「まずは、零級」
無造作に転がっていたライフル弾が1つ、グリースと鉄粉に汚れた布の傍らに立てて置かれる。
抉れたような古傷が残る無骨な手が弾頭から離れるのを待って、エバンは膝を突き合わせた”副隊長”を見上げた。
「本当にここに居るんですか?プロパガンダかと」
「居るさ。遺術の最高峰、脳天撃ち抜いたって死なねぇおとぎ話のモンスターがな」
「……おとぎ話」
あまりにも似合わない単語に思わず繰り返すと、「氷壁の八国」で無名の英雄として偉業を語り継がれる伝説の傭兵―――今はこのILLで傭兵崩れ共の”副隊長”をしているセルゲイは、左目を潰す大きな火傷痕を歪めて笑った。
「後ろ姿はまるっきり人間だ。羽根も生えてねぇし、炎だの雷だのを吐いたりもしねぇ。ただ人間様とは別の次元に居て、どんな傷でも瞬きの間に直しちまうだけだ。正面から、いや、横からでもいい。とにかく面を拝めば俺が『おとぎ話』と言った意味が解るだろうよ」
「そんなに恐ろしいんですか?」
「ああ、恐ろしいね。度を越してるモンを見るとな、俺っちみてぇな臆病者は崇めるか怖がるかしかねぇのよ。あれを人間が造ったってんだから、全くおっかねぇ」
「……貴方は臆病者では無いでしょう」
「臆病さ、だから生きてる。……まぁ、”純血種”様はどんな前線にも単騎投入だ。組むことなんざまずねぇし、モノホンのモンスターだから食堂だの訓練場だのに出てくることもねぇ。万が一出くわした時に道踏み外さねぇよう、心構えだけしとけ。こいつに関しては絶対に顔見りゃ解る」
結局どのように「度を越して」いるのかさっぱりだが、敬愛するセルゲイが「絶対」と言うなら絶対だ。エバンは従順に了解、と頷く。
「次に壱級だが、これは覚えるのは3人でいい。”達人”の朱雀、”学者”のガブリエル、”淫売”の悦」
「はい」
「朱雀は、おめぇも名前くらい聞いたことあるだろ?人間で一番高ぇ首据えてる女だ。赤い着物、髪と目は黒、獲物は刀。簡単過ぎてつまんねぇから、って理由で銃を使わねぇが、それ以外ならビスケットでだって人をぶっ殺せる。第六訓練場はこいつの根城で、ひたすらオーラを高めたりイマジナリーフレンドとの対話をしておいでだ。扉から半径3メートル以内には絶対入るなよ」
「了解。……着物ということは、噂通り五光ノ国の?」
「どの噂か知らねぇが、そうだ。この女の噂に関しちゃぁ、どんなにバカバカしくても頭から全部信じろ。そのくらいで丁度いい。胴体とオサラバしたくなけりゃあな」
おとぎ話のモンスターを語る時より余程真剣な顔でじろりとエバンを睨め付けて、セルゲイは追加で並べられた3つのライフル弾の1つから指を離した。
「ガブリエルも、知ってるな。”地図変え”のガブリエルだ。一年の9割は引き篭もってるが、残りの1割でふらふらこの豚箱ン中を散歩してやがるから気をつけろ。40過ぎだが見た目は50のジジイ、白髪に緑の目、チョッキにループタイ、金縁の丸メガネ。もし見かけたら『こんにちわ、ガブリエル』と言って、どこに行きたくても絶対に横を通り過ぎろ。迂回したり引き返したりするなよ、独房をガス室にされる」
「おはよう、と言ってしまったら?」
「ドアノブに薬仕込まれて、脳味噌を時計にされる。遺言を”チクタク”にしたくなきゃ太陽がどこにあっても『こんにちわ』と言え、それで毎年10人死んでる」
「……よく殺されませんね」
「血の代わりに何が吹き出すか解ったもんじゃねぇからな。首に値札がついてるような連中だって、びっくり箱は怖ぇのさ」
苦笑しながら首を竦めるセルゲイに、成る程、と頷く。安全に取り扱える条件が確率されていれば、この”ILL”では生み出した兵器で島や国を消し、世界地図を書き変えさせた有史以来のマッドサイエンティストも「隣人」の枠に入るのだ。
