和気逢々



「買い物?」
「あぁ、幽利と。喜びそうだなアイツ、普段滅多にココから出ねぇし」
「あんま食い過ぎンなよ。また虫歯になるぜ」
「欲しいもの?…ゆっくりしてこいよ、俺のことはいいから」
「いってらっしゃい」


「観光?」
「あぁ、悦と…そう」
「迷子にならないようにね。どこに行くの?」
「いいよ、無駄遣いしても。僕のことはいいから好きな物を買うといい」
「気をつけて」










 中央区から放射線状に延びる鉄道の中は、平日の昼間にも拘わらず、シートにほとんど空きが無かった。

「……」

 中空を走る窓の外では景色が飛ぶように過ぎて行く。硬いシートに腰掛けながら、悦は強化硝子にぺったりと張り付いて身じろぎもしない幽利を横目にして思わず苦笑した。

 下半身こそ姿勢よくシートに座ってはいるが、幽利の目隠しごしの視線はさっきから窓の外に釘付けになっている。彼自身も“街”の中央に聳える高層ビルの住人である筈なのだが、その姿はまるで空からの観光客だ。


「鉄道乗ったことねぇの?」
「はィな…鬼利と一緒の時はいッつも長ェ車だったンで…」

 上の空で答えながらも、幽利の視線は窓の外を過ぎ去った巨大な広告パネルのドギツい色彩を追っている。悦にとっては既に見慣れて面白くも無い光景だが、立ち並ぶビルの合間を音速に近い速度で駆け抜ける鉄道からの景色を、幽利はかなり気にいったようだ。

「見たことはあるンですけど…やっぱ傍から見ンのと乗るのとじゃァ違いますね…」
「昼もイイけど夜の方がもっと綺麗になるよ、この辺は」
「今よりもですか?うわァ…」

 溜息のような声を漏らして、その光景を想像してか幽利はほぅと息を吐く。目隠しがなければきっと、鬼利と同じ橙色の瞳を子供のように輝かせているのだろう。
 人工太陽を照り返す鉄の箱から光が消え、代わりにネオンが輝く夜景を見た時の幽利の反応を想像して少し口元が緩むのを感じながら、悦は扉の上の文字盤がCの位置で明滅したのを見て目的地が近いことを幽利に告げた。


「あ…でもイイんですか、旦那。せッかくのお休みなのに陽が落ちるまでなんざ…」

 シートから立ち上がりながら幽利は眉を顰める。電子音と共にスライドした扉に向かいながら、悦はどこか申し訳なさそうな表情の幽利にチケットを指先に挟んだ手をひらりと振った。

「いーのいーの。偶の休暇だからこそ、だろ」
「疲れません?」
「丸一日歩き回ったって平気」

 スライドした扉からホームへ降り、人間でごった返している中を進みながら、悦は通行人とぶつかりそうになっている幽利の手を引いて自分の後ろに回らせた。慣れた足取りで人並みの中をすり抜けて行きながら、肩越しに振り返り悪戯っぽく笑う。


「今日は夜まで引き摺り回すから覚悟しろよ」










 銀細工に彩られた硝子ケースの中、専用に設えられた様々な形状の台の上に並ぶ宝石のように煌びやかなケーキの数々に、幽利は思わず自分の口元に手をやった。

「…スゲ…」
「綺麗だろ?食べるの勿体ねぇよな」

 感動の所為か、薄ら頬を赤らめてさえいる幽利の表情を横目にして楽しげに笑いながら、悦はさりげなく傍に近づいたウエイトレスに軽く手を振る。
 C地区5-R。空で高名なブランド店の支店がいくつも立ち並ぶ通りだが、その中に紛れて全く遜色ない外装のこのケーキ店は悦の特にお気に入りの店だ。

 硝子ケースの中の宝石達は、『美しい食物を使うのだから美しく仕上げるべきだ』というパティシエの方針から、間隔さえ計算されて綺麗に整頓されたものもあればホールのまま、もしくは逆に1ピースだけが台に置かれているものもある。一般人の収入ではなかなか手の出ない値段のついた品ばかりだが、店員と顔なじみになるほど通いつめその味を知る悦にとっては出し惜しみをするような額では無い。


「これ…食べ物ですよね?」

 腰の高さに設えられた小さな丸テーブルの上、銀細工の這う硝子のドームに覆われた小さなタルトを遠巻きに見つめながら、幽利は至って真面目な顔で呟いた。
 数種類のベリーをふんだんに使ったタルトはきらきらとした飴細工が掛けられており、薄いピンクとブルーのクリームを覆うようにしてシロップに覆われたブルーベリーやラズベリーが煌めいて、まるで本物の宝石のようだ。


「一番の新作です。お試しになられますか?」
「へ?…あ…えッと…」
「じゃあ、これ2つ。幽利、他は?」
「他?」
「食べたいのあったら全部頼んじまえよ。食いきれなかったら俺が食べるから」

 なにげない調子で促されて、幽利は思わず広いフロアのそこかしこに散らばるケーキやババロアを見渡した。どれもこれも魅惑的なものばかりだが、店の中には1つとして値段を示す数字が見当たらない。
 物の値段など武器の相場くらいしか知らないが、それでもこの店の品物がどれもこれも高値だということは容易に予想がついた。


「でも旦那…」
「こっちのチーズケーキも美味いし、そっちのチョコのはソースが絶品。ナッツが嫌じゃなかったらコレもお勧め」
「ぁ…美味しそう…」
「だろ?…すいません、今の1つずつ」
「かしこまりました」
「えェ!?」

 あまりに気軽な注文に幽利は思わず声を上げるが、悦は気にせず他にも幽利が5秒以上目を止めた品を次々と注文していく。大量に袋詰めにされた安売りの飴でさえ御馳走の幽利にとっては信じられない感覚だが、銀の髪を結い上げたウエイトレスは始終にこやかに注文を取ると、短いスカートの裾をひらめかせて奥へと入って行ってしまった。


「奥に席があるんだ、この店」
「旦那、あの…大丈夫なんですか?」
「あのくらい余裕で食えるって」
「そォじゃなくって、お値段が…」
「値段?…あぁ、金の心配ならしなくていーよ」

