Pleasure with Twins




Case4.説教



「……どれだけ価値が無いと思われる屑にも、存在している限りは使い用がある」

 資料に目を通し終えた鬼利がモニターから顔を上げるのに合わせて、肩幅に足を開き両腕を背中に組んだキュールは僅かに視線を下げた。
 罷り間違っても橙色の瞳と正面からかち合わないように半分を床が占めた視界には、執務机とキュールの間で床に正座したつなぎの作業着姿の背中が映る。自ら出頭して来た武器庫の主は、双子の兄であり組織の長でもある鬼利の叱責をしっかり顔を上げて傾聴していた。

「どちらにしろ捨てることには変わりないが、その”捨て方”が問題なんだ」

 机の上で緩く手指を組み合わせた鬼利もまた、高低差のある雑用員の目隠しをした顔を真っ直ぐに見下ろしていた。西方に多い金眼に薄く血の透けた橙色の瞳は深く、静かで、その言い知れない迫力にキュールは沈痛な面持ちをするフリで更に視線を下げる。

 声音が地を這うように低くなることも、大きくなることも、ましてや荒げるような事も全く無いのに、鬼利に怒られるのはとても怖かった。なんだか解らないが圧が凄まじい。きっとその威圧感は瞬きの間隔や使う単語や、微妙な抑揚の変化によって演出されているのだろうとキュールは推測しているが、腕力で絶対に勝てる年下の男がどうしてこんなに怖いと感じるのか、正確な所は解らない。
 今この時がどうというよりは、彼に出会ってからのそれまでの蓄積の中で、「この人にマジで見捨てられたらガチで終わる」という感覚を、ひしひしと動物的な所と人間的な打算の両方に植え付けられている所為だろう。あの仁王でさえ、叱責というほどでもないちょっとした注意で首の後ろに冷や汗をかいていた程だ。

「お前が独断で勝手な処分を下した所為で、今日まで件の屑に掛けていた全ての費用が回収不能になった」

 昨日までキュールとゴシックが担当する肆級の1人で、今日の午後づけで人型の肉塊に変化したゴミの話をする鬼利に、幽利はぴんと背筋を伸ばしたままこっくりと頷く。それを視界の端に捉えながら、キュールは5回目の「凄いなこいつ」という感心を飲み込んだ。いくら間に布が挟まっているとはいえ、あの視線から逃げずにいられる所がもう偉い。


 ILL唯一の雑用員で武器庫の主である幽利には、その特別な”目”を活かした裏の役割がある。余計な事にばかり知恵が働く屑共の中から、使いようが無いほど壊れていたり錆びていたりするゴミを選り分け、捨てる仕事だ。

 勿論その役割は鬼利公認のものなので、普段さも兄の忠実な犬のように振る舞っている幽利が、その実高度な自己判断と冷厳な審査の元に独断でどの札付きを処分しようが、誰からも叱責を受けることは無い。キュールは勿論、他のどの幹部も、「受け持ちの屑にどうしようもないゴミが混じっていたので捨てておきました」と事後報告を受けて、「お手数お掛けしました」以外の言葉は返さない。思考さえ見透かす嘘発見器で超高性能な監視カメラの持ち主を前に、それ以外のなにも言える筈が無いのだ。

 それは鬼利でさえ同じ筈だった。弟をあらゆる外敵から守る為に敢えて「所有物」と公言する最高幹部は、他の誰よりもその”目”の精度を、幽利の判断を信頼している。


 では何故、今幽利は叱責を受けているのかと言えば、それは鬼利が先から言っている通り、今回のゴミは既にその処分方法が決まっていたからだ。

 お互いの立場や建前や関係性を維持する為、半年に2、3人くらいの頻度で軍警に渡す”贈り物”に、件のゴミは先週の定例会で指定されていた。ILLが与える庇護と特権を理解せず端金に靡いたばかりか、引き抜き先への手土産にゴシック直下の情報室員を攫おうと画策していたからだ。
 既に頭蓋骨の中でカラカラ音を立てていそうなその脳味噌をちょっぴり削り取る段取りも、善良な人々に影響の出ない時間帯に路地に捨てる段取りも、内密な協議の上で迅速に軍警にそれを拾わせる段取りも既に組まれていた。その全てが致死量のアイスの静脈注射でおシャカになったので、鬼利がいつにも増しておっかなくなり幽利が正座している、今のこの状況というわけだ。


「ILLの利益とはつまり、幹部の皆と各部の職員の皆の努力の結果だ。それを無下にしたんだよ」
「はい」

 声を震わせることもなく、かといって反抗的なわけでもなく、ひたすらに真摯で誠実な声で幽利は答える。
 この世の誰よりもその”目”と判断を信頼している鬼利は、さっきから一度も、必ずあると解っている幽利の独断の理由を問い質していない。

「その身勝手を、どう償うつもり?」
「ごめんなさい」
「僕にじゃない」

 すっと淀みなく床に額をつけた幽利は、そう言われてまたすっと姿勢を正し、育ちの悪いキュールにはどこがどうなっているのか解らない、滑るような動きで正座したままこちらに向き直ると、そこでまた深く頭を下げた。

「ごめんなさい、キュールさん」
「……あぁ、いや、」
「幽利」
「申し訳ありませんでした」
「……」

 組んでいた腕を解いて「ゴミはいくらでもいるから」と取り成そうとしたキュールは、間髪入れずに飛んできた鋭い声にひくっと肩を跳ねさせ、即座に謝罪をより格式高く言い直した幽利に静かに頷いて見せる。
 それ以上鬼利からのお叱りが入らないのを2呼吸待って確認してから、執務机の向こうから発される冷気に声が裏返らないよう、慎重に喉をチューニングして、付け焼き刃のビジネス格式を外付けした口を開いた。

「幽利君の独断には常に然るべき理由があっての事だと解っていますので、代替案を提示して貰えれば、それ以上は何も望みません」
「……寛大なご容赦、ありがとうございます。877の54200が代替になると考えています」
「87754……」

 登録者に割り振られている10桁のナンバーを復唱しながら、キュールは敢えて一呼吸挟む。ちょっと小器用なただの人間であるキュールは当然、目の前の「分類上は人間」な双子のようにナンバーと登録者をセットで記憶していないし、幽利が処分するのは斡旋スケジュール的に何の問題もないゴミだと解っているので、鬼利の手前のただのポーズだ。
 さも該当のゴミを思い出しているようなフリをしながら、訛りが無い丁寧語になると兄貴とめっちゃ似てて怖いからやめて欲しい、としか考えていなかった。

「……うん、大丈夫です。それなら組んだ段取りも無駄にせずに済みそうです、鬼利さん」
「それは何より。余計な手間を取らせて申し訳ない、キュール」
「いえいえ、このくらい。幽利君はいつも、私達や他の職員達のことを助けてくれていますから」

 例え代替が用意出来ず段取りの全てが無駄になっても、幽利の日頃の貢献度はそれを何十倍も上回る。「ええ、そいつやっちゃったの?軍警にキャンセルかけなきゃじゃん。もう、次から気をつけてよ」くらいの軽さで済む話なのだ、これを行ったのが幽利以外の誰かなら。いや幽利以外の誰も出来ない役割ではあるのだが、いたと仮定して。

「多少雑務の手伝いをしていたとして、その何倍も迷惑を掛けていては結局マイナスだ。……幽利、お前はキュールの寛容さには勿論、彼の余裕を持たせた仕事振りに助けて貰ったんだよ」
「はい」
「その対応力の高さに付け込んだ。口でお礼を言って済むようなものじゃない」
「はい。ありがとうございます、キュールさん。何か俺にお手伝い出来ることがありましたら、いつでも呼び付けて下さい。なんでもやります」
「……ぁ……あぁ、うん。助かるよ」

 幽利の「なんでも」はあまりにも「なんでも」過ぎて恐ろしいので、キュールは曖昧に笑いながら精一杯の社交辞令を返した。

 他の幹部や職員やあのゴシックにさえ、注意することはあっても叱ることは殆ど無く、そうする時だって何故その判断と結果に至ったのかを聞いて、必ず一定の理解は示してくれる鬼利が、そのどれもせずに厳しく責めるのは幽利だけだ。
 そしてそれを個室で個別に、ではなく、一番影響を受ける幹部をわざわざ同席させてその目の前で詰めるのも。

「じゃあ……鬼利さん、準備もあるので」
「ありがとう、キュール。どうぞ」

 掌を伸べて退室の許可を出してくれた鬼利に直角に頭を下げ、キュールは汗の滲んだ手でノブを捻ると、変わらず正座したままの幽利にぺこりと頭を下げて見送られながら、執務室を出た。


「……はあー」

 大きく息を吐いて絨毯敷きの廊下を早足で進むキュールは、きっと何らかの狙いがあるのだろう、と予想している。


 鬼利と同レベルにILL内部で起こる全てを把握している幽利が、計画の繰り上げを進言することなく、敢えて処分方法が決まった登録者を独断で処分することにも。
 それを担当幹部に申し訳無さそうな顔で告白して、叱責を受けるために鬼利の元へ出頭する際の同行を求めて来ることにも。
 他の誰にもやらないやり方で鬼利がそれを叱責し、その過程で同席した幹部の日頃の仕事振りを何気なく褒めてくれることにも。
 特徴的な訛りのお陰で外見上は爽やか癒し系の幽利が、一度スイッチが入れば双子の兄にそっくりな対応が可能だと見せられることにも。


 きっと何かの為に、あの双子はそうしている。
 その「何か」がなんなのかは、キュールのような凡人には知る由もない。

「こえぇんだよあの兄弟……」

 取り敢えず下がりに下がった心の温度を上げる為に、キュールは足早に廊下を行きながら外部用の端末を取り出し、昼休憩中の恋人に「めっちゃ怖い上司がおこってた」と、可愛い猫が泣いているスタンプ付きで慰めと癒やしの要請をした。





「……行った?」
「行った」

 彼女さんにメールしてる、とその可愛らしい文面に笑いながら立ち上がり、幽利は机の上にあった鬼利のマグカップを持ち上げた。
 残り僅かだったブラックの珈琲を一息に呷り、その苦さにぎゅっと眉を寄せながら壁で視線を隔てられた給湯スペースに入る。軽く洗ったカップに新しい珈琲を淹れている間に、戸棚の奥から自分用のカップを出して、珈琲ドリップが整然と並んだ引き出しの奥にあるスティックタイプのココアを作り、湯気を立てる2つのカップを持って鬼利の元に戻った。

「またキュールの受け持ちの時にやるんだから」
「そりゃァ、だって、あの人ンとこが一番ハンパな奴等が多いから」
「そろそろ褒めるネタが無くなる」
「嘘だァ」

 熱い珈琲に口をつけながらの鬼利の冗談にけらけらと笑って、幽利はいつも自室でそうしているように鬼利の傍らに座り込んだ。立ったまま飲むと「行儀が悪い」と本当に叱られるのだ。

「鬼利だって褒め甲斐あるだろ?キュールさんが一番反応イイから」
「茜さんと長続きしている理由が解るよ。よく気が付いて単純、甘え方も知っている。女性に好かれるだろうね」
「……ちったァ見習って欲しいなぁ」
「失礼な。僕だって割と女性には好かれるんだよ」
「そっちじゃなくッて」

 鬼利が取引先やお得意やILLの職員の女達に、恋心を通り越して信仰に近い思いを抱かれているのを知っている幽利は、ココアをわざと音を立てて啜りながら唇を尖らせる。どの時代どの種族でも、雌というのは優秀な遺伝子を持つ雄を嗅ぎ分けるのが上手いのだ。
 音を立てない、と叱られるのに首を竦めて見せてから半分飲んだココアを机の端に置き、目隠しを解いて押さえ付けられていた髪をぐしゃりと片手で掻き回す。

「あの野郎、食堂のスープに薬盛ろうとしてやがったんだ」

 ついでに括った後ろ髪も一度解いて結び直しながら、既に話は通っていると考えていたキュールの予想に反して、今日ここに来て初めて幽利は独断の理由を鬼利に報告する。

「メリルさん、アレルギーでコーンスープ飲めねェから、料理長が日替わりン時は特別にトマト味で豆入ったヤツ用意してて、そこに」
「無差別に?」
「いンや、いちいち作ってちゃ追っつかねェからって、ある程度作り置いて冷凍してあるから」
「成る程ね。どうしてメリルを?」
「152センチで胸がおっきいから」
「低俗な……」

 到底理解出来ないクズの救いようのない低脳ぶりに僅かに眉を顰めて、鬼利はカップを机の定位置に置く。几帳面に優先度順にボックスに分類された中から書類を1枚取り、万年筆を握りながら、それで、と促した。