「最後は悦だな。こいつは零級のオンナだ。Z地区出身、元”鴉”の男娼。暗い金髪に紫がかった青い目、男に創ったことを神に抗議したくなる顔してやがるが、絶対にナメてかかるなよ。ドブ育ちだから大抵は笑うか呆れるかで流してくれるし、向こうから食って掛かって来ることもまずねぇが、尾を踏んじまったら終わりだ」
「”旦那”が出てくるからですか」
「そんな真似はしねぇさ。どんな人間だって目玉潰されて喉掻っ切られりゃ、のたうち回る以外に出来なくなるだろ?悦はその仕事を、お前が知ってる誰よりも早くやる。それも世間話のついでにな。あいつの袖だの裾だのからナイフが飛び出ちまったら最後、零級にだって出る幕はねぇのさ」
「接点は?」
「壱級の中じゃ一番ある。プライドもへったくれもねぇ奴だから任された役割はきっちり熟すし、てめぇのことを馬鹿だと思ってるから作戦もちゃんと聞くが、馬鹿じゃない。起爆剤としちゃ最高だ。飯も美味い。あいつが補給に食ってる甘ぇモンは大抵自作だから、訓練場でクッキーだのチョコバーだのをサクサクやってたら『美味そうだな』って褒めてみろ。よっぽど機嫌が悪くなけりゃ分けてくれる。マジで美味ぇぞ」
「了解」
大げさに涎を拭うジェスチャーをするセルゲイに思わず笑ってしまいながら、頷く。北壁産まれにしては珍しく酒に弱い彼は、代わりに甘いものに目がないのだ。恐ろしい面相に似合わない愛嬌がある、そういう所もエバンが彼を敬愛する理由の1つである。
「次は、そうだな……幹部連中か。俺達に主に仕事を持ってくるのは元傭兵のキュールだから、最低限あいつと、最高幹部の鬼利には気に入られとけ。見かけはひょろっちぃが、肝が据わってる上に頭がキレる。策士なんてもんじゃねぇ、こいつもある意味バケモンだ。仁王と泪はこいつの腕だな。壱埜は腰抜けだがこの豚箱の屋台骨を仕切ってる。ティーンのガキのうち、女の方がFで弾道計算を暗算する皇族様、男のほうがゴシックで情報戦の柱だ。こいつらと裏方の民間人に手を出すと零級が出動するから、礼儀正しくしておけよ」
「最凶のスクランブルですね」
「俺達にとっちゃ審判のラッパよ。最後に―――」
追加の弾を並べながら言い掛けて、ふとセルゲイは顔を上げた。咄嗟に灰色の隻眼を追って自身の背後を振り返ったエバンは、そこで軽く手を上げて見せる男を見て顔を顰めそうになるのを辛うじて堪える。
ILLに所属する札付きの傭兵共に、そしてセルゲイにまでも己を隊長”と呼ばせる不遜な男―――諸島が連なる貧しい独裁国家に革命を起こしたものの、人望も展望も無いために後が続かず賞金首として国を追われた”耳欠け”のガルードが、裸の上半身にタオルを引っ掛けながらエバンの横に、英雄セルゲイの前に立つ。
「おうおう、むさ苦しい野郎共が雁首揃えてやがるな。ここはいつの間にブートキャンプになったんだ?」
「違ぇよ、ボーイスカウトだ。テントで蒸し焼きにならねぇように、焚き火の始末を教えてるのさ」
ぱん、と伸ばしたタオルで太い首を叩きながら唇を歪めるガルードに、セルゲイがにやりと笑って足元に並べられた12.7ミリと9ミリの弾を指して見せた。猪突猛進な筋肉馬鹿にはユーモアのセンスだって欠けているのに違いないのに、ケロイドで引き攣った目元が確かに緩んでいるのが、エバンにはどうにも気に食わない。
「てめぇが”先生”じゃ3Mだって続かねぇよ。零と壱級……こっちの9ミリは幹部か。武器庫のアイツは教えたか?」
「トリって概念を知らずに話すからお前は娼婦にモテねぇんだ。今丁度そいつのことを、」
「武器庫!そうだ、その話を聞きたかったんです」