 声を潜めて言う幽利にひらひらと手を振りながら、悦は慣れた足取りで店の奥へと進むと、調度品の全てをアンティークで揃えられた広い空間に5つしか無いテーブルの1つに腰かけた。
 他の2つのテーブルには先客がいたが、扉に近いテーブルのカップルも、隣のテーブルの2人の女もいかにもな“お金持ち”で、女の1人などはストールに本物の宝石を縫い込んでいる。


「今日の分は全部俺が持つから。気にしないで好きなだけどーぞ」
「そんな、いくらなンでも全部御馳走になるわけには…!」
「平気だって」

 慌てる幽利にくすくすと笑いながら悦は軽く身を乗り出すと、潜めた声で囁きながら自分の首を指先で横になぞった。

「お前の兄貴のお陰で、自分の首に掛かってる額くらいは稼がせて貰ってるから」
「……」

 囁きながらどこか悪戯っぽい笑みを浮かべる悦に、幽利は二の句が告げずに口を閉じた。鬼利から今日の為に貰ったお小遣いは幽利でもそうと解る程の大金だが、壱級指定の賞金額と比べればそれも子供のお小遣い程度になってしまう。

 “ILL”での報酬は登録者にとって純利益では無い。仕事で使用する武器の類や治療費、その他の雑費を登録者は報酬の中から支払わなければならず、その経費は報酬額と比例して危険度が上がるほどに増していく。
 毎度毎度、十分に危険な仕事を大した怪我もミスも無くこなしている悦は登録者の中でも稀な存在だ。五体満足なために機械体部品のメンテナンスの費用も無く、法外なあの報酬の大半を純利益として得ている悦に、割り勘などと言うのは失礼に当たるのかもしれない。


「すンません…ありがとうございます」
「どういたしまして。…あ、来た」

 甘いケーキに瑠璃色の瞳を輝かせ、店からのサービスである小さなタルトに無邪気に喜んでいるが、その気になれば悦はケーキに添えられた華奢なフォーク1つでこの場に居る生き物全てを肉塊に変える事も出来るのだ。


 世界の大半の人間はそれこそを脅威と考えるのだろうが、特別製のサングラス越しにはしゃぐ悦を“視”ている幽利は、それを知っていても“可愛いなァ”程度にしか思わない。


「…なに?クリームついてる?」
「いや…傑の気持ちも解るなァと思って」
「あんな変態に共感されたら俺が困るっての。1人でも持て余してンのに」
「でも、旦那だってまんざらでもねェんでしょう?」
「煩い。…んなこと言うんなら全部食っちまうからな、このケーキ」
「あッ…!ごめんなさい、許して下さい」
「ん、許す。じゃあ半分こな」


 自らも世界から脅威とされる人間の1人であることには相変わらず気付かぬままの幽利は、運ばれてくるケーキにいちいち感動し子供のようにはしゃぎながら、その全てを悦と半分こにして平らげた。










 行きつけの服屋だ、と悦に告げられて連れて行かれた店は路地裏の細い階段を少し下った場所にあった。

「暗いから足元…って見えてるか」
「はィな、一応は」

 銀の扉の先は外の明るさが嘘のように薄暗く、天井や壁には黒く染められた薄絹が幾重にも垂れていた。ぽつりぽつりと灯った間接照明が照らし出すのは、黒と青を基調とした服を着せられた夥しい量のマネキンだ。
 男性型、女性型、首や腕が無く足だけのものや、逆に下半身の無い物。割れた白い仮面を着けられたものや、まるで本物の人間のように精巧なものまで。

 ディスプレイの主役が服なのか人形なのかすら定かでは無い中、悦は慣れた足取りで薄暗い店の中を、奥のカウンターに座る半裸の男に向かって歩いていく。
 カウンターに黒い布を広げ、何か作業中であるらしい男の肌は黒と青の刺青に覆われていた。筋肉の流れすら計算されて画かれた肌の上の絵画に幽利はサングラスの下で目を見張り、―――その傍らに立っていたマネキンの腕が、不意にかくりと伸びる。

「うぁッ!?」
「うふふ」

 思わず声を上げた幽利をカタカタと音さえ立てそうな動きで振り向き、青いリボンを巻きつけたシルクハットを斜めに被ったマネキンが、青い唇で笑う。

「脅かすなよビビット。…幽利、大丈夫。こいつ人間だから」
「そ…だったんスか。俺ァてっきりマネキンだとばッかり…」

 どこか呆れたような悦の言葉に、幽利は跳ね上がった心臓を服の上から押さえた。マネキン―――基、マネキンのふりをしていたビビットというらしい女性を改めて見てみれば、確かに関節の繋ぎ目は本物ではなく刺青で画かれている。



「ごめんなさいねぇ、悦のオトモダチなら気付くかと思って」

 ハスキーな声で笑いながら、黒いビキニに青い薄絹を纏ったビビットは黒い爪を持つ腕を悦の肩に絡ませた。

「それにしても随分お久しぶりじゃなぁい?悦。寂しかったわぁ」
「待ってたのは俺じゃなくて金だろ?」
「当たり前じゃない。今日は何をお探しかしらぁ?」

 悪びれた様子も無く言いきり、ビビットはかくりと首を傾げる。周囲に向けられていた意識を集中させて“視”れば生き物としての生体反応が幽利の目には映るが、薄暗い内装と機械的な動きが相まってその姿は精巧な機械人形のようだ。

「俺はリング。幽利は?」
「え、ッと…特には決まってねェんですけど…」
「じゃあ一通り見せて貰えよ。興味無かったら座っててくれてもいいし。俺の方はすぐ済むから」
「興味が無い、なんて随分な言い様ねぇ。…ギルア、お得意様よ」

 悦の肩に絡ませていた腕をすっと伸ばしたビビットの呼びかけに、カウンターに座っていた男が顔を上げる。
 ずっと下を向いていた為に解らなかったが、首から伸びた刺青はその顔の半面をも覆っていた。唇の端に細い葉巻を咥えた顔が、悦の姿を認めて男臭く笑う。


「よぉ、金づる54号。まだ生きてやがったか」
「悪かったな生きてて」
「今日は何だ?」
「リング」

 ギルアという男と悦はかなり気安い関係にあるらしい。カウンターの脇にある段ボールを椅子代わりにする悦に、全身に刺青を入れた男はカウンターの布を押しやって黒い箱を取り出す。

