Play with Twins



Case1.鞭



「好きなものを持っておいで」

 そう言われた時点で耳まで赤らめていた幽利は、様々な形状の鞭が収められた平たい引き出しの前で優に5分は懊悩し、最終的には裸の背中の半ばまでを紅潮させながら、1本の乗馬鞭を口に咥えて鬼利の足元に戻った。
 これがいいです、と口で言う代わりに顔を上げて差し出した鞭を、鬼利が受け取って握る。確かに男の骨格ではありながら節も目立たない綺麗な手指は、今はその滑らかな肌を保護する為の黒い革手袋で覆われており、同じ素材の柄と擦れてギュ、と小さな音が鳴った。

 その音を聞いただけで、既に熱を孕んだ背骨にぞぞぞと痺れが駆け上がる。

「随分軽いのを選んだね」

 感触を確かめるように柄を数回握り直しながら、殆ど同じ顔の造りだとは思えない凄艶な流し目が壁際のチェストを、そこに収められた乗馬鞭よりもっと重く深い傷跡を刻める鞭を見た。幽利が5分を掛けて羞恥と欲望に板挟みになりながら悩んだ選択肢達だ。

「やっと慎みを覚えたのかな?」

 酷薄な微笑の形に細められた橙色の瞳が足元にへたり込む幽利を映し、背骨を越して脳まで痺れが走った奴隷が諾々と頷く前に、よくしなる革が心臓がそこに来たような耳元の空気を鋭く切り裂く。

「……それとも、長く甚振って欲しいから?」
「っ……」

 その瞳に熾火が宿らなくとも、鬼利に隠し事や誤魔化しなど通じた試しが無い。期待に干上がった喉を鳴らし、幽利は媚びた上目遣いでご主人様を見上げたまま、その慈悲を乞うた。

「ごめんなさい……」
「悪い子だね」

 容易く肉を抉る一本鞭を選ばなかったのはより長く遊んで欲しかったからで、完治して消えかかった傷跡を再び開かれる行為を歓んでいる時点で慎みとは程遠く、浅ましく被虐の愉悦をねだる欲深さは良い子とは言い難い。何もかも鬼利の言う通りだった。
 震える喉がもう一度、なんの意味も無い謝罪を繰り返す前に、ひゅんと鳴った鞭の先端がぺちりと熱くも痛くもない加減で頬を叩く。

「立って」

 従う以外の選択肢は随分前にその手に譲り渡していた。言葉責めとも呼べないような戯れだけでもう腰が抜けたようになった足をどうにか立たせ、幽利は天井から下がる金属製の手枷に、自ら伸ばした両手を通した。





 最初に、骨にまで響く衝撃が来る。
 次に音と共に熱が走り、痛みが来るのは最後だ。パンッ、と軽い音とは裏腹に、接地面積の大きい鞭先はしなりで加速した衝撃を肉の深い所まで叩き込み、破れず真っ赤に腫れ上がった肌はじくじくとした灼熱感と痺れを広く周囲の神経に伝える。

「はッ……ぅう……っ」

 既に数十の鞭を受けて幽利の背中は所々が赤を超えて赤紫に染まり、衝撃でいくつかの古傷が開いて腰元まで細い血の筋が引いていた。返り血の目立たない黒シャツの袖口を肘まで捲った鬼利は鞭先でそれを掬うようになぞり上げ、ぶるぶると恐怖ではない理由から震える堪え性のなさを叱るように、薄く浅い傷口の上を打ち据える。

「んぐぅっ……!」

 幽利の痛覚は毒に狂わされていないので、ぱくりと裂けた皮膚と肉が伝えてくるのは当然痛みだ。鬼利の手で傷跡を刻まれたという確かな証はその瞬間に多幸と充足に変わり、腫れ上がった肌が訴える熱感と痺れと鈍痛は長く長く続く余韻になる。狂っているのは苦痛を愉悦と変換する感受性の方だった。
 他でもない鬼利にこうして貰った、鬼利の愛を受けるためにこうなれた、と喜ぶ思考の方も言わずもがなだ。

「随分愉しそうだね」
「あ゛っ……ぅ、う゛ぅ……きもち、いい、です……!」

 バチッ、と内腿を弾かれながら聞かれ、皮膚が薄い分だけ響く疼きに足元のタイルを汚しながら頷く。他より薄い皮膚は一撃でみるみる赤く腫れたが、同じ場所を鞭に打たれる度に反り返った幽利のモノからは白濁混じりの雫が溢れ、ぱたぱたと足元に恥知らずな染みをいくつも滴らせた。
 長く柄を握っていた指先を伸ばしながらその染みを見下ろす鬼利の瞳にも、深部には確かに幽利と同じ熱がある。白い所が見当たらないほど手酷く打ち据えられ、逃げる素振りもなく被虐の悦びに喘ぐ浅ましさを愛でる、嗜虐者のどろりと重い欲が。

 血の何割かを共有しているだけの連中に施された処置の為に欲に薄い鬼利が、この時ばかりは。幽利と”遊ぶ”時だけはこうして欲を昂らせてくれるのは、身も心も全て明け渡した幽利にとって果報以外の何物でも無かった。
 もっともっと愉しんで欲しい。喜んで欲しい。この体で、心で、興が向くまま遊んで欲しい。


 それが掛け値なしの幽利の幸福で快楽だ。


「……嘘を吐くんじゃない」
「はう゛っ!?」

 うっとりと陶酔に浸る様に目を細めながら、鬼利は冷たく言って鋭く鞭を振る。
 嘘なんて吐いてない、と咄嗟に幽利は緩く頭を振ったが、腫れ上がった肌を鞭の側面で引っかかれて、弁解の言葉は喉奥から出てこなかった。

