心底面倒臭いと思った。
どうせ退かないと解っていたからだ。顔の造りこそ人外にお綺麗だが、今まで悦が飽きるほど見てきた客共と目が同じだった。
「え……嫌だけど」
ぼそりと漏らした本音に、化け物は不思議そうに藍色の瞳を瞬かせる。どうして断られたのか解りません、という顔だ。そりゃそうだろうな。
顔は文句無しに抜群だし体だって締まってるしモノも太すぎず長すぎずいい感じだし持久力は本職である悦以上にある。ついでに声もいい。ノンケがうっかり頷いたって不思議じゃない。なにせ顔がべらぼうにいい。
でも御免だ。
「……あの時は、」
「拷問のつもりだったんだろ。知ってる」
「……なら、」
「だから嫌なんだよ。あれ以下とか退屈で寝る」
探るように真っ直ぐ見つめてくる藍色を遮るように手をひらひらと振って、悦は湿気たクラッカーを放り出した。
傑とは2回ヤったが、どちらが好みかと聞かれれば圧倒的に後者、傑曰くの拷問の方だ。
確かに最初にシた時も失神するくらいには良かったが、そこまでの過程が悦にとってはゴミだった。あんなにダラダラグダグダされたら今度は手と足が出る。あの時は完全に隷属するつもりでお淑やかにしてやったが、傑があの夕方に望んだのは道連れだ。相手が例え御誂向きに理想的な化け物だって、必要も無いのに自分の本能以外に隷属する趣味は無い。
死なないし、顔はいいし、声もいいし、頭もいいし、好きにさせてくれるし、傍に居ることでのストレスは何も無かった。最期の時までの相棒としてはこれ以上ないくらいの好物件だが、あれを拷問と捉えるような感性なら、セックス相手としては事故物件以下の廃墟だ。今までの2回で悦はそう判断している。それが”条件”に入っているのなら仕方がないが、このお綺麗な面が肉欲に溺れる様がまず想像出来ない。そもそもまともな性欲があるのかも怪しいくらいだ。化け物だし。
「あれ以下、ってのは?」
「だらっだらぐっだぐだキスだのペッティングだのするダルいセックス」
「ふーん……」
ローテーブルに足を乗せながら吐き捨てた悦に気を悪くした様子も無く、化け物は考えるように視線を反らした。ここで生意気言いやがって思い知らせてやる、とでも熱り立ってくれればまだ望みはあったのだが、純血種に比べたら羽虫以下のクズにもこの寛容さである。やっぱりダメだ。
学のない悦には上手く纏めて言葉にすることは出来ないが、傑がどういう生き物で何を望んでいるのかは本能で解る。化け物が言う「愛する」だの「慈しむ」だのに、きっと肉欲は絡んでいない。肉欲の絡まない愛なんて悦には欠片も理解出来ないが、丁寧にシャワーを浴びてベッドに転がる据え膳を前に、襲うでもなく触るでもなく喋るでもなくじっと見ていたあの横顔から察するに、本当にただ傍に居るだけでこの化け物にとっては「愛している」ことになるのだ。
欠片も共感は出来ないがなんとなく理解はした。悦だっていつ死んでもいいように傍に居られて暇つぶしに綺麗な顔を鑑賞出来ればそれで満足だ。もうこの化け物の全ては手に入れている。
だからもうそれでいいだろうと心底思うのに、何事かの結論を出したらしい傑はひとつ頷いて「わかった」と言った。何もわかっていないのはその目を見れば解った。
「退屈じゃなきゃいいんだろ?」
「テンプレうぜぇ……」
やっぱり解っていない上に台詞まで定型文と来た。もう話しているのすら面倒になって、悦は勝手に借りて勝手に着ていた傑のシャツを頭から脱ぎ捨てる。
悦が傑の全てを理解できないのと同じように、暫定肉欲無しの化け物には肉欲の権化のような悦を理解出来ないだろう。その頭の良さで分析だの観察だのをして、こういうのが好きなんだろ、と綺麗にお膳立てされて差し出されたモノなんて悦にとっては何の価値も無い。