「素敵ねぇ」
「へ?」
「貴方のことよ」

 ギルアが取り出した箱の中に入っていたリングの数々、普通の人間の視界ならばまず見ることが出来ないそれらを知らずに眺めていた幽利は、傍らから不意に囁かれた言葉にマネキンにしなだれかかるビビットを振り返った。
 薄絹を揺らしながらカタリと首を傾げ、ビビットは機械じみた、だが間違いなく人間に違いない滑らかさで伸ばした指先を幽利の胸元に滑らせる。

「素敵な体。肌も綺麗ね」
「あ…ありがとうございます」
「いつもはどんな服を?」
「普段は…作業着です。こォいう、繋ぎになってるのを」
「作業着?悦と同じお仕事かと思ってたのに、違うの?」

 マネキンの着ていた服を脱がしながら、ビビットは目尻に小さな青い羽根のついた睫毛をぱちりと瞬かせた。

「あの…えェっと…」
「…でも、作業着ばかりなんて勿体ないわぁ」

 まさか“ILL”に所属している雑用ですとも言えず、答えあぐねる幽利に軽く微笑んで、ビビットは仕切り直すように言いながらマネキンから剥いだ服を幽利の体に当てる。
 少し厚い生地で作られたタートルネックのトップス。袖は無く、ビビットの腕には青と黒のインクを混ぜたようなストールが掛けられていた。



「どうかしら。似合うと思うんだけど」
「イイな、とは思うンですけど…」

 かたりと首を傾げるビビットに困ったように笑いながら、幽利は差し出されたトップスを撫でる。マットな外見に反して軽い生地は確かにセンスもよくファッションとしてはいいのだろうが、武器庫の仕事にはとても向かない。

「仕事が仕事なンで、こんな上等の服は勿体なくッて。お洒落するよォな暇も無いですし」
「そう?じゃあ、服よりこういうものの方がいいかしら」

 言いながらビビットはマネキンの群れの中を高いピンヒールでカクカクと進み、黒いドレスを着たマネキンが手に提げていた布を幽利に掲げて見せた。
 黒い布には銀や黒のピアスがいくつも刺さっており、薄暗い照明の中で鈍く輝いている。

「これならお仕事に関係なく着けられるでしょう?」
「ピアス…ですか」
「大丈夫よ、思ってるよりずっと痛くないから」
「針がちょッと、…苦手で」
「…貴方、恋人はいる?」

 布を透かして“視”える鋭い先端から目を反らしながら呟く幽利に、ビビットは硝子玉のような瞳を軽く細めた。
 前触れの無い問いかけに振り返れば、ビビットは関節に人口の切れ目を画かれた指先で耳を隠していた髪を持ち上げて見せる。現れた耳朶は軟骨も含め、無数のピアスで飾られていた。


「恋人とお揃いなの」

 うっとりとした声音で言いながら、ビビットは指先でピアスの1つを撫でる。鋭い切っ先で柔らかな肉を貫く金属を撫でる彼女は、確かに愛情を示す白い霧に覆われていた。

「これはただの傷じゃないのよ。最初は痛いし血も出るけれど、その内に皮膚が張って…傷じゃなくて体の一部になるの」
「…体の一部」
「これは2人だけの印。一生消えない特別な印。他がどんなに違ったって、この小さな傷痕だけは2人そっくりお揃いなの」

 素敵でしょう?そう言って笑うビビットに、思わず幽利は頷く。


 千里眼を始めとする異変の影響か、異常な新陳代謝を見せる幽利の体は、どれだけ鬼利に傷を刻まれたとしてもそれを痕として残さない。
 針に対する恐怖は勿論あるが、それよりも一生消えない傷痕という魅力的な言葉が幽利の意識を占めていた。鬼利の手で、証として本来無い筈の小さな、塞がることの無い傷をつけられる。

 この目をもってしてもその存在を感じられない時、小さな傷に触れてその愛情を確認することが出来たら。それはなんて素敵なことだろう。



「それじゃァ…これ、ください」
「ニードルはいる?」
「にーどる?」
「…針だよ。ピアス開ける」

 聞きなれない単語に首を傾げた幽利に、ビビットではなく悦が答えた。既に目当ての買い物は済んだらしく、ポケットの中にはリングが入った小さな袋が入っているいる。

「幽利、ピアス買うのかよ。大丈夫か?」
「はィな。まァ、ちょっとは怖いですけど…話聞いてたら、羨ましくなッちまって」
「私と同じように、恋人とお揃いの消えない証が欲しいみたいねぇ」
「…恋人?」

 くすくすと笑いながら幽利が示したピアスを布から外し、カウンターへと持っていくビビットの背中を見て悦は訝しげに眉を潜めるが、軽く溜息を吐くと幽利を伴ってカウンターへと向かった。
 商品と引き換えに提示された金額は決して安いものでは無かったが、その辺りの知識が無い幽利は特に不思議に思う事も無く、鬼利から貰ったお小遣いの大半をビビットに手渡す。


「どうぞ。恋人とお幸せにね」
「はィな。お姉サンも」
「ありがとう。悦も、またよろしくねぇ」
「ん。じゃーな」

 手をひらりと振った悦と幽利が細い階段を上り、扉が閉まるまでその後ろ姿を見送ってから、ビビットは自分の頭に手をやってこきりと首を鳴らした。


「…あのお友達、賞金首には見えないけど」
「ああいう奴が一番危ねぇのさ。…そういや、恋人がどうのこうのって言ってたな」

 肩に乗せられたビビットの手を取り、その体を抱き寄せて己の膝に座らせながら、ギルアは顔の半面を覆って眉にまで伸びる刺青を訝しげに歪めた。
 ワックスで立たされたギルアの髪に手を差し入れて肩口にしなだれかかりながら、ビビットはくすりと微笑む。

「貴方のことに決まってるわ、ハニー」
「相変わらず商売の上手い女だ」
「一番上手いのは商売じゃないわよ?」
「…今日はもう店じまいだな」

 肌の刺青を撫でるビビットの指先を捉え、己の下肢へと宛がいながら低く囁いたギルアの体には、1つのピアスも無かった。










 楕円形をした“街”の区画は、中心に中央を置いてその周囲にAからC地区と波紋状に広がっている。
 G地区辺りまでなら空の住人でも問題無く過ごすことが出来るが、そこから先は外周に向かうにつれて徐々に秩序を失っていき、特にOから先の地区は軍部警察の代わりに機能している“街”の自警組織すら自治を放棄した無法地帯だ。