「うン?」
「他には?」
「……ん、……」

 目隠しの布をいじいじと両手で弄りながら、幽利はちらりと向けられた視線から逃れるように顔を俯かせる。

 幽利がILLに不利益を齎そうとする登録者を見分けるように、鬼利が命じたことは一度も無い。
 日がな一日部屋に居て主人の帰りを待っている、というのも精神衛生と性格上良くないだろうと、出来る範囲で手伝いをするように雑用という役割を与えたのは鬼利だが、その”雑務”を拡大解釈して機会と手段を得る為に武器庫の管理を殆ど一手に引き受け、どこに居ても不審に思われない立場を作り、見極めだけでなく処分まで担うようになったのは、全て幽利の意思だった。
 事実上ILLを動かしている鬼利の意向に沿った判断の下で、決して危ない橋は渡らぬように、武器庫を始めとしたILL内にいくつもある”庭”の内で行うので、鬼利もそれを推奨はしないが容認している。

 完璧にスケジュールを把握した上で、限りなく影響の少ないタイミングで行われるから、というのも好きにさせている理由に含まれているのだが、偶に例外があった。当に今回のような件だ。


 そういう時は大抵、幽利が個人的に腹に据えかねたからであると、鬼利は知っている。


「……部屋の、ファイルの一個でも盗んでやるかって、考えてやがって」
「入れるわけが無い」

 2人が暮らす部屋はこの塔の中で、サーバールームとインフラ管理室の次にセキュリティが固い。そもそも登録者が乗れないセキュリティになっている専用のエレベーターに乗り、ゴシックが構築した堅牢な監視システムを突破してフロアを抜けられたとしても、その先に待っているのは遺術で作られた扉の鍵だ。
 辛うじて設定方法が解っているだけでどのように個人を識別しているのかも解らない、遺術の最高峰をして「なんでこんな所にこんなモンを」と呆れたロックシステムを、たかが犯罪者如きがどうにか出来る筈が無かった。

 しかし、幽利は俯いたまま、布をいじいじしてだって、と拗ねた声を出す。 

「破れねェって諦める頭がありゃァいいけど、無かったら、ああいうのは”鍵”の方どうにかしようって考えるから」
「その路線で行くなら、僕よりお前の方が余程危ないよ」
「でも、アイツ傑がいねぇ日まで調べてやがった」
「零級1匹居ない程度で”ここ”が落ちるとでも?」
「……思わねェけど……」

 もごもごと言いながら、無意味に光を透かさない布を手繰る幽利に、鬼利はふ、と苦笑を零す。

 予定の何%を達成出来るかは関係無く、縄張りに侵入し、主人の平穏を脅かす計画に手を付けようとした、その”思考”こそが幽利の逆鱗に触れた。何かと犬扱いしている内にそちらに寄ってしまったのか、案外と強いその縄張り意識と容赦のない排除速度に苦笑はすれど、結果としてコンマ以下であっても後手に回ることは避けられたわけだし、幽利の報告を真実と制定している鬼利は怒るつもりも無い。


 そもそも幽利の逆鱗に触れる方が悪いのだ。


「ゴシックにも謝っておくんだよ。メリルを助けた、と恩を売るのも忘れずにね」
「はィな」
「……随分と高純度だったようだけど、あの劇薬はどこから?」
「イェンのをちょっと」
「中毒者に懐かれても良いことは無いよ」
「ハネモンの注射器偶にやってるだけなんだけどなァ……キマってる時は入れねェから」
「安定しないから、このやり方は今回限りだからね」
「はぁい」

 短命なジャンキーをハムスターと同一視しているきらいのある弟に一応、こんな末端価格のものを使われては卸先の選定が面倒なので釘を刺して、鬼利は元通りに目隠しを結び直した幽利にココアのカップを差し出した。

「今日はタファーの事務所に行くから、間食しないようにね」
「!」

 出向く度に土産と称して洋菓子や和菓子などの甘味を鬼利個人に持たせてくる、”街”なりの治安を守る自警団長の名前を出すと、ゴクリと大きく喉を鳴らして振り返った幽利はぱっと表情を輝かせた。あの老人が高頻度で賄賂だと謳う、餅であんことクリームを包んだ冷たい大福が好きなのだ。

「備蓄非常食の点検と、駐車場のタンクの点検、今日やっとく!」

 肉体労働の中でも特に重労働な作業2つを上げて、夕飯をしっかり楽しんだ上でデザートまで美味しく頂ききる強い意思を表明しながら、幽利は早足に給湯室に入って飲みきったカップを洗う。
 拭いたそれを戸棚の奥に隠すようにしまってから、やはり足早に応接スペースを横切って、そして既に新しい書類に目を通している鬼利の机の前にぴたりと立った。

「じゃァ、鬼利。失礼しました」
「やりすぎないようにね。どうぞ」

 万年筆を手放さないまま、視線だけで退室の許可を出した鬼利にひとつ頷いて、幽利は自らが自らに課した仕事をやり遂げるべく執務室を出ていった。

 途端にしんと静かになった部屋には、薄い紙が捲られ書かれる音だけが規則的に、微かに響く。

 空気中に溶け残ったココアの甘い残滓が長持ちするよう、鬼利はコースターに置かれた珈琲を定位置より気持ち遠ざけ、しばらくその甘ったるい空気の中で、重労働の頭脳労働を淡々と正確に熟していった。










Case5.ご褒美



「叔父様が褒めてくださったの」

 ごく自然な仕草で傍らの鬼利の膝に片手を置きながら、翡翠の瞳の少女は僅かに身を乗り出す。

「本当にジョン・ドゥを納得させられるとは思わなかった、って。どんな手を使ったのか不思議がってたから、私、お兄ちゃんはいつだって私の思う以上にしてくれるって、自慢しちゃった」
「光栄です、シンシア」

 私の前ではリラックスしていて、と請う彼女の為に背中をソファに預けたまま、鬼利は微笑んで見せた。その反応に嬉しそうに花のかんばせを綻ばせ、世界一の違法薬物販路を持つブルーウィン家の第4子にして唯一の愛娘は、膝丈のワンピースの裾を払って更に掌ひとつ分鬼利との距離を詰める。

「いいの、だってお兄ちゃんは本当にいつも助けてくれるでしょ。……ねぇ、この前の、考えてくれた?」

 膝に置いていた手を太腿まで滑らせ、肩が触れそうに身を乗り出しながら、シンシアは鬼利の表情を斜め下から覗き込むように首を傾げた。
 誕生の瞬間から”領地”の内外で正しい意味で可愛がられ、母譲りの籠絡技術を持つ17歳の少女の作為的な甘えに、鬼利は曖昧に苦笑して見せる。

「ルチアはとってもいい子だし、クァルのアフタヌーンティーはカナッペが本当に美味しいの。スカートレット家は”軍隊”が大きいから、お兄ちゃんだって繋ぎが薄いでしょう?一緒にお茶をすればきっと仲良くなれるわ。ルチアのママにだって会えるかも」
「貴女とゆっくり時間を過ごす事も、スカートレットの次期ご当主とお話出来る機会も、とても魅力的なのですが……私もILLを預かる身なので、そう気軽に遠出は出来ないんです」
「まあ!」

 目を伏せながら答えれば、シンシアはパッと太腿に置いていた手を引っ込めて柳眉を吊り上げた。

「酷いわ、お兄ちゃん。偃月の叔父様と会うために瑠蕗まで行ったの、私知ってるんだから」
「……またジオードの”叔父様”に強請って、航空記録を見ましたね?」
「あっ……違うの、高跳びした恩知らずを辿る為に、その時に偶然空路に穴があったから、それで解っちゃっただけ。だってあんな所にあんなに綺麗に穴を開けるのなんて、軍警と国軍に繋ぎのあるILLじゃなきゃ無理じゃない?」
「それは偶然でしたね」
「お兄ちゃんの動きを知りたがる叔父様はたくさん居るけど、今月は誰にも頼まれてないし、私のお願いを聞いて貰ってたし、本当に本当なの」
「ええ。貴女を疑いませんよ、シンシア」
「……私が悪い子だから、お茶会に来てくれないの?」

 繊細なレースに包まれた肩を落として見せながら、話の軌道を修正する強かな少女に小さく笑い、鬼利はそうではありませんよと首を横に振る。

「正直に言えば、繋ぎの薄い私がスカートレットの”領地”に入るのは、空路を確保する以上の準備が要るからです。例え貴女のお招きでも」
「じゃあ、カローナなら?あそこのアップルティーもすごく美味しいのよ」
「緩衝地帯なら私は構いませんが、ルチア嬢のお家が許さないのでは?」
「まだ内緒なんだけど、ルチアは今度学園に転入してくるの。ほら、この前の”会議”でルチアのママとゴードンの叔父様がちょっと、険悪になっちゃったでしょ?私きっとあの子の”姉”になるから、大丈夫」
「貴女が”妹”を持つとは、本当に素敵な人なんでしょうね」
「そうなの!ルチアはとっても可愛いから、お兄ちゃんもきっと気に入るわ。スカートレットの跡を継ぐのは絶対にあの子だし」

 両手を自分の膝に置いたまま、シンシアは再び首を傾げて鬼利の表情を覗き込み、薄くグロスを引いた唇でうっそりと微笑んだ。

「私ね、お兄ちゃんにはもっともっと大きくなって、家やあの子の邪魔になる叔父様達を黙らせて欲しいの。だってお兄ちゃんは薬を扱わないから、絶対にパパと競合することはないでしょう?」
「それは、勿論」
「私、きっとルチアのママを説得するから。待っててね、お兄ちゃん」
「はい。楽しみにしています」

 実際、シンシア・ブルーウィンの取り次ぎを経てルチア・スカートレットとお近づきになれれば、ご実家との繋ぎを取る上でショートカットになり得る。面倒な他人の庭でのクリアリングの手間さえ回避出来れば、ILLにとっても利益の大きい話だった。最高幹部の半日を掛けるのに値する。

「けれど、女帝が頷いてくれなくとも、”公爵”夫人には内密に。3ヶ月は紙飛行機のひとつも飛ばせなくなってしまいますから」
「えっ、そうなの?あぶなーい……聞いておいて良かったわ」
「シンシア……」
「うふふっ」

 額に手をやって嘆いて見せれば、勿論ILLと”公爵”の確執を知るシンシアが口元に手を当てて笑い、その屈託のない笑顔に釣られたように、鬼利もまた小さく笑いを零す。
 武装した十数人の護衛が衣擦れの音すら立てず、調度のように直立する皇都のスイートルームの一室で、2人はしばらく恋人のように寄り添ったまま、幾重の仮面を被せた互いの瞳の奥を観察し合っていた。





「おかえンなさい、鬼利」

 そう言って出迎えた幽利の声音はいつもの通りだったが、お揃いの橙色は赤々と熾火の色に燃えている。
 角膜を超えてその奥へと焦点を合わせている千里眼を平静に一瞥した鬼利は、差し出された手に鞄を預けながらただいまと応えて、しゃがみ込んだ幽利が紐を緩めた靴を脱いだ。

 帰宅後のルーチンを済ませ、スーツの手入れやバスルームの掃除やらといつも以上に忙しく動き回る幽利を横目に、いつもはしない手順の簡略化をして夕食を作った。
 裏社会随一の情報通との会合後は翌日が休みでも無い限り、時間の制約上大体こうなので、そういう意味では定型化した例外とも言える。

「パーシーさんが、ベストの釦どうしましょうって」
「任せるよ。良いものがあるなら一式仕立てて貰っても構わない」
「なンか、イーウェッドの……あァ、そう、それ」
「また随分な物を仕入れたね」
「珍しい?」
「黒に合うものは」
「へぇー」

 確かにカッコいい、と頷いて、幽利はいつもなら大切そうに味わうポトフのソーセージを、大胆にパキンと齧った。もくもくと口を動かす橙色の瞳はまだ燃えている。


 ―――気が昂っているのだ。自分以外に鬼利を臆面もなく「お兄ちゃん」と呼ぶ少女と、会ってきたから。



 幽利がその呼称に特別な執着を持っていると鬼利が知ったのは、件の少女と2回目に会った時だった。

 叔父様と呼ぶには若いから、と少女が今の呼称を定着させ、あからさまな蔑称でさえなければどう呼ばれようと興味のない鬼利がそれを受け入れたのが、幽利はどうしても我慢出来なかったらしい。仕事のことに不平を唱えるわけには、と弁えようとして消化し切れず、酷く精神を乱して”視線”が暴走しかける程だったので、心が見えない鬼利は硬軟織り交ぜた尋問でそれを聞き出した。
 そんなに傍系二親等を表す俗称が好きなら自分もそう呼べばいいものを、そういうことでは無いらしい。仕事上、ガラの悪い顧客に兄弟や兄貴と呼ばわれる事もあるが、それは構わないのだそうだ。

 正直、何をそんなに、と思わなかったと言えば嘘になる。どこまで行っても兄でしか無い上に、必要とあらば分析と理詰めであらゆる感情を黙らせ、幽利を手放すことさえ出来てしまう鬼利には、割り切れないという感覚そのものがよく解らない。