Z地区流に染まりきった元男娼が求めているのは、腹の底のひた隠しにされていた欲望を我武者羅に叩きつけられるような、或いは上も下も今も昔も一緒くたに掻き混ぜられるような、獣の性交以下の何かだ。傑がそれを与えられるとはとても思えない。
「ちゃんと良くしてやるから」
「……」
だからそのお膳立てが一番鬱陶しいんだ。良くするってなんだ。初物でも相手にしてるつもりかこのバカは。こっちのことなんて気にせずにお前が良くならないと意味無いだろバカかこいつは。
自分の弁が立たないのはよく解っているので目で語って、悦は溜息を吐いてソファから立ち上がった。ほらみろ、やっぱり退かなかった。もう何を言うのも心底面倒だ。幸いにして声はいいので、あのお綺麗に凪いだ目を見ないように枕でも抱えていよう。面倒なことはさっさと済ませるに限る。
「……温ィやりかたしたらタマ潰すからな」
「怖ぇな」
ベルトを外したジーンズを脱ぎ捨てて寝室へと向かう悦に、傑はやはり欠片の肉欲も滲まない、お綺麗な顔で苦笑するだけだった。
認めよう。読みが外れた。
ふわふわと心地良い気怠さと余韻に浸った頭で、悦は己の勘が相当鈍っていたことを自覚した。
それでも、前半は概ね読み通りだったのだ。
少し化け物のテクを読み違えていた所為でイきまくった挙げ句、一瞬時間軸がぶっ飛びはしたが、そんな状態でも突っ込もうとしないお利口っぷりには呆れを通り越して笑えた。だらだら寝言を連ねた挙げ句、萎えたモノを堂々と出された時には、経緯が経緯だけに怒りを通り越して虚無すら覚えた。
そこまでは読み通りだった。問題はその後だ。
あれだけ言えば引き下がるだろうと確信を持っていた化け物は、情け容赦無い切り捨てに引き下がるどころか歓喜した。歓喜して、ちょっと悦も見たことが無いくらいの盛り方をし始めた。全てが死に絶えた深い海の底のようだった、あの綺麗な藍色まで、別人のように煮え滾らせて。
そのあとは、もう、とにかく凄かったとしか言いようがない。何の期待もしていなかった所にあれは反則だ。油を引いたようにギラついた目で見据えられるだけでナカが疼いたし、熱を孕んで低く掠れた声に命じられたら服従以外の選択肢なんか無かった。なにより顔が良い。終始意識がぶっ飛びそうだったのに、頬に伝った汗を見るだけでイきそうになるくらいに、もう、とにかく、全部が予想を遥かに超えて完璧だった。
「は…ぁ……っ」
思い出しただけでも腰が痺れるようで、悦は濡れたシーツに寝転がったままふるりと体を震わせる。
最後の方なんてほぼイきっぱなしで記憶も朧げなのに、体はどこも軋まなかった。息も苦しくないし脈も落ち着いているし、薬が抜けた後のような虚脱感も無い。
おまけに唯一の不快要素だったベタつくシーツまでするりと抜き取られ、悦はふわふわした頭で思わず笑った。最高だ。
こんなに一杯に満たされているのに、喉に血が絡むことも無いしそもそもどこも痛くない。なんだこれ。セックスって言うのか。へぇ、そうなんだ知らなかった。初体験だ。
「……ははっ」
笑える。
「……起きたか?」
腰にびりびりクるいい声と共に絶妙な力加減で髪を梳かれて、半分微睡んだまま薄く目を開けた。今が何時であれから何十分経ったのかは知らないが、このまま新しいシーツで第2ラウンドでも、ただ寄り添って眠るのでも、それ以外でも、もうなんだって良かった。好きにして欲しい。
そんな思いを素直に乗せて見上げた傑は、まだ覚束ない焦点にか、それともまな板の上の鯉っぷりにかは分からないが、どろどろに煮立った溶岩を孕んだ綺麗な藍色を細めて笑った。
ああ、その顔も好きだ。なんだか頭の奥が痺れる感じがする。その顔を見ながらヤれるなら今から無料で5、6人に輪姦されてもいい。
「眠いなら寝てろ。疲れただろ」