「こんなに赤くなって、血も出てる」
「ん……んんっ……」
「痛い筈だよ。こんな事が気持ちいいわけがない」

 伝ったものでぐっしょりと濡れた会陰を戯れに押し上げ、どう感じているかなんて明らかな状態の裏筋を撫でる程度にぺちりと叩いてから、血と汗ではないもので濡れた鞭が震える肌から離される。
 ひゅん、と一足先に空気が裂かれる音。

「あ゛っ」
「ほら、怒らないから正直に言ってごらん」
「ひっ、……い゛ぅっ……!」
「痛い、って」

 鞭の愛撫を受けながら、息も乱さぬ穏やかな声に頭の中までも嬲られる。痛い、と悲鳴を上げて、止めて、と必死に許しを請わなければいけない行為に、まるで真逆の反応をしてしまう浅ましさを突きつけられる。
 鬼利に嘘を吐きたくなかった。誠意や忠誠心は前提として、考えなしに吐いた浅はかな言葉を理由にきついお仕置きをされたことが何度もあったからだ。でも今は、他でもないその絶対のご主人様が誰の目にも明らかな嘘を言えと命じている。怒らない、という免罪符が嘘と正直の相反するどちらに掛かるのかがわからない。

 命令に従いたい本能と折檻に怯える記憶がせめぎ合って、赤と白に忙しなく明滅する視界がぐらぐらと揺れる。いくら必死に考えようとしたって、熱に浮かされた幽利の頭は殆ど働かない。

 当然と言えば当然だ。考えるのは鬼利の役目なんだから。


「ぃ、痛い……っ」

 結局、いつものように、その手に操られる甘露を選んだ幽利に、熾火が宿る瞳にしか見えない所に熱を隠した美しい橙色が笑みの形に細められる。
 言われた通りに出来たから、叱られない。

「いたいっ……いたぃ、ですっ、……あぅうッ……!」

 肌を弾き傷が開く度にじゃらじゃらと揺れる鎖に縋り、与えられるもの全てを残らず受け取る為に爪先でタイル張りの床を掴みながら、幽利は何度も命じられた通りの嘘を吐いた。痛いと訴えても変わらず与えられ続ける痛みに肉の奥で重い熱がうねり、痛いと叫ぶ度に鋭く打ち据えられ虐められる陶酔が合わさって、ずっと甘イキをしているようなモノからはたらたらと白濁が滴り落ちている。

 被虐の恍惚に浸りきってがくりと頭を落とすと、鞭が止んだ。
 浅ましくもその先を望んで慌てて振り返ろうとした頭が後ろ髪を鷲掴まれて引き起こされ、強制的にその傍に寄せられた耳元で、くすりと紅唇がわらう。

「……可哀想に」

 ぞっとする色を孕んだ声に、晒された幽利の喉がひゅっと鳴った。

「やめてあげようか」
「ぁ…………あぁ………!」

 紛れもなくその声によって煮詰められていた熱がぱちんと頭と体の内側に弾け、ぶるぶると震える手が鎖を離し、裸足の爪先が濡れたタイルの上に滑る。
 返事を促して強く髪を引く手に逆にすり寄るようにしながら、幽利は濡れた声で答えた。

「……やめ、ないで……っ」

 左手に持ち替えた鞭を肩に担ぐようにしていた鬼利が、口の利き方もなっていない不出来な下僕の無様な哀願を聞いて、ふふ、と愉しそうに笑う。


「よく出来ました」










Case2.緊縛


 びり、と黒いカムテープが手で千切られる音。
 ばらり、と束ねられていた黒染めの麻縄が解かれて床に落ちる音。

 2週間ぶりのその音を聞いただけで、幽利は瞳と先端の両方を濡らしてこくりと喉を鳴らした。なんならガムテープで口を塞がれた段階で下の方は一滴垂らしてすらいた。

「動くとずれるよ」

 淡々と縄を捌き、手際よく作られた輪を差し出した幽利の首に通してきゅっと結び目を締めながら、声音と同じ温度の鬼利の目が幽利の腰下に敷かれたバスタオルを一瞥する。そう、今幽利がその吸水性に優れた布越しに座っているのは、プレイルームの拘束台でも寝室のベッドでもなく、リビングの本革のソファの上なのだ。
 思い出したように日常を意識して羞恥が煽られてしまい、幽利は赤くなった顔を俯けながらきゅっと両手でバスタオルを握る。今日は月に一度あるかないかの貴重な連休の最終日。自ら服を脱ぎながら今更恥じらう幽利に苦笑しつつ縄を操る鬼利は、部屋着の紺色のポロシャツとチノパンをきちんと着たままだ。パジャマ以外でゴム入りのボトムスを履かない鬼利は当然、休みの日だってだぶだぶのスウェットになんて足を通したりしないし、申し訳程度の襟さえよれてきたTシャツなんかを着ることもない。そういうものは脱がれたままの形でソファの下に落ちている。

「動けないようにしてあげるからね」
「んぅ……」

 塞がれた口でこくこくと頷いてみせた幽利の足の間に膝をつき、鬼利は少し前屈みになって縄を手繰る。必要な場所に結び目を作りながら両腕を二の腕と肘下の位置で体の横に留め付け、膝立ちにさせて首から下がる縄をコックリング代わりに根本を締め上げ、単なる拘束としては無意味な骨盤と脇腹を背中側から装飾として締め上げる。
 座って揃えさせた太腿を二重にして縛り、もう甘えるように鼻を鳴らしている幽利をバスタオルの上に寝かせて、開けないよう両膝を、深く曲げさせた状態で脛と足首も縛り、そこから伸ばした端で自由を寂しがるように震えている両手を爪先を掴める程の距離で、手首と親指を縛る。

