昨日の次の日



 しゅるり、とシルクのシーツが鳴る音に、悦は目を覚ました。

「…うー」

 投げ出していた腕を指先までぴんと伸ばして、ぱたりと力を抜く。体が固いし重い。
 ちょっと寝過ぎたな、と頭の片隅で思いつつ、悦は柔らかいブランケットを足で跳ね除けた。片足を振り子のように使って起き上がり、ぐるりと首を回して、ついでにうーんと前屈までしてから、ようやく傍らに寝る男に視線を移す。

 間抜けに涎でも垂らしていれば可愛げがあるのだが、悦がこれだけ横でバタバタしていても起きる気配もない化け物は、今日も今日とてその美貌を欠片も損なうことなく、枕に頬を埋めて健やかに眠っている。


「…嫌味なヤツ」

 いつも通りの光景に小さく笑いながらそう吐き捨てて、悦は裸の腰に絡みつく暖かい傑の腕を蹴り飛ばした。



 『 昨日の次の日 』



 おはようのチュー、なんて甘ったるい行動は悦の辞書には無い。

「傑、すーぐーるー」
「んー…」
「おーきーろー」

 悦と同じくたっぷり9時間は惰眠を貪った筈なのに、まだ起きる気配の無い傑の背中をゲシゲシと蹴りながら、悦は持っていた歯ブラシを口の中に放り込む。
 シャコシャコと歯を磨きながら、リズミカルに背中を蹴ること38回。側頭部への踵落としを考え始めた頃に、ようやく傑の手が悦の足首を掴んだ。


「おひろっへ」
「んだよ…かいもの…?」
「ひがう」
「じゃー、なに…」
「ひかかりへっからあいへひろ。みっひゃまへはらひみゃへはらははまってふほはへー」
「っ…何語だよ」

 聞き取らせる気のない悦の言葉に小さく吹き出して、やっと開かれた藍色の瞳が眠たげに悦を見上げる。
 乱れたシーツの上に体を投げ出した寝ぼけ眼の恋人は、それはもうそのままエロ本の表紙を飾れるような有り様だったが、悦は無視して視線で起きろと促す。いくら自他共に認める敏感で淫乱な悦でも、セックスアピールの塊である傑のそれにいちいち反応していたらベッドから出る暇が無い。

「ひゃはらはらははまっへっはら、」
「っふは、やめろってそれ」

 何も悦だって休日の傑を用もなく起こしているわけではない。なんだと聞くから説明してやってるのに、とむっとした顔をしてやると、傑は笑いながらシーツの上に身を起こした。

「…コーヒー頼むわ」
「んむ」

 緩慢にベッドから下りた傑をリビングへと追い立てながら、悦はキッチンを指差す。
 傑が好きな泥水のように濃いブラックのコーヒーは、既にポット一杯に淹れてあった。その横では悦の朝食用のフレンチトーストがいい焦げ目をつけているし、リビングのソファには傑の着替えも放り投げてある。

「…悦」

 振り返った傑が感心したように呼んでくるので、お前がいつまでも寝こけてやがるから準備してやったんだ感謝しろ、と歯ブラシを咥えたままでふふんと笑ってやると、傑はまだ少し焦点がぼやけたままの瞳で真っ直ぐに悦を見て、


「俺達いつ結婚したっけ」
「…まだ寝てんのかアホ」

 しみじみと呟いた傑の肩を、悦はぐーで殴った。










 音もなくスライドした扉の先。
 大きな積み木のような障害物が所々に積み上がる、装飾性の欠片も無い煤けただだっ広い部屋を見て、欠伸を繰り返していた傑はようやく背筋を伸ばした。

「温度下げるか?」
「いい」

 持ってきた黒いバックを開き、中に詰められた大小様々なナイフをぽいぽいと放り投げて歩きながら、悦は首を横に振る。眩しいほどに白く照らされた100メートル四方の“訓練室”は少し暑いが、体力を削るにはこれくらいが丁度いい。
 空になったバックを壁際に投げ捨てて、固い防刃繊維のズボンを履いた足を軽く屈伸をして伸ばし、さて、と悦は目の前に立つ傑を見上げる。