囁くような声でもうストップ高だと思われた株を更に暴騰させながら、傑はどこにも力が入らないしそもそも入れる気の無い悦の体を抱き寄せた。一瞬の停滞も無く、重力が無くなったのかと思う程軽々と両足が宙に浮き上がる。
流石の安定感だ。重さを感じさせない足取りで歩く傑の肩にこてりと頭を預けて、悦はどこもかしこも緩みきったまま感心する。これなら立ちバックや駅弁でもイケるかもしれない。
寝てろ、ってことは睡姦がしたいんだろうか。そう言っておきながら一気にぶち込んで強制的に起こされるパターンかもしれない。どちらも客にされた時は危うく殺しかけたが、今の目をした傑になら大歓迎だ。そもそもこの辺にはナイフ隠して無いし。あったとしても殺せないし。
ぐだぐだの頭と同じくらいの割り合いでぼやけたままの視界で、傑がリビングを横切り、脱衣所を横切り、本物の大理石のバスルームまで来て止まったのを床の材質と色で判断していると、不意に視点が下がった。ホテル染みて統一的で無個性なアメニティ以外、このバスルームには剃刀の一本も無いのは覚えている。
やっぱり道具も薬も使わない方向なのか、流石だな、そりゃ素でアレな所に道具だの薬だの使われたら普通は一晩で廃人だもんな、なんてつらつらと考えている悦を片手で抱いたまま、バスタブの縁に腰掛けた傑がもう片方の腕を伸ばす。さあ、という雨のような音と共に、体液では有り得ない温さの飛沫が床についた爪先に触れた。なんだろう。ああ、シャワーか。
……シャワー?
頭と全身を浸していた心地良い薄靄が少し晴れる。二度の瞬きで焦点が定まった目で見上げると、藍色の奥にある赤々と燃えていた溶岩は目に見えて冷え始めていた。これは、シャワー責めをするつもりの目じゃない。じゃあ何だ。何の為にシャワーなんて。
まさか。
「ちょっとイイ子にしてろよ。綺麗にするから」
一気に靄が晴れた。
感覚が戻った足をバスタブの縁に掛けて足場を確保し、悦は全身のバネを使って傑の胸を突き飛ばす。不意打ちの渾身の力にも背中に回された腕はびくともせず、それどころか苦もなく柔らかく抱き寄せられて、靄を晴らしたのより一層酷い寒気が背骨を貫いた。
「危ねぇな。なんだよ」
「離せバカ!やめろ!」
「洗うだけだって。何もしねぇよ」
「だからだボケ!!」
やっぱりこのバカ後始末するつもりでいやがった。しかも今の口ぶりからして悪戯どころか言葉責めやその他のプレイも何も無くだ。寒気を通り越して虫唾が走る。一体誰が何時そんなことを、こんな余計なことを頼んだ。せっかくふわふわ気持ちよかったのに台無しにしやがって。
「ヤる気ねぇなら出てけ!」
「はぁ?」
心底不思議そうな顔で傑が首を傾げる。至近距離で絶叫されて煩そうにでもなく、爪まで立てた抵抗に不快そうにでもなく、不思議そうにだ。自分がどれだけ気色の悪いことをしようとしているのかまるで解っていない。狂ってんのか。
「なにが気に食わねぇんだよ」
「煩ぇ黙れ出てけ」
「足りねぇならまた後でしてやるから」
「もういい離せ俺が出てく」
「見られンのが嫌とか?」
「……クソが」
埒が明かないとシャワーヘッドを奪い取ろうとした手をあっさりと躱されて、再び傑の胸板に両腕を突っ張ったまま天井を仰いだ。どうあっても悦の口から言わせないと気がすまないらしい。
見られるのが嫌だなんて、そんなワケがあるか。悦はZ地区の男娼だ。どこで誰に腹からなにを掻き出されたって羞恥も嫌悪も感じない。そんな繊細な感性が残っていたらとっくに気が触れている。行為自体はどうでもいい。問題はシチュエーションと傑の感覚だ。
体を気遣っての後始末なんて、下卑た感情が何もない生温い優しさだけの行為なんて、そんなものは相応しく無い。金と引き換えに公衆便所になっていたようなクズに、完璧に綺麗な化け物が、そんな、そんなこと。ああダメだ。鳥肌が立つ。
「恋人ごっこしたいなら他当たれ。俺はいらねぇ。掃除とかすんな、似合わねぇから」