 他愛のない駄々の類ではあったが、それで幽利が心を乱しているのは事実だった。譲れないものがあり、それを譲れないと主張出来るようになったことは、今日までの情操教育の成果とも言える。
 それでいて、鬼利からの尋問兼カウンセリングを受けて自分の中の激情を自認した幽利は、”視線”の使い過ぎによる発熱で赤らんだ顔と潤んだ瞳で、我慢する、と言った。自分以外の誰かに鬼利をお兄ちゃんと呼ばれるのと同じくらい、鬼利の仕事の邪魔をするのも嫌だからと。
 意図していない煩悶を与えるのは可哀想だったが、一度定着した呼称を変えるのは確かに面倒だった。ただ変えさせるのは口先で何とでもなるが、必ず要らぬ詮索を招き、完璧に遮ってしまうと猜疑を呼ぶのでそれらしい理由を偽装し、その後も適宜経過観察をして、という具合に、相手がやり手であればある程とにかく面倒なのだ。鬼利が直接出向いて対面する相手であるので、少女も、そのバックも、当然にかなりのやり手だった。

 なので、かつての鬼利はひとつ約束をした。

 件の少女との会合そのものを無くす為に”出来る限り”のことをしたり、”精一杯の努力”をしたりせず、いい子に我慢出来たなら、翌日の予定に関わらずその日の内に「ご褒美」を与えると。



「……鬼利、雨だって、明日」
「そう」

 見れば解ることをわざわざ口に出す幽利に相槌を打ちながら、鬼利は皇国の公営ニュースを聞きつつ膝に乗せたノートパソコンでメールの返信と各種申請の承認をしていく。夕飯前に先送りにしたルーチンワークのひとつだ。明日も当たり前に仕事で、そう気軽に徹夜を出来るほど鬼利の体は頑強ではなく、手引きした事件が公的にどのように報道されているかの確認作業は必要なので、聴覚が空くここに持って来ていた。

 湯上がりで高い体温をぺったりと鬼利の足の側面にくっつけたまま、努めてテレビを眺めている幽利の瞳は、まだ燃えてはいるものの落ち着いてきている。


 約束をしたのは、まだ”ILL”に来て幾らも経たない頃だった。
 それまで縁遠かった外界が急に騒がしく近づいたことに加え、離れている時間が増えるに比例して”千里眼”が拡張していった途上だったから、色々と追いつかなかったのだろう。あの呼び名に対する執着と、その癖に自分がそう呼びはしないのは変わらないが、今の幽利はきちんとその激情に独占欲と名前をつけられている。
 そろそろ少女から女性に変わろうかという得意先以外に、鬼利のことを件の俗称で呼ぶ奇特な者が現れても、嫌だって言ったのに、とちょっと拗ねるだけで済む筈だ。


 ……いや、もしかしたら表向きは隠して見せて、健気さをネタに約束の適用拡大を狙うかもしれない。幽利にはそういう強かさも備わりつつある。

 全く誰に似たのやら、と内心で苦笑しつつ、そうしながらも淀み無くキーを叩きつつ、鬼利はちらりと自分の左足に寄り添って離れようとしない幽利の後頭部を一瞥した。

 お利口な幽利はよっぽど早く、などと急かしたりはしないが、今か今かとお許しが出るのを待っている期待の方は、何年経っても上手く隠せないらしい。どうせ鬼利には解ってしまうので別に隠す努力をする必要も無いのだが、こうもそわそわと浮足立っているのを見ると、ついそれを裏切ってやりたくなるような悪戯心が―――


 ぢりっ


「……」

 空気にしか触れていない額、皮膚を通り越してその内側に静電気のような感覚が走り、タイプミスをした鬼利は画面に戻していた視線を再び幽利へと向ける。

 振り返ったあかあかと燃える瞳が、恨めしげに鬼利を、その思考を見咎めていた。

「……いじわる」

 精一杯に詰る声音と横顔がまるっきり拗ねた子どものそれで、物理的干渉さえ引き起こすような目で絶えず見ておきながら今更それを言うかと、思わず笑ってしまう。

「それが好きだと思ってたよ」
「好き、だけど……今日は……」
「今日は?」
「……」
「……」
「っ……鬼利ぃ……」

 裾を引きながら膝に額を擦り寄せる幽利の声がいよいよ切迫を帯びたので、今日の所はこれ以上の意地悪を止めてやることにして、鬼利はパソコンを閉じた。





 どう抱かれたいのか希望を聞くと、消え入りそうな声で「いっぱい触って、触られたい」と具体性に欠けた事を言うので、対面座位で始めることにした。弁えすぎている弟は、正常位だと手を伸ばすまで時間が掛かるからだ。

 クッションを当ててヘッドボードに背中を預け、同じく着ていたものを全て脱いでフローリングに正座し、必要以上に丁寧に脱いだ衣服を畳んでいる幽利を、鬼利はベッドの上に呼び寄せた。

「おいで」
「はい……」

 ふわふわとした声と同じ顔でそろりと上がってきた幽利を、伸ばした足の上に跨がらせる。負担を気にして腰を下ろせず、でも主人を見下ろしているのも居心地が悪く、中腰を更に半端にした幽利の肩を掴んで膝の上に引き下ろして、後ろ髪を括られていない後頭部を片手で掴む。
 膝を畳み爪先を立てて少しでも体重を逃がそうとしているのを無視して、ぐいと頭ごと引き寄せた唇にキスをした。

「ん、っ……ん、ぅ……」

 怯えたようにぎゅっと目を瞑り体を強張らせながら、促すまでもなく舌先を覗かせる。ちぐはぐな反応は最初だけで、少し舌を絡ませただけで眉は下がり、口内を犯せばくたりと全身から力が抜ける。差し出させた舌先を幾度か甘噛みしてやれば、ようやく要らない遠慮も抜けてシーツに置いた手に指を絡ませて来た。

「…っは、……ぁ、んむ………ぅ、んん……っ」

 控えめにすりすりと手の甲を辿る指が、角度を変える為に頭を掴む手に力を込め、絡んだ唾液を飲み下し、品のない水音を立てて熱い粘膜を掻き回す度に、過敏に跳ねる。懸命に奉仕しようと拙く伸ばされた舌を吸ってやりながら、確かにこの手で仕込んだ筈なのに、何故こんなに下手でいちいち可愛いのだろう、と鬼利は目を細めた。

「っ……、はッ……ぁ、は……はぁ……!」

 打てば響く反応を面白がって可愛がっている内に、鬼利が息苦しさを感じて口を離す頃には、例のごとく幽利は酸欠を起こして顔を真っ赤にしている。大概の身体能力は弟に劣る鬼利だが、喋るのも仕事であることに加え、根絶やした実家の教育方針でしょっちゅう窒息させられていたので、肺活量だけは多少のアドバンテージがあった。
 夢中になる余りに幽利の息継ぎが処女より下手なのも要因ではあったが、被虐趣味の片割れは適度な息苦しさに喘ぐのも好きなので、今後も改善する予定は無い。

「触りたいんじゃなかったの?」

 握るでも爪を立てるでもなく、ただ筋の形を確かめるように手の甲を擦るばかりの指を揶揄しながら、濡れた唇、零れた唾液が伝った顎、どくどくと脈打つ頸動脈、と唇で撫で下ろしていく。後頭部から滑らせた掌で肩甲骨の下を押し、背筋を伸ばさせて丁度いい高さに動かした鎖骨に歯を立てると、ひくりと指先を跳ねさせた幽利はそろそろと伸ばした両手で鬼利の肩に掴まった。
 身動ぎも出来ないほど拘束されて悦ぶ幽利とは反対に、与える側である鬼利は動きを制限される事を好まない。溺れているようにしがみついて来る必死さを愛でる感性はあるが、その為に与えてやりたい恍惚が滞るなら、振り解いてシーツに押し付けてしまう性質だった。それも偏に注ぐ愛の根深さ故だと知っている幽利の手は、邪魔をしないように肩と首の丁度中間に乗せられている。

 兄どころか殆ど親代わりに育てたのは自分だが、それにしてもよく出来た、欲張りな弟だと微笑して、鬼利は鎖骨にくっきりとした噛み跡を残した。

「ぁ、いっ……ふぁ、あ……っ」

 自分でつけた傷跡を舌先で慰め、しっとりと濡れた胸の中心、心臓の真上にキスをしながら、シーツに置いていた手で震える幽利の太腿を撫で上げる。薄く爪を引っ掛けてびくつく筋肉の動きと粟立つ肌を楽しんで、もう先端を濡らしているモノの根本をくすぐり、内腿を撫で下ろす。

「はッ………ぁ、……!」

 背骨を辿って更に下げた手で今度は腰骨を押して、膝立ちの姿勢を取らせた。物欲しそうにつんと尖ってピアスを震わせている乳首が丁度いい位置に来たが、鬼利は顔を上げて仙骨の上を軽く引っ掻いた手も離す。きゅ、とようやく肩に置いた指に力を込めた幽利の息は、酸素が充分に行き渡ってももう整わない。

「鬼利、きり……もっと、もっと触って、ください……っ」
「少し待って」

 もっと明瞭な刺激が明確な弱点に欲しい、とねだる幽利を素っ気なく待たせて期待と感度を高めてやりながら、鬼利は引き寄せたローションで丁寧に手を濡らす。これから使う人差し指から薬指に掛けては指の谷間まで、ふ、ふ、と頭上で零れる幽利の昂った呼吸音を聞きながら粘液を纏わせて、ぐいと骨盤を掴んで固定しながら再び背中に手を回し、濡れた中指をそこに押し当てた。

 あまり知られていない事だがこの世には重力というものがあり、意外にも流体というものはそれに引かれて下方へと落ちる性質があるので、わざわざ谷間にまで行き渡らせる意味は無く、つぷりと潜らせた幽利の中はとろりと鬼利の太腿に糸を引くほど濡らされているから、指を湿らせる必要すら薄い。
 果たして幽利がそんな世界の隠された真実を知っていたのか、思考の見えない鬼利には知る由も無いが、片割れが背を反らせて悦んでいるのは確かだった。

「……またこんなに注いで」
「あぁっ、ひ、ぁ、あ……ごめ、んなさ、ぁあ……!」

 いくら毒を喰らっていない丈夫な体とはいえ、必要以上に内側から冷やすのは賢い行いでは無いとたしなめながら、熱い体温に温まったその潤いを利用して、指の腹でくちゅくちゅと前立腺の膨らみを撫で擦る。喘ぎ混じりの謝罪に反省の色は到底見えない。兄の心弟知らずというやつである。
 ボトルに目盛りでも書いてやらないと駄目かと思案しながら、内で深く指を曲げてぐりゅ、としこりを抉る。

「いぁあ゛っ……!」

 手荒くした後は、慰めるように優しく。命じると守れないことの方が多いのに、こういう時に限って幽利は「いっしょ」に拘るので、その願いに沿って決してひとり寂しく絶頂させることが無いように。何しろ今日はご褒美だ。
 幽利は苦痛よりも純粋な快楽の方が倍は耐性が低く、そうなるように仕込んだ鬼利は隅々まで泣き処を把握しているので、自然その手つきは酷く慎重なものになる。初めに鮮烈な甘露を与えた後は徹底的にそれを遠ざけ、けれども味は忘れないように核心のほど近くを緩慢にくすぐって、結果的に幽利をぐすぐすと泣かせてしまうのも、「ひとり」にさせない為には無理からぬ事だった。

「ぅあ、ぁあ……っきり、……きり、ぃい……!」

 もしかすると真剣に望みを叶えてやろうと励むあまり、哀願はいくつか聞き逃してしまったかもしれないが。

「どうしたの、幽利。どこか痛いの?」
「ぃ、いたく、ないぃっ……ぁ、そこ、……それ、ぇ……ッ」
「どれ?」
「それっ、その、すりすりって、するの……っ、つよく、してくださ、ぁ……!」
「つよく……こう?」

 漠然とした要求に首を傾げながら、鬼利は揃えた3本でいくら抉ってやろうとも極められない、童貞だってそこは違うと解るほどの浅瀬で指を曲げる。汗に濡れた背中を丸め、今にも座り込んでしまいそうに腰を下げて太腿を震わせ、鬼利の肩に置いた手に額を押し当てながら、幽利はふるふると首を横に振った。

「そこじゃ、な……ぃあ、ぁ……きり、ぃ、ゆるして、ゆるし、てぇ……っ」
「許すもなにも、解らないよ。僕は見えないんだから」

 見えているかのような精度ですり寄る柔肉の弱点を避け続け、骨盤を掴んだもう片手で深くへ咥え込もうと揺れる腰をハンドリングしていた鬼利は、まるで要領を得ないと呆れて見せる。肩に置かれた両手の重みが充分に増したのを感じて、下僕としての矜持とは違いとうに蕩けきっていたところから指を抜いた。