「出来たよ」
「……んん……っ」

 最後にうつ伏せだった体を背もたれの方に押しやって横臥の姿勢にして、鬼利はローテーブルのノートパソコンを持ち上げた。幽利の頭のすぐ隣に腰を下ろして膝の上にパソコンを開き、つい一瞬前まで本職のような淀みなさで縄を操っていた指が滑らかにキーを叩き始める。
 触れるには拳1つ分遠くで転がったまま、幽利は縄が絡む首を捻って鬼利の横顔を、その内側を振り仰いだ。


 既に脳内にある文章をそのまま打ち込んでいく指先を追って、脳内の原稿は次々とその先の活字を編んでいく。一度置かれた言葉を置き換え、それに合わせて後に続く言い回しを修正し、淡々と指先がそれを出力する。文章を書く時の広大なノートのような思考のもう一層深い所には真っ黒なボードがあって、そちらでは写真やグラフや報告書がそのままピン留めされて白い糸に繋がれている。思考の中だけの無限の糸は必要なだけいくらでも伸びて、鬼利はその糸に次々に必要なものを結びつけていく。三層目になると目を凝らしても流石に暗く、プラネタリウムのように様々な言葉が浮かんでは消える。
 その先は見えない。幽利の”目”なら集中すれば一端くらいは覗き見ることが出来たが、脳裏に閃光が見えるようなその集中を今はしていないから、あと二層残されている思考が開いているのか閉じているのかは、見えない。


「ん……んぅ……」

 欲深い駄犬の相手は縄に任せて、鬼利はすっかり仕事に集中しているのかもしれない。気を引きたくて塞がれた口で小さく鳴いてみても、硬質な橙色の瞳は液晶に注がれたままこちらを向くことは無かった。その奥深くが熱を孕むこともない。

「ふ……ぅ……っ」

 縛るだけ縛られてその傍に置かれたまま放置されるのは、幽利の性癖的にクリティカルヒットだった。全身きっちり緊縛されてロクに動けない上に声も出せないから、鬼利の仕事の邪魔をしてしまう、と引け目を感じることなく思いっきり切なさともどかしさに浸って悶えていられる。こっち見て、触って、と届かない哀願をしていられる。
 実際には本気で集中した鬼利を邪魔することなんて横からパソコンを引っこ抜きでもしない限り無理だったが、有り得ないと解っていても”もしかしたら”を考えて及び腰になってしまうのが忠犬たる幽利の性格だった。因みに放置プレイにくんくん鼻を鳴らして悦ぶお利口な犬として躾けたのは鬼利だが、主を害しようとする輩を手段を問わずに排除しに掛かる忠誠心、もとい独占欲は自前である。

「っ……ん……!」

 ほぼ無意識の内に離れた距離を詰めようとした全身に縄が食い込み、小さく震えた幽利は上げていた頭をソファに擦り付けた。勉強が得意な鬼利は独学の緊縛の技術も当然に極めていて、手足のどこかを少しでも動かすと咎めるように食い込む縄は、じっと大人しくしていれば息苦しさすら感じさせることなく、寧ろ抱きしめられているような安心感すら与えてくれる。
 拘束としては無意味だが緊縛としては最高な各所に掛けられた縄の抱擁にぼんやり浸り、つい物欲しさに身動いでしまっては全身締め上げられて叱られたように息を詰める、というひとり遊びを数ターン続けていると、鬼利が片手をキーボードから離してパソコンの角度を調整した。

 とあるカルテルの首領に「命と組織が惜しければ悪事仲間が家族ごと消えた理由を探るのは止めておけ。あとお前の送ったスパイは雑魚過ぎたのでうちの手駒に残らずすり身にされました」ともの凄く丁寧にお知らせするメールの文面が完成したらしい。板でも入っているようにぴしりと伸びていた背中をほんの少しソファの背もたれに預けた鬼利は、いくつかの写真と軍警のデータベースから引っこ抜いた機密文書を添付して下書きを終えると、置いたままの片手でカーソルを操作して支部から上がった報告書に目を通し始めた。


 世界中に滞りなく犯罪者を斡旋してあらゆる汚れ仕事を代行させる為、ILLには大陸ごとに5つの支部が存在する。細かなニュアンスや末端の情報の取り零しを嫌う鬼利は、どこの支部のどんな役職にも母国語での報告を命じているので、必然高度な翻訳の負担が伸し掛かるのはILL最高幹部の肩の上だ。
 もっとも、鬼利自身はそれを露ほども負担だとは考えていない。都合8ヶ国語をスラングまで完璧に翻訳するのは単にそれが鬼利には”出来る”からで、出来ることをやるのは当然のことだと思っている。必要だから、その方が効率的だから、学んで身に付ける事を何も特別な事だとは思っていない。


「………」


 深く見てしまうと処理能力の差で頭が割れそうになるので、広大なホワイトボードに認識とほぼ同時に翻訳されていく表層だけを覗き見ながら、幽利はうっとりとその横顔に見蕩れた。腕力に依らない、はじめからおわりまでのほぼ全てがその脳内で完結するような鬼利の戦い方を見るのが、幽利はとても好きだった。
 知力だけで容易く世界を変えてしまう男が自分の主人であるというのが純粋に誇らしく、いくらでも輝かしい未来を選べた双子の兄をこんな地の底に堕ちるまでに歪めた罪悪感が不純に倒錯的で、いつだって幽利の胸は初めて触れるだけでないキスをした時のように甘く高鳴る。