汚れた布を避けてガルードの席を用意しようとするセルゲイを遮って、エバンは膝の上からスナイパーライフルを持ち上げた。勿論、勢い込んで顔を向けたのは弾をばらまく以外に知らない”隊長”では無く、エバンと同じ狙撃手だった”副隊長”だ。
「次の任地は砂漠地帯でしょう?こいつは気の短い年増なもんで、砂に弱いんです。任務の間だけ使える都合のいい女がいれば、と思ってたんですが、状態はどうなんですか?」
「あぁ、そういうことなら武器庫で借りりゃいい。大抵のモンは揃ってるし、ぶっ壊さなけりゃタダで使える。弾代はてめぇ持ちだがな。もし入れ込むようないい女だったら買取りも出来る。いっぺん行ってみろ」
「中古だがな」
「ありがとうございます、そうします!」
下世話な口を挟んでくる”隊長”を無視してセルゲイに頭を下げ、エバンは整備の終わったライフルを抱えて立ち上がった。
傭兵、或いは軍人上がりの登録者にILLが求めているのは、個ではなく訓練された群としての働きだ。何人と指定されてチームを組むので、こうして訓練場の1つを占領して連携を取る訓練をしているが、参加は任意でノルマも無い。必要とあらばどんな役割でも熟すが、”上官殺し”のエバンの本職は狙撃手なので、セルゲイと話せないのなら射撃場の方が有意義だ。
お先に失礼します、とセルゲイに、そして申し訳程度にガルードにも敬礼をして、エバンは第三訓練場を後にした。
「……すまねぇな」
凄まじい集中と自制が求められる狙撃手らしく、神経質に髪を撫で付けた新入りが鉄扉の向こうに消えるのを待って、セルゲイは太い指でぽりぽりとケロイドを掻く。
「腕は確かなんだが、スナイパーって奴は頭が固くてよ。勘弁してやってくれ」
「おいおい、止せよ」
申し訳無さそうに首を竦める大男を、鼻頭から頬にかけて大きな古傷が走り、延長線上にある右耳が半分欠けた”隊長”は鷹揚に笑い飛ばした。
「俺をまた猿山の大将にするつもりか?任せた仕事さえ出来るなら、鍋のフタを信仰してようが万年筆を拝んでようが問題ねぇよ。お前が手綱を握ってくれてるんなら、狙撃手としちゃあ扱いやすいくらいだ」
「おめぇはそうでも、古株の連中がいい顔をしねぇ」
「一発ブチかまして黙らせりゃいいのさ。てめぇだってそうだったろう、”田舎モン”」
互いにこのILLでは新兵だった頃の呼び名を出して、ガルードは目を細める。
自分とて島育ちの癖に訛りと肌の白さをからかう革命家崩れと、英雄崩れはよく殴り合いの喧嘩をした。南国育ちの酒豪に張り合って泥酔し、起死回生の長距離射撃の成功を共に子供のように喜び、いつしか”副隊長”としてその女房役に祭り上げられてようやく、セルゲイは国一つを扇動し、民主化に先導したこの男の”手管”を理解したのだ。
「そこまで生きてられりゃいいが……」
「そりゃあアイツの運次第だ。せめて死因が消毒液にならねぇよう、頭ン中を鍛えてやれ」
からからと笑うガルードに、セルゲイはもう一度、首を竦めて見せた。
……あの男が、邪魔だ。
日課の狙撃訓練を終えて、愛銃を背にエレベーターに乗り込みながら、エバンは鋭く目を細める。向かうのは自室ではなく最地下2階、セルゲイに教えて貰った武器庫だ。
決して前線には出ない現場指揮官の死因で一番多いのは、味方からの”誤射”だ。エバンが主に雇われていた北壁の八国以外にも、どの戦場にも兵士をティッシュのように使い捨てにするクズが最低5人は配置されていて、エバンはそんな駒の動かし方も知らない連中の死因に幾度となくなってきた。
