだ。嫌悪感とも恐怖とも違うその説明出来ない感覚が、この扉を開く度に、体の柔らかな部分を掻き乱していく。
「…よし」
 深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出してしまってから更に一呼吸置いて、悦はようやく重い扉を開いた。気は進まないが、これが今の自分の仕事だ。
「起きてるか?」
「…ん…」
 扉の外側にある照明のスイッチを押しながら部屋に入ると、傑は拘束された自分の腕を枕に、見た目にも寒々しいコンクリートの床の上で横になっていた。文句一つ言わないので忘れていたが、そう言えば毛布の一枚も与えていない。
「飯。あと、軍が情報を欲しがってる」
「んー…」
 傍らの床にプレートを置きながら声を掛けると、傑はようやく眩しそうに目を開いて上半身を起こした。興味無さそうにプレートの上を一瞥し、そこに載った書類を持ち上げながらふぁ、と欠伸をしているその姿は、とてもじゃないが枷を嵌められて監禁されている身だとは思えない。
「第二十四基地…が、なに?」
「そこを制圧する為の情報が欲しいらしい。書いてあるだろ?」
「あぁ…」
 まだ寝ぼけているのかやる気の無い声を漏らしながら、傑はギプスの着いた手で器用に床に置いた書類をぱらぱらと捲ると、寝乱れて目元にかかる髪を一度くしゃりとかき上げた。
「正面から突っ込んでも平気なんじゃねぇかな。硬いのは外側だけだし」
「そうなのか?」
「今はな。一週間前なら中身もガッチガチだったけど」
 どうでも良さそうに言いながら、傑はそれきり書類には興味を失ってしまったようにプレートの上の食事に向き直った。
「どういうことだよ」
「そこの指揮してた大佐、多分もういない」
「いない?」
「直属の兵も一緒にな。ここに手が届くってことは、連合軍の侵攻は順調なんだろ?」
 手が不自由な者でも扱えるよう加工されたスプーンを使ってトマトベースのスープを掬いながら、傑はちらりと床に広げられたままの書類を一瞥した。
「そこにも第五十六基地制圧、って書いてあるし。今頃はもっと本部と皇王に近い場所に移されてる。…お前ホントに料理上手いな」
「そ、…そんなこと聞いて無い」
 気だるげだった表情をふと真顔にして視線を合わせてきた傑から咄嗟に目を反らしながら、悦は拾い上げた書類をパン、と軽く叩いた。
「中枢が納得するような根拠は?」
「ここまで攻め込まれたら流石に上も焦って、地方に散らせてた腕の立つ連中を集め出すだろ」
「それで、その大佐も?」
「守らせた時の強さは折り紙つきだからな。保身に一生懸命な中央の貴族共がこぞって指名したと思うぜ?上も、あそこは基地の造りが硬いから適当な士官置いとけば大丈夫だろーって考える」
「実際は違うのか」
「ウチの上は部下の欠点は見えても、イイ所は半分しか見えねぇからな」
 他人事のようにかつて自分が所属していた軍の上層部を笑いながら、傑はいつの間にか半分以下になっていたスープの皿を持ち上げると、残りを一息に飲み干した。
「どんないい道具でも使いこなせないんじゃ意味ねぇだろ?後は土台引っこ抜くだけだ」
 皿を置いた手でパンを持ち上げて咥えながら、傑はちらりと悦の胸にあるペンを一瞥する。視線に気づいた悦がペンを取ると、傑はパンを齧りながら、堅固な要塞の“土台”を突き崩すに足る地形や構造的な弱点を次々に上げた。
「こんな感じ。裏を取るのはあっちの仕事だ」
「解った」
 コップの水を飲み干した傑に頷き、悦は裏面が走り書きに染まった書類をプレートの上に戻す。後はこれを送り返して原本の書類を破棄すれば、悦の仕事は終わりだ。
「…なぁ」
 する事が済んでしまえばもうここに居る必要も無い。綺麗に空になった皿と、書類の乗ったプレートを持って部屋を出ようとした悦を、床に足を投げ出して座ったままの傑が呼び止めた。
「なんだよ」
「もう一月以上経つな」
「は?……っ」
 聞き返してから傑の言葉の意味に気付き、悦は危うく取り落としそうになったプレートを持ち直す。思わず振り返った傑は、そんな悦をいつも通り、気だるげに見上げていた。
「…何がだよ」
 仕事だからと自我を殺していた筈の体の奥底が、その藍色の瞳とまともに視線を合わせた途端にざわざわと波打ち始める。反らしてしまいたくなるのを堪えて内心のざわつきを出さないよう無表情に見返してやると、傑は軽く首を傾げて、あの妙に艶のある薄い笑みを浮かべた。
「ここの防音は完璧なんだろ?」
「……また殴って欲しいのか?」
「いや。お前にサドの気があるならそれでもイイけどな」
 音を立ててプレートを置き、拳を固めた悦を表情一つ変えずに見上げながら、傑は見せつけるように両手に嵌まった拘束具を軽く鳴らす。
「安心しろよ。この通り抵抗なんて出来ねぇから」
 ……あぁ、またこの声だ。
 説き伏せるようで、宥めるようで、誘うような甘い声が、囁いて。
「殴られても、」
 悦の体の奥深く、柔らかな所を。
「…それ以外でも」
 突き崩す。