「やあっ、やだ、鬼利、ごめんなさい、きり」
「それじゃ解らないと言ってる」
「ぅ、う、……ぅう……っ」
「なにが欲しいの」

 ひうひうと肩口でしゃくりあげていた幽利が、ひ、と息を止める。鬼利の視野では見えないが、熾火を涙に滲ませた橙色は、そこで初めて言うべき言葉を知ったように瞬いた。

「……い、……いきたい」

 頬を伝った雫がぽた、と鬼利の胸にある黒い石の上に落ちる。

「イきたい、っ……きもちよく、してほしい……!」
「なんだ、そうだったの」

 肩にあった手を背中に回して抱きつこうとする幽利の胸をすげなく片手で押し返し、そんなことかと肌を伝う涙を拭って、鬼利は脇においていたローションボトルの蓋を上げた。

「今日はご褒美なんだから、それならそうと早く言えばいいのに」
「……あ、」

 千里眼なんて必要としないくらいに全て見通しながらしらじらしく言う片割れが、どろりとした粘液を滴らせた先を見て、幽利は泣き濡らしていた両目を瞠る。先の言葉と同じく今更それに気がついたように、弱々しく揺らいでいた熾火も深く燃えた。
 表面がちりちりとさえする比喩でない熱視線に苦笑しながら、鬼利はサオを伝い落ちるローションを軽く扱いて全体に行き渡らせた。幽利自身と同じような状態であるのを驚かれているようだったが、指を舐めしゃぶる粘膜の柔さと喘ぎ啜り泣く声をもって反応しない、そんな愚物ならとっとと切り落としてディルドを外付けするためのネジ穴でも造設している。

「はい、いいよ」
「っ……はひ……」

 背中のクッションを抜いて上体を倒しながら許可を出すと、この数秒で急速に滑舌を崩壊させた幽利は膝立ちになってたっぷり濡れたモノの上に移動した。ごく、と喉を鳴らし、はあ、と震える溜息を吐きながら、後ろ手に手を添えてそろそろと腰を下ろしていく。

「ぁ、あ、……ぁつい、ぃ……!」
「冷たい方が良かったの?」

 当たり前のことを顔中蕩けさせた幽利が愛らしく訴えるものだから、鬼利はくすりと笑いながら思わず眼前に揺れるピアスに指を掛け、強くそれを引いて一息に全てを呑ませてしまった。

「ひぃ゛ッ!」

 そう、思わず。これはもう習い性だ。

「っ……あぁ。……すごい喰い付きだ」
「あ゛……ぁ……ぁ……っ!」
「随分絞り上げてくれているけど、ちゃんとイけたの?」

 理性に鋭く爪を立てて掻かれるような熱と感触につい、品のない物言いをしてしまいながら、手綱にしてしまったピアスをそれが通った乳首ごと、指先でぴんと弾く。
 途端に鬼利の肩に縋りつこうとしていた幽利はまたびくりと背を撓らせ、鬼利をすっぽり包んで食むところもまた、きつくきゅうと締め上がった。

「ひっぐ!……っぅうぅ、うぁあぁぁ……っ」
「言わなくちゃ解らないよ、幽利」
「い、……いき、ましたぁっ……!」
「次からは事前に言うようにね。ちゃんと気持ちいいのか解らないから」

 あくまでもご褒美として、望みを正しく叶えてやる為に必要なのだと言い聞かせれば、幽利はこくこくと頷いて腰に添えていた鬼利の手首を撫でてくる。控えめなおねだりに小さく笑って、手首を辿る指を左右それぞれで絡めて握ってやると、握り返してきた幽利が嬉しそうにふにゃりと笑った。
 これを見るためにまだ息をしている、と温かな感慨を胸に、このあどけなさを見る影もなく歪ませ貶めてやりたい、と昏い衝動を脳裏に、それぞれをなかなかの強度で鬼利の内へと植え付けながら、繋いだ手を支えに幽利はゆっくり腰を上げた。

「ぁ……は、ぁあ……っ」

 半分ほどをゆるゆると引き抜いて、きゅうと絡めた指を握りながら落とす。不安定な足場に体勢で自重を支える太腿は細かく震えているのに、乱暴なくらいに奥を叩かれるのが好きなのに、痛みに鈍い片割れの体を気にして幽利は決して最後まで腰を落とし切ろうとはしない。
 代わりに何度も繋いだ手を確かめるように握り直し、何回かに1回、そろそろと全てを収めてはぐちゅりと腰を捻って、絡めた指を震わせる。

「んっ、んっ、あぁ……きり、……はぅっ、ぁ、……鬼利、っんぅ」

 蜜に漬けたような声に応える代わりに、手を引き寄せて乱れた呼吸ごと舌を絡め取った。じんと痺れるくらいの加減で半ばを噛んで引きずり込み、一番好きなやり方で表と言わず裏と言わず隈なく愛している内に、煽られた幽利の腰遣いも次第に大胆になっていく。

「はっあっ、も、いくっ……ぃき、ますっ……!」

 熾火の滲む瞳をぎゅっと瞑りながらの報告は言いつけ通りのもので、互いの唇を繋ぐ銀糸を舐め取りながら鬼利は目を細めた。


「だめ」


 無情な命令への反応は、繰り返し躾と折檻を染み込ませてきた体の方が早い。

「っ!………、ぅ……あ……」

 ひゅ、と息を飲んで全ての動きを止め、一拍遅れて言われたことの意味を頭で理解し終わった幽利が、呆けたような顔で鬼利を見る。半ばも半ばで無意識に急停止させられた体がずる、と僅かに沈み、それに耐える為に握った指先に強く力が籠もった。

「な、ん……でぇ……?」
「僕もそろそろだから、もう少し我慢して。……出来るね?」

 ”いっしょ”がいいんだよね、と優しく微笑んで、鬼利は繋いだ手をゆっくりとシーツまで引き下ろす。まずもって受動的な刺激を好まない鬼利の方は何ひとつ「そろそろ」では無かったが、例えそれが解っていたとしても、自分から手を振り解けない幽利は引かれるがままに絶頂寸前の体で深く深く咥え込むしかなかった。

「うぐ……っあ、ぁ……あ゛……っ」
「動くなとは言ってないよ。イきたいんじゃなかったの?」
「っ、は……ひっ……!」
「ほら、僕に掴まっていいから」

 内側を媚びるように絡みつかせては慄くばかりで、ぺたんと座り込んだまま動こうとしない幽利の両腕を首に回させる。

「動いて」

 それが今の幽利にとってどれほど辛く困難か理解した上で、鬼利は命じた。平凡な瞳には泣き出しそうに歪んでぎちりと奥歯を噛み締める表情しか映らなくとも、その非情さが幽利の被虐心を深く満たすことを知っているからだ。

「ん゛んんっ……ふ、ぅう……ぅあ゛、あ……!」

 重さがどうの、負担がこうのと考える余裕の無くなった幽利がぐっと縋る腕に体重を預けて体を持ち上げ、鬼利の胸に半分体を預けるようにしながらのろのろと下ろす。届くどころか押し込まれる近さに降りてしまった最後は特に慎重に、ちゅ、と先端が触れて、ぢゅぐ、と押し潰される衝撃を少しでも和らげようとするあまり、かえってその全てをじっくり味わう形になっている。

「はーーーっ……はぁーーー……っ」

 イかないように堪らえようとするほど全身に力が入る。酷い命令に従わされている事実が脳髄に甘い陶酔を満たす。意思の外にある粘膜が締り、うねり、そこを自身で割り開いて受け入れなければならない単純で深刻な肉欲。理性はあっという間に擦り切れ、それでも手放すことは許されない。

「んくっぅう゛うっ……ひ、ぃ……ぁああぁあ……!」

 さぞや”そそる”生き地獄なんだろうと、熱く絡みつく粘膜の中で緩慢に扱かれる生殺しを味わいながら、鬼利はびくびくと細かい痙攣が止まらない幽利の腰を撫でる。これで多少なり気が紛れれば良かったのだが、当然そんなことはなかった。

「はう、ぅ、うー……っぁーーー……ッ」

 励ますように優しく撫でられたことに悦んでぐねりと腰が、その内部が捩れ、ついにそれより上にも下にも行けなくなった幽利は鬼利の肩口に頭を預けて動かなくなった。触れる肌が酷く熱い。涙か唾液か、自分で自分を限界の先まで追い込む苦悦に溺れる幽利が垂れ流すもので肩が濡れていく。
 腕を回させたのは、血が出るまで爪を食い込ませない為でもあった。縋る手を離して性懲りもなく拳を握って理性を引き戻すのか、単にきつい波をやり過ごす為にじっと耐えているのか。さて、どうするつもりなのかと尾骶骨をとんとんと指先で叩きながら待つ鬼利を、蚊の鳴くより小さな声が呼んだ。

「……り、……き……り……」

 聞こえている、と伝える為にしっとり濡れた頭に頬を寄せた鬼利の背を、離れずそこに回ったままの幽利の爪がかり、と痕も残らない儚さで掻く。

「も……うごけ、なぃ……っ……きもち、よすぎ、て……」

 かり、かり。

「きり、……やってぇ……っ」
「……」

 おねがい、と吐息に溶けながらねだる甘えた声に、「できない、鬼利やって」と恐る恐る、拒絶に怯えながら初めて甘えて見せた幼い声が重なり、鬼利は強く目を瞑った。特別厚くこしらえた化けの皮を決壊させたのは、庇護欲、愛欲、執着に征服欲。鬼利が歪め、幽利が助長した何もかも。

 突沸的に頭に上った血と熱を誤魔化す為にふ、と息を吐いて目を開き、ヘッドボードに直接預けていた背を離すと、鬼利は両手を幽利の腰の後ろで組み合わせた。

「倒すよ」

 端的に告げて上半身で幽利の体を押し、両手で腰を支えながら仰向けにシーツの上に寝かせる。鎖骨に額を押し付けながら懸命に角度の変化に耐えている幽利の吐息が切れ切れに肌を撫でるのにふと、是非を答えていない事と今の幽利には”見えて”いない事を思い出したが、必要も無いだろうと腰を打ち付けた。

「あ゛ぁあああッ!」
「……は、……」

 どうせ帰結する先は同じだ。つまり強かに最奥を殴られた幽利が耐えられる筈もなく絶頂し、溢れて溺れる程の執着を快楽という形で捩じ込んでやりたいが為に鬼利が締め上げに耐える、今だ。

 喉を晒し、天井を超えて壁を逆さまに見る幽利の背がシーツに戻るのを待たず、鬼利は腰に回したままの片手でそれを引き寄せ、髪を掴んで深い絶頂に堕ちているその顔をこちらに向かせる。知らず上がった口角にか、痙攣する粘膜に構わずぢゅぐぢゅぐと掻き回される快感にか、怯えたように弱々しく首が横に振られた。

「あ゛っぁあっ、ま、っで!きり、まってぇ゛っ、い、ぃってま、ひゅ、ぅううっ!」
「知ってるよ」

 だからこうして一番弱いやり方で追い打っているのだ、と思い知らせる為に、ゆっくりと腰を引いて前立腺を抉る。鬼利の為だけに在る幽利の内側はその形にぴったり沿って弱点だらけだが、ここは中でも2番目に弱い。
 押し上げながらごりゅ、ぐちゅ、と膨らみに沿って捏ねられるのが特に、顔をぐしゃぐしゃにして痙攣が止まらなくなる程にお気に入りなので、鋭く息を吸って背骨を灼く感覚を堪えながら、幽利の為だけに在るモノでじたばたと空を蹴っていた足が大人しくなるまで繰り返す。がくがくと震えながら爪先までぴんと伸ばして引き攣るまで、何度も。

「あ゛ーーーーっ、ぁあ゛ーーーーー……ひ、ぎッ」
「幽利」

 熾火の焼き切れた瞳がぐるりと瞼の裏に隠れようとするのを許さず、その直前でぐっと全身で幽利の体をシーツに押し付けて、鬼利は両手でびっしょり濡れたその頬を包んだ。
 強制的に注ぎ込まれるものに溺れて虚空を見ていた焦点が、それでも声に応えて鬼利を見る。

「幽利」

 重たげに瞬いた目尻から、涙が零れて鬼利の指に伝う。見えない片割れの為に応えを音にしようとはく、と唇が微かに動く。
 幽利と比べれば遥かに狭い視界をその顔でいっぱいに埋めたまま、鬼利は囁くような声で与えた名を呼んだ。


 ―――僕の。僕だけの、


「……幽利」
「ぁっ、」

 それまでとは違う、芯の芯から沸き起こったものにびく、と全身を震わせた幽利の両目が、ゆっくりと見開かれる。

「だ、ぇっ………だめ、きりぃ……っだめ、ぇ……!」

 絞り出すように珍しい拒絶を叫び、その瞳を涙で止めどなく濡らしながら、腕を辿って登った幽利の両腕は鬼利の背を強く引き寄せる。だめ、やだ、と深すぎる幸福を怖がりながら、肩甲骨を掴むように爪を立てて、ぎゅうっとその全てで抱き締めた。