肆級指定を受けたのはある王族の第十八王子の脳天と心臓を1キロ先から誤射したからだが、その時々の味方の兵士が自主的に口裏を合わせてくれているだけで、実際の罪状では10年前のセルゲイにすら比肩出来ると自負している。どの戦場にもどの国益にも必要無い、無能な指揮官を排除することは、訓練の末に卓越した射撃技術を身に付けた者への義務にも等しい。
そんな信仰の元に自己を保っているエバンにとって、ガルードは真っ先に排除するべき部隊のお荷物だった。あんな男より、自分が敬愛するセルゲイに従った方が誰しも幸福なはずだと、スラム育ちの傭兵は信じて疑わない。
「セルゲイもきっと解ってくれる……」
ぶつぶつと呟きながら廊下を進み、エバンは登録者になると同時に頭に叩き込んだ地図の通りにそこにあった武器庫の扉を、こんな社会不適合者の巣窟にあって、何故かまともな錠も鉄格子も無い凹んだ鉄の扉を押し開けた。
「っ……」
そこにずらりと並べられた銃火器の群れに、思わず思考を中断して息を呑む。
兵士にとって、武器の状態は時に自分自身の状態よりも重要だ。足が折れたって腕で塹壕を這うことが出来るが、会敵の瞬間に弾が出なければこちらが撃ち殺されてしまう。選べる状況では即座に一番良い相棒を選び取れる目利きは、そのまま戦場で生き残る者としての力だ。
「すごい……」
床に据え付けられた金属の棚に整然と並べられた、馴染み深い自動小銃の一丁を手にとって、エバンは目を輝かせる。全ての部品がよく磨かれていて、動作が滑らかだ。整備士の癖もほぼ無い。型番は間違いなく選択肢の無い北壁で重用される安価な粗悪品なのに、まるで大陸の正規軍に採用される高級品のようだ。
まさか、全てがこんな状態に整えられているのだろうか。左右に20以上の列を作っている棚の中に規則性を持って隙間なく並べられた、黒光りするあらゆる銃火器の全てが。ILLは一体特級のガンスミスを何人雇っているのか。
今更ながらに世界唯一の犯罪斡旋組織が持つ”暴力”の精度を思い知らされたようで、空恐ろしく思いながらエバンはそっと小銃を棚に戻した。ざっと並びを見た所、この辺りの銃は最大飛距離順になっている。エバンが求める狙撃用の長距離ライフルは、恐らくもっと左側の棚だ。
ロケットランチャーや、多銃身が威圧的なミニガンを横目に通路を進み、扉から左に6列目に至った所で、ひとつ奥の列からがしゃん、と金属音がした。装填の音だ。同じ様に武器を物色しに来た先客だろうか。
カーキの迷彩服を着ている限り、例えこのILLでも食って掛かられることは少ない筈だが、相手は札付きだ。警戒に越したことは無いと、エバンは敢えて足音を消さずに、ホルスターの拳銃を意識しながら慎重に棚を回り込む。
「……」
果たして、そこに居たのはつなぎの作業着を着た民間人だった。
特にこんな場所では見かけで判断するのは危険だが、エバンの足音にも姿にも全く気付かず、俯いてスナイパーライフルの動作を確認している姿を見れば、それを”使う側”の人間で無いことは明らかだ。グレーの作業着の所々がグリースや錆に汚れている所を見るに、整備か管理の下っ端だろうか。
「……いい銃だな」
「うわっ……!」
弾は入っていないだろうが、驚いた拍子にせっかくの銃を傷物にされては堪らない。大きな動きで肩のライフルを担ぎ直しながらなるべく穏やかに声をかけたエバンは、案の定びくっと肩を竦めて振り返った民間人の顔を見て、思わず眉根を寄せる。
後ろ髪を雑に括ったまだ若そうなその男の目元は、黒い布に両目とも塞がれていた。
「あァ、びっくりした……驚かさねェで下さいよ、軍人サン」
人懐っこく笑いながら、目隠しをした男は持っていたスナイパーライフルを棚に戻す。訛りと光の加減で青くも見える黒髪からして、大陸の出では無さそうだ。盲目の者は視覚の代わりに聴覚が発達していることが多い筈だが、足音にも気付かないほど熱中していたのだろうか。