「あっ…は、ぁ…!」
 柔らかい舌で濡らされた先端を暖かい口内に呑み込まれ、悦は思わず膝立ちになった自分の下半身に顔を埋める傑の肩に手を突いた。
「んんっ…ふぁ、あ…ッっ」
 舌で裏筋を刺激しながら半ばまでゆっくりと出し入れされただけで、冷たいコンクリートの上についた膝が震える。気を抜けば直ぐに頭の中が真っ白になってしまいそうで、悦は力の入らない手で傑の肩に爪を立てた。
 三ヶ月もの間、昼夜問わず気を失う程の快感に溺れていた体が、環境が変わったからと言って急に貞淑になれる筈も無い。酷い時は一晩中火照りが収まらず、睡眠薬を使わなければ眠れなかったが、それでも悦はあの独房を出てから今日まで、普通の自慰すら一度もしていなかった。
 体以上に、あんな風に嬲られていた直後では精神的にそんな気持ちになれない、というのは自分の為に用意した建て前だった。決して認めたくは無かったが、確信があったのだ。
 例え何度自らの手で慰めた所で、この火照りが解消されることは無いという、確信が。
「はぁ…んっぅ…ぁ、あ…ッ」
「…随分溜まってンな」
「っひ、…しゃべ…んな…っ!」
 裏筋に押し当てられたままの唇から声すら耐えがたい振動として伝わり、悦は咄嗟に傑の頭を押し退けた。自分でも解るほど力が入っていなかったが、傑は押されるまま素直に顔を離すと、濡れた唇を扇情的に舐め上げながら薄いが硬いギプスの嵌まった手でとん、と悦の足を叩く。
「キツかったら座れよ。この手じゃ支えらんねぇから」
「っ余計な、…あッ!」
 数分もしない内に膝が立たなく成る程感じてしまっているのを見透かされ、顔が熱くなるのを感じながら悦は声を荒げようとするが、かぷりと濡れた唇でカリを食まれては最後まで言葉にならず、傑の髪を縋るように握り締めてしまった。
 あの時と同じくいいように翻弄されている、と心の片隅が警鐘を鳴らしていたが、巧みに動く舌先に知り尽くされた敏感な所を擽られる度に、その警鐘に耳を傾ける余裕が削り取られて行く。
「はぁっあ…ん、ぁう…っッ」
 傑の髪を掴んだ手に知らず力が籠る。先端から零れる先走りを舌先に掬い取られるのがただ気持ち良くて、イくには足りないその刺激がもどかしくて、もうそれ以外の事など考えられなかった。
「っあぁ…も、っと…ッ」
「んぁ?」
「お、奥…まで…!」
「…ん」
 強請るように傑の髪を掻き乱しながら今にも座りこんでしまいそうに膝を震わせる悦は、頷く代わりに小さく声を漏らした傑が、愉しげにその瞳を細めたことに気付かなかった。
「ひぁ…あっ…ぁあぁ…ッ!」
 ずるり、と根元まで咥え込まれたモノを強弱をつけてしゃぶられ、追い打ちのようにストロークの合間に敏感な粘膜を擽られて、背筋を駆け上がる痛い程の愉悦に目の前がくらりと揺れる。
「は、はぁっ…ぁ、あっ…あぁああッ…!」
 地面が無くなったような浮遊感と共に目の前が白く弾け、思わずぎゅっと目を瞑りながら悦は傑の口内に熱を吐き出した。
「はぁ…は…っ」
 久しぶりの射精だからか、それとも傑の舌戯が巧みだったからか、ともすればそのまま座りこんでしまいそうになるのを堪えて髪から手を離すと、ちらりと上目遣いでこちらを一瞥した傑が、最後の一滴まで吸い出すように緩く咥えていた悦のモノから唇を離す。
 ごくり、と喉を鳴らしながら。
「あ…っ」
 その音に悦は思わず小さな声を漏らしたが、傑は精液を飲まされたことを気にした風も無く服の袖で口元を拭うと、骨折した足を引きずりながら一歩分、後ろに下がった。
「少しか楽になったか?」
 投げ出していた足を片方膝立て、その上に腕を乗せながらそう言う傑は、いつも通りの表情をしている。
 かつては自分がしていたことをさせられたのに、それを何とも思っていないようだった。今はお前が“そっち側”なんだから好きなようにすればいいと、気兼ねなく道具扱いすればいいと傑は自分で言っていたが、他でも無い悦に、かつて自分が好きなように扱っていた虜囚にその通りにされて、この男は本当に何も感じていないのだろうか。
「…まだ足りない?」
「いや……もう」
 覗うように軽く首を傾げて見せた傑に、悦はゆっくりと首を横に振った。
 傑には嫌悪感しか無い筈なのに、悦が頷けば行為を再開しそうな口ぶりだ。屈辱的だとは思わないのだろうか。いくら今は自分が虜囚とはいえ、ほんのひと月の間に逆転しまった立場を、そんなにも簡単に。
「…もう、いい」
 受け入れられる、ものなのか。
 そうか、と軽く頷いて悦が乱した髪をかき上げる傑には、平常心を装っているような素振りは欠片も見られない。寛げていたジーンズを簡単に直しながら、悦はさっと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 動揺しているのは。受け入れられないのは、自分だけなのか。
「なんて顔してンだよ」
「…煩い」
 揶うように笑う傑の顔を見ることが出来ずに俯いたまま、悦はその場に立ち上がった。
 違う。こんなのは違う筈だ。受け入れられなくて当然だ。おかしいのは傑の方なのだから。おかしいのは平気な顔で全てを受け入れてしまっている傑だけで、自分は。