 あらゆる悪の温床と空の住人に揶揄される“街”の中の最深部。
 最後の名を冠する北端の地区が孕む闇と狂気は、その中でも群を抜いている。


「…はぁ?入れねぇってどういうことだよ」

 ひび割れた道路に面した鋼鉄の扉の脇、コンクリートの壁に埋め込まれた小さなスピーカーに向かって、悦は端正な眉を顰めながら低い声で言った。

 遠出のついでにと悦が最後に向かったのは、彼の故郷でもあるZ地区だった。素っ気無いコンクリートとアスファルトで形作られた町並みは、人工の夕焼けに照らされていてもどこか薄暗く、至る所に光の差し込まないどんよりとした暗がりを孕んでいる。


「客だろこっちは」
『だから俺は客しか入れねぇと言ってるんだこの間抜け』
「……」

 スピーカー越しに店主と話している悦から一歩下がり、埃っぽく薄汚れた往来を眺めながら、幽利は指先で軽くサングラスを直す。
 今幽利がいるのはZ-08と呼ばれる場所で、Z-50まであるZ地区の中ではまだまだ入口に近い浅瀬らしいが、それでもここがどれだけ酷い場所か理解するには十分だった。

 まだ陽のある内から客を物色する娼婦、道端に倒れ込んで動かない男、焦点の飛んだ目でふらふらと歩いている薬物中毒者。道を行く人々は必ずなんらかの武器を携帯し、路地裏から排水溝へと流れ込む水には赤いものが混じっている。


「じゃあ幽利は入れないってのかよ」
『ガキじゃあるまいし、店先で待つことくらい出来るだろうが』
「コイツはここの出じゃねぇんだよ」
『見りゃ解る。だから入れたくねぇと言ってるんだ』
「…クソ」

 妥協の気配すら見せない店主の口調に、悦は重そうな鉄の扉を拳で殴りつけて忌々しげに舌打ちをした。細められた瑠璃色の瞳は仕事の時そのままの鋭さで店を観察し、扉を殴りつけた拳はいつの間にか大ぶりなナイフを握っている。

「旦那、俺ァここで待ってますから。どォぞ用事済ませて来て下さい」

 今にも何か物騒なことをしでかしそうな悦を振り返り、幽利はへらりと笑って軽く手を振った。悦は心配してくれているが、店主の言った通り、ほんの1、20分の間なら自分の面倒を見ることくらいは幽利にも出来る。

「出来るわけねぇだろ。ここは今までの場所とは違うんだって」
「てめェの身くらいは護れます。ヤバいと思ったらすぐ呼びますから」
「……」
「…旦那ァ」
「……誰か近づいてきたらすぐ撃てよ」

 眉尻を下げて懇願するような声を出す幽利に、悦は溜息を吐きながら腰から抜いた銃を幽利に手渡した。

「近づいてきただけで撃つんですか?」
「相手が誰でもな。…絶対、躊躇するなよ」

 真剣な目で幽利を見据えたまま悦は噛んで含めるようにそう言い、先程殴りつけた鉄の扉を3度、ナイフの柄で叩く。
 重たい閂が2つほど外れた音を上げた扉を引き、その中に身を滑り込ませながら、悦はそこでもう一度幽利を振りかえった。

「…でも、相手がガキの時は何もしないで叫べ」
「叫ぶんですかィ?」
「大声で。…すぐ戻るから」
「はィな…」


 軋んだ音を立てて閉まった扉に頷き返しながら、幽利は内心で首を捻る。
 丸腰で無害でありそうな人物でも躊躇い無く撃てと言うのに、子供には手を出すなというのは納得がいかなかった。
 まさかZ地区出身者の悦が、「子供は見逃せ」という意味で言っているとも思えない。そもそも子供が生きていけるのかも怪しいような区画なのだ。

 空の太陽と連動している人工太陽の光は次第に明度を落としつつある。長く伸びて行く陰を眺めながら、幽利はギルアの店で買った対のピアスにポケットの上から触れた。丸く磨かれた黒い石、銀色の軸、鋭い先端。これを見せたら、鬼利はニードルの代わりにどんなものでこの体を傷つけてくれるだろう。


「…ん」

 表記するのも憚られるような妄想から、路地から走りでてきた小さな人影が幽利を現実に引き戻した。
 小さな足には大きすぎる靴と、元の色が解らない程に汚れ、擦り切れたワンピース。靡く髪は金色だが、輝くばかりと表現するにはあまりに痛みきっている。

 ―――…女の子?こんな所に?

 咄嗟に周囲を観察するが、保護者も追跡者も見当たらない。にも拘わらず、少女は彼女にとっては全速力に近い速度で真っ直ぐに、どう見ても幽利に向かって走って来ていた。
 幽利がどうしたものかと考えている内に少女はどんどん近づき、何か思い詰めた表情のままきゅっと手を握り締めて幽利に体当たりし、―――そして弾き飛ばされた。


「ッと…」
「きゃあ!」

 しっかりと体重の乗った体当たりは少女の外見に似合わない威力があったが、仕事や主に夜の私生活で足腰を鍛えられている幽利にたたらを踏ませるには少々重さが足りない。
 細身の幽利がよろめきもしないのは予想外だったのだろう、弾き飛ばされた少女は受け身すら取れずにアスファルトに転がり、慌てて手にしていた黒い財布をぎゅっと両手で抱きかかえる。

 少女はさっきまでそんなものは持っていなかった。そして、その財布は先程まで幽利のポケットに突っ込まれていた筈のもの。
 つまり財布をスられたという事なのだが、窃盗にあった当の本人である幽利はといえば、先程の一瞬でよくスり盗れたものだと感心するだけだった。


「えッと…大丈夫?」
「ひッ!」


 財布をスられれた人間がその犯人に手を差し伸べるというのはなかなかにシュールな様だが、残念ながらツッコミ役の悦は扉の向こう。少女は幽利が持つ銃に怯え財布を手放して頭を抱える始末で、とてもツッコミなど出来る様子ではない。


「…お嬢ちゃん、お金が欲しいのかィ?」

 銃をベルトに差し込みながら、幽利はなるべく怯える少女を刺激しないようにとその場にしゃがみこんだ。

「ご、…ごめんなさい…!」

 こんな区画には不釣り合いな幽利の優しげな声にやっと頭を抱えるのをやめた少女は、困ったように笑う幽利を見るなり自分の手をぎゅっと握りしめて頭を下げる。
 痛んだ髪の下で俯いた鳶色の瞳には涙が浮かんでいた。