「傭兵だ。よく解ったな」
「音が重てェんで、そうかなァと。なンかお探しで?」
へらりと笑って見せる男の発言に少し引っ掛かるものを感じたが、元々の目当ては砂漠で相棒となってくれるスナイパーライフルだ。小さな違和感を切り捨て、エバンは棚に並んだ長い銃身に視線を走らせる。
「狙撃銃を借りたいんだ。12.7ミリ弾のボルトアクション、出来ればD54か、J.Y.Oがいい」
「D54……は……あァ、ちょうど出ちまッてますねェ。ちょいと、こっちに」
記憶を探る為なのか、見えないだろうにぐるっと前後の棚を見渡して、目隠しの男はエバンを銃に挟まれた通路の奥へと誘った。
杖は愚か、手で探る素振りも無い背中について行くと、入り口の扉から正面に進んだ所に錆の浮いた事務用デスクがあった。工具や部品が乱雑に散らばった机の上を敷かれたシミだらけの布を引いて雑に片付けると、足の一本欠けた椅子を勧めてエバンをそこに待たせ、袖を捲くった腕に包帯を巻いた男が粗末な木製の扉の向こうに消える。
やはり濃い鉄の匂いが漏れるそこは、恐らく保管庫になっているのだろう。開けっ放しの扉の向こうは真っ暗で、非常灯すら点いていない。またエバンの脳裏を微かな違和感が掠めたが、3分と経たずに戻ってきた男が抱えている物を見た瞬間、そんな余所事は吹き飛んだ。
「それは……!」
「”ジョー”がお好きなら、こォいうのも好みなんじゃねェかと思いまして」
「こいつが嫌いな狙撃手なんているもんか!」
もし居たら俺が撃ち殺してやる、と声を大きくするエバンに笑いながら、目隠しの男は世界中の狙撃手が恋しているスパークス社製Q11、通称”クイーン”をそっと手渡してくれた。
「しかも4ロット!連邦にだってもう10と残っていない筈だ、どうしてここに」
各所の動作確認をしながら詰め寄るエバンに、目隠しの上に覗いた眉を下げて男は曖昧に微笑む。
聞いたのはこちらだが、確かに言える筈がない。抜群の精度と扱いやすさ、どんな戦地でもジャムらない頑丈さを讃えられる”女王”の、それもオーパーツと呼ばれている一桁ロットを仕入れるルートなど、どう考えたってヤバい界隈でも格別にヤバいものに決まっている。
「流石はILLだ……まさか、これも貸し出してるのか?博物館以外に?」
「はィな。置物は似合わねェいい女なんで、どうぞ使ってやって下さい」
「嘘だろ……お前にキスしたくなってきた」
「そいつァご勘弁を」
大げさに後ずさって見せる男に声を出して笑って、エバンは愛銃を担いでいるのとは反対側の肩に恭しく”クイーン”を担ぎ上げた。ずしりとした重みさえ愛しく思いながら、男が机の上に広げた書類に必要事項を書き込んでいく。
「希望すれば買い取りも出来ると聞いたんだが、こいつは流石にダメだよな」
「幹部サンの許可が下りりゃァ、出来ますよ」
「本当に!?どの幹部だ?」
「キュールさんっつゥ、エドアドの元傭兵さんの……」
「あぁ……つまり、”月が太陽を食っても”無理ってことか……」
「”虎がネズミ捕りにかかって”くれりゃァ、もしかしたら」
「くふっ……やめろよ、書類に穴を空ける」
神妙な顔で軍属の間でだけ通用するジョークを飛ばす男を、エバンはサインを走り書きながらちらりと盗み見た。
エバンより10は若そうな外見から下っ端だと思ったが、傭兵の扱いにも慣れている所を見ると、ここでは古株なのかもしれない。杖も手探りも必要ないほど、きっとこの武器庫はこの男の庭なのだ。
「”女王”に見惚れて、ウェドム人唯一の長所を失う所だった。エバンだ。傭兵の肆級指定、よろしく」
「俺ァ幽利です」
「幽利は、ガンスミスなのか?」