 ……どうせ、逃げられないのに。

「…っ…」
 背後で重い扉が閉まる音に、囁く様な誰かの声が重なった。


    *


 世環傑という男は、今まで何事にも執着というものを持ったことが無かった。
 道ですれ違えば十人中十人がすれ違うような美貌に加え、どんなことでも十人並みより上を行く器用さを持っていた傑にとって、現実は呆れるほどに簡単で退屈だった。そう願えば何でも手に入るのだから、執着など持てる筈も無い。人も物も同じく、傑にとっては退屈だった。
 結果として、その退屈は死地にあっても冷静に動ける軍人としては完璧な精神を造り上げ、何の後ろ盾も無い孤児としては奇跡に近い程の昇級と功績を生んだが、権力にも名声にも執着の無い傑にはどうでもいい事だった。
 傍目には飛ぶ鳥を落とす勢いで進軍する皇国軍の限界に、傑は半年以上前には気がついていた。いずれ滅びるのが内部に居ると手に取るように解ったが、だからと言って何をする気も無かった。いつも通り適当に働き、頃合いを見て戦場で死ぬのもいいと、自分の命にさえ何の執着も持たない傑はそう考えていたのだ。

 それを過去形にしたのは悦だ。

 近く死に場所になる戦地に赴くまでの暇つぶしにと、連れ帰った時はそう考えていた筈が、傍に居れば居る程に面白くて堪らなくなった。与える快感に容易く溺れる癖に幾度となく反抗的に睨みつけて来る所や、いくら汚しても綺麗なままでいようともがく様が、どうしようもなく傑の心を引きつけたのだ。
 愛も憎悪も所詮は同じだ。どちらも執着を飾り立てる為の言葉でしか無いことを、傑は知っている。
 悦が憎悪という形で自分に執着しているなら、あのままでもいいと思っていた。油断した隙に首でもかっ切られて死ぬのも、傀儡のようになった悦を死ぬまで飼い殺すのも、どちらも結末としては上等だ。
 だが、悦はあの独房から出たいと言った。
 出た所で売国奴と罵られ、飢えた兵士共の慰み物にされるだけだと言うのに、それでも出たいと言ったのだ。
 傑自信は誰にも執着を抱いた事は無かったが、常に容姿や能力を理由に他人から執着されて来た傑にとって、悦の反応は初めての事だった。抱かれていると思っていた憎しみすら、脱出の為なら自分を撃ち殺さない程度の生温いものだと言うのだから、全く思い違いもいい所だ。
 そのことが更に傑の中の執着を強くさせたが、他でもない悦が出たいと、自分に飼い殺されるのは嫌だと言うのなら仕方ない。
 だから、ひっくり返してやった。
 扉を挟んであちら側と、こちら側。飼う方と、飼われる方を。
 その代償として傑は皇国軍で積み上げて来た今までの全てを失い、虜囚として拷問を受け、枷に自由を奪われた。
 勿論、他に方法が無かった訳ではない。傑自身にとってだけでなく、悦にとってももっと良い方法が、互いが互いを無条件に想い合うような、そんな笑ってしまうほど幸せな関係を築ける方法もあったのかもしれないが、それは今の二人には無理だと傑は解っていた。互いに何かを崩さなければいけない。
 傑にとってそれは自由だった。決して安い代償ではなかったが、構わなかった。

 一番欲しいものが手に入れば、それで。




「…なんだ」
 足首から伸びる鎖を足先でじゃらりと弄びながら、壁に背を預けて座る傑は、窓一つ無い暗い部屋の天井を見上げた。

「結構一途だったんだな、俺」

 “自由”を奪う鎖を、じゃらりじゃらりと弄びながら。
 己の執着の為に悦の“価値観”を崩そうとしている男は、誰よりもその異常性を理解した上で、愉しげに自らを嘲笑う。


   *


 バキン、と甲高い音を立てて、薄く硬いギプスが割れる。
 傑の親指以外の指を纏めて固定しているギプスは丁度、薄手のグローブのような形をしていた。まともに壊そうとすれば金槌が必要になるが、掌から親指の付け根まで切り込みさえ入れてしまえば、後は楽に外すことが出来る。
 ♪~♪…♪♪~♪
 専用の器具など勿論無い為、ペンチで半ば無理矢理ギプスに切り込みを入れて行く悦の背後では、暇つぶしにと請われて持って来たラジオがゆったりとしたバラードを流していた。傍らに居る傑はギプスの中にペンチを捻じ込まれても文句も言わず、目を伏せてそれを聞いている。