「取りあえず1時間な」
「はいよ」

 実に気軽な調子でそう言って、悦は呑気に答えた傑の前髪を数本、手にしたジャックナイフで切り飛ばした。





 運動力学だの人間工学だの、難しいことはさっぱり解らない。

 「明日」という概念が通用しないZ地区では、今後の為に新人を鍛えるなんていう発想は存在しなかった。銃が扱えなかったのでナイフを渡されて、握り方も力加減も自分で覚えた。
 生き抜くために覚えた技術は頭より体のほうが多いから、未だに何がどうしてそうなるのか解らないことも沢山ある。


 関節をヤバい方向に曲げればそこが折れるし、関節じゃなくても殴るか蹴ると骨が折れるし、手首のあの辺を切れば指が動かなくなる。あっちとこっちとその辺は切ると他より出血して、血がこのくらい流れれば死ぬ。耳は割と簡単に千切れて、心臓の位置はそこ、喉笛と頸動脈はあれ。脂肪は黄色で骨は白くて内臓は桃色で血は赤い。

 それだけ解っていれば十分だった。

 どんな素晴らしい理論に基づいた技術だろうが、膨大な時間の上に成り立つ理論だろうが、今、目の前にいる敵を殺せなければ意味が無い。
 今まで殺した全員の、自分を殺すために使われたあらゆる技術や経験を必要なだけ必要な形で吸収してきたから、悦はそこにあっただろう理論なんて何も知らない。





「ッぁ、く…っそ…!」

 漏れそうになった苦鳴を罵倒に代えて吐き捨て、折れそうになった膝に力を込める、のでは無くふっと膝下の力を抜いて体を左に流し、逆手に握ったナイフで太い動脈が通った太腿の“あの辺”を突く。
 だが、骨をも断つ鋭い切っ先は、強度ゼロの革靴の先であっさりと弾かれた。

 汗の所為でずるりと滑ったナイフを即座に見限り、引き戻した手を床について跳び退った悦の目の空間を、つやつやと光る革靴の爪先が横薙ぎに切り裂いていく。足を右に振れば体は左に流れる。ぎゃり、と煤けた床を蹴り、悦は床に落ちていたナイフを浚いながら振り抜かれた足と相手の視界が重なる位置へ踏み込んだ。
 床から弾かれ慣性のままに流れる柄を空中で掴み、勢いを殺さないまま体重と速度だけを乗せて、脇腹へ、


「…あぁ」

 今まさに薄っぺらいVネックシャツを裂こうとしていた切っ先が、気のない声と共に悦の視界から消えた。目を見開く前に背中へ岩でも降って来たような衝撃がかかり、咄嗟に全身の関節から力を抜いた悦の体が床に叩き付けられる。

「今のは速いな」

 呑気な声は真後ろからだ。
 衝撃に明滅する視界を無理矢理開いて足元を見た悦は、少し離れた障害物の上で胡坐をかいて座っている傑を見て起きるのを止めた。目を伏せてじんじんと痛む腕を投げ出し、小さく咳き込む。

「げほっ…か、ぁっ…はぁっ…!」

 何をどうやってどうなったのかはさっぱり解らないが、ナイフを弾かれて回り込まれ背中を殴られるか蹴られるかしたのだろう。膝が無事なところを見ると足払いもセットでかまされていたのかもしれない。どうでもいい。運動力学だの人間工学だの難しいことは悦には解らないし、人間のふりを止めた傑の技術はどうやったって盗めないし、傑がこういう真似をするということはもう1時間経っているということで、つまり死にそうに疲れたから全部どうでもいい。

 ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返しながら、悦はべしゃりと倒れた姿勢のまま、鉛のように重い足で床を擦る。爪先で床を叩くつもりだったが、1時間ぶっ通しで走ったり跳ねたりしていた足は床に張り付いたように上がらない。


「はいよ。起きれるか?」
「……」

 ミネラルウォーターのボトルを持って傍らに膝をついた傑を、悦は無言で見上げる。酸素を取り込むのに忙しくて声を出す余裕がない。

「最後のアレ、1つフェイク入れたほうがいいかもな」

 全身に力の入らない、というか入れる気のない悦の体を軽々と抱き上げて自分の肩に寄りかからせた傑の手が、キャップを外したボトルを口元まで近づけてくれる。
 全てが急所狙いの悦のナイフを1時間あしらい続けたというのに、頭を預けた傑の胸板は静かなもので、鼓動すらいつも通りだ。


「途中のは雲水流の技だろ?どこで盗んだ?」
「……」
「護衛に居たのか。あれ、左に1回振ってから上体崩して首狙うんだよ。足逆でやり辛かったろ?」
「……」
「悦には関係ねぇか」