「お母さんが…お母さんが病気で、薬がいるのにお金が無くて…お医者さまにも行けなくて…だから…だから…!」
「そっかァ…でも、俺の財布じゃァお薬ッつてもロクなモン買えないと思うンだけどなァ」
「そう、なの?」

 地面に直接へたりこんだまま、少女は自分のスカートの上に落ちた幽利の財布と幽利とを見比べる。今日着ている服は全て傑からの借り物で幽利には値段など解らないが、少女にしてみれば幽利は格好のカモに見えたのだろう。

 悲しげな顔をする少女に、幽利はぽりぽりと頬を掻いた。買いたいものは買ったし、帰りの中空鉄道の切符さえ返してくれれば財布をあげてもいいのだが、残ったお小遣いで少女が薬を買えるのか、相場を知らない幽利には解らない。

 せっかく決死の思いで盗みを働いたのに、薬を買えなかったら少女は悲しむだろう。また同じようなことをするかもしれない。その相手が幽利でないこの区画の住人だったら、間違いなくこの少女は死んでしまう。
 それはあまりに寝覚めが悪い結末だった。少女の助けになりたいと思うのが、一時的な自己満足の延長に過ぎない善意の押し売りだとしても。


「ゴメンなァ、結構使っちまったから…他になんかやれるモンがありゃァイイんだけど…」
「…他にも?」

 今にも零れそうなほどの涙を目に浮かべながら、少女は弾かれたように顔を上げた。

「あァ。俺ァそォいうのはよく解ンねぇんだが、何かここで金目になるモンがありゃァあげるよ」
「お兄ちゃん…優しいんだね」

 薄い掌でごしごしと目を拭い、少女はにこりと笑う。それはあまりに子供らしい、無邪気で無垢な笑み、に見えた。

「…金目のモノならなんでもくれるんだよね」
「何かあッかィ?服…はちょっと無理だけど靴くれェなら、」

 服は借り物だが靴は自前だ、少しは足しになるだろうかと自分の靴を見下ろした幽利の頭上に陰が下りる。
 立ちあがった少女の影が幽利の視界を暗くしていた。しゃがみ込んで自分を見上げる幽利を見下ろしながら、光を反射しない金髪の少女は無邪気に笑う。

「それじゃあ、腎臓」
「…へ?」
「それから膵臓と血管と骨、眼も欲しいな」

 こんな場所でなければ少し性質の悪い冗談に聞こえそうな程、うきうきと弾んだ声。嬉しくて堪らないといった表情で言いながら、少女は幽利の財布を抱きしめて可愛らしく小首を傾げる。

「えェっと…さすがに内臓は…」
「まだある」

 ベルトの銃に手を伸ばしながら言った幽利の声を遮ったのは少女では無く、変声期を迎える前の少年の声だった。
 目隠しの代わりに全く前が見えないサングラスを掛けていても、幽利には360度全ての方角が“視”える。背後から近づいてきた少年の気配も解っていたが、それはあまりにも密やかで、そう、野良猫や烏のような注意を払う必要の無いものに感じられた。


「心臓も一部なら使えるってテトラが言ってたよ」
「皮膚も使える」

 左側、鉄塊となった車の残骸の脇を横切って、歪んだ鉄バットを持った少年が2人駆けよって来る。

「生きたまま連れてけば他にも色々」

 少女の背後、大人は通れないような細い路地から眼鏡をかけた少女が出てくる。

「かんぞーとちょうちょも」

 背後の扉から出て来たうさぎのぬいぐるみを持った幼い少女が、拙い声で言いながら楽しげに少年の服の裾を引く。

「小腸だよ。肺は使えるかな」

 幼い少女が出て来た家の窓を開けてそう言いながら、少年がひょいと窓枠から飛び降りる。

「外の人なら多分使えるよ」

 ただの通行人のように何気なく道路を歩いていた背の高い少年が、眼鏡の少女の脇で足を止める。

 別の路地から、道路の反対側から、家から、窓から、通り過ぎたバイクの後部座席から、現れた子供達はあっという間に幽利を半円状に取り囲んだ。どれだけ大きく足を踏み出しても一歩では届かない、絶妙な距離を保って。

 どの子供からも殺気は微塵も感じられなかった。子供らしい、無邪気な笑みを浮かべながら、どれも通りすがりのように無関心な瞳を真っ直ぐに幽利へと向けている。


「ねぇお兄ちゃん、くれるんでしょ?」
「今更ナシなんて言わないよね」
「頂戴よ」
「嫌だって言ったってもらうけど」


 最早誰が声を上げているのか解らなかった。そろりと立ち上がった幽利を機械のように統一された動きで追視しながら、最後に口を開いた少年の笑い声を引き金にしてさざ波のように無邪気な笑い声が、誰とも知れぬ声が、広がっていく。


 もらおう。ちょーだい。いるね。必要だ。お金になる。ご飯が買える。玩具だって買える。くれないの?くれるって言ったのに。とっちゃおう。盗ろうか。くれないなら。勝手にもらおう。殺す?殺そう。まだダメ。あとでね。もうちょっとだけ。スーダのところまでもてばいいよ。少しなら。息さえしてれば。じゃあ半分。半分だけ殺そう。決めた。決まった。そうしよう。やる?やっちゃおうか。うん。そうだね。やろう。


「さすがに…内臓ほとんど持ってかれンのは困るんだけど、なァ…」

 ―――これか。旦那が言ってたのは。
 指先を銃のグリップに触れさせたまま、幽利は背中を冷や汗が伝うのを感じた。

 こんなに物騒な事を言っているのに子供達の瞳はどこまでも無邪気で、こんな状況でなければ「遊んで」とねだられているようだった。暴力にかけては圧倒的に力量が上の登録者と対峙した時とは異なる恐怖、言葉も理念も通じない別世界の生き物と対峙しているような恐怖が幽利を襲う。