 ―――傑をこの部屋で監禁してから、もう二ヶ月以上が経っていた。

「指、動かすなよ」
「はいよ」
 目を伏せたままの傑に一応釘を刺してから、悦はペンチの代わりに指を入れてぐっと切り込みを入れた場所を広げると、指を覆っていた部分を引き抜いた。
「へー…綺麗に外れるモンだな」
「ばッ…急に動かすなよ!」
「へ?」
 他人事のように言いながらいきなり動きを確かめるように指先を曲げた傑に、悦は思わず声を荒げるが、当の傑はきょとんとした顔をしている。どうやら痛みは無いようだが、きちんと繋がっていなかったらどうするつもりだ。
「…また折れても知らねぇからな」
 性懲りも無く指を曲げ伸ばししている傑を睨みつけ、悦は同じように切り込みを入れていた左手のギプスを、さっきよりも少し乱暴に引き抜いた。どこかに引っかかったのか傑が小さくいてて、と言っていたが、知ったことか。
「なんか…すっげぇ涼しい」
「そりゃ良かったな」
 真面目な顔で当たり前のことを言う傑に素っ気なく答えながら、悦は外したギプスをプレートの上に乗った空の皿の上に放り込んだ。
 悦の危惧を余所に、傑の指は両手の五指共に綺麗に繋がったようだった。痛みがあるようなら最悪今外したギプスをそのまま嵌め直すつもりだったが、曲げ伸ばしされる指はどれも滑らかに動いている。
「なぁ、」
「っ…な、んだよ」
 不意にかけられた声に小さく肩を跳ねさせながら、悦は知らずの内に見つめてしまっていた傑の掌から視線を上げた。無残にへし折られていたのが嘘のように元通りになった指の造詣と同じく、非の打ちどころの無い完璧な美貌と至近距離で目が合う。
「シャワー浴びたい」
「あ、…あぁ」
 そう言えば今日はバスルームを使わせてやる約束の日だ。一拍遅れてそのことを思い出し、悦は咄嗟に何を言われるのかと身構えていた体から力を抜くと、傑の片足首に嵌められた枷から伸びる鎖を持ち上げた。
 両手を覆うギプスや片足を固定する器具が外れても、傑の自由を奪う拘束はまだ幾重にも残っている。両手首と片足に嵌まった枷と鎖、そして分厚い扉と無骨な鍵の厳重さは折り紙つきだ。
 勿論そのことは悦も十分に理解していたが、もしものことが無いよう注意する、と言うには行き過ぎた鋭敏さで、未だに意識よりも体が先に反応してしまう。
 傑の一挙一動、というよりは、あの声の一音一音に。
「ほら」
「ん、」
 ガチリ、と硬い音を立てて足枷から外れた鎖を床に投げ出しながら、悦は“鎖を外してからは勝手に動くな”という言いつけ通りに、指一本動かさずに居た傑を立ち上がらせた。
「……」
 いつも通り、先に立って部屋を出た傑の後に着いてバスルームに向かいながら、悦は傑の後頭部と肩から視線を外さずに袖口に忍ばせたナイフの感触を確める。二日に一度のペースで、もう癖になる程繰り返したいつも通りの確認だ。
「今日は自分で全部洗えよ」
 そしていつも通りそのナイフを一度も使わないまま辿りついた脱衣所で、服を脱ぐ為に外してやった手枷をバスタオルの上に投げ出しながら、悦は恥ずかしげも無く自分の目の前で服を脱ぐ傑に言った。今まではギプスがあったのである程度悦が手伝っていたが、今日からはもうその必要も無い。
「そんだけ動くなら問題ねぇだろ。終わったら呼べ」
「シャンプーどっちだっけ」
「青い方」
 りょーかい、とやる気の無い声で答える傑を横目にしながら、悦はちらりと壁の時計を一瞥した。四時二十分。
 バスタブに浸かったとしても三十分もあれば終わるだろう。待っている間、夕飯の支度でもしておくかと考えていた悦を、不意にバスルームに入った傑が肩越しに振り返る。
「……覗くなよ?」
「逆上せろ馬鹿」
 軽くシナを作って見せる傑に冷ややかに言い、悦は勢いよくバスルームの扉を閉めた。



 瞼の裏に刺すような光を感じ、悦はソファの上で目を覚ました。
「ん…」
 必要最低限のものしか無い殺風景な部屋が、広い窓から差し込む西日で真っ赤に染まっている。一通りの下ごしらえを終えて一息吐くつもりが、どうやら転寝をしてしまったようだ。
 何気なく見上げた時計が示す時刻は、五時十分。
「…あいつ…」
 転寝する程に気を抜いていても、元々眠りの浅い自分がバスルームからの声に気付かぬ筈が無い。もう一時間近く経っているが、まだ傑はシャワーを浴びているのだろうか。
「……」
 内心で女じゃあるまいし、と呟きながら、悦は億劫そうにソファから立ち上がった。別にシャワーくらい自由に浴びさせてやってもいいのだが、これ以上長湯されるとせっかくいい出来に仕上がったポトフが煮詰まってしまう。
 バスタブに浸かっているんだろうという悦の予想に反して、バスルームの扉の奥からはざあざあというシャワーの音がしていた。
「そろそろ出て来いよ」
 棚の上に乗った手枷を拾い上げながら声を掛けるが、傑の返事は無い。
「…もう十分温まっただろ」
 聞こえなかったのかと再度呼びかけるが、シャワーが淡々と流れる音が響くばかりで、やはり返事は無い。
 まさか本当に逆上せたのだろうか。ざあざあと単調に流れるシャワーの水音が急に不安になり、悦はスライド式のバスルームの扉に手を掛けた。
「おい、大丈夫…」
 一気に扉を開いた瞬間、悦は傑が本当に逆上せたのだと思った。湯気で白く霞むバスルームの中で、傑はシャワーを出しっぱなしにしたまま、壁に背を預けて床に座り込んでいたからだ。
 だが、湯気に混じる独特の匂いと傑の綺麗な形をした指に絡むモノが、その予想が間違いであったことを直ぐに悦に気付かせてくれた。
「…、…」
「……よぉ」
 扉を開けた体勢のまま固まった悦を、流れ続けるシャワーに片膝を濡らした傑が気だるげに見上げる。
 寝起きとは明らかに違う理由で掠れた声に呼び掛けられ、傑が億劫そうに立ち上がっても、悦は動くことが出来なかった。
 濡れて色の濃くなった髪から滴った水が汗のように整った頬を流れ、床に落ちてそこに散った白濁色の残滓を薄めて行くのから目が反らせずに居る悦の手を、冷たい水に濡れた傑の手が包みこむようにして扉から外した。
 蒸気の所為かいつもよりも赤い唇が、悦よりも拳一つ分高い位置で、ゆるりと笑う。