「……恋人」
呟くように繰り返した傑の喉がくくっと低く笑う。ほらな、笑えるだろ。似合わないとかそれ以前の問題だろ。そのくらい気付けよ頭悪いのか。
「あぁ、それいいな」
「は、」
「伴侶よりは手軽な感じだし。ただでさえ重てぇのに呼び方まで重くするのもな。丁度いい」
こいつは何を言っているんだ。
というかはんりょってなんだ。恋人より更におぞましげな響きだがそんな単語がこの世にあるのか。重いってどういうことだどんな方向性の重さを持っているんだその言葉は。
「何語喋ってんのお前」
「俺はお前だけの死なない化け物になる。お前は代わりに俺の全部を受け入れる。そういう条件だ。安心しろ、退屈させねぇから」
「……好きだの愛だの、そんな薄っぺらいもんじゃねぇって、何回言わせんだよ」
「解ってる」
じゃあなんでそうなる。全く意味が解らない。解らなすぎてちょっと怖くなってきた。こんなトチ狂ったことをどんな面で言っているのか、見たいような見たくないような、いややっぱり見たくない。鳥肌が引かない。
これは明らかに本能が何らかの警鐘を鳴らしている証拠だ。悦を今まで生かしてきた、鈍色と臓物のドブに沈んだ塵芥で鋭敏に削られて磨かれた勘がそう告げている。告げているのに、柔らかく、有無を言わせない力強さで後頭部を捉えた掌が、強制的に悦の顔を引き寄せた。
「俺は俺で好きにやるってだけだ。お前はそう思ってろよ」
額が触れそうな至近距離で目を合わせた化け物は、舌なめずりしそうな顔で笑っていた。
「”薄っぺらい”って、思ってろ」
どくり、と血が巡る音がする。
意味が解らない。なんだそれ。どういう意味だ。好きだの愛だの恋人だの、そんな薄っぺらくて浮ついたモノは御伽噺だけで十分だ。だってあれは偽物だから。でも傑は本物だ。意味が解らない。頭痛くなって来た。だから考えるのは苦手だって言ってるだろ。
言いたいことを言いたいだけ言って満足したのか、傑はぐいっと悦の頭を自分の肩に寄りかからせるように押し付けると、熱すぎず温くもない丁度いい温度のシャワーを背中に当ててきた。鳥肌の引かない肌がざわっと粟立ったが、なんだかもう疲れてしまって、悦は自棄になって思いっきり全体重を傑に預けてやった。せめてもの抵抗のつもりだ。
相変わらずぞくぞくと寒気がするくらいに気色悪いが、仕方が無い。これは傑の傍に居るための、死に際にあの綺麗な藍色を見るための条件だ。傑のものになって寄越される全てを受け入れるという条件を、間違いなく悦は呑んだ。そんなことは何でも無いと思っていた。また読みが外れたがもういい。相手は化け物だ。仕方ない。
「……はぁ」
幸いにも嫌悪感や不快感を意識の外に放り出すのには慣れていたので、悦は手慣れた無頓着さで本能が鳴らす警鐘を切り捨てて、疲労感と巡った血流の感覚だけを選んで残して、傑の腕の中で眠った。
案の定、ベッドの上で極めて健全に目が覚めた。
自分が枕にしているのが傑の腕ではなく、ただの布と綿と羽の塊であることを鋭敏な触覚で念入りに確認して、悦はぱちりと目を開いた。腕を頭上にあげてぐっと体を伸ばし、少し左にずれていた骨盤を片手で押さえて捻りながら右を向く。
藍色の瞳と目があった。
「……」
「……おはよ」
どくり、と血が巡る。
藍色の内側にあった溶岩は眠る前よりも冷めていた。それでも、冷えた昏い外郭の中でまだ度し難い程の熱量を保ったまま、消えも隠されもせずにそこにあるのが、寝返り一つ分の距離に居る悦にはよく見えた。
こきん、と正しい位置に戻った骨盤が甘く痺れる。
「……お前、それ。目、いいのか」
「ん?」
「だって、見えてんじゃねぇか」
「……寝ぼけてンのか?」
傑の言葉は最もだった。我ながら意味不明だと思う。でも元から貧弱な上に寝起きの悦の語彙ではこれ以外の言い方なんて思いつかなかった。