 悦の忙しない呼吸を読んでボトルを傾けながら小さく笑った傑の手が、疲労でがくがくと震える悦の太腿を優しく撫でる。
 宥めるようにゆっくりと撫でられていると、不思議と強張った筋肉が解けていくようだった。呼吸も落ち着いてきて、半分ほどを残したボトルから顔を反らした悦はくったりと体の力を抜いたまま深く息を吐く。



 確固とした理論を持たない悦には、慣れと勘だけが頼りだ。

 幾度となく悦を救ったそれは血の一滴にまで染み込んでいるが、体を動かす脳の方はそうはいかない。昨日は考えなしに出来た動きが、3日と置かずに再現出来なくなる。

 実戦しか経験していない悦には訓練や練習が出来ない。寸止めなんて器用な真似は必要が無いから出来ないし、刃を潰していても、ゴム弾でも、殺すための悦の技術で使えば相手は再起不能になる。
 それに加えて無尽蔵のスタミナだ。どこかで達人と呼ばれていた登録者だって、とても相手が務まるものではない。


 そんなものに付き合ってくれるのは化け物だけで、つまり傑だけだ。


 何をしたって掠りもしないと解っているから、悦も全力で殺すための技術を使える。寸止めされたって死にそうな追撃が来るから一瞬たりとも気が抜けない。お手本のような護身術から型破りな捨身の技まで、知らない技術ばかりで頭が冴える。

 明日も悦が死なない為に、慣れと勘を維持して更に磨くための相手になるのは、鋭く研がれたナイフが絶対に掠りもしない傑だけだ。


「…はらへった」

 傑に持たせたままのボトルからちびちびと水を飲みつつ、悦は呟いた。慣れた体は5分も休めば呼吸も心拍数も落ち着くが、ナイフを弾かれた掌はまだじんじんと痛いし、傑が心を読んだように的確にボトルを傾けてくれるのだから仕方がない。

「だな。戻るか」
「ん。」

 ボトルにキャップをした傑にこくりと頷いて、悦はだらりと下げていた腕をその首に回した。
 Fに頼んで1時間の予定で貸し切ったこの“訓練室”は、基本的には“殺傷力のある武器”は使用禁止だ。そして約束の時間はもう過ぎている。
 誰かが来ないうちに、部屋中にばら撒かれている20本のナイフやその破片を回収しなければならず、本当ならそれは使った悦が回収するのが道理なのだが、なんかもう疲れて歩く気がしない。


「待ってろ、片付けっから。バックどこに投げた?」
「疲れた。立ちたくねー」
「それはいいんだけどよ、悦さん。手ぇ離してくれねーと片付けらんねぇんだけど」
「歩くとかマジ無理ー」
「だから……あぁ、はいはい」

 悦の膝裏に片腕を回した傑が、苦笑しながら重さを感じせない動きで立ち上がる。片手に水の残ったボトルを下げて壁際のバックを拾いに向かう傑の肩口に、もう片方の手で横抱きにされた悦は満足気に頭をすり寄せた。


 何しろ悦は疲れている。支えられていなければ自分で座っているのも、そりゃあ出来るがダルい。ここの床は寝るには堅いし、障害物はお子さまに優しくない鋭角のフォルムだし、傑はぴんぴんしているし、ここに居るのは悦と傑だけだ。
 となれば、傑に寄りかかっているのが一番心地が良い、という自分の心の声を悦が無視する道理はどこにも無い。

 なので悦は、くすぐってぇよ、と笑う傑を無視して頭を寄せたまま、心地良い疲労感に従って目を伏せた。










 傑が温めた昨日のシチューと、傑が切って軽くトーストしたバケットと、傑が手で千切って悦お手製のドレッシングをかけたサラダを食べ終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 ソファに座った傑の上にだらりと寝転がったまま、悦はローテブルの上に乗ったリモコンに手を伸ばす。
 ゲームを楽しむ為に大きくて音響もバツグンのテレビは、緊迫感のあるアナウンサーの声で今日のニュースを伝えていたが、世界情勢にも政治にも経済にも興味は無い。というか為替相場だの請願権だの言われても意味が解らない。


「あ、」
「んぁ?…あー…」

 適当にザッピングしている最中に頭上の傑が声を出したので、悦はそこでチャンネルを止めてリモコンを投げ出す。どうやら動物系のバラエティのようで、ふわふわの毛並みの子猫が数匹、わちゃわちゃしていた。