「覗くなって言っただろ。…えっち」

 パタン。
 音を立てて、扉が閉まった。


      ※


 断続的にタイルを叩く水音が、狭いバスルームの中で耳鳴りのように反響する。
 温度を上げたシャワーを壁に両手をついて頭から浴びながら、悦はゆっくりと息を吐いた。水音以上に、早まった自分の鼓動の音が煩い。
「……」
 傑がここに来てから二ヶ月以上、捕虜として牢に入れられていた時から数えればもう三ヶ月だ。それだけの間、手首の枷だけでなく掌までギプスで自由を奪われていたのだから、自由になって一人きりであれば自慰くらいするだろう。
 現に、扉を閉めてから三分ほどでタイルと自分の体を綺麗に洗い流して出て来た傑は平然としていた。いくら囚われの身であるとはいえ、扉を閉めずにいたのは男としてマナー違反だったと悦が後で謝罪しても、別に、と笑うだけで。
 きっと、それが普通なのだ。
 傑の方が正しいのだと、頭では解っているのに。
「っ…なんだってんだよ」
 低く唸るような声で言いながら、悦はバン、と濡れたタイルを叩いた。
 あの時。すぐそこの床に座り込んで気だるげにこちらを見上げた傑と目が合ったその瞬間から、早まった鼓動が収まらない。
 ひと月半前に傑の口内で達して以来、悦は傑に性的な行為を求めたことは無かった。傑の方も悦を促したり誘うようなことは無かったが、思えばその言動に必要以上に機敏に反応するようになったのはそれからだ。
 一人では自由にシャワーも浴びることが出来ない傑に、あの独房に居た頃のように襲われることを、警戒していたわけでは無い。警戒していたのは、怖かったのは、呑まれそうに深い藍色の瞳よりも唇だった。
 あの赤い唇が紡ぐ、少し低くて甘い声を拒絶出来る自信が、無かった。
「は…ぁ…っ」
 壁についた片手を滑らせながら、悦はその場に座りこんだ。髪を伝う水に目を伏せたまま、冷たい壁に冷やされた指先を下肢へと伸ばす。
 熱いシャワーに温められた体以上に熱を持ち、既に先端を濡らしているそこを緩く扱きながら、悦はそれだけでびりびりと下半身を痺れさせる快感に形のいい眉を悩ましげに潜めた。
「ん、んっ…ふ、…!」
 まるで耳元で脈打っているかのように、鼓動の音が煩い。伏せた瞼の裏でちかちかと白いものが瞬くのを感じながら、悦はふと、あの独房でもこうして自慰をさせられていたことを思い出した。
 根元を戒められたままの裏筋に自分でローターを押し当てて、それに耐えることを強要されたり。微かに振動するバイブを相手に何時間も生殺しのまま悶えさせられた挙句、全てを晒すような酷い格好で自慰をさせられたこともあった。自重を支える力も無くなった体を後ろから貫かれたまま、泣きじゃくりながら首を横に振っても許されず、添えられた手にもう出すものが無くなったモノを強引に扱かされて。
 ―――一番好きなのはソコじゃねぇだろ?
 ―――手加減するなよ、解るから。
「ッ…ぁ、あ…あぁっ…!」
 今囁かれたように脳内で鮮やかに蘇った声にどくり、と一際強く心臓が脈打った瞬間。どろりと手を濡らした生温かい感触に、悦は知らず壁に爪を立てていた手をずるりと力無く床に落とした。
 指先が引っ掛かったシャンプーのボトルが倒れる音が、ざあざあと流れるシャワーの音に掻き消されて行く。
「はっ…はぁ…ッ」
 足元に転がって来たボトルを直しもせず、悦はじんわりと感覚の鈍い手でバスタブの縁を掴むと、それに縋るようにしてその場に膝立ちになった。腰を掠めるようにして降り注ぐシャワーの水すら刺激となって、過敏になった肌がぞくぞくと粟立つ。
 ……足りない。
「は、…っくぅ、ん…ッ」
 止まりそうになる呼吸を出来る限りゆっくりと繰り返しながら、自分の精液を擦りつけるように指を滑らせた後腔に爪先を埋める。締めつけてしまいそうになるのを堪えながら、悦は震える指先で傑に嫌というほど突かれ、擦り上げられた場所を探した。
 薬を使わなければ眠れないほど体が疼いても女も連れ込まず、自慰すらせずにいたのは、普通に射精するだけではその疼きが解消されないと解っていたからだ。独房から出てあの声に強要されることが無くなっても、内側での快感を教え込まれた体はきっと貪欲にその快感を求めてしまう。それに流されてしまうのが、傑に変えられてしまったことを認めるのが怖かった。
 でも。