 ―――鬼利、かっこいい……

 こんな完璧な男に下僕として傅けるのは最高の贅沢だ。屋根裏育ちのスペアパーツには身に余り過ぎている。
 見蕩れるあまりに今の自分の状態すら忘れて、陶然と鬼利の一挙手一投足を目に焼き付ける幽利の熱視線に気づいてか気づかずか、鬼利は3通目の報告書を読みながら頬にかかる髪を耳にかき上げ、その手をそのまま下ろした。

「ふっ……!?」

 ぽん、と軽く頭に乗せられたひんやりと体温の低い掌に、幽利はぎちりと縄を軋ませながら全身で出来る限り飛び上がる。割合としてはここに来て構って貰える驚きと歓喜が6:4。乗せられた手がそのまますぐパソコンの方に戻っていかず、汗でしっとりした幽利の髪を指先で繊細に梳いてくれた瞬間に1:9になった。

「んぅ、んんぅ……っ」

 調子に乗ってきり、きり、と甘え声で鳴いてみるが、変わらず鬼利は幽利の方を見ない。返事もしてくれない。ただ、空いた左手の遊び先として幽利の前髪を梳き、バックの時に鬼利に手綱にして貰う為に伸ばしている後ろ髪をさらりと指先で撫で付ける。

 幽利が思いの外大人しくしていた為に、ふたりの間にはまだ拳ひとつ分の距離があった。十分手が届く範囲ではあるが、そこに伸ばす為に美しい鬼利の姿勢が少しだけ乱れている。これは由々しき事態だ。鬼利の姿勢が美しいのは、それが一番鬼利の体に負担の掛からない形だからなのに。

「んくっ……ぅ、ふぅ……!」

 両手足首を背中側で一纏めにされた体を精一杯よじり、幽利はもぞもぞとソファの上を這って鬼利に近づいた。背骨の傾きを直した鬼利がぽんぽん、と撫でてくれるのにそろりと頬を擦り寄せながら、これで無駄でしかない鬼利の負担
が消せた、とまた幽利自身のことは脇に蹴飛ばして安堵する。
 鬼利が無理なく仕事の片手間に幽利に触れる環境を整える為、無理に身を捩った幽利の肌にはいくつかの縄による擦過傷がついていたが、幽利にとっては気に留めるどころか認識することですらなかった。それが体だろうが心だろうが人権だろうが、幽利が鬼利に差し出すのは当たり前の事だからだ。
 こういう根本の性根において、ふたりは実に双子だった。

「んー……っん!?」

 片手だけでも鬼利に構って貰えるよろこびを目を瞑って味わっていると、さらりさらりと髪を梳いていた鬼利の手が赤くなった耳に触れた。
 またびくりと縛られた体が動く範囲で跳ねた幽利を宥めるように、柔らかな指先が耳殻の外側をつうと辿る。上から下へ。頬との境目を爪先でくすぐって、下から上へ。

「ん……ん、……んんっ……」

 軟骨の形を確かめるようにかり、と引っ掻いて、みるみる赤く、熱くなった全体を冷やすように体温の低い掌で包み込む。そっくりお揃いの薄い耳たぶをふにふにと摘み、ぶるりと震えた拍子に逃げたそれを軽く引っ張って頭の角度を元に戻させて、薄く爪を引っ掛けながら内側のくぼみをぐるりと撫でる。
 そうして焦らされた末に乾いた指が穴に差し込まれた瞬間、幽利は仰け反る代わりに全身を鳥肌立てて足の爪先をぴんと伸ばした。

「んぅ――……っ!」
「……幽利、静かに」

 堪らず高い声で鳴く幽利を嗜めながら、先の先まで滑らかな指先が爪を立てずに耳道の入口を撫でる。

 こしゅ、しゅる、かしゅ。

「ふっ……ふっ、……ふッ……!」

 聞いているだけで鳥肌が立つこそばゆい音と、その音にびくびくと跳ねる度に体中に食い込む縄の感触と、仕事中の鬼利のすぐ隣でバスタオルに先走りを垂らしている状況。

 堪らなかった。

「ソファを汚したら、」

 5通目を開く僅かな空白に横目で一瞥をくれた橙色が、既に腰下に敷いたバスタオルをぐしゃぐしゃに乱し、息も乱し、恍惚と瞳を潤ませている幽利を見て、呆れとも笑いともつかない形で細められる。

「舐めて掃除させるからね」
「……んく……っ」

 その様を想像して、縄に縛られたままで這い蹲るように自分で出したものを舐める自分と、それを頬杖をついて眺める鬼利の姿を、顔を、きっとその頃になってようやく昏く熱いものが灯り始める瞳を想像して、幽利は堪らずぎしりと一際大きくソファを鳴らした。

 結局鬼利が与え奪ってくれる全てが、幽利には堪らないのだ。










Case.3 折檻


 不規則に跳ねる脇腹に置かれた足裏が、踏みつけるようにして汗みずくの体を転がす。
 膝の間に渡されたポールの所為で自由の効かない下半身をどうにか捻り、タイル張りの床の上に仰向けになった幽利は、既に半分に狭窄した視野で腹に足を乗せたままの鬼利を見上げた。