「なんだあのでけぇネズミ。ほら、あの奥の」
「猫特集って書いてあンだろ。あれも猫」
「へー…剥いだのか」
「そういう種類なんだよ。スフィンクス、っつー毛のない猫」
「ふーん」

 気のない声を出しながら、多種多様な子猫がわちゃわちゃと転げまわるのを、悦はぼんやりと眺める。剥いでないのなら食用か、毛が無いほうが色々楽だもんな、などと猫と戯れるアイドルが聞けば悲鳴を上げそうなことを考えていると、小さな笑い声と共に頬を預けた傑の足が揺れた。

「ンだよ」
「手前の猫、膝に乗ってるやつ」

 くく、と笑いを噛み殺す傑からテレビへと視線を戻すと、色々と解説している司会役の男の膝の上に、蜂蜜色の猫がいた。しかもその子猫は、慣れているのか緊張感がないのかぐでんと伸びている。
 言わんとしていることに気づいて横目で傑を睨むが、宥めるように猫とよく似た蜂蜜色の髪を撫でられて悦は閉口した。そう言えばFにも、「悦っちゃんはぁー、猫っぽいよねー」と言われたことがあった気がする。


「…似てねーよ」

 つい拗ねたような口調になってしまいながら、髪を梳く傑の手を邪魔そうに払った。そうしながら膝の上から退こうとしないその様子が、また猫っぽく見えて傑の笑いを誘っているのだが、悦は気づかない。

 番組は子猫との触れ合いからネコ科の野生動物の紹介へ切り替わり、靭やかな体躯の豹や虎の狩りの様子を映している。基本的に単独で行動する種でも、大きな獲物を仕留める時は一時的に団結することもあるそうだ。なかなか賢い。

「あ、足持っていきやがった」
「怒られてンな」
「そりゃそーだろ、あいつ何もしてねぇし」
「あー、逃げた」
「いや今のは右だろ。一回フェイク入れてから行けよ」
「そんな小回りきかねーって。100キロ近く出てンだぞあいつら」
「マジかよ豹すげぇ」
「これはチーターな。こっちはライオン」
「ハゲてる」
「ハゲてねぇよメスなんだよ」



 図鑑など見たことが無いし、動物園にも行ったことのない悦には初めて見る種ばかりだった。熱中してライオンの生態の解説などを聞いている内に番組は終わりに近づき、アイドルだのタレントだのが感想を述べ始めた頃に、タイミングよくバスルームから風呂が沸いたことを知らせる電子音が響く。勿論、沸かしたのは傑だ。

「あ、風呂」
「先入れよ。疲れたろ」
「んー…」

 ぽんぽん、と背中を撫でてくる傑の上で遠慮無くうーんと全身を伸ばし、これまた遠慮なく傑の肩を支えにして、悦はソファの上に上体を起こした。
 着替えはしたが、空腹に任せてシャワーも浴びずにいたので肌がベタついて気持ちが悪い。早くさっぱりしてしまいたかったが、仕事の時よりも酷使された全身の筋肉は色々な所が張っていて、きちんと解さなければ明日に響きそうだ。

 風呂の中でストレッチと、風呂あがりに傑にマッサージでも頼んで、そのままヤって寝ようか。いやこの感じだとマッサージの最中に寝そうだ。マッサージの前にソファでヤる、のは傑に止められそうだからベッドで、ダメだそのまま寝かしつけられる。
 ソファから立ち上がりながらそこまで考えた所で、悦ははたと名案を思いついて顔を上げた。


「傑」

 ラグに放っていたリモコンを持ち上げた傑の手からリモコンを取り上げて、それを後手に放りながら、先ほどまでいいだけ枕にしていた膝の上に乗り上げる。
 早く汗を流してさっぱりしたいし、SEXもしたいし、傑に甘やかされながら柔らかいベッドで眠りたい、猫もかくやというほど我儘な悦の欲求を全て満たすにはこれが一番だと、悦が何よりも頼りにする慣れと勘が告げていた。


