「…やれよ」
低い声で告げた悦の目が、睨むような鋭さで傍らの傑を促す。
「……」
無言で悦を横目にし、傑は促されるがまま頬杖をついていた手を伸ばした。ピンと張り詰めた空気の中で、ごくり、と悦が息を飲む音がやけに大きく響く。
それを聞きながら、傑は更に手を伸ばし―――
―――そっと、目の前に積まれた積み木のひとつを引き抜いた。
「っくそ!なんでそこ抜くんだよ、狙ってたのに!」
「お前見過ぎなんだよ。こんなゲームでも心理戦は大事だぜ?」
心底悔しそうに叫ぶ悦に、傑は笑いながら引き抜いた積み木をひらひらと振った。
小さな四角い木の板を縦に3つに割ったものを1セットとして、それを20段ほど互い違いに積み上げた積み木は、既にほとんどの段から1本ないし2本の板が抜き取られている。傑が抜き取った1本は、唯一手付かずだった段の中央に収まっていたものだ。
「…どーせ俺は馬鹿だよ」
「手加減してやろうか?」
「ンな真似しやがったら殴る」
からかう傑に低い声で即答し、悦は膝立ちになって危うい均衡を保っている積み木を見下ろす。
この卓上バランスゲームでは、積み木を崩してしまったほうが負けだ。どこなら崩さずに板を抜けるかと、角度を変えて積み木を見つめる瑠璃色の瞳は真剣そのもので、その様子に傑はこっそり頬を緩める。
単純な見かけに反して奥深いこのゲームは大戦前からあるほど古く、長く忘却の彼方にあったが、昨今の若い女の間での“レトロブーム”とやらに乗っかって、再び脚光を浴びている。
複数人で遊べる上に素材がただの木なので、一部の学校では持ち込みも許可されており、女子高生を中心に順調にファンを増やしているそうだ。今傑と悦の前にあるこれも、そんな女子高生からのお下がりである。
間延びした口調でいかにこのゲームが奥深く面白いかを語った女子高生にして数学者の彼女は、真新しい積み木のひとつひとつにパステルでショッキングな色を塗りたくり、その上に王様ゲームのようなちょっとした「命令」を書き添えて、学友達と遊ぶのだそうだ。
数百年越しの光を浴びたこのゲームは、そんな具合に若い男女の仲を進展させたり、家族の団欒の中でその絆を深めたりしている。
特に目の前のこの積木に関しては、数日前まで女子高生の持ち主だったのだから、きっとそんな和気藹々としつつも甘酸っぱい雰囲気の中で使われていたのだろう。それが、まさか。
「……」
「……悦、見過ぎ」
まさか、殺気さえ含んだ重犯罪者に睨みつけられる羽目になるなんて。製作者は勿論、Fでさえ想定していなかっただろうなと、傑は頬杖をつきながら小さく笑った。
それが勝負事であるなら、内容がファミリーゲームだろうと実弾でのロシアンルーレットだろうと悦には関係無いのだ。相手が傑という化け物であることさえ考慮せず、一貫して勝ちを狙う。
「…よし」
ひと通り積み木を睨みつけてから、悦は口の中でそう呟いた。
目の前の積み木には、既に傑の目から見ても楽に抜けそうな所は無い。泣き言や言い訳のひとつも出そうな条件だが、その価値観の通りに男前な悦は潔く不安定な積み木へ手を伸ばし、
大人でさえ昏倒させる威力のその手刀でもって、勢い良く積み木の中断を薙ぎ払った。
「は、」
「あーっ!」
ぎゅん、と音を立てそうな勢いで弾き飛ばされた積み木にぽかんと口を開けた傑の横で、悦が心底悔しそうな叫びを上げながらテーブルに突っ伏す。
板一枚抜かれれば崩れそうだった積み木は、真ん中の3段ほどを手刀に薙ぎ払われて倒壊していた。それはそうだろう。きっと、悦は「だるま落とし」の要領で板を抜こうとしたのだろうが、こんな不安定な積み木を崩さずに手刀で板を抜くのは傑でも難しい。人間ではまず無理だ。勝ちに執着する価値観なら尚の事、思いついたとしても普通はやらない。
普通はやらないが、それをやれてしまうのが悦の悦たる所以だった。
「くっそ……手じゃ速さが足りねぇか…」
「…そういうことじゃねぇだろ」
「いや、長物ならイケた」
力なく突っ込んだ傑に、悦は力強く拳を握りながら即答する。その間にさり気なく傑は悦の掌を確認したが、流石と言うべきか、板切れを弾いた程度では傷ひとつ付いていなかった。
「崩れたから、俺の負けだな」
「あ?…あァ、そうだな」
「何がいい、罰ゲーム」
「んー…」
さっきまでの鬼気迫る様子が嘘のように、さっぱりと負けを宣言して積み木を集めている悦にそう問われて、傑は首を捻る。
2人の間で行われるゲームでは、主に傑のやる気を引き出すために必ずと言っていいほど罰ゲームが設定される。今回も勿論そうで、ゲーム内容から勝ちを確信していた傑は、悩む悦を眺めながらどんな罰にしようかと考えていた、のだが。
「ンだよ、決めてねぇのかよ」
「…んー…」
割りと本気で驚いた所為で、すっかり何を考えていたのか忘れてしまった。
化け物のくせにと思われるかもしれないが、化け物だからこそ本気で驚くことなど稀なのだ。だがここで「あんな真似されたら考えも吹っ飛ぶわ」等と言い訳するのはそれこそ化け物の名折れなので、積み木と共に吹き飛んだ記憶には早々に見切りをつけ、傑は藍色の瞳を部屋の中に走らせる。
「…思いつかねーならもっかい、」
「あ、」
「ん?」
集めた木を積んでいた手を止めて、部屋のある一点で視線を留めた傑を悦が振り仰ぐ。
傑の視線の先にあったのは、テレビの横に置かれた小さなダンボール。それを認めた瞬間、悦はアーモンド形の目を一杯に見開いて、常の俊敏さが嘘のように、ぎぎぎと錆びついたような緩慢さで傑を振り返った。
あのダンボールには、いかにも傑が罰ゲームとして課しそうな様々なグッズが、こんなファミリー向けバランスゲームなど及びもつかない程おぞましい玩具が、それはもうたくさん詰まっていたからだ。今は包装紙と緩衝材程度しか入っていない筈だが、特徴的なロゴの入ったあの箱を見て、傑が何か思いついたのだとしたら。
「…す、傑…?俺、明日買い物に、」
「あぁ。買い込むんだろ?」
「そ、そう。あの、傑が前好きだっつってた、ローストビーフも仕込むから、」
「じゃあキロ単位で買わねぇとな。楽しみにしてる」
「うん。それ、で、あれ結構体力いるから、だから、」
「あァ、解ってる」
伺うような悦の言葉にそう言い切り、じっとダンボールを見据えていた傑はゆっくりと振り返る。
「体力ならあるだろ?」
「…ハイ」
例のごとく全く大丈夫でなさそうな温度の藍色の瞳に問われた悦は、これまた例のごとく、ただ玩具のように首を縦に振った。
Next.
プロローグ
αに続きます。