 きっと彼等は、歪んだバットで幽利の頭をかち割っても同じ目で、声で、笑うのだ。その行為がどういう意味を持ち結果を生むのか、そこらの大人より熟知した上で。


「ねぇねぇ、お兄さん」
「…なんだィ?」

 幽利の財布を持った少女が、背中で手を組みつつ両足でぴょんと輪から飛び出した。ここまで見事に囲まれていては銃など意味が無い。グリップから指を離しながら聞き返した幽利に、もじもじと躊躇うような素振りを見せてから少女は手にした財布で周囲の子供達をぐるりと示した。


「この子たち、わたしのお友だちなの。みんなお母さんが病気で、みんなお薬を買うお金が無くて、だからみんなお金が必要なの」
「そりゃァ…大変だ」
「でしょう?だからね、みんなにもわけてあげて欲しいの。大丈夫だよ、みんな仲よしだから」

 言いながら財布を差し出した少女の手から少年が財布を受け取り、少女が包丁を手渡した。周りの子供達が笑う。

 くすくす。
 くすくす。
 くすくす。

 骨を断ち切る為の大きな刃を持つ包丁を、少女は当たり前のように受け取り、当たり前のように幽利へと向けてにっこりと笑う。


「ちゃんと、みんなで仲よくわけるから」


 悪意など微塵も感じさせない笑顔で少女が包丁を振りかぶるのを視界の端に捕えながら、幽利はそれを躱すと同時に包囲網から抜け出す為に軽く腰を沈めた。


 …カチリ。


「…何してンだガキ共」

 密やかで大きな笑声にかき消されそうなほど微かな音が、悦が昔から利用している武器屋だという店の割れた窓と鉄格子の隙間から覗いたマシンガンに初弾が装填されるその音が、子供達の笑声を止めた。


「あ、」


 誰とも知れない声が、ぴたりと声の止んだ子供達の間から上がる。
 幽利を見つめていた様々な色の瞳が一斉に窓からこちらを見下ろす悦を向き、そしてマシンガンを油断無く子供達に構えたまま窓を開け、鉄格子の留め金を外す悦を見つめたまま、高い低い細い大人びた幼い、声が。


 悦だ。誰?えつ。悦だよ。悦だ。仲間か。悦の仲間?ならダメだ。だめだ。まだ生きてたんだ。悦。いいカモだと思ったのに。まとめてすれば?いっしょに。悦も。そうだよ。店ごと。もらっちゃえばいい。危ない。全部はやられないよ。3人は外す。どうせオトナだ。もう昔の悦じゃない。大人になってる。でも悦だ。ダメだよ。外さない。みなごろしだ。悦だもん。怒られる。テトラ。怒るよ。テトラが怒る。悦だから。なんだ。くれるって言ったのに。もらえると思ったのに。つまんないの。


「旦那…」
「平気か?だから言ったろ、叫べって」

 無駄なパーツを全て削ぎ落とした簡素なフォルムのマシンガンを抱えたまま窓から飛び降りた悦は、子供達から視線と銃口を外さないままに安堵からか思わずその名を呼んだ幽利の前に立った。


「こいつは俺の友達だからやらねーよ。さっさと巣に帰れ」
「友達?」

 それぞれに一歩、悦から後ずさりながら子供達の一人が声をあげる。

「お客じゃなくて友達なんだ」
「ほんとだったんだね、やめたって」
「“いる”には殺人鬼も爆弾魔も通り魔もいるのに男娼はいないの?」
「ねぇねぇ腎臓は?」
「片方だけ」

「ちょうちょでもいーよ。ちょっとだけ」
「ちょうちょじゃなくて小腸だろ。盲腸だってやらねぇよ」
「ケチ」
「けちー」
「失せろって言ってンだよクソガキが。バラされてぇのか」

 かちゃり、フルオートのスイッチを入れながら淡々と言う悦に、誰かが小さく溜息を吐いた。半円状の群れの中から、誰かの細い腕が幽利の財布を悦の足元に投げる。


「これ返すよ」
「言っとくけど中身はぬいて無いからね」
「そんなかっこわるいことしないよ、大人じゃあるまいし」


「ほんとに少ししか入って無いし」
「要らないよこんなはした金」
「じゃあねお兄さん」


 先程とは打って変わって感情の無い声が口ぐちに言い、集まっていた20人近い子供達は誰からともなく輪から外れていった。1人あるいは2人ずつ、それぞれ別の方向に。


 友達ならちゃんと印つけておいてくれなくちゃ。めいわくだ。あーあ、せっかくいいカモだと思ったのに。無駄足。それどういうこと?誰かイワンに知らせてよ。テディが走ってる。メリーが21で3匹捕まえたって。21?浅いよ。おやつ代くらいにはなる。おなかすいた。盗ってこよう。面倒だよ。店ごと貰おう。誰かグレネード持ってる?ライフルの方がいい。隣のビルから狙おう。そうする?そうしよう。


「…ったく」
「何だったんスか、あれ…?」

 瞬く間に散って行った子供達の姿を“目”で追いながら、幽利はマシンガンを窓の中に投げ込んでいる悦に問いかけた。
 バラバラの方向に散った子供達は、バラバラのルートを辿りながら区画の奥、先程話していたZ-21と言われる場所に向かっている。歩幅も速度も異なる筈なのに、その動きは鍛え上げられた軍隊のそれのように統制がとれていた。


「鴉だよ」
「…からす?」

 窓は開けたまま、扉のように蝶番のついた鉄格子を少し乱暴に閉めて、悦は溜息を吐く。いつのまに抜いたのか、鉄格子を閉めたその手には鋭く磨がれた小ぶりなナイフが握られていた。

「ここで育ったガキ共のことそう呼んでるんだよ、Z地区では。16までのガキばっかりで、金になるなら死体から肉剥がして骨も売るし、腹がへったら店ごと潰して奪う。どこにでもいて狡くて汚くて賢い。だから鴉」
「あンな子供が…5歳くらいの子もいましたよ?」
「歳なんて関係ねぇよ。あいつ等は群れで動くから」


 服の袖に隠されたベルトにナイフをしまい、悦は重いマシンガンを抱えていた右肩をこきりと鳴らしながら幽利を振りかえると、自分より若干高い位置にある幽利の額をぺちりと叩く。

「ンなことどうでもいいんだよ。店に入る前に俺が何て言ったか覚えてるか?」
「…相手がガキの時は何もしないで叫べ」
「ちゃんと覚えてんじゃねぇか」

 悦が言った言葉を正確に反復した幽利に、悦はにっこりと笑うと幽利の前髪を引っ掴んでそこに自分の額を打ち付けた。
 ごつり、と鈍い音が響き、思わず額を押さえた幽利の手を払いのけてずい、と顔を近づけると、澄んだ瑠璃色の瞳でサングラス越しに瞳を潤ませる幽利を睨みつける。