だってそうだろう。この熱く滾った溶岩は化け物の自制心を超えて溢れ出してきた、傑という純血種の本性を全て溶かして呑んだものだ。そんな大事で綺麗なものを、こんな風に隠しもせずに出しっぱなしにしておくなんて。
普通は大丈夫じゃないだろう。というか悦が大丈夫じゃない。
「いや、ヤバいだろそれ」
「なにが」
「いいから鏡見て来いって、鏡」
「……見りゃいいんだな?」
ブランケットの下から億劫そうに出された腕が、目があってからぴくりとも動けずにいた悦の後頭部を掴んで引き寄せる。
驚いて見開いた視界一杯に、真剣に鋭い藍色が広がった。深い深い藍色の底で静かに滾っていた灼熱が、酸素を吹き込まれたようにちかりと燃え上がる。
呑まれそうだ。
「あぁ……これか?」
頷くことも出来ない悦の頭をくしゃりと撫でて起き上がった傑の、その無頓着な横顔を見上げる。滑らかな輪郭を縁取るダークブラウンの髪が少し乱れていて、一応寝てはいたんだな、前髪を流していないと少し幼く見えるな、なんて、どうでもいいことを考えた。
「いいんだよ。お前以外には見えねぇし」
「……なんで」
「普通の人間はこっちより面の方に目が行くから」
サイドボードからペットボトルを持ち上げている傑は、この世の常識を語るような口ぶりだったが、俄には信じ難い。そりゃあ傑の顔面は抜群に整ってはいるけれども、だって、
「こんなにきれいなのに」
一瞬、ペットボトルの蓋を開ける手を止めた傑の横顔が、ふっとまた綻ぶように微笑む。
「……それも、お前だけだ」
ほら、と差し出された常温の水を受け取って、悦は眉を顰めた。いまいち納得出来なかったが、喉は乾いていたので同じように起き上がり、蓋を取られたペットボトルを豪快に呷る。
「腹減ったな」
「ん、」
「食いたいモンあるか?買ってくる」
「……宅配がいい。端末貸せよ」
口を腕で拭いながらぴったり半分飲んだペットボトルを突き返すと、既に片足をベッドから降ろしていた傑はその体勢のまま、サイドボードの隅に放り出されていた端末をペットボトルと交換してくれた。察しが良いし無駄が無いし、こういう所は本当にストレスフリーだ。
「あんなもん食ってる奴の舌とか信用できねぇし」
「美味い方だろ。ちゃんと固形だし」
「あれは燃料。飯ってのはこーゆーのを言うんだよ」
虹彩認証どころかロック一つ掛かっていない端末をすいすいと操作して、B地区にある少しお高いデリバリー専門店のメニューを表示させた画面を、傑の方にずいっと突き出す。中央に近いので治安はいい方だが、それでも様々な理由で入れ替わりの激しいこの”街”で3年生き残っている老舗だ。
店主が余程の剛の者なのか幹部の誰かにコネがあるのか、ILLの本部塔にまでデリバリーをしてくれる数少ない店でもある。
「やっす……」
「はあ?高ぇだろ。ほら、これとか」
「この量でこの値段とか、何の肉だよこれ」
「牛に決まってんだろ」
ビーフシチューって書いてあるのが読めないのか。呆れを隠しもせずに溜息を吐いて、悦は端末を持った腕を傑の太腿の上に投げ出すようにして腹ばいになる。体はどこも痛くないが、腕を上げ続けているのが単純にダルかった。
「朝メシだから……もう夕方だけど。これとかどーよ」
「お前が好きなのにしろよ」
「言われなくてもお前の金で俺は好き勝手食うけど。お前はどうすんだよ」
「同じのでいい」
「やる気ねぇのか」
何の為にわざわざこんな体勢でメニューを見せてやってると思っているのか。じろりと睨み上げると、傑は何故か少し戸惑った様子で悦の手にある端末に指を滑らせた。ちゃんと見ているのか怪しいくらいの速度で写真付きのメニューを終わりまでスクロールすると、また凄い勢いでページを今度は半ばまで戻し、「サンドイッチ」メニューの上から3番目に表示された写真をとん、と押さえる。