「……ゆるし、て……くださっ……ぁ゛……」

 叫び枯れた喉から絞り出した懇願を鳩尾を抉る踵に止められる。
 今この場において、幽利は「ごめんなさい」と心から謝罪する以外の発言を許されていなかった。

「ごめ、んなざ、ぃ」
「……」

 凍てついた双眸で物覚えの悪い下僕を睥睨して、足を下ろした鬼利はまばらに濡れたタイルに両膝をつく。汚れを簡単に洗い流せるよう水捌けのいい床を濡らしているのは主に、つい先程まで30分掛けてそこをのたうち回っていた幽利の汗と涙だ。
 そこら中を擦り剥きながらのたうち回っていた原因は鬼利の手の中にあった。掌に収まるほどの丸くて薄い、真っ白なプラスチックケース。中に収められた同じく白いクリームはさらりと軽いテクスチャ―で、それが塗布された皮膚や粘膜の血流を促進し、含まれたシュウ酸よりも尚微細な針状結晶が人体に激烈な作用を齎す、つまりは掻痒剤だ。

 苦痛を愉悦に変換する下僕を被虐の陶酔に浸らせる事なくのたうち回らせ、苛む痒みに泣き叫び喚き散らして喉を枯らし、小さな水たまりをいくつも形成させるほど後悔と辛苦に泣かせる、特別性の責め具。

 30分と少し前に幽利に塗られたのはそんな薬で、自我にやすりを掛けられるような30分の生き地獄を見てきた幽利の傍に座った鬼利が持っているのは、まだ半分以上の中身を残しているその薬ケースだった。


「ごめんなさい、ごめっ…ん、なさい、ごめんな……さい」

 奥歯も、体の前に組んだ状態で何本ものベルトとコルセットに拘束された腕も、膝下と膝上にベルトを締められ伸ばせず閉じられない足も、膝上側のベルトに渡されたポールも、全てをガタガタと震わせながら、幽利はケースからクリームを掬い取っている鬼利に懇願する。

 どうかそれだけは。本当に気が狂いそうだったんです。許して下さい。お願いします。他のやり方にして下さい。どうかお願いします。

 喋ることを許されていない単語の代わりに、涙声の謝罪だけを繰り返して慈悲を乞う。30分前と同じように。


「ごめんなさいっごめんなさいぃっ!……あ゛あ゛っ!」

 鬼利は耳にすら入っていないようにその懇願を聞き流し、人差し指に掬ったクリームを幽利のピアスが通った乳首に塗りつける。これも30分前と同じだった。

「っ……!……う゛っ……ぅ……ッ」

 既に一度同じ掻痒剤によって赤く腫れていた薄い皮膚は、撫でるようにして伸ばされただけで容易く堪らない熱感と掻痒感に苛まれる。肩を揺らし、どこも引っ掻くことが出来ない両腕を藻掻かせ、ポールを鳴らしながら足をバタつかせても、直ぐに吸収されて神経の根深い所まで噛みついた痒みは散りもしなければ緩みもしない。
 ピアスを通していない分だけ内部への浸透率が悪い右には、さらに多く掬い取られたクリームが赤く熟れた突起をすっぽり覆い尽くすほどの量で乗せられた。上がった体温と脂汗にクリームはすぐに緩くなり、とろりと伝う感触でも幽利を苦しめながら、乳首だけでなくその周辺にも侵食域を遅々として広げていく。

 両の乳首へ薬を刷り込まれた時点で、幽利は食い縛った歯の合間から低く呻き、タイルの継ぎ目にごりごりと後頭部
を擦り付けていた。キツく瞑られた目尻からは涙が新しく濡れた頬を伝い、捻りのない謝罪の言葉が呻きに混じって延々と繰り返さる。

 それを聞きながら、鬼利はケースから2本指でクリームを取った。左と同じく薄いラテックスの手袋をつけた右掌へ掬ったそれを落とし、一度ぐちゅりと握って滑りの良い素材をまんべんなくクリーム塗れにしてから、その手で先の乳首と同じ状態と色をしていた幽利のモノの、その中でも一等敏感で掻痒剤の効果に苦しみ易い亀頭へすっぽりと被せる。

「あ゛ぁああああっ!」

 ノブを回すようにぐちゅ、と手首を捻り、赤く熱を持った粘膜全体にクリームを行き渡らせてから、掻痒感に限界まで勃ち上がって涙を零している先端の鈴口を開かせ、他より一層神経が寄り集まったそこに緩くなったクリームをぐじゅりと塗りつけた。溢れて零れるほどの量が入ったのを確認してもう痙攣を始めた小さな穴を指で塞ぎ、そこと尿道にもじっくりと掻痒剤が染み込むのを待つ間に、もうひと掬いしたクリームをぐるりとカリ下にも塗り拡げる。

「う゛ぁ……あ゛……ぅうう゛……っっ!」

 吸収も作用も即効性でとにかく手間のないクリームを、今度も2本指で掬い取りながら、鬼利は一度立ち上がって場所を変えた。幽利の足を開かせたまま固定しているポールを掴んで腕の拘束具と繋ぎ、腰を浮かせたM字開脚にさせてから両足の間に座り直して、ぽってりと膨れながらも怯えたようにその口を閉じている窄まりへ、すくい取ったクリームの全てを塗りつける。

「やだっ!なか、いれないでっ!そこだけ、はぁっ!」

 そこが一番辛い、と申告して暴れる幽利を太腿に膝を押し当てて大人しくさせ、鬼利はたっぷりのクリームで濡れそぼった指で、同じく濡れそぼった縁を円を描くように撫でていった。既に効き始めた痒みに慎ましい痙攣をしている外周に、時折喘ぐように内側の赤さを見せてしまう皮膚と粘膜の境目に、丁寧に丁寧に薬を馴染ませて染み込ませ、頑なだった口を開かせる。