「…風呂は?」

 期待通り、目を見ただけで悦の思惑を全て汲み取ってくれた傑が、腕を腰に回しながら薄く笑う。

「入る」
「ストレッチもしなきゃな」
「面倒くせーんだよ」
「してやるよ」
「…全部?」

 猫のように悪戯っぽく目を細めせて見せた悦の体が、ふわりとソファから浮く。

「全部」

 獲物にギラつく藍色の瞳で悦を射抜いたまま期待通りに甘く囁いた傑に、悦は満足気に笑って噛み付くようなキスをした。





「…痣になってるな、ここ」

 ぴったりと背中に密着した傑に不意に囁かれて、悦は涙と湯気に霞む目を開いた。

「ぁっ?…なに、あ…ざ…?」
「ここンとこ」

 言いながらくるりと背中を撫でられて、悦はあぁ、と頷く。“訓練室”で暴れた時、そういえば最後にその辺りを殴られるか蹴られるかしていた。あんな真似すればそりゃあ痣くらいつくだろうし、むしろ痣程度で済んでいたことが驚きだ。


「んなのっ…ぁ、はっ…あぁっ!」
「悪い。痛かった?」
「…っ…」

 だからそんなのどうでもいい、と言おうとしたのに。バックで挿れている傑が傷を見るために少しだけ身を引き、更にいらん勘違いまでしやがったので、悦は小さく舌を打って上体を捻った。
 労るように肩にキスをしていた傑を片手で突き飛ばし、股関節の柔軟さを遺憾なく発揮して片足で傑の体を跨いで、傑のモノを入れたまま体を反転させる。ぐり、と中のイイところを擦られるのに痣があると言う背中を反らせながら、舌なめずりのオマケ付きで。


「…悦、」
「はぁ、あッ…うる、せぇな…」

 扇情的な悦の仕草に目を細めながら、それでも痣がバスタブに擦れるのを防ぐように背中に腕を回そうとしてくる傑の後ろ髪を、悦は思いっきり鷲掴みにして引き寄せた。
 痣も傷も骨折も内臓破裂も慣れっこだ。心臓さえ動いていれば何も問題は無い。そんな2、3日で跡形もなく消える痕跡なんか悦は興味無い。さっきから全身で伝えてやっている通り、悦が今欲しいのは傑の熱だけだ。

 あんな、生物としての圧倒的な差を見せつけられた後では。野生動物よりもよっぽど靭やかで鋭い様を見せられた後では、気遣いだの労りだの、そんな生温いものは欠片だって欲しくない。


「黙って、腰振ってろよ。…はっ…それとも、」

 後髪を鷲掴んで鼻先が触れるほど引き寄せた傑の瞳を睨みつけて、悦は蠱惑的に嗤う。

「喉鳴らして、擦り寄るような“ネコ”が好みか?」
「…まさか」


 掠れた声で言った傑の唇が、噛み付くように悦のそれを塞ぐのとほぼ同時。腰の位置までしか張っていないお湯が溢れるくらいの勢いで最奥を突かれて、悦の目の前に白い火花が散った。

「んんッ、ん、ふっ…はぁ、あむっ、ぅ…んんンっ!」

 散った火花が消える間もなく、お湯の浮力を使った早いストロークでがつがつと突き上げられて、悦の目の前はあっという間に真っ白になる。明滅する視界にはフラッシュバックのように獰猛な藍色が映るばかりで、バスルームに反響する自分の嬌声を聞きながら、悦は傑の頭をかき抱いた。

「ふぁ、あっ…んんッ…す、ぐ…っ!」
「……ッ」

 貪るようなキスの合間に甘く囁いてやれば、乱暴に解かれた唇が荒っぽく舌を打つ。求めていた荒々しさで腰を掴まれ、ぞくぞくと腰から頭まで這い上がる期待に陶然と目を細めた悦の視界が、ざばりという水音と共に宙に浮いた。

「あ、ぁ、あッ…!?」
「っは…」

 慌ててしがみついた悦の背中を壁に押し付けながら、軽く息を吐いた傑が小さく笑う。
 本来ならストロークの助けになる筈の浮力は、悦の体重を片手で支えられる傑にとっては邪魔でしか無かったらしい。抱き上げられた状況を理解する暇も無く、重力に引かれる体を今まで以上の鋭さで穿たれて、逃げ場の無い体が傑の腕の中で跳ねる。

「ひぃっ、ぁ、あっ…ぁあああッ!」

 一際強い火花が視界を白く染めるのと同時に溢れた精液が、パタパタとバスタブの中に散った。火花の残滓が散る視界が一瞬暗くなるが、あれだけ煽っておいてこれでオシマイな筈が無い。