「じゃあ、これ」
スモークサーモンとマリネのカマンベールソース。定番だがいいチョイスだ。軽率に人気ナンバーワンのローストビーフを選ばなかった辺り、見込みがある。この店はちゃんと名前通りの肉を使っているが、ローストビーフは少し硬い。
「スープとサイドは?」
「……2番」
「俺コンソメにするからお前コーンスープな」
自分の分のピクルスたっぷりホットドッグと纏めてさくさくと注文して、悦は端末を掲げて傑の瞳をカメラで映す。虹彩に紐付けられたカードから料金が振り込まれたのと、お届け予定時刻が30分であるのを確認して端末をシーツに放り、傑の手から取り上げたペットボトルから水を一口飲んだ。
「40分で届くから、来たらよろしく」
「ああ」
「水、飲まねーの」
「喉乾いてるだろ。飲めよ」
「それ止めろ」
不快感を隠そうともせずに思いっきり舌打ちした。お前と同じでいいだの、自分のことはいいから好きに飲めだの、さっきから誰を相手にしているつもりだこの化け物は。言われなくても悦はご覧の通りに好き勝手にしている。太腿を枕代わりにしているのだって高さと硬さが丁度いいのと、寝起きで火照った体にひんやりした傑の素肌が心地いいからだ。ただそれだけの理由だ。
悦が傑を手に入れたのと同じように、傑だって悦をもう手に入れている。何をされたって逃げるつもりは無いし傑も逃がすつもりは無いだろう。だから同じように好き勝手にすればいいのだ。暑苦しいなら振り解けばいいし、邪魔なら退かせばいい。例え鬱陶しい寄るなとベッドから蹴り落とされたって、悦はなんとも思わない。
「もっと好き勝手にやれよ。見ててうぜぇ」
「……」
その割には離れずに見てるな、と語る傑の視線を、当然のように悦は無視した。仕方ないだろう綺麗なんだから。
「恋人ごっこすんのは勝手だけど、俺は付き合わねーからな」
「覚えてんのか?」
「あぁ?」
「飛んでると思ってた」
心底意外そうに宣う藍色を、悦は思いっきり眉を顰めて下から睥睨した。だから、さっきから誰を相手にしてると思ってるんだこのお綺麗な化け物は。
薬を打たれた頭で4人に輪姦されながら誰がどこに何回出して自分がどっちで何回イったか把握しておくのに比べたら、こんなの覚えている内に入らない。そう簡単に意識も記憶も飛ばして堪るか。忘れた、覚えていない、が通用するような甘い世界で生きたことなど一度も無い悦は、当然覚えている。
全てが死に絶えた深い海の底のようだった藍色に、きっと初めて血が通い、ただ綺麗で静かなばかりだった海底をごっそりとぶち抜き、どろどろに煮え滾った溶岩が海を一瞬で消し飛ばしてその内側を満たす様も。
今後一生これ以外では満足出来ないと確信出来るような抱き方をしておきながら、喉でも鼻でもなく足の甲に噛み付いた唇の熱も。
いくら目を背けてみても、生き延びる為に学んだ誰の価値観に照らしても、到底”薄い”なんて表現は出来そうにない声と目で笑った顔も。
悦は全部覚えている。
「ナメやがって……てめぇはどうなんだよ」
感心したように見つめてくる藍色に舌打ちをひとつして、悦は伸ばした腕で傑の後頭部を掴んで引き寄せた。お互い体勢は違うが距離感は確かこのくらいだった筈だ。
ぱちりと瞬いた藍色が、悦が好きな、頭の奥が甘く痺れる顔で笑う。生き死にに直結するのでこういうことに関しては勘の鈍りようもなく察しのいい悦にとっては、答えとしてはそれで十分だった。
「……ならいい」
覚えているならそれでいい。聞きたかったのはそれだけだ。
少し低くて甘い声が野暮な言葉を紡ぐ前に、悦は引き寄せた舌に噛み付いた。
Fin.
初夜と今に至る経緯の発端。
キスの場所が示す意味は一般的に、
足の甲は隷属。
喉は欲望。
鼻は愛玩。
唇は愛情。
しかし2人は噛み付いているので、フランツ曰く狂気の沙汰。