「ひい゛ぃいっ!」

 たっぷりとクリームを掬い取った中指を開いた入口に根本まで埋め、熱を持つ粘膜へローションのように掻痒剤を塗り拡げていく。一度クリームを足して、痒みを疼きと勘違いしやすい前立腺のしこりへは特に重点的に。尋常でない締め付けを軽く指を動かして振り解きながら奥深くまで行き渡らせ、溶けたクリームが泡立つまで撫でくすぐって、引き留めようと必死に縋り付くナカから指を抜いた。


「あと30分」


 背中を反らし、腰を床に擦り付け、腰を締めるコルセットと腕枷、そこに繋げられたカーボンの頑丈なポールをぎしぎし、がちゃがちゃと喧しく鳴らしながら、どうにか全身の性感帯を襲う耐え難い掻痒感を誤魔化そうと暴れる幽利を後目に、立ち上がった鬼利は部屋の中央に据えられた拘束台の上の簡素なタイマーのスイッチを入れる。

 30分はこの薬の有効効果時間だ。見極めは得意だから限界量を、とオーダーされた掻痒剤がそのポテンシャルを遺憾なく発揮して、使われた者の神経と精神を延々と磨り潰すことが出来る時間。本格的に効いてきて痒みから逃れる為ならどんな見下げ果てたこともし始めるまでの最初の5分と、ぴりぴりと疼痛に似た痛痒感が肌の深くに食い付いて離れない2時間余りの半減期は計算に含まれていない。

「ぐうううっ……う゛う゛……ぅううう゛う゛う!」


 その体の外側で、内側で、猛威を振るい始めた効能によってじたばたと暴れ、膝をぶつけるとか皮膚を擦り剥くなんて些末なことは考えられなくなった幽利が拘束された体で無理矢理にうつ伏せになった。
 土下座するような格好で頬を床に擦り付け、伸ばせない膝も擦り付けながら、メチャクチャなリズムで腰をガクガクと揺らす。胸の下で組んだままベルトに拘束された両手が、そして腕枷と足枷の両方に繋がるポールが邪魔で、いくら擦り付けても腰を振っても、痒くて痒くて堪らない所へそれを癒やす刺激は何ひとつ得られなかった。


 自らの意思では一瞬たりともこの生き地獄から逃れられぬよう、鬼利がそのような拘束を施したのだ。


「ごめっんな、ざいっ!ごえん、なっさっぃい゛い゛い゛!」

 拘束台の傍に置いたパイプ椅子にゆったりと足を組んで座った鬼利は、愛しい弟が叫び喚く声を聞きながら、うるさいとそれを叱ることもせずに、両手の手袋を外す。

 薬品に塗れたラテックスと空になったプラスチックケース、その両方を、まとめて足元にべとりと落とした。





 髪を摑まれ床から引き上げられた頭に、じゃらりと鳴る鎖が通される。
 片方の端についたリングにもう一方の端を通した、チョークチェーンと呼ばれる物だ。所有を示す首輪とは違い躾や調教を目的にしたそれは、リードを引かれれば引かれた分だけその内径を狭めて下僕の首を締め上げ、呼吸と服従を天秤に掛けさせる。

「あ゛、……ぐっ……」

 ジャッ、と凶暴に鳴って頸動脈と喉笛に食い込む鎖に引かれるまま、幽利は疲れ切った体を起こして膝立ちになった。膝のポールと腕の拘束との接続は解かれていたが、それぞれはまだ強固に自由と関節を縛っている。よろよろと数歩進んでは倒れ込み、その度に情け容赦なく食い込む鎖に呼吸を止められながら、壁際に置かれた拘束椅子の前までどうにか体を引き摺った。

 椅子の脇に寄せられたワゴンの上には、これ見よがしに白いプラスチックケースと、筆とブラシが並べられている。

「……めんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「……」
「ぎぅッ」

 震える声で謝罪を繰り返す喉が右斜め上へと引き絞られる。ここに座れ、と聴覚ではなく痛覚へ指示を入れる。
 チェーンに削られてぐるりと赤い痕がついた喉を弱々しく震わせながら、幽利は大きく開脚したまま拘束する為に斜めに突き出た足置きに縋って、座りの浅い座面に上半身を押し上げた。

「っひ……ぅ、う……」

 約1時間振りに膝を伸ばすことを許された両足が、分娩台のような足置きに固定される。
 両手は背もたれの後ろで、爪を剥がさないよう袋状の手袋を着けた上で手首を縛られた。
 奥歯でしっかり噛まされた棒状の口枷は、唯一残されていた謝罪を封じて一縷の希望すら刈り取っていく。

「ううっ、ううっ」
「……」

 やだ、やだ、と泣く幽利の顔を見ないまま、足の間に置いたキャスター付きの丸椅子に座った鬼利はワゴンを引き寄せ、すり切り一杯にクリームが詰まったプラスチックケースを開いた。小分けにされているのは単に衛生面を考慮してのことで、在庫は幽利2、3人を廃人に出来るほど潤沢にチェストの引き出しに備えられている。

 泣き、呻き、懸命に首を横に振る幽利を無視して筆に掻痒剤を含ませながら、鬼利はガタガタと震える膝や肩、唇についた傷と滲む血を見ていた。


 そもそも、鬼利の基準でもプレイの枠には収まらない、拷問に等しい折檻を施しているのは、こうして幽利が軽率に自身の体を傷つけるのを戒める為だった。
 愉悦に耐えかねて枷を着けられた体で暴れ、擦過傷や打撲痕を作るくらいならまだいい。痛みを怖がらない被虐趣味で自身の価値を不当に低く見積もる幽利はそれでは済まない。関節を無視して脱臼しかけ、脳震盪を起こす寸前まで頭を打ち付けて額を割りかけ、何かを痛みで誤魔化す為に気軽に爪を半ば以上まで剥ぐ。