 もう、どうでもいい。

「ふぁ…あ……ッひぁ…!」
 そろそろと内壁を探っていた指先がある箇所を掠めた瞬間、爪先まで震えるような快感が背筋を駆け抜け、悦はバスタブの縁を握った片手にぎゅっと力を込めた。
「あっぁ、あぁあッ…ん、んぁ…っ!」
 白く湯気で霞んだバスルームに、あの独房で上げていたのと同じ、耳を塞ぎたくなるほど甘ったるい自分の嬌声が反響する。
 毎日のように太くて硬いモノに突かれてその快感を知る体が、細い悦の指一本で満足出来る筈も無かった。水音を立てながら出し入れする指を二本に増やし、すぐにそれでも足りなくなって絡みつく内壁を押し広げるようにして指を曲げ、自らを責め立てながら、悦はぎゅっと瞑っていた瞳を薄らと開く。
 脳裏によぎるのは、あの独房のことばかりだった。
 白い部屋の片隅に置かれた薄いマットレスの上で、粗末な椅子の上で、あの膝の上で、何も考えられなくなる程の快感に溺れさせられていた記憶が、昨日のことのように鮮やかに蘇る。
 悦には想像もつかないような愉悦を与える長い指。耳元で囁かれる少し低くて甘い声。痛いほどの快感に溺れる悦を見つめて嗜虐的に笑う、深い藍色の瞳。
「はぁ、あッ…あ、ふぁ…あぁああっ…!」
 忌まわしくて屈辱的で、今すぐにでも忘れてしまいたい筈の記憶を思い出す度に、背筋を這い上がる快感が強くなる気がした。だが三本に増やした指で絡みつく内壁をいくら擦りあげても、拙い自分の愛撫では満ち足りるどころか体の疼きは酷くなるばかりで、焦燥感にも似たその感覚がどんどん鼓動を早めて行く。
 ……あの甘い声に流されてしまうのが怖いとか、あの指先に作りかえられてしまったことを認めるのが怖いとか、もうそんなことはどうでもよかった。
 いくら頭で否定してみても、忘れたい筈の忌まわしい記憶に煽られた体は熱を上げ、柔らかい内壁を苛む自分の指に瞳を潤ませている。行為そのものにトラウマを覚えてもおかしくない筈なのに、指先まで痺れさせる快感は思考が止まる程だ。
 現実としてこうなのだから、否定してみた所で仕方が無い。辛かったのは受け入れたくないと目を反らし続けていたからだ。だから傑は最初から何からも目を反らさず、全て受け入れていた。
 気付いてみれば笑ってしまうほど簡単なことだった。
 ここには傑と悦以外誰も居ない。与えられた役目をこなしさえすれば、例え悦が傑を半死半生の状態で飼い殺そうと、枷と鎖を外して組み敷かれようと、手出しする者も咎める者も居ない。
 今更、受け入れたくないともがいた所で何になる。あっているかも解らない“常識”とやらに囚われて本心を押し殺した所で、それは自己満足すら産まなかった。こんな葛藤に最初から意味など無い。
 だから、もっと早くに受け入れてしまえば良かったのだ。

 ……どうせ、逃げられないんだから。




 四方をコンクリートに固められた窓一つ無い部屋の中で、少し前に悦が持って来てやったラジオから流れる音楽に合わせてのんびり鼻歌を歌っていた傑は、髪も乾かしていない悦がいきなり部屋に入って来ても、そのラジオを壁に蹴り飛ばして強引に音楽を消しても、何も言わなかった。
「……いいのかよ、アレ」
「……」
 悦が乱暴に腕を引き寄せ、両手首を拘束する手枷に鍵を差し込んだ所で、開け放たれたままの扉を一瞥しながらようやく傑はそう言ったが、悦は何も答えずに外した手枷を背後に放る。
 扉なんてどうでもよかった。
 内側にいても、外側にいても同じなら、仕切りなど何の意味も無いからだ。
「髪。乾かさないと風邪引くぜ」
「…煩い」
 悦がベルトを通していない色の褪せた綿パンのボタンを外し、チャックを引き下ろすのを止めようともせずに自由になった両手を投げ出したまま、傑は自分の脚の間に蹲るようにして顔を埋めた悦を見下ろして、藍色の瞳を細める。
 まだ何の反応もしていない傑のモノを無遠慮に咥え込み、舌で刺激する内に少しずつ硬度を持ち始めたそれを指先も使って扱き上げながら、悦はちらりと上目遣いに傑を見上げた。
 傑は嫌そうな顔一つせず、かと言って愉しそうな顔もせずに、ただ悦を見下ろしている。
「…なんか、言えよ」
 こんな時まで平然としているのが無性に気に入らなくて、一度唇を離しながらその美貌を睨み上げた悦に、傑は軽く首を傾げて見せた。
「どうしたらいい?」
「は?」
「このまま腰だけ動かせ、ってンならそうするけど」
 下らない世間話をする時や、軍の命令でかつての自軍の情報を売る時と変わらない気だるげな声で言いながら、傑はちらりと枷の痕が薄く手首に残る自分の腕を一瞥した。
「お望みはそれだけじゃねぇんだろ」
「…腰だけじゃなくていい」
「ん?」
「それ以外も全部。…好きに動かして、いい」
 バスルームを出た時から収まらない鼓動が更に早く、傑に聞こえてしまうのではないかと思う程に脈打つのを感じながら再び顔を埋めようとした悦の頭を、頬に添えられた傑の手が上げさせた。
 悦の手の中にある傑のモノはもう硬く熱くなっているのに、藍色の瞳はまだ書類を眺めている時と変わらない。
「どの程度までならやっていい?」
「そ、んなの…」
 そんなの。
 好きに、と言ったら好きなようにだ。程度なんて、
「知らない」
「あー…それだと、流石に」
「っ…お前が…!」
 困ったように苦笑する傑にかっと腹の底が熱くなり、悦は体を起こして胸倉を掴んだ。
 程度を教えろと言われたって、いつもいつも悦の想像なんて遠く及ばない事をして、その快感に溺れさせたのは傑だ。こんな風にしておいて、ここまで崩しておいて、そんな今更過ぎる言葉は聞きたく無い。
 自分をこうしたのも、扉の外側から内側に来たのも、全部傑がしたことだ。
「お前が、言ったんだろ」
 あの時、両手と片足をへし折られて鎖に繋がれながら、あの牢で。
 きっと想像通り、面白いほど簡単に自分はこんなにも崩れてしまった。全部全部お前の所為だ。
 だから。
「…責任、取るって」
「……」
 胸倉を掴んだまま挑むように睨みつける悦を、傑は少しの間、眩しそうに目を細めて見上げていた。
 悦が顔を上げた拍子に床に落ちていた手が、タオルで軽く拭っただけの悦の蜂蜜色の髪を、感触を確かめるようにゆっくりと梳く。
「俺の好きにしていいんだな?」
「…いい」
「後悔は?」
「……しない」
「そうか」
 胸倉をから手を離した悦の頬を優しく撫でながら、傑は静かな声で言った。
「悦、」
 頬を撫でながら滑り落ちた指先が、俯く悦の顎をそっと掬うように上げさせる。
 片腕を悦の背中に回した傑の瞳は、あの独房で見ていたのと同じ色をしていた。