「はあぅううぅぅ……っ!」
「っは……」

 深く深く満たされた幽利の声を耳元に聞きながら、鬼利もまた熱に浮かされた溜息を吐いて、肉の境界を満たして埋める快感と幸福に浸る。

 互いに程度は違えど同じく濡れた肌を合わせ、互いが立てる音だけを聞きながら、暫く目を伏せてひとつにもどった錯覚に没頭した。





 起き上がろうとして出来なかったらしく、上半身だけを横向きに捻ってもぞもぞしていた幽利を仰向けに戻して、鬼利は温かい濡れタオルでその顔を拭う。
 分単位のスケジューリングと効率化は得意分野だ。まだ時計の針は普段の就寝時刻から半円を過ごした辺りで、目覚めの不快感を多少なりとも減らす為に、幽利の肌を清めてやる時間は充分にあった。

「……きり……ぁ……き、り……っ」

 自分でやる、とタオルに伸ばされる幽利の手をシーツに戻し、涙の痕が残らないよう顔を拭いて、胸のピアスを外して上半身の汗も拭い、内側に集中させる為に努めて刺激していないにも関わらず、2、3回分の残滓に濡れた下肢を拭く。いくらかシーツにも染みてしまっていたが、マットレスとの間にはもう1枚パットがあるし、明日の朝には幽利が幸せそうな顔をして換えて洗う布だ。
 体調と身嗜みの為に清潔にしているだけで、実際は言動からの印象ほど潔癖ではない鬼利は頓着せず、タオルを換えてから幽利の片足を肩に担ぎ上げた。

「息を吐いて」
「……んゃ……っ」
「幽利」
「っ……ふ、……ぅぅ……」

 勝手に足を下ろそうとする幽利を低く呼んで大人しくさせ、タオルを宛てがいながら注ぎ込んだものを掻き出す。幽利が奥歯を噛んで顔を背けるのは芯に余韻が残る体が刺激されて辛いから、ではなく、主人に後始末をさせる引け目からだ。血どころか受精卵を分けた双子同士で支配と服従の淫蕩に耽っている時点で、綺麗だ汚いだを論じる段階はとうに踏み砕いているので、これもまた他愛のない駄々の類である。

 完璧、ではないが適当な量の粘液と体液が混じったものをタオルの内に挟み、掻き出す間に2度ほど浅い絶頂を迎えていた幽利の下肢を返した綺麗な面でもう一度拭って、鬼利は汚れた2枚のタオルを手にバスルームに戻った。洗面台でざっと予洗いしたものは濡れたまま洗濯機に任せ、羽織るだけにしていたパジャマの前を留めていきながら寝室に、やっと上半身を起こせるようになった幽利の居るベッドに戻る。

「……鬼利……」
「こっちに」

 まだ火照りの残る顔で手を伸ばす幽利をシーツの乾いた面に誘導して、鬼利は隅に追いやっていた枕を整える。深く満たされた証明にどこもかしこもくにゃくにゃとしている幽利に下着を履かせるのは諦めた。整えた枕のひとつを与えて先に隣に寝かせ、仰向けに布団を被る。
 足元に潜り込もうとはせず、右腕をひしと抱き締めて肩に頬を擦り寄せる幽利の体温はまだ高い。汗をかかないように首元を整えてやって、必要も無いのに昔からの手癖でその背をとんとんとあやしてから、目を閉じる。


「おやすみ」
「……み……さぃ……」


 ふにゃふにゃした声とぴとりとくっついた体に温められた鬼利の呼吸も、そう間を置かずに深くなった。










Case6.お仕置き



 胸、脇腹、下腹、太腿、会陰、各所に楕円のパットを貼り付け、リングを外されたピアスホールにパットとは違う色のコードが繋がったフックを代わりに通して、鬼利は枕元に置かれた一抱えほどの機械のスイッチを入れた。

「んっ」

 音はしない。動くこともない。代わりに機械から伸びるコードが繋がったパットから電気が流れ、幽利はびくりと爪先を揺らした。左右それぞれ深く折り畳んだ太腿と脹脛を膝下から足首までコルセットに締められた両足は、はしたなく開いたまま閉じられないようにベッド枠から伸びるベルトに引かれているから、咄嗟に自力で動かせるのはそのくらいだった。

 古風なラジオを模した頭上の機械がなんなのか、頭が良すぎて器用な鬼利が万年筆ではなく工具を握ってそれに何をしたのか、幽利には正確な所は解らない。
 ぴりぴりしていてちょっと痛い、だけだったお遊びSMグッズが、ぴりつきの欠片も無くした代わりに肉の深い所を堪らない加減で揺らし神経を嬲る、ガチめな仕様変更と強化を施されたという事実だけは身を持って知っている。

「っ……ぅ……ぅぅ……」

 じんわりと近くのパットから性感帯に染み込んで来る、快感の形をした微かな余波。会陰に貼り付けられたパットがその奥の前立腺を刺激して、粘膜ごしに嬲られるのとも、ローターに揺らされるのとも、内側から拡げられ苛められるのとも違う、実体の無い電気に神経を揺らされる感覚が幽利の体を炙る。一度火が点いてしまったら最後、敏感になった他の性感帯も周囲のパットから流される電気を過敏に拾い上げ始めて、傍らに座る鬼利を縋るように見上げた。

「ぅう、ぅ……ぅうう……っ」

 許しを請いたいのに、ディルドギャグに舌を押さえつけられた口では呻き声さえ不明瞭だった。太腿にそれぞれ括られた腕も当然伸ばすことは出来ないし、四肢を固定された体では身動ぎも殆ど出来ない。唯一まともに動かせるのは首から上くらいで、それだって額に鬼利の掌が乗せられてしまえば動かせなくなる。

「……」
「ふ……ぅ……ふ、………ぅ……」

 滲んだ汗に濡れた生え際を指先で撫でながら、鬼利はギャグの隙間から荒い息を吐く幽利を見下ろしている。乳首のフックに繋がったコードには電気が流れていない。他とは分けられた鬼利の手の中にあるスイッチも、まだ押されない。

 5分も経てばぞわぞわはじんじんに変わって、迂遠なのに強制的な刺激に嬲られ続ける全身がじっとしていられないくらいに熱を持つ。パットを横に貼り付けられた乳首はフックを通されていない方まで固く尖り、腹筋はびくびく震えて、下腹ははしたなく滴らせる先走りで小さな水溜りが出来ている。
 その中でも堪らないのが不規則に震える腹の中で、鬼利によくよく快感を覚え込まされた肉壁は浅い所も深い所も、じんわり響く余波に煽られ咥えるモノを欲しがってきゅうきゅうと疼く。

「っ………ッ、………ぅ゛――……!」

 足を大きく開いて固定された姿勢もまた、幽利を苦しめるのに一役買っていた。下にクッションを当てられて腰を上げたそれは正常位のそのままで、なんなら2週間前に同じコルセットで両足を拘束されたままセックスをしていて、その時は腕は縛られていなかったしベルトで開脚を強いられてもいなかったけど、鬼利を蹴ってしまう心配が無かったから幽利は大いに溺れた。片手に口を塞がれて酸素を制限されながら激しく突き上げられる度にイった愉悦も、手を繋いで貰いながらゆっくり鬼利の精液を粘膜に刷り込まれた恍惚も、同じ姿勢を呼び水に際限なく鮮やかに蘇ってくる。


 ………ほしい。


 じんじん芯から疼く乳首を痛いくらいに引っ掻いて捻って、べったり濡れた亀頭を滑らかな掌でくちゅくちゅ撫でて、奥の奥まで熟れてはくはくと喘いでいる縁を鬼利の熱いモノで抉じ開けて欲しくて、堪らない。

「ふぅっ……ふっ……ぅうう……っ」

 縋るのではなく、媚びる目をした幽利が、ぎし、と両足に繋がったベルトを鳴らした時。
 それまでじっと片割れの反応を観察していた鬼利が、機械に繋がった手元の小さなスイッチを押した。


 パチッ。

 
「ん゛うっ!?」

 小さな音とは裏腹に茹だった脳まで突き抜けるような痛みと衝撃が走り、幽利は思わず鬼利の掌が乗った頭を仰け反らせる。一瞬空白になった頭がスイッチから離される鬼利の親指と、額から離れて頸動脈に当てられる指先を知覚して、

「……っんむぅうぅ……!」

 じゅわあ、と一瞬の痛みに強張った神経に染み渡るもどかしい疼きと快感が、これがただの焦らしプレイじゃなくお仕置きであることを幽利に思い知らせた。





 空気の流れに、じっとり伝う濁った雫に、止まらない蠕動に、手遊びに鎖骨や腹筋の筋や鼠径部を撫でる繊細な指先に、耐えず微弱な電気に快感神経を炙られ続けている体と頭の両方を10分ほど嬲られて、ほんの一瞬フックから流される電流に強制的なリセットを掛けられる。

 パチッ。

 電気は傷も痕も刻まないから、小さな音の鋭いそれはありのままの痛みとして幽利の体を突き抜けた。

「っ、……ん゛―――……!」

 そして痛みの後の快感は、手荒く苛まれた後に柔く優しく愛されるのと同じように、とても”効く”のだ。


 トロ火でじっくり、なんてもんじゃない。調理に例えるなら、精密な機器が繋がった鍋の中で沸騰寸前をずっと維持されたまま煮込まれ続けている。くたくたにふやかされてついに蕩ける寸前で氷水に引き上げられて、キンと冷やされて無理矢理に固められてから、また鍋に戻されてぐじゅぐじゅと煮込まれる。

 その繰り返し。


 パチッ。

「う゛ぅッ………んぅ、う、う゛うぅう……!」

 また流された電気にびく、と震えてぶわ、と溢れた涙を、鬼利の指先がそっと拭ってくれる。その手に離れて欲しくなくて、お願いだからそのままそこに居て欲しくて、幽利は熾火の滲む瞳で懇願しながらすりすりと掌に濡れた頬を擦り寄せた。

「んっ……んぅっ……!」

 甘えて媚びるのではなく、懸命に縋るその視線に、片手にスイッチを弄ぶ鬼利が微笑む。

「……辛いね、幽利」

 穏やかな声と共に頬から離れてしまった手が、つうと中指だけを肌に引っ掛けながら胸の中心を撫で下ろす。

「特に辛いのはここかな?」

 滲む汗に濡れながら滑っていった手がぺたりと、結腸の真上に貼り付けられたパットの下に当てられた。ぎしりと今日一番強くベルトを軋ませながら幽利は何度も頷いたが、そうだよね、と優しく頷き返してくれる鬼利はひんやりした掌をぬるりと滑る肌に宛てがい続ける。

「ここからでも解るよ。……欲しがってるのが」

 熱が移って同じ温度になった掌がぐにゅ、とそこを揉み、幽利は濁った悲鳴を上げた。涙が溢れて、鈴口からもどぷ、と溢れた体液が鬼利の手を濡らして、でもそれだけ。
 絶えずびくびくと痙攣している筋肉の上から掴むようにされても、その刺激はきゅううぅぅ、と引き攣れる中までは届いてくれない。とても耐え切れない切なさにぐっしょり濡れたシーツに背中を擦り付けても、激しい飢えに苛まれ続けた意識が朦朧としてきても、幽利には耐えきれない全てを耐えることしか許されていない。

「ここを、突いて、抉って、潰して、捏ねて。そういう風にして欲しいんだよね?」

 内側がどれだけ極限状態なのかを知らせるようにびくびくとうねる腹をとん、と中指で叩いて、鬼利はゆるりと首を傾げた。ほしい、欲しいです、そのうちのひとつでもいいから、と必死に頷く幽利を見る橙色が、慈しみそのもののように柔らかく細まる。


「でも、貰えないんだよ」

「幽利は悪い子だから」

「悪い子は、欲しいものを貰えないんだよ」


 パチッ。

「う゛っ………~~~ッ!」
「辛いね、幽利」

 肩が浮くほど仰け反らせて悶える幽利の頭にもう一度、「いまはとても、つらくてくるしい」と言い聞かせて、鬼利は通電の痛みなんて露ほども感じない手を離した。
 シーツで体液を拭いながら足を崩し、緩く立てた膝にスイッチを持った片腕を置いて、綺麗になった指先が幽利の額に張り付く髪を優しく梳いて撫でつける。

「……あとどのくらいで、幽利はいい子になれるかな?」

 ごめんなさいも、許して下さいも言えない幽利は、ただ自分の愚かさと浅はかさを深く深く後悔するより他に出来ることは無かった。





 引き伸ばされた2時間弱をたっぷり苦しんで、骨の髄までおイタの後悔が出来たら、次は反省の時間だ。
 ずる、と抜かれたディルドギャグに上顎を擦られる、すぐ側の脳の奥まで響くむず痒さに漏れそうになった声を必死に飲み込んで、幽利はまずその意を示す。

「ごめ、っんなさ、ぃ……もぅ、しませ、ん」

 シリコンの根本にくっきりついた歯型を眺めてからギャグとスイッチを枕元に置いて、鬼利は手枷とコルセットを繋ぐ頑丈なカラビナ状のリングを外した。

「何を、もうしないの?」
「う、……うそ、つきませ……ん……鬼利に、もう、……っぅそ、ぜった……ぃ……っ」

 膝に結ばれていたベルト2本も外し、開かれっぱなしだった股関節を労るように足の付根を、内腿を、撫でてくれる鬼利の掌に上がりそうになる嬌声を飲み込み、自由になった両手でシーツを握りながら、幽利は真摯に自分にとっての全てである片割れに誓う。