 拘束具を見直し、命令の達成難度を下げ、この体を傷つけていいのは”持ち主”である鬼利だけだと頭と体に教え込むことで最近はかなり良くなっていたのだが、互いに少し興が乗った先月、ついに今年で3枚目になる生爪を剥がしかけた。しかも武器庫での仕事に影響が少ないよう、左の小指を。

 ―――流石の鬼利も緒が切れた。

 お仕置きに怯え失望を恐れて足掻く姿を愛でたいのであって、自傷行為をさせたいわけでも見たいわけでもない、大きな怪我をすればそれだけ一緒に遊べなくなるんだよ、と優しく説いてやって理解出来ないのであれば、足りない躊躇をトラウマという形で植え付けるしか無い。
 自分で刻んだ鞭傷の処置をしてやるのは互いにとって楽しい時間だが、生え変わるまで毎日のように新しい血を滲ませている指を消毒し、包帯を巻き直すのは、鬼利にとっては楽しい時間では無かった。


「……」

 電気責めをし難くなるボディピアスも胸だけで十分だと言うのに、またそんなに深く噛んで。唇に歯型のアイレットでも開けるつもりなんだろうか、と凍ったような無表情の下でひとり呆れながら、鬼利はたっぷりとクリームを含んだ筆を黒い石に飾られた乳首に滑らせる。

「っっ……う゛う゛ぅうっ!」

 過大なストレスと疲労、軽い脱水の所為で狭まった視界が滲み、思考など見えなくなって久しい幽利は鬼利の内心など知る由もなく、一度ぎくんと強張らせた体を椅子の上で大きく仰け反らせた。
 30分間の絶望をより深くする為に肩と腰のベルトはまだ巻かれていなかったが、それでも四肢を拘束された体では万年筆を持つように筆を持った手からは逃れられない。柔らかな無数の毛先にくすぐられてベルトを鳴らし、繊細な毛先に過敏になった皮膚をつつかれて喉を晒し、泣き腫らした目を見開いて口枷を噛みしめる。

「んぐぅうっむぅう゛っ!んうぅうっ!」

 もうやめて、それ塗らないで、と塞がれた口で喚きながらじたばた身を捩る幽利を、鬼利はやはりうるさいとも大人しくとも咎めなかった。淡々と痛々しいほどに赤く腫れた小さな粒を濡れた筆先で包み、撫で上げ、くすぐり、クリームによって齎される苛烈な痒みをより一層煽り立てて、手の掛かる可愛い下僕から枯れかけていた悲鳴を絞り出す。

 浮いていた腰が座面に落ちるまで左をいたぶり、同じ時間右を嬲り、暴れる体力を削り切る為にもう一度左に戻って、また右を。
 喚く気力も削り取られた喘鳴混じりの呻きを聞き流しながら、真新しいラテックスをぱちんと嵌めた鬼利の左手が無造作に幽利のモノを握った。筆から持ち替えたブラシのシリコンの毛先でクリームを掬い取り、素面でも飛び上がるそれを躊躇なくぞりゅ、と亀頭に擦り付ける。

「ふぎゅっ」

 奇妙な声を上げて顎を跳ね上げ、瞳も瞼の裏まで跳ね上げてガクガクと痙攣する幽利のモノから、ぷしゃりと潮が吹き出してブラシと鬼利の手を濡らした。
 手元が狂わないよう濡れた手をぞんざいにスラックスで拭い、痙攣の強さと発汗量をじっと見極めながら、鬼利はなにかの処置であるように敏感な粘膜を磨き続ける。そこからブラシを離すまで虚ろな橙色が戻ることはなく、柔らかく先が丸まった毛先が尿道口を擦る度に幽利は潮を吹いた。

 見極めの結果としてごく少量のクリームを纏った筆がナカへ突っ込まれ、ぐじゅぐじゅと数回出し入れされても、幽利は微かに呻きながら鬼利の肩口の辺りに虚ろな視線を向けるだけだった。拡張性を失った千里眼がせめてと送ってくる情報を処理出来る猶予が脳に無かった所為だ。
 入れた時と同じ単調さで筆が引き抜かれる。足の間で立ち上がった鬼利が残されていた腰と肩のベルトを締め、使ったものをワゴンに戻して、体半分後ろに転がした丸椅子に座り直した。

 足を組み、いつも真っ直ぐに伸ばされた背中を前屈みに倒して膝に腕を乗せた、珍しい待ちの姿勢。

 幽利は勿論、鬼利が何かを待っている素振りをしていることは知覚出来ていなかった。しかしそれが来た時、鬼利がその場を離れず、最初に口枷を噛ませた真意は、嫌でも理解する事になった。


「……―――――っッ!!」

 精神的に追い詰めるものではあっても、肉体的には確かな”刺激”であった全てが無くなったことによる、これまでの1時間よりも苛烈な生き地獄。

 既に濡れた肌の上で、吹き出した脂汗がいくつも玉となって流れ落ちる。口枷の奥から声にならない絶叫を天井へ吐いても薄れもせず、強引に覚醒させられた幽利の脳はただ一つの原始的で耐え難い不快感に支配された。