「じゃあなんで叫ばなかった」
「す…いません…」
「ガキだからって油断してたんだろ。ここではあいつ等が一番危ないんだよ。群れで襲いかかって骨の髄まで掻っ攫う」


 骨の髄まで、という表現が比喩では無いのは悦の目を見れば明らかだった。其の時になって初めて、幽利は悦の背筋に自分がかいたのと同じ汗が滲んでいることに気付いた。
 …こんな場所で育ったとは思えないほどに優しいともだちが、自分の命を心配してその冷や汗をかいてくれていることにも。


「最初のを殺してる内に次が来る。その次も、その次も。鴉が獲物を諦めるのは群れが全滅するか、獲物に興味を無くした時だけだ。1人でも殺してみろ、この区画にいるガキが総がかりで襲って来る」
「だから…何もするな、ッて…」
「…お前が誰も撃たないでくれてよかった」


 ぽつりと呟いて、悦は幽利から目を反らした。

「バット持ったガキ、居ただろ」
「…はィな。確か、2人…」
「…多分、今年で15になる。俺が居た時から居る古株なんだ」

 確かに、彼等は他の子供達に比べて背が高く、体つきもしっかりとしていた。口ぐちに勝手なことを言いあう子供達の中で、そう言えば彼等だけは揶揄するような毒のある口調だったのを幽利は思い出す。


『お客じゃなくて友達なんだ』
『“いる”には殺人鬼も爆弾魔も通り魔もいるのに男娼はいないの?』


「あいつ等には俺の手口が全部バレてる。もしも幽利が、鴉の誰かを撃ってたら、俺が、いても、」

 護れなかったかも、しれない。

「…旦那」
「……ンだよ」
「ごめんなさい。本当に…ごめんなさい」
「今度やったら助けに来てやんねーかンな」
「…はィな」

 頭を下げる幽利の肩を小突いて睨む悦の瞳からは、先程までの熱い怒りは消えていた。幽利の腰から抜き取った銃を自分の懐に収め、来た道を戻っていく。


 悦は決して大柄では無い。腕力も脚力も、もしかしたら幽利より劣るくらいかもしれない。
 その悦が“世界の掃溜め”で生き残る為に磨いたのが、欠点を補って余りある技術と生き残る道を探る嗅覚だ。素早い判断力と、一切の無駄を削ぎ落とした動き。それは“ILL”の登録者の中でもトップクラスであるのは間違いない。

 だが、鴉は悦のことを知っている。何がどれだけ出来るのかも、逆にどんなことが出来ないのかも。

 もし鴉の群れに囲まれても、悦は生き延びることが出来るだろう。鴉が悦を知っているのと同じように、悦も鴉のことを知っている。傷は負うかもしれないが、生き残れるのは間違いない。悦もそれは知っている。


 それでも悦が怒ったのは、その中で幽利を護れる可能性が低いことにも気づいていたからだ。幽利が自分の過ちで命を危険に晒したから、その危険を取り除くことがとても難しいから怒った。怒ってくれた。



「…旦那」
「ん?」

 隣に並んだ幽利を見る悦の表情はいつも通りだった。
 だが、その表情の下で悦が周囲に注意を払い、いつでも動けるようにと必要な筋肉を緊張させているのも、幽利には“視”えていた。無理をしている顔では無い。そうすることが当然だと思ってくれているのだ。


「ごめんなさい」
「…しつけぇよ、バカ」










 行きとは打って変わって空いた鉄道のシートで、悦はアイスを掬いながら向かいに座る幽利をちらりと見た。

「……」
「……」

 “街”のど真ん中の天井に据えられた人工太陽はその光度を落とし、太陽から細い下弦の月へとその姿を変えている。
 人工月には“街”を照らし出すだけの光量は無く、分厚いコンクリートで覆われた“街”の上空には星も輝かないが、下卑たネオンの明かりが遠慮の欠片も無く輝いているお陰で窓の外は昼間よりも賑やかなくらいだ。


「…よく飽きないよな。そんなに面白い?」
「はィな…夜もキレイですねェ…」

 下半身は行儀よくシートに腰かけたまま、窓にぺったりと張り付いた幽利の声は相変わらず上の空で、悦はラズベリーのアイスを舌の上で溶かしながら苦笑する。

「鬼利は夜景とか興味無さそうだもんな。本物の月とか星の方が好きそう」
「はァ…確かに、星座は全部知ってるらしいです…大体の星の名前も…」
「マジで?結構ロマンチックなとこあるんだな、あんな性格して」

「はィな。…聞けば色々教えてくれます…月の表面がデコボコしてるのは昔にたくさん隕石が落ちて来たからで、この星が生きてられンのは月を生贄にしたからだ、とか…」
「…へぇ」
「西のどッかにある星が他のよりぴかぴかしてるのは爆発したからで、凄ェ遠いから俺達には見えてるけど…実際には今はどこにも無くて、宇宙の中でゴミになってるか、他の星に落ッこちてそこの生き物を殺してるかのどっちかだ、とか…」

「…ロマンチックのろの字もねぇな」
「つまんねェらしいです。…鬼利は色ンなコトを知り過ぎちまッてますから」
「ふーん」


 空にはよく仕事で行くが、暢気に星など見ているような暇も趣味も悦には無い。ドラマや映画で星を見て語りあっているカップルを見た事があるが、その度にそんなことをしていないでヤることをヤればいいのにと思う。遠まわしな甘言も、大がかりなムード造りも悦には全て無駄に思えて仕方が無いのだ。傑の声は別だが。


「次は空にするか」
「…次?」
「うん。今日は晩飯食って無いし、今度は空の店に行きたい」
「…一緒に、ですか?」

 恐る恐る尋ねる幽利を、悦はアイスを口に運びながらきょとんとした顔で見返した。

「他に誰が居るんだよ」
「でも、旦那…」

 窓枠に張り付けていた上半身を悦へと向けながら、幽利は膝に手を置いて軽く俯く。カップに残った最後の欠片をスプーンで掬いながら、悦はその姿にこっそりと苦笑した。
 双子の兄以外の世界の全てを憎んでもおかしく無いような生い立ちのともだちは、自分は優しくされたことなどほとんど無い癖に他人には酷く優しいのだ。