 頭上にある機械はまだ止められていない。単調で、微弱で、だからこそ神経を鈍麻させることなく幽利を苛み続けた電流は、今もぴったり張り付いたパットから狂おしい疼きを流し込み続けている。

 パチチッ。

「何故、嘘を吐いてはいけないの?」
「っ……!……っは、………く……!」

 2つのリングを横に転がすついでに今までより長くスイッチを押し込んでから、鬼利は強く硬直した幽利の胸に手を置いた。激しい痛みに貫かれた後の、何度繰り返しても新鮮に辛くて気持ちいい快感が、じゅわあ、と染みるのに合わせて、弾けてしまいそうに充血した乳首の側をかり、と柔く引っ掻く。

「ひ、……ぅっ………し、しんじて、もらえなっ……く、なる、からっ……ぁ……きり、鬼利にっ、また嘘、ついてる、っておもわっ……れ、っ」
「それだけ?」
「くぅ、う……おれ、の、おれの、ぉ……ひッ……!」

 かり、かり、とそこを掻いていた指先が痛いほどに尖っていた先端にぴと、と乗せられ、幽利は湿ったシーツを引き千切る勢いで握り締めた。派手に跳ねた拍子に擦れないよう、直ぐに掌ごと離されてしまった指が触れたのはほんの一瞬のことだったのに、じいぃん、と肉どころか骨まで響く余韻に遠近のピントがブレる。

「幽利」
「ぁ……おれの、ぜんぶ、鬼利のだから……きもちいいのも、いたいの、も、ぜんっ……ぜんぶ、鬼利の、だから」

 体も、心も、思考も、感覚も、情動も、”街”の天井まで跳ね飛んでいたのに呼ばれれば硬質な橙色を映す瞳も、幽利の全てはひとつ残らず鬼利のものだ。それなのに嘘を吐くのは、隠して欺こうとするのは、痛みを感じないからとその体を引き裂いて心臓よりずっと深い所を抉るくらい、とても悪いことだ。
 幽利は既にその非道を初めての兄弟愛では済まないキスと引き換えに行っている。もう抉った虚を埋めるために差し出せるものなんて残ってないのに、2回目なんて有り得ない。嘘や誤魔化しが鬼利に通じるかどうかは関係無い。

「……それが解っていながら、平気で嘘を吐くんだから」
「ごめっ……んなさ、あ……っ」

 心の底から愚弟で駄犬の浅はかさに呆れた溜息を吐いて、鬼利は下腹に貼り付けられたパットをぺりぺりと剥がした。内側から滲んだ汗にふやけて他より白くなった肌を撫でてから、揃えられた3本の指がぐ、と一度そこを押し込む。

「あぎっ……ぃ……―――っ!」
「どうしてあんな嘘を吐いたの?」

 出来ない理由を聞いてくれるのは、鬼利の優しさで、兄としての寛容さで、どんなに覚えの悪い下僕でも見限らない主人としての慈悲だ。感じるのは深い感謝であるべきで、それ以外なんて有り得ない。やっと実体のあるものに、それも愛して止まない鬼利の手に揺らされたそこがきゅうううぅ、と限界まで引き攣れて、切ない甘イキに舌の根まで痺れているとかは関係無い。

「はじめ、て……ひっ、びっくり、ひて……っおこられぅ、かも、……こぁく、てぇ……!」

 いよいよ力の入らなくなった指先で、それでもなんとか反省を示していい子になれた証明にシーツを掴もうと藻掻きながら、幽利は必死に支離滅裂な懺悔をした。


 鬼利の手が置かれた所まで挿れて貰うのも、視界どころか体丸ごとを見失うようなイき方をするのも、勿論初めてじゃない。中から抉じ開けられたまま上からぐりぐり押されるのだって、それをして貰うとその後体も頭もまるでダメになってしまうくらい大好きだ。

 でも、抜かれて、すっかりダメになった頭がダメなりに知覚能力を取り戻す程度には間を置いたのに、何も挿ってない腹をとんとんと叩かれてそこでイったのは、3日前が初めてだった。

 輪郭を失うような深イキからどうにか欠片ばかりの自我が浮上して、まず幽利が見たのは驚いている鬼利の顔だった。
 片手は半端に浮いたままで、もしかしたら幽利が暴れて跳ね飛ばしたのかもしれなかった。そのくらい深かったのだ。肉と皮膚の上から軽く、あやすようにされただけなのに。
 そんなイき方は鬼利に教えられていない。いつだって深く多く考えているから動じる事の殆どない鬼利がびっくりするくらい、おかしな絶頂をしてしまったのかと、怖くなった。
 驚かれたことに驚いて、教えられていないイき方をしたのが怖くて、鬼利の意図を外れてしまうくらい淫らになってしまった事を怒られたり、悲しまれたりするかもしれないと思って。


 混乱を察して「とんとんされてイったの?」と優しく聞いてくれた鬼利に、「イってない」と見え透いた嘘を吐いてしまったのだ。


「本当は怖かったのなら尚更、どうしてその時に言わないの」
「ごめ、なさい」
「震えているから撫でようとしただけなのに、その手に噛みつかれた僕の気持ちが解る?」
「か、かなしい」
「セックスした後に、全然よくなかったから二度としない、って僕が嘘を吐いたらどう思う?」
「さみし、い……やだぁ……っ」

 今や鬼利の口調は子供に言い聞かせる、昔によく聞いていた厳しくも温かいそれで、つられてあの頃に戻ったようにぐすぐす泣きながら幽利は重い腕をシーツから上げて伸ばした。話しながら手際よくパットを剥がしていった鬼利が、パチンと機械の電源を切って、暖かい胸の中に抱き締めてくれる。


「……もうしないね?」


 しない、もうしない、ごめんなさい、としゃくりあげてぐちゃぐちゃになった言葉で伝えながら、ぎゅうぎゅうと鬼利の背中にしがみつく。悪いことをして、叱られて、謝って、許される。悪い子からいい子に戻れたら、優しくよしよしと頭を撫でて貰える。
 幽利はわあわあと子供らしく声を上げて泣くのが苦手で、ぐすぐすと啜り泣くのが常だから、泣き止むまではまあ時間がかかった。体力も無かったから効率悪く涙を落としきる頃には疲れ果てていて、あやされる内にそのまま眠ってしまうことも多かった。ほんの数時間早く産まれただけの鬼利はいつも、何度も、抱き締めたまま好きなように寝かせてくれた。

 子供の頃は、それで終わりだった。

 厳しくも優しい双子の兄に―――それだけに留まらずご主人様としても完璧な素質を備えていた鬼利に、腹をとんとん撫でられただけで結腸で深イキ出来るまでに体と心を作り変えられていない頃は。





「……手が止まってる」
「っひ……ぃう゛……ぅうぁあ゛あ……っ」

 ぺちん、と濡れた鬼利の手に二の腕を叩かれ、シーツからはみ出た爪先をぎゅっと丸めながら止まっていた手を動かす。ベッドの縁ぎりぎりに俯せた腹の下に潜らせた幽利の両手は、表も裏もびしょびしょに濡れながら自分のモノを握っていた。感覚の失せた手はゆるゆると裏筋や亀頭を撫でるようにしか動かせなかったが、代わりに不用意に力を込めてしまうこともなく、先走りなんだか精液なんだか潮なんだか解らない体液がくちくちと鳴る。

 体勢的に手元の見えない鬼利が判断材料にしているその音を、当の幽利はまるで聞いていなかった。視覚が異常に発達し過ぎているが故に常人よりキャパが狭い聴覚は、外ではなく内から響く粘着質な水音で既にいっぱいいっぱいだったのだ。

「ぁ、あ……あ゛―――……!」

 ぽんぽんと褒めるように肩甲骨を叩いた鬼利の手が、そこに体重を掛けながらゆっくり腰を引く。いかないで、と引き留めようとする内壁が攪拌されたローションをぷちゅぷちゅ食む音。全部が性感帯のようになった粘膜をぞりぞりとこそがれていく音は幽利の妄想の産物で、形のいいカリにごりゅ、と前立腺の膨らみを抉られる音と、喪失感に舌を零しながらだらしなく喘ぐ声は現実。

 ひと思いに捻じ込んで何もかも吹き飛ばして欲しい、と幽利は何度目か知れない願いをぐちゃぐちゃになった脳裏に抱く。あれは、あれは気持ち良すぎて怖い。ピント操作を失った視覚がまるで使い物にならない今、電気に焦らされ嬲られた触覚がいつも以上に鋭敏に鬼利の存在を確かめてしまう。パズルのピースみたいに嵌るべきところに、嵌られると今よりもっと頭がぐちゃぐちゃになってしまうところに、否応なしにぴったり嵌って、体と心の深いところがきゅううっとなってしまう。

 だから、許されるのならば自分から腰を押し付けてしまいたい。けれど、それは叶わない。

 許される許されないの話ではなく、コルセットに締められたままの脛の半ばから先がベッドから出る位置で俯せに蹲り、胸元にクッションを押し込まれた背中を押さえられているから、物理的に叶わない。シーツに埋もれるしかない幽利に対して、ベッドから降りて立っている鬼利はその体重までも自由自在に使える。

「あぅっ、う、ぅ……う゛ぅ~~……!」

 背中を押さえられ、腰に指を食い込まされながら、抜かれた時とは逆向きにゆっくり貫かれる。ごりゅ、ぞりぞり、ぷちゅぷちゅ、内側から響く音で聴覚がいっぱいになって、役立たずの視覚は灰色に霞み、ぶるぶる震える手はろくに動かせなくなってただ弱々しく敏感な先端を潰すように握る。

「……幽利?」
「ひぅッ……ご、ごぇんな、ひゃ……ぁあぁぁ……あぁぅう゛うぅう……っ!」

 背中の手はそのまま、腰にあった右手に指を絡めて後ろ髪を強く引き上げられ、幽利は縺れる舌で謝りながら懸命に手を動かそうとした。

 手が届かないからそこは自分でね、と命じられて頷いたのは幽利だ。できる?と問われて頷いたのもやっぱり幽利だ。身じろぐ度にクッションに乳首が潰されシルクのカバーがしゅりしゅり擦れ、ぴったりと鬼利を咥え込んだ粘膜は全ての弱点を制圧されて、とちゅ、と最奥を小突かれるだけで骨盤と背骨と頭の中に火花が散り、拙く掌に擦れるだけでも腹の底まで震えが走ってさらさらした体液を垂れ流すのが止まらない、とかは関係ない。出来ると言ったことは腕がもげない限りやり遂げなければならない。

 じゃないと嘘になる。もうしませんと泣いたその涙も舌の根も乾かない内に、また鬼利に嘘を吐いてしまう。

「ひっ、ひっぃ、い゛ぅ、う、うぅう……!」
「……」

 ろくに手が動かないからと肩から揺するようにして、拙いにも程があるオナニーなんだか上半身に集中した痙攣なんだかわからない行動をする幽利を、鬼利は目を細めてしばらく眺めていた。熾火はとうに焼き切れているので、前を弄る手が弱い所に引っかかる度に不規則な痙攣が走る粘膜の感触と、もぞもぞと必死になって無様に足掻く幽利の愛らしさを思う様愉しんでから、飾り枕をひとつ引き寄せる。

「もういい」

 味わうのにも愛でるのにも満足したから、と鬼利は折り畳んだ枕を腰の下に押し込んだが、押し込まれた幽利はその平坦な声を聞いてぞっと背筋を凍らせた。呆れられた、失望された、見限られた、と思いつく限りのネガティブな勘違いをしてごめんなさい、と叫ぼうとして、ぐりゅ、と最奥の入り口を捏ねられる恐ろしいまでの快感に全てが嬌声に代わる。

「はぅう゛うぅうっッ」
「腕を回して。そっちじゃない、こっちだよ」

 引き攣る腕を引かれてクッションと腹の間に入れられ、もう片方もそこに重ねるように導かれ、パットが張り付いていた所を自分の両手で抱き込むような格好になった幽利は咄嗟に腰を浮かせた。ぐりゅ、ぐち、と抉じ開けられていくのが外からも解る。はあ、と頭上で零れた密やかで熱い吐息に、恐怖ではなく興奮によってまた背筋が寒くなる。

 ふ、と整えた息を一瞬止める時、その瞳がなにを見てその奥がなにを思うのか、幽利は知っていた。内側が見えないから、腰の捩れ具合だとか足の開き方だとか呼吸や鼓動の間隔だとか、外側から解る限りの情報を精査している。脆い内臓を傷つけないように。手綱を握る側の責任として、取り返しのつかない事にならないように。