「そんな上等なモンじゃありませんよ。俺の仕事はここの管理やら備品の仕入れやら……まァ、雑用です」
その目でどうやって、と聞きたくなるのをエバンはぐっと堪えた。
指先に触れるように差し出した書類を受け取り、ファイルに綴じている幽利の手付きに危なげは無い。きっと何百何千と同じ動作を繰り返し、体に覚えさせたのだろう。自らが血の滲むような努力の末にスラムを出た生い立ちの所為か、エバンは努力家が好きだ。ユーモアを理解するだけの頭があれば、特に。
「多少砂で汚すと思うが、絶対に無傷で返す。誓うよ」
「エバンさんも、どうぞ無傷で」
笑顔を絶やさない気のいい雑用の肩を軽く叩いて、エバンは最高の女を肩に武器庫を出た。
砂塵が舞う任地で”クイーン”はその名の通り最高の働きをしてくれたが、移動を含めて6日間の任務を終えてILL本部塔に戻ったエバンの気分は最悪だった。
作戦行動の最終日、拠点への帰路の途中で砂に潜んだ残党に襲われた所を、こともあろうにガルードに庇われてしまったのだ。40を超えた年齢を感じさせない機敏な動きだったが、愛銃で頭蓋骨を叩き割るような力技に救われるなど、エバンにとっては屈辱でしか無かった。
悪いことは続くもので、武器庫に”クイーン”を返しに行くついでに、筋肉馬鹿に付き合いきれずにバレルが曲がった”隊長”殿のライフルの代わりを借りて来いと、セルゲイに命じられてしまった。曰く、「おめぇの腕は解ってるが、腕だけじゃ”誤射”は防げねぇ。おめぇは誰よりそれを知ってる筈だ」とのことだ。
要するに、ガルードと彼を信仰する蒙昧な古株共に媚を売れと、そういうことだ。下らない。最低な借りを作ってしまった自分の愚鈍さに、そして何より「俺の黄金の右は健在だな」などと嘯いて平然としているガルードに腸が煮えくり返るようだ。
「……幽利、居るか?」
見えない者はそれ以外の全てで世界を見ていると聞く。気のいい隣人を怯えさせたいわけでは無いので、大きく深呼吸をして波打つ心を凪がせてから、エバンは凹んだ鉄扉を大きく3回叩いてそれを開いた。
機能性のみを追求して無骨に洗練された銃火器が並ぶ武器庫には似合わない、錆びの浮いたデスクで作業をしていた幽利が、低い天井に響いた音に顔を上げる。
「エバンさん」
たった一度、少し立ち話をしただけだと言うのに声を覚えていたのか、幽利はいかにも人畜無害そうに笑いながら足の欠けた椅子から立ち上がった。歩み寄って見ると、デスクの上の清潔な布には無菌パックに包まれた注射器が何百と積まれている。成る程、雑用を名乗るだけあって、本当になんでもしているようだ。
「胸が引き裂かれる思いだが、返すよ。最高の女だった」
「そりゃァ良かった」
差し出した”クイーン”を危なげなく受け取って、幽利は慣れた手付きで銃身の各所を点検する。つなぎの襟口から覗いた鎖骨の下に、白い布。
包帯。
「……怪我を?」
そう言えば、前回会った時も腕に派手な包帯を巻いていた。武器庫に詰めている民間人に、そうそう包帯が必要になるほどの危険があるとは思えない。もしやその人の良さにつけ込まれているのでは、と眉を顰めたエバンに、幽利はへらりと笑って見せる。
「あァ、ガーゼだと動いてるうちによれちまうンで、お医者サンが。かすり傷です」
「爆弾魔の前には気休めだとしても、鉄格子くらいは用意するべきじゃないか?その……危ないだろう」
「お気持ちだけで十分です。コレはコレで便利なンで」
「便利……?」
調子に乗った犯罪者に暴力を振るわれることのどこが、どのように利すると言うのか。エバンがますます眉間に皺を寄せると、勤勉な雑用員は点検を終えた狙撃銃を丁寧に椅子に置いてから、宥めるようにしてまた