「はぁ、っ…あ、ぁあ!?…ま、まっ…ひぅう…っ!」

 イッた直後で敏感な内壁をゆっくりと入り口から奥まで掻き回されて、苦痛と綯い交ぜになった快感に爪先まで震えが走る。感覚の鈍った体はふわふわと浮いていきそうだったが、腰を掴む傑の手がそれを引き止めていた。
 荒くなった自分の呼吸と嬌声ばかりが反響する悦の耳朶に、低く掠れた甘い声がするりと滑りこむ。


「待っていいのか?」
「あ、ぅ…ぁっ、あッ」
「そんなお淑やかな“ネコ”じゃねぇだろ、お前は」
「んぁあッ…は、はっ…すぐる、…すぐる…っ!」
「なァ?」

 縋るように見上げた傑の瞳は嗜虐的に嗤っていて、そのまま射殺されそうなその藍色に、悦は快感の霞がかかった意識の中で思わず笑った。
 そんな目をするクセに。そんな、逃げ場の無い獲物を甚振る捕食者の目をしているクセに、何が“似ている”だ。やっぱりお前の方が。傑の方が、よっぽど。


「…言えよ、悦」


 あぁ、喰われそうだ。










「…ふう」

 横抱きにした悦を柔らかくベッドの上に寝かせて、傑は彼にしては珍しく、少し疲れた風にため息を吐いた。
 “同族”に辺りに見られたら何を人間臭いことを、と嘲笑されるだろうが、仕方がない。気の立った悦の挑発に乗って、足場の悪いバスタブの中で悦を抱いたまま3ラウンドこなしたのはまあいいとして、その前だ。

 殺す気しかない悦が全力で向かってくるのをあしらいつつ、悦の今の体力と技術でぎりぎり避けられる程度の反撃や追撃をして、更に悦が未だ知らないだろう技術を自分の動きに織り込むのは、いくら傑と言えども結構な重労働なのだ。体はともかくとして、全ての動きのレベルを適切に下げるために全力操業の頭が疲れる。

 つまりは、普段色々な欠陥の所為で使わずにいる使うべき所を使えているということなのだが、傑は自分への影響は割とどうでも良かった。何せ、悦に救われていることなど挙げていたらキリがない。例え悪影響が出ていたって、悦の寿命を伸ばす手助けになったのならそれで良い。


「…満足そうな顔してンな」

 柔らかいブランケットで肩まで包んでやった悦の横に寝ころびながら、傑は湿ったままの悦の髪を、寝癖にならないように撫でつけてやった。
 ドライヤーでも当ててやりたい所だが、前にそれをやった所、「いらねぇから横で寝てろ」と真顔で悦に言い放たれたのでそれは出来ない。なのでせめてと髪の流れを整えてやるが、悦はすよすよ眠りながら盛大に寝返りを打って、傑の気遣いをあっという間に無駄にしてしまった。


「ったく…」

 一応呟いてみるが、傑の表情は柔らかい。きちんと四つ角を揃えて丁寧にお膳立てした何もかもを、悦はいつだって容易く基礎からぶち壊していく。こんなものはもう慣れっこだ。
 寝てるときまでキャラがブレないのは凄ぇよな、なんて斜め上の感嘆まで抱くほどである。我ながら重症だと傑は思う。

「……」

 しばらくそのまま悦の寝顔を堪能してから、傑は自分の片腕を枕にして、横向きに眠る悦のすぐ傍らに身を寄せた。ブランケットの裾から忍ばせた腕を、そろりと裸の悦の腰に回す。
 一瞬くすぐったそうに頬を枕に摺り寄せるが、悦は今日もその腕を振りほどかなかった。前述の通り寝ていてもキャラのブレない悦は、起きていたって熟睡中だって邪魔だと思ったものは容赦なく振り払うか蹴り飛ばすが、体温を求めて摺り寄せられた腕の中の体は、身じろぎもせず規則正しい寝息のままにゆっくりと上下している。

 いつもと変わらないその事実を今日も確かめて、傑は悦を抱いたまま目を伏せた。



 Fin.



「明日」なんて概念のない2人の日常。

【歯ブラシ悦語解説】
●「ひかかりへっからあいへひろ」
→『地下を借りているので相手をして下さい』
●「みっひゃまへはらひみゃ」
→『三日前から暇です』
●「はらははまってふほはへー」
→『体が鈍って動かし辛いです』
●「んむ」
→『見りゃ解ンだろうが目ぇ開けろボケ』

 2014聖夜企画

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