「また、今日みたいなコトがあッたら旦那にご迷惑が―――むぐっ」
「あー、悪い。聞こえなかった」

 予想通りの言葉を紡ぐ幽利の唇をアイスを乗せたスプーンを突っ込んで黙らせ、悦は困ったように自分を見つめる幽利に軽く首を傾げて見せる。

「俺と一緒に出掛けるのが嫌だ、って言うなら無理強いはしねぇよ?」
「…まさか!ンな事ァ無いです。今日も凄ェ楽しかったですし!」
「じゃあ決まりだな」

 スプーンを引き抜くなり焦ったように言う幽利に、悦は満足そうに笑うと幽利の手から抜き取った紙のスプーンを、空のカップと共に屑籠に放り込んだ。
 視界の端で鉄道がA区画を通り過ぎたのを確認しながら、未だ困った顔をしている幽利に悪戯っぽく笑う。


「美味いだろ、そのアイス」
「…美味しいです」










 純血種の聴覚をしても聞き逃してしまいそうなほど微かな足音に、傑は顔を上げた。傑の部屋の扉には鍵が掛けられたことが無いが、ノックすらせずにそれを正面からくぐる者は傑の他には1人しかいない。

「おかえり、悦」
「ただいま。…何してンの?」


 リビングのローテーブルに財布を投げ出し、腰とふくらはぎからそれぞれ1丁ずつ銃を取り出して財布の横に放りながら、悦は扉が開いた冷蔵庫の前に立つ傑を見て怪訝そうな顔をする。


「晩飯作ろうとしてた」
「パスタがいい」
「食ってねぇの?」
「あぁ。早く鬼利に会いたいだろうし」

 シャツの袖を捲りあげて袖の下に隠されていたベルトを挟まれた細身のナイフと共に外し、襟から手を突っ込んで背中に吊っていた大ぶりなナイフを引っ張り出しながら、悦は冷蔵庫からトマトを取り出している傑を振り返って楽しげに笑う。

「ギルアのトコでピアス買ったんだよ、幽利」
「ピアス?」
「ビビットにノせられてな。しかもニードルは要らないって言ってた」
「あァ、それでか」


 水を張った鍋を火にかけ、本来なら包丁が並ぶ筈の場所に置かれたナイフを取りながら、傑は唇の端を吊り上げた。

「そりゃあ確かに、早く会いたいだろうな」
「だろ?どこに空けて貰うつもりだろーな、幽利」
「ドSのお兄様がお気に召すトコ、だろ」
「…うわ、今鳥肌立った」

 シャツを脱ぎ捨て、胸元に巻かれた太いベルトにずらりと取りつけられたナイフをベルトごと外してテーブルに乗せながら、悦はぶるりと体を震わせる。幽利なら確実に悦ぶということが解っているだけに余計に怖い。


「どーする?旦那ァ、こんなトコに空けて貰いましたァーって嬉しそうに見せてきたら」
「やめろって。幽利ならあり得そうで怖ぇよ」

 手元を見ずに鋭いナイフでトマトのヘタを取りながら冗談めかして言う傑に、悦はその横に立ちつつ眉を顰めた。
 傑が悪い、と言って笑うのを横目にしながら、ジーンズのポケットに忍ばせていた包みをシンクに乗せる。

「傑、これ」
「ん?」
「土産だよ。せっかくの休みなのに相手してやれなかったから」

 傑の手からトマトとナイフを取り上げ、トマトの皮を慣れた手つきで剥きながら、悦はタオルで拭った手で包みを持ち上げた傑に素っ気ない口調で言った。
 余計な憎まれ口を付け足さずにプレゼントだと言うのが恋人としては正解だということは知っているが、悦は遠まわしの甘言もムード造りも苦手なのだ。


「開けるぜ?」
「うん。…前、雑誌で見てただろ。ギルアの所で似たの選んできた」

 傑が簡素な包みを解いて中身を見るより早くそう言いながら、悦は皮を剥いたトマトを必要以上に丁寧にざく切りにしていく。何度も言うがムード造りとかいうのは苦手なのだ。

「…チラっと見ただけだから、あんま似て無いかもしれないけど」
「いや、似てる。ありがとう」

 太い輪に切れた2本の細い輪が絡んだデザインのリングを手の中で転がしながら、傑は優しい声と共に悦の頬に触れるだけのキスを落とす。


「でも、俺が着けたくて見てたワケじゃ無いんだよ、アレ」
「…え」

 思いがけない言葉に思わずナイフから手を離した悦に、傑はキスをした距離に顔を寄せたまま、ナイフを取り落とした悦の手を包むように取るとその薬指にリングを通した。

「悦に似合いそうだ、って思って見てた。…当たりだったな」
「……」

 するり、とリングの嵌まった指を撫でながら囁かれる声は冗談抜きに膝が崩れてしまいそうなほど甘くて、目の前がくらりと揺れるのを感じながら悦は傑から視線を反らす。

「…傑への土産なのに、俺が着けたら意味ねぇだろ」

 自分でも解るくらい顔を赤くしておいて今更こんな憎まれ口、恋人としては明らかに落第点だということは悦自身もよく解っているが、再三言っているように悦はムード造りというのが苦手なのだ。
 …それに、


「俺は悦の指に着いてるのを見てる方がいい。…お陰で今日1日、寂しかったのも吹き飛んだ。ありがと」
「…うん」


 銀色のリングが通った悦の手を指を絡めて握りながら、自然な動作で傑の唇が悦のそれに重ねられる。くちゅり、と密やかな水音を立てて絡まる舌は、今日悦が幽利と共に食べたどんなケーキよりも甘かった。



 …面倒なムード造りも歯の浮く様な甘言も悦は苦手だ。

 それに、そういった面倒で恥ずかしいことは全て、悦のぶんまで傑がとても上手にやってくれるから、する必要が無いのだ。



 Fin.



悦と幽利が“街”でお買い物。
ケーキ食べて彼にプレゼント買うってお前等女子か!となったので初となるZ地区描写を挟んでみました。そして案の定のバカップル。
果たして幽利のピアスはどこに着けられるのか。

受け2人組は書いていて楽しいので、リクエスト頂くととても嬉しいです。
次は是非いちゃいちゃさせたい。

short