 偶々目と頭に多少の余力があった時に見ていて幽利はそれを知っていたが、知っていてどうなるかと言えば、奥の奥まで抉じ開けられ満たされる充足への崇拝にほど近い愛の乗算だ。加算ではなく、乗算。

「ぁ、がッ……っ、……は、へ……っへぁ、あ゛……!」

 だらりと犬のように零してしまった舌が戻せない。ただでさえ桁違いの快感に、お仕置きの電気責めでじっくり煮詰められて、そこに崇拝と妄執と愛欲の全てが灰色に混ざり合ったものが掛け合わされてしまったら、それはもうおしまいだ。快楽にも多幸にも弱い幽利のキャパを超えるのに、きっと1秒も掛からなかった。
 けれども、どうにも臆病な下僕の慣れに任せていては進捗が芳しく無いと、この頃手ずからキャパシティの拡充に稼働を割いている鬼利は落ちるのを許してくれずに、クッションと自身の両腕を下敷きにした幽利の腰をぐっと上から押さえつける。

「ひぎゅっ、ぐうっ、ぅん゛っ……ぅう゛う゛ぅうっ!!」

 ぐちゅ、ごちゅ、とカリを舐めしゃぶる肉輪と曲がり角の先をいたぶってからぐぽ、と引き抜いて、重ねた手首と掌底の一番ごつごつした所に肌の上から押し付け、背骨の上から置いた掌と挟み撃ちにして抉る。
 ぱち、ぷち、と頭の中でなにかが弾け飛ぶ恐ろしい音に追いやられていた生存本能が叩き起こされ、派手に跳ね上がった体がシーツに落ちるのに合わせてまた、ゆっくりと、ぷちぷちぷつぷつ頭の中が鳴るくらいにゆっくりと、溶けて落ちそうな熱の全てをくぷんと呑まされて、今度はその上からぐりぐりと腰を押される。

 抜いては押され、挿れては抉られ、そんなことを繰り返されたら、それはもうおしまいだ。正気とか知性とか品性とか人間としての最低限のおしまいである。


「きぃ、きり゛っやぁあっ、ぐりぐりやめでぇっ、きもちぃい゛いッ……しぬ、ひんじゃうぅ、うぁあ゛ああっ!」


 せめて苦しいと言えばいいのに。―――そう笑った鬼利の声が切れ切れになっていたことを、汗だくになった背中にぽつりと同じ温度の雫が降っていたのを、知能指数が底を叩いてきもちいい、と喚いていた幽利は知覚出来ていない。

「っふ、……ぁ……っ」
「あ゛っ、ぁあぁ……あぁ――……っ!」

 こんな時まで静かな鬼利の掠れた声と、届く限りの一番奥に注ぎ込まれた片割れの情欲の熱さは、それだけはしっかり聴覚と触覚に叩き込んで、ぷちぷち鳴りながら半分くらい欠けたような脳の記憶野に刻み付けて、べちゃりと濡れたシーツとクッションに崩れた。

 とっくに溶けてなくなったと思っていた腰骨を、とんとん、と鬼利の指先が叩いて、とっくに焼け焦げてなくなったと思っていた神経に、さわわ、とさざ波に似た痺れが走る。


「……まだ怖い?」


 耳元で囁かれた声になんと答えたのか、答えられたのか、そこまでは覚えていない。










Case7.???



 目が覚めた時、背中にはブランケットが掛けられていた。

 まだ焦点の定まらない視線でコンクリート打ちっぱなしの壁を、その奥の寝室を、リビングをぼんやりと眺めて無意識に片割れの姿を探す背中を、しっとりと毛足の長い繊維が滑る。
 擦り剥き乾きかけた傷を撫でられるむず痒さ―――に、引き摺り上げられ叩き起こされた意識が今ここに居る理由を思い出した。置いて行かれた絶望、ぼろぼろになった自我に尚もやすりを掛けられ極限まで削られる苦痛、濡れているだけではない内側から凍えるような寒さと恐怖、それらが鮮明に疲労した脳に突き刺さるような、強烈なフラッシュバック。

「っ……ぅ、く……」

 手袋を着けられたままの手で咄嗟にブランケットを引き剥がし、全身の擦り傷や打撲痕から響く鈍痛に幽利は息を詰めた。深く息を吸って耐えようとした喉にもびり、とした痛みが走り、拘束台の上で蹲りながら何度も咳き込む。

 舌に血の味がした。

「ふ……ふ、ぅ……」

 なんとか呼吸を落ち着かせて、涸れた喉を少しでも労わる為に片手で口を覆いながら、べたべたするラバーの上で膝を抱える。吐息で少しばかり空気を湿らせても、喉は乾いたままだ。出したものがそのまま乾いた下肢は酷い有様で、結局朝方まで悶え苦しんでいた体はどこもかしこも重怠く、関節がぎしぎし軋む。
 柔らかな暖かさを、意識を落としてからそっと与えられた鬼利の優しさを、自分の手で払い落してしまった背中がとても寒かった。

 蘇るあの絶望が、苦痛が、痒みが怖くて、目をぎゅっと瞑り出来る限り視野と体を縮めて耐えようとしたが、疲れ乾いて飢えた体での自給自足なんてたかが知れている。30分と経たずに背筋を這い上がる寒気に耐えられなくなって、幽利はそろそろと身を起こした。
 すっかり乾いた床に落としてしまったブランケットは、台から降りなければ届かない。打ち付け、擦り剥いて赤紫色になった膝をゆっくり伸ばして、側面に突き出たパイプに両手で縋りながら、ひやりとしたタイルに爪先をつける。そっと体重を掛けた足首にも鋭い痛みが走り、それに竦んだ拍子にパイプを掴んでいた手が手袋と単純な握力不足でずるりと滑って、結局幽利は慎重に降りようとしていた台から落ちた。

「ぐ……ぅ……っ」

 これ以上、傷を増やし悪化させないよう慎重にしていたのに。そもそも大人しく包まっていれば、払い落していなければ、寒さに震えることも打撲痕を更に打ち付ける痛みに呻くこともなかったのに。
 虫のように蹲り震える自分がみじめで、どこもかしこも汚くて、ただでさえ足りない水分を両目から零しながら、手繰り寄せたブランケットに頭から包まった。寝室のリネンと同じ柔軟剤の清潔さの中に、ほんの少しでも鬼利の匂いが残っていないかと、鼻から深く息を吸い込む。

 ……甘い匂い。

「……」

 救いようがないことに、視覚ではなく嗅覚で幽利はそれに気が付いた。食器を下げる時に何度も往復せずに済むように、と鬼利が用意してくれた大きい木製のトレイ。丁度台から降りてまず手が届く場所に置かれたその上に、ペットボトル入りの水と、プラスチック製のコップ。真っ白な深皿に、皮つきで賽の目切りにされた林檎。

 甘い匂いの正体は、その上から回しかけられた蜂蜜だった。

「……」


 ―――これは、許しじゃない。


 このブランケットを掛けてくれたのと同じ、鬼利の優しさではあっても、許しではない。疲れて濡れて裸では風邪をひくから、乾きと飢えは命に関わるから、所有者としての、所有物の管理としての行為であって、まだ許されてもいないのに、勝手に与えられてもいない温もりに慰められようとするなんて、有り得ない。
 出勤前の時間をこんなことに使わせてしまった後悔と、懺悔とを既にあるものに上乗せして、慈悲と寛容さに深く感謝しながら、一滴も無駄にしないよう謹んで身体の維持に努める。それが今赦される全てだ。

 添えられているのがお気に入りのスプーンとフォークであることに気づいて、ひく、と嗚咽を漏らしそうになった喉を片手で押さえつけながら、それが全て、それだけ、と頭の中で何度も唱えて、幽利はずるりと床を這った。ぽた、と腕の傷を伝った涙に滲んだ血が混じっている。

「………きたない……」

 そうだ、卑屈や被害妄想は関係なく、現実として今この体はとても汚い。血に、涙に、唾液に、精液に、とても食卓につくに値しない汚れに塗れている。
 巻きつけたばかりのブランケットを慌てて剥ぎ取り、幸い汚染を免れていた清潔なそれを畳んでトレイの前に置いて、幽利は廊下へと続く扉へと目的地を変えた。用があるのはぴったり閉じた扉ではなく、その傍の壁面に据え付けられた蛇口とそこに繋がったホースだ。

「っ……」

 隣のシャワーと違い蛇口が汲むのは地下水由来の水道水だから、その水温は酷く冷たい。幽利はそれを巻き取られていたホースを使って頭から被った。手首のベルトが留められていない手袋を両方脱いで拘束台の上に置き、べたべたした汚れを髪から、顔から、ちりちりと疼痛を生む無数の擦過傷を無視して体中から、両手でこそぎ落として排水溝に流す。

 冷水に冷やされた全身の震えが止まらなくなった所でやっと、一通りの汚れを落とすことが出来て、かちかちと鳴らないようにきつく奥歯を食い縛りながら幽利はトレイの前に戻った。震える手をブランケットに伸ばしかけ、このままではそれを濡らしてしまうことに気づいて両膝を抱える。
 出来るだけ小さく体を丸めるように手足を寄せて残った体温を集めながら、ペットボトルに手を伸ばした。今の握力ではキャップを開けるのも容易ではなく、抱えるようにしながらどうにか開ける。用意されたコップに注ごうとして、黙っていても震える今の腕ではそれさえも難しく、コップの3分の1はトレイに零した。


 しゃく、と噛んだ林檎は甘かった。


「……」

 しゃく、しゃく、とスプーンで掬った果実を口に運びながら、幽利は食べるごとに減っていく赤色の皮の、複雑な模様をぼうっと眺めていた。咀嚼し、飲み込む度に噛んだ唇や裂けた喉がずきりと痛んでも、これを残さず食べ切ることが今の幽利の使命だった。
 一度も手を止めずに最後の一欠を、皿に残る果汁と蜂蜜を掬って飲み込み、2度に分けてペットボトルの水を全てコップにあけて飲み干して、床に両手をつく。零してしまった水をトレイに這いつくばって啜って、舐めた。少しだけ木の味がした。

 掬いきれなかった蜂蜜を残したのは、皿を舐めるのはお行儀が悪いからだ。そう教えられた。鬼利に。

「……きり」

 無意識にその名を零してしまった途端、胸に引き絞られるような痛みが走る。カトラリーとコップ、空になったペットボトルにキャップを戻してトレイの上に整え、幽利はのろのろとブランケットを被りながら四つん這いで部屋の隅に向かった。


 鬼利は執務室に居なかった。
 定期的に顔を出す他の幹部達の執務室にも、時折顔を出す一般職員の事務所にも、本部塔内のどこにも居ない。渉外に出ているのだ。鬼利は忙しい。「なんだ今日は居ないのか」で済ませられる雑用とは違う。その時間には幽利とは比べ物にならない価値があり、たった10分の会話の為に表裏の権力者が財と手段を尽くす事も珍しくない。

 ひと晩付き合って貰っただけでも贅沢過ぎた。しかも昨夜のひと晩は、全てを差し出しておきながら差し出したものを身勝手に損なおうとする下僕が身の程を弁えていれば、ほんの少しでも主人の賢さを見習ってさえいれば費やす必要の無かった時間だ。これを浪費と言わずに何と言おう。


 互いに汗に濡れて乱れたベッドの上で、先にイっちゃだめだよ、なんて命令は、蜂蜜より甘い睦言だ。溶け崩れた理性を掻き集めて懸命に我慢すれば、ごめんなさい、とぐちゃぐちゃの顔と声で謝れば、睦言のままで済んだ。多少のお仕置きをされたとしても、それは互いの嗜虐性と被虐性を高めて満たす楽しい遊びの範囲で済んだ。我慢を助けてくれていたブジーの代わりに、自分の爪を剥がす必要など微塵も無かった。

 欲に濡れても美しいあの橙色が乾いて冷めていったのを覚えている。
 その脳内に留まらず触れ合った全身に叩きつけられ部屋中に満ちた激情を覚えている。
 怒鳴りつけることもなく、また、とだけ言った静かな声を覚えている。


「っ、」

 ぞ、と壁に押し付けた背中に鳥肌が立ち、幽利は柔らかなブランケットを掻き寄せた。体の右側も壁に押し当て、扉の対面にある角にぴったりと膝を抱えた体を埋めて、震えそうになる喉で細く長く呼吸をする。
 剥がしかけた左小指の爪は、鬼利がひと月を掛けて処置をしてくれたお陰で握っても血が滲むことも無い。深爪にしても短いだけだ。そこに包帯を巻く鬼利の表情も覚えている。

 謝りたかった。血を吐く程に謝ってもまだ足りなかった。

「……ぅ、」

 堪えていた嗚咽がついに漏れて、幽利はまだ濡れたままの頭にまでブランケットを被る。柔く暖かな薄暗闇は傷だらけの体を守られる錯覚を与えてくれるが、千里眼の視線を遮ってはくれない。