「…キスしていい?」



     *


 春の柔らかな日差しが広い窓から燦々と照らすリビングで、悦はソファではなくその下に敷かれたラグの上から、ソファに腰掛けている傑を見上げた。
 ローテーブルに置かれた書類に向かい、そこに並んだ顔写真と下の名前を確認しながらペンを走らせるその手に、枷は無い。足元に座りこんだ悦が震える指先で掴んだジーンズの下にも、その体を拘束する物は何も無かった。
「す…すぐる…っ」
「これでラスト」
 乱れた息の合間に熱を孕んだ声でその名を呼ぶ悦に淡々と言いながら、傑はちょっとした文庫本ほどの厚さがある書類の最後の一枚に、それまでと同じ速度でペンを走らせていく。
 半年ほど前に始まった連合軍と皇国軍との戦争は、二日前に皇国軍の完全敗北を持って終結していた。皇族以下、名のある軍士官は大半が戦死か捕虜となり、今回の軍からの依頼はそれが替え玉でなく本人かどうかを照合しろというものだ。
 皇国軍が滅ぼされた今、傑はもう軍から開示を求められるような情報を持っていない。きっと依頼はこれが最後になるだろう。
「…ん、終わった」
 閉じた書類の上にペンを投げ出しながらそう言った傑を、その膝に額を押しつけて体を震わせていた悦は弾かれたように見上げた。
 動いた拍子に中で微弱に震えるバイブの角度が変わり、その刺激に熱を孕んだ甘い嬌声を上げながら、握り締めた傑のジーンズを促す様に引っ張る。
「すぐ、る…っも、俺…ッ」
「っとに我慢が効かねぇな」
 既に息も絶え絶えな悦とは対照的に呆れたように笑いながら、傑はテーブルに向かう為に少し前屈みになっていた体をソファの背もたれに預けた。腕に縋りながら悦がその膝の上に乗ろうとするのを藍色の瞳を細めて眺めながら、ポケットの中に忍ばせていたバイブのリモコンのつまみを指先で弾く。
「あぁあッ!ぁ、あっや、…んぅうっ…!」
 微かに震えるだけだったバイブが急に振動数を上げ、座っていられずに悦は体を預けた傑の胸板に縋りついた。ボタンを一つ留めただけのシャツ以外は何も着ていない足を撫でられただけで、じんわりと甘く痺れた腰が跳ねる。
「んぁあぁ…っッ」
「ほら、力抜けよ。……教えただろ?」
 奥まで入れられたバイブの台座を軽く揺らされながら耳元で甘く囁かれ、悦は乱れた呼吸を懸命に整えた。ずるり、と震えたまま引き抜かれていくバイブにか細い悲鳴を上げながら、力の入らない手で傑のシャツをきゅっと握り締める。
「ぁ…あ…ふぁ、あっ…!」
「よくできました」
「っひ、ぁああッぁ、や…ぃああッ!」
 ごとん、と音を立てて床に落とされたバイブにほっと息を吐いたのも束の間で、直後に二本纏めて埋められた傑の指先に、悦はがくがくと跳ねる足で革張りのソファを引っ掻いた。
 長時間バイブに刺激されてとろとろに解れた内壁を悪戯に突き上げられ、バイブと一緒に流し込まれたローションをぐちゅり、と音を立てて掻き混ぜられて、潤んだ鮮やかな瑠璃色の瞳から涙が溢れる。
「あぁッそ…こっ…!」
「好きだろ?」
 出し入れされる指先が前立腺を掠め、傑の肩口に額を擦りつけるようにしながら悦は首を横に振るが、愉しげに言う傑は止めるどころかピンポイントでそこを突き上げた。
「ひぁあッぁ、あぁあっ!そ、れっや…はぁうぅうッっ」
 充血したそこを強弱をつけて擦り、二本の指で挟みこみながらこりこりと揺さ振って悦に甘い悲鳴を上げさせる傑には、どこをどうすれば悦が感じるのか、その程度まで全て知られてしまっている。
 絶妙なタイミングで刺激を弱め、間を開けられる所為であと一歩の所で射精することもドライでイくことも許されないまま、悦は容赦なく前立腺ばかりを苛まれる快感に泣きじゃくった。イく寸前の一番気持ちイイ瞬間を延々と味わわされる気が違ってしまいそうな愉悦と、寸止めにされる切なさに、もうどうにかなってしまいそうだ。
「は、ひっぃい…!ぁ、あ、あぁあっ…す、ぐ…すぐ、るぅ…!」
「ん?」
「ふあぁっ…も、イき…あぁッ…イ、きた…ぃ…ッっ」
「……」