 痒い、痒い、かゆい、かゆい、かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいかゆい


「う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛っ!!」


 獣じみた潰れた叫びを聞きながら、鬼利はタイマーではなく自分の腕時計を見た。アナログな長針と短針を見て、今の状態の幽利が”保つ”時間を計算する。

 これで折り返しでは頭が保たない。
 喉は10分もすれば潰れる。
 まだ植え付けに足るトラウマには成っていない。

「ん゛―――っ!ぐう―――っ!う゛、ぅっ……」

 リミッターの外れた動きで人体構造的な要所を抑えた拘束をみしみし、ぎちぎち、と歪ませながら滅茶苦茶に身を捩っていた幽利が、ついに体力と気力が底をついて失神する。
 使う側にとって掻痒剤の便利な所は、気つけ薬や水を掛ける為のバケツやタライの準備が不要な簡便さだ。どんな状況下で意識を飛ばそうと、三大欲求である睡眠でさえ容易く妨害出来る激しい掻痒感の前では、別の根源的な本能によって数分と経たず覚醒することになる。


「―――……ぐぅっん゛ん゛、ん゛ん゛ん゛ん゛っ!!」


 使われる側にとって掻痒剤の恐ろしい所も、当にこれだろう。発狂するような痒みに耐えて、耐えて、ついに耐えかねて落とした意識が、同じ痒みによって数分で状況の変わらぬ苦界へ連れ戻されるのだから。

 いよいよ神経まで侵され尽くしたのか、ぴゅく、と勢いの無い精液が痙攣する幽利の腹を汚すのを見ながら、鬼利は再び腕時計の文字盤へ視線を落とした。





 雨のような水音がしていた。
 額をラバーに擦り付けていた頭を横向けた幽利は、ホースを持った鬼利が床に水を撒いて汗や涙や乾いた血を洗い流しているのを、感情の抜け落ちた茫洋とした顔で見る。

「……あ―――……う―――……」

 掃除の邪魔にならない拘束台の上で、幽利は背中を丸めた土下座の恰好で蹲っていた。両肘と両膝を繋がった4つの鉄輪に通されている為、もうまともに起き上がれもしない幽利は首を垂れて最大限の謝罪を姿勢で示すしか無かった。

 揃えて深く折った太ももに、2つめのプラスチックケースの残りを塗られたモノを緩慢に擦り付ければ、水音が遠くなるような甘い快感と共に足の間がじわりと濡れる。
 関節の位置の関係でクロスさせて胸の下に潜り込ませた両手は袋を着けられたままだったが、柔らかい布越しに乳首を引っ搔くだけでも気が遠くなるほど気持ちよかった。
 土下座したまま僅かに体を前後に揺らせば、上半身の痒みは夢のように心地よく和らぐ。腕も踵も届かないナカにはごつごつした粒がたくさんついたバイブが深く挿入され、緩い振動に体の揺れが加われば、そちらも気持ちよさの方が強い。

「ぁ……はー……ぁ―――……」

 緩慢にゆらゆらと体を揺らすのを止めれば、今まで通り3点に分けて塗られたクリームが牙を剥く。鉛を流し込まれたように重く疲れ果てた体を、それでも自力で動かさなければ鮮烈な生き地獄は容易くぶり返してくる。

 幽利の右側で降り続いていたホースの雨は、いつの間にか背後に移動していた。
 実際の数十倍にも思えた30分の間、幽利が垂れ流した色々な体液に汚れた拘束椅子を、鬼利は乾いてこびりつく前にホースで水を掛けて洗い流していく。のたうち回る自由すら奪った無慈悲な枠組みを伝い落ちた分を排水溝に向けて押し流し、濡れた床をひたひたと踏んで、拘束台の傍らに戻った。

 どこにでもあるような深い緑色のホースからは、どぼどぼと途切れる事無く水が溢れている。髪を掴んで肩より上に持ち上げた幽利の口に、鬼利はそうするのが当然のようにホースを突っ込んだ。

「ぅ……う゛、……ごぶっ……!」

 あっという間に口内を埋めつくし喉奥まで浸食してくる水分を、限界まで乾いていた幽利は水圧に押されるように飲み込んだ。苦しい、溺れる、と力をふり絞って背けようとした顔を髪を掴み直されて固定され、殆どをばしゃばしゃと台の上に零しながら、キンと冷えた水を血の滲む喉に流し込む。

「ごぼっ……ぐ、……ぅぶ……っ」

 視界が暗くなり末端が微かに痙攣し始めてようやく、ホースが抜かれた。幽利がひゅう、と喉を鳴らして酸素を取り込み、嘔吐いていくらかの水を吐き戻している間に水を止めた鬼利の、水に濡れてひんやりと冷えた手が、今度は頬に添えられて再び幽利の頭を持ち上げる。


「幽利」


 2時間振りに発された声。名前。はじめてもらったもの。
 感情が抜け落ちた表情のまま、それでも瞬いてその顔に焦点を合わせた幽利に、鬼利は柔らかく目を細めた。

「反省した?」
「………ぁ、い……」

 強制的に潤わされたお陰で、喉からは音が出た。

「し、まし……た………」

 両手で包むようにされている所為で頷けないので、声に出して幽利は答えた。答えられてしまった。


 ごめんなさい、以外の言葉を。


「してないね」

 あ、と音を漏らした幽利の、瞳孔が震えた橙色を同じ色の瞳で覗き込んで、鬼利は手を離す。
 濡れた台の上にばしゃ、と自重を支えられない頭が落ちた。スラックスの裾を上げた素足がひたひたと濡れた床を踏んで、遠ざかっていく。

「ぁ……あ……」

 自力では降りられない濡れた台の上で、冷たい金属に縛られたままの、幽利を置いて。

 行ってしまう。


「おやすみ」


 パチン、と窓のない部屋の電気が消された。



 …Exciting!


ふたご と(で) あそぼう!


short