 昨晩のあれは、鬼利がしたいと思ってした事じゃなかった。幽利がさせた、幽利の為の非道だった。
 謝りたい、どうか許して欲しい、胸が潰れそうな理由がそれだけだったら、どんなに良かったか。
 許されずに放置されたのが寂しくて、ひとりきりが苦しい、そんな見下げ果てた傲慢が混じっていても、鬼利を想っているだけまだマシだった。

「……っぅ……く……」

 鎖に赤く削られた喉を震わせながら、膝を抱えて顔を埋め、その上から両腕で頭を抱えて、幽利は出来るだけ小さく体を丸める。
 扉から入ってすぐ手に取れる位置に置かれたままの、薄くて丸いプラスチックケースとチョークチェーンを見ないように、頭の奥が鈍く痛むほど目のピントを絞った。

 未だに体が震える理由が後悔だけだったら、どんなに良かったか。

 そうであるべきなのに、半分以上は違った。隅でがたがた震えているのは怖いからだ。帰って来た鬼利に数時間前の”続き”をされたら、またあの苦痛を与えられたらと思うと怖くて、恐ろしくて、だから懸命に目を反らして震えている。鬼利がどんな思いで、どんな顔をしていたか見ているのに、覚えているのに。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 鬼利に謝りたかった。その為にあの地獄に落とされたと解っていても、許されたい理由にあの小さなプラスチックケースが混じるのが許せなかった。





 次に気がついた時は、夕方だった。

 気絶に近い形で、いつの間にか眠っていたのだ。ろくに休めていない体と緊張を解けていない精神では無理からぬ事だったが、塔の外壁にかかる人工の夕陽がその色を深めていくのを眺めながら、幽利は謝罪と懺悔に埋め尽くすべき意識を手放した自分を思いつく限りに頭の中で罵った。

「……」

 ずっと同じ姿勢でいたので、元より軋んでいた関節は錆びついたようになっていた。緯度経度に従って紅から藍になり、本物の月齢に従って半分掛けるのを見届けてから、幽利は体の各所をゆっくり伸ばした。あのチェーンを掛けられて引き摺られても、ちゃんと動けるように。

 強張った筋が不意に切れたりしないように伸ばした後は、動かした所為でまた血を滲ませた擦り傷を、届く範囲で舐めた。床やブランケットを汚さないように。鬼利の所有物に鬼利以外がつけた傷が少しでも早く治るように。

 絆創膏では済まない範囲で皮膚の削れた膝の傷を舐めている時に、玄関扉が開いた。鬼利と幽利以外には開けられない扉が。

「……っ……」

 呼吸と動きを止めて心臓だけを跳ね上げた幽利が凝視する中、鬼利は片手で操作していた端末をスラックスに仕舞うと、上がり框に一度鞄を置いて、紐を緩めてから靴を脱ぐ。鞄を持ち上げて背筋を伸ばす一瞬その視線がこちらを向いて、鬼利の視線はいくつもの壁とこの部屋の扉に阻まれるから合う筈もないのに、ひゅ、と幽利の喉が鳴った。

 日没からまだ幾らも経っていない。帰宅には早すぎる。
 もしかして、早く帰って来てくれたんだろうか。

 ……何の為に?

「……は、っ……」

 止めていた息をそっと吐き出しながら、幽利はリビングに入った鬼利の姿を追う。端末と鞄をローテーブルに置いて、鬼利はソファの傍らでジャケットとベストを脱いだ。いつもは幽利が受け取るそれらを皺にならないようにソファの背もたれに掛けて、ネクタイを解きながら室内を見渡す。何も透かさない瞳がもう一度、幽利の方を見た。

 目があった。

 鬼利には壁しか見えていない筈なのに、確かに見られていると気づいて見返された視線に射竦められて、幽利は無意識に痣だらけの両足を胸元に引き寄せる。ネクタイをソファに放った鬼利がクローゼットでも書斎でも無い方向に爪先を向けて、歩き出した。

 いつもの歩幅で、いつもの速度で、キッチンもバスルームも通り過ぎて、外からしか掛けられない鍵が後付けされたノブを掴む。パチン、と半日ぶりに部屋の照明がついた。


「ぁ、……っ」

 真正面から見据えられてびくりと体は竦むのに、ずっとぎりぎりと音を立てて引き絞られていた胸の奥がふ、と緩むのが解った。いつもより3時間も早く帰って来てくれて、きっとそれは幽利の為で、服も着替えずにまず顔を見に来てくれた。

 それが嬉しくて、嬉しくて。

「……き、」

 瞳を潤ませながら壁から背を離した幽利の耳を、じゃらりと鳴る鎖の音が調子に乗るなと打ち据える。

「ひッ、」

 再度壁に背中を擦り付けた幽利を見据えたまま、鬼利はチョークチェーンだけを片手に掴んで、その視線をなぞるように歩を進めた。一歩ごとに暗く冷えた胸郭を揺らす鼓動は、鬼利が目の前に立つ頃には地鳴りのようになっていて、背中を壁に支えられてやっと座っているような有り様だった。

 中途半端に被っていたブランケットが頭から、体から、取り上げられて、放り捨てられる動作に応じて揺れた鎖が肩を叩き、ついに留めておけなくなった涙がひとつ零れる。


 ……ああ、やっぱり、足りていない。

 許されるには、まだ。もっと。


 もっと苦しまないといけないんだ、と怯えに引き攣っていた顔から表情を無くして、幽利は頭を下げて首を差し出した。さっき体を伸ばしておいて良かった、と頬に静かに涙を伝わせながら思う。

 その判断だけは正しかった。他も正しくなれるようにして貰わなければ。

 耳元でじゃらりと鳴る鎖の音に、先走って気道と視界が狭まる。本当に鎖で締められたらこんなものでは済まない。今の内に息をして、酸素をたくさん体にいれておかないとならないのに、ひゅうひゅうと隙間風のような音を立てる喉では上手くいかない。
 ひたりと、鎖の絡んだ鬼利の手が首筋に触れる。鳥肌立てて竦み上がった体の側面が壁に擦れて、そうだ、きっとこんな体勢では首に鎖を回すのもやり辛いに違いなかった。差し出すならせめて、屈まなくても腕を伸ばせば届く位置に。そうするべきだと解っているのに、ぶるぶると震えが一層酷くなった手足は凍ったように上手く動かない。

「幽利」

 締め上げる為の鎖と手をそこに置いたまま、鬼利が床に膝をつく。綺麗に折り目のついたスラックスのまま、膝を抱えて小さく小さく丸まった幽利の前に、背筋の伸びた美しい正座で。

「なにか言うことは?」

 言うこと。
 言えること。

「…………ごめ、ん、なさ、い」

 震えにがたがたになった声で、今言える言うべきことを言った。

「ごめん、なっ、さい」

 鬼利の名前は言えない。許されていない。

「ご……めんな、さ……ぃ……っ」


 許されたい。


「……」
「…ぁ………あ………っ」

 溜息を吐いた鬼利の手が首から離されてしまい、幽利は垂れたままの頭を無意識に小さく揺らした。間違っても、絶対に、どこかに爪を立ててきつく握りしめてしまわないように床につけていた手が浮く。ふらふらと彷徨わせた所で、袖に縋ることも出来ないのに。

 ほんの数センチ、どこもかしこも震えながら”続き”を甘受しようとする恭順の、僅かな綻びを示して床から浮いた掌を鬼利はじっと見ていた。縋る権利も求める権利も無い、と諦めて、耐える為に指を握り込むこともなく、ぱたりとまた床に沈むまで。

「……幽利」

 じゃら、と細い鎖が落ちる音に肩を跳ねさせながらも、その手がそこに置かれたままなのを見届けて目を細めてから、鬼利は両手で幽利の頬を掬い上げた。

「反省した?」
「………!」

 鬼利の言動が昨夜をなぞっていると気づく前に、幽利は手の中で出来る限りに頷く。しっかり真正面から合った橙色を見つめて、今度こそ間違えないように奥歯を強く噛み締めた。
 ふ、と凍てつくようだった表情と気配を緩めた鬼利の手が、頬を滑って背中に回る。引き寄せられるままその胸に顔を埋めて、シャツを濡らしてしまうのに涙に濡れた頬も擦り付けて、幽利は体の芯にまで染み込む暖かさに瞬いた。

 悪いことをして、謝って、抱き締めて貰って、許される、いつもの儀式。

 許されたんだろうか。
 もっと、まだ、苦しまなくても、許して貰えるんだろうか。

「……もうしないね?」
「っ……ぅ……うう、ぅううっ……」

 とんとん、と背中をあやされながら囁かれたいつもの合図に、感情を欠け落としていた顔がくしゃりと歪む。
 しません、もうしません、と答える代わりにしゃくりあげながら何度も頷いて、幽利はそろそろと床から持ち上げた手を鬼利の背に回した。きゅ、と指先で縋りついて、濡れたシャツに頬を擦り付ける。

「まずは、お風呂に入ろうね」
「……き、……きり……っ」
「温まったら、薬を塗ってあげるから」
「っめ、……さ、ぃ……きり、ごめ、な、さぃ……っきり、きり……!」
「……いい子、いい子」

 謝れていい子、と背中をあやして頭を撫でてくれる手が、あまりにも暖かくて。
 自重に幽利の重みが加わっても痛みを感じない体に甘えて、どんなことをしても結局はこうして許してくれる優しさに甘えて、幽利はしばらく鬼利に抱きついたまま泣きじゃくり続けた。





 パチン、と窓のない部屋の照明を点ける。

 ベッドを抜け出したままの素足で水はけのいいタイルを踏み、鬼利は壁際に落ちていたチョークチェーンを拾い上げた。軽く片手で纏めてキャビネットにしまい、代わりに幽利お気に入りの革の首輪を出す。肌を削り頸動脈を締め上げる細い鎖も幽利は気に入っていたが、トラウマの一助としてしまったからには使用を控えなければならない。
 少なくとも、幽利自身がその強制力を恋しがるまでは。

 それまでの間に使う首輪と揃いのリードを壁のフックに掛けて、鬼利は一度白色灯に照らされた室内を見渡した。
 昨晩乾く前に流した床には新たについた血の跡はない。床にも、壁にもだ。包まっていた割にはブランケットにも殆ど血はついていなかった。乾き始めた傷の疼痛を嫌がって抉っていない辺り、ひとまずトラウマとして一定の効力は期待出来ると見ていい。

 拘束台、トレイを置いていた床、幽利が蹲っていた隅。その3点を結ぶ導線を視線でなぞってから、敢えてキャビネットの上に出してあった白いプラスチックケースを手に取る。

「……」

 薄くて丸い、擦り切りに幽利のトラウマが詰まったケース。掌に納まる重くもないそれを一度転がしてから、鬼利は普段あまり使わない引き出しを開けた。
 間仕切り代わりにそのまま引き出しの隅に入れた納品時の箱には、寸分違わず同じ姿をしたケースがまだ25個並んでいる。昨晩使ったのは4つだから、慣れと正気を考慮してもあと5回は再現出来る計算だ。

 風呂に入れている時も、食事を与えている時も、一緒にベッドに入って寝かしつけている時も、折に触れては「ごめんなさい」と謝っていた、濡れた瞳を思い出す。
 抜け出す為に握った袖を離させるのに苦労した、左小指の歪で短い爪の形。
 子供の頃から変わらない許しの儀式に、もうしない、と確かに頷いて胸を濡らした涙の温度。

「……だといいけど」

 からりと手の中のケースを箱の隙間に落として、鬼利はいつか開けることになる引き出しを閉めた。




 ...Enjoy!




☆よくわかる解説☆

「説教」
・鬼利のきもち→身内でも贔屓はしないよ安心してね、いつも助けてくれてありがとう、幽利の有能さと称賛は幽利のものだけど責任だけは僕のものだからそこんとこよろしく。
・幽利のきもち→お仕事モードの鬼利の叱責が性癖にぶっ刺さり過ぎているのは否定しませんが必要なことだったんです、本当です。

「ご褒美」
・幽利が初めて「鬼利、やって」を発動したのはホテル暮らしの頃、知育玩具のペーパークラフトが上手く台紙から切り取れず、一緒にやってた鬼利のと比べて自分のがあまりにもぐちゃぐちゃで悲しくなったからでした。無限に先回り出来るからこそ努めて手助けを控えているお兄ちゃんには覿面に効きます。

「お仕置き」
・今回のは割と道義的な理由のお仕置きでしたが、メチャクチャに追い込まれて勝手に絶頂したからとか、ハチャメチャに責め立てられて静かに出来なかったからとか、そんな理由でも幽利はお仕置きされます。理不尽であっても破綻はさせないのが支配者の腕の見せ所。

「???」
・幽利用「じょうずに後悔できるかな?」
電気責め(気持ちよくなれない)<我慢或いは阻害系(絶頂・呼吸・睡眠)<快感責め(イきっぱなし)≒放置(とても長い)<<痒み責め(New!)<針責め(声掛け有)<<<針責め(声掛け無)
・放置まではお仕置きの範疇。トラウマ植え付けたり弄くるのは折檻。



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