 力の入らない腕を傑の首に回して懇願する悦はくったりとその肩に頭を預けたままで、薄らと開かれた瞳は既にその焦点を失っている。止まない刺激に華奢な体を震わて嬌声を上げながら、それでも自分で下肢に手を伸ばすことはせずに縋りつく悦の耳元に、傑はそっと唇を寄せた。
「…一人で?」
 吐息ごと吹き込まれた甘い声に、悦の肩がぴくりと跳ねる。
 イくことしか考えられなくなる程、快感に霞んでいた思考がほんの少しだけ明度を取り戻し、悦は緩く首を横に振った。
「っしょ、に…ぁ、はッ…すぐ、るも…!」
「…ん」
 焦点を結んだ瑠璃の瞳で熱っぽく傑を見上げながら、首に回した腕を引き寄せようとする悦に小さく頷き、傑は抱き上げたその体をソファの上に押し倒す。
 指を引き抜かれた奥にそれまでとは比べ物にならない質量を持つモノが押し当てられ、ゆっくりと埋められていくのに溜息のような吐息を漏らしながら、悦は縋るように傑の背中に爪を立てた。
 逆らわずに身を寄せた傑の唇がちゅ、と小さな音を立てて頬に触れるだけでも、奥まで貫く傑のモノを締めつけてしまう。キスがこんなに気持ちイイなんて、ほんの少し前までは知らなかった。
「っぁ、ん…ふ、ぅう…ッ!」
 柔らかく絡みつく内壁を突き上げられる度に押し出されるような甘い声を上げながら、悦は傑の唇に促されるままに舌を差し出した。直後に来た重く深い律動に爪先まで震わせる悦の中が悦ぶように締まり、それに軽く目を細めた傑の手が、先走りに濡れそぼった悦のモノを柔らかく握りこむ。
「んンッん、んぅうッは…ぁ、あぁああッっ」
 律動に合わせて裏筋を押し潰すように扱かれて、どっとあふれた先走りが傑の指を濡らした。それをローション代わりにして蜜を零す先端を指の腹で優しく擦られるともうキスに応える余裕など無くて、がくがくとされるがままに揺さぶられながら、悦は潤んだ視界で傑を見上げる。
「あ、ぁあ、あッ…は、ぁあっ…す、ぐる…すぐる…っ!」
「…煽ンなって」
 苦笑混じりにぽつりと呟いた傑の表情があまりにも艶っぽく、油を引いたようにぎらついたその藍色の瞳に見つめられているだけで、嘘のように体の熱が上がる気がした。
「ひ、ぁあッも、イっちゃ…ぁ、すぐ…るッ…!」
「あぁ、……俺も、イきそう」
 一際深く早くなった律動にがくがくと体を震わせながら、切れ切れに訴えた悦の耳元に甘く囁いた傑の爪先が、最奥まで突き上げるのと同時に悦のモノの先端を軽く引っ掻く。
「あ、あぁああ…ッ!」
「っ……」
 目の前も、頭の中も、全部が真っ白になってしまうような快感に掠れた甘い悲鳴を上げながら、悦は傑の手の中に精液を吐き出した。それに合わせてぎゅう、と締まった中に小さく息を詰めた傑のモノがどくりと跳ね、最奥に叩きつけられた熱に自然と傑の腰に回していた足が震える。
「はぁっ…ぁ、あぁ…っ」
「…悦」
 ずる、と引き抜かれるモノにか細い声を上げた悦の手が、くったりと力を失って傑の肩から滑り落ちそうになるのを柔らかく掴みながら、傑が掠れた声で囁いた。
「ん…?」
「……」
 じんわりと頭の芯を痺れさせる余韻が心地よくて、ともすればそのまま眠ってしまいそうになるのを堪えながら薄らと目を開けるが、傑はじっと悦を見つめるだけで何も言わない。
「なに…?」
「……いや」
 底の見えない藍色の瞳に不安そうに尋ねた悦に、傑はようやくそう言った。柔らかく握った悦の手にそっと触れるだけのキスを落としながら、まるで祈るように目を伏せる。
「……なんでもない」



 なぁ。あの時の話、覚えてるか?
 ……そう、あの銃の話。
 あの時は自分を撃つって言ったけど、弾が一発なら俺はその銃を使わない。
 お前は?……ふーん。

 じゃあ、二発ならどうする?

 もしも、弾丸が二発あって、撃てるのが俺とお前だけだったら。あ、ターゲットって意味だからな。
 ……ンだそれ。どっちにしろ自分が先に死ぬのかよ。
 俺?
 もしも弾が二発入った銃があったら、俺は、

 ―――きっと、お前の両足を撃つよ。



 Deadend.



ILL =Dead end= 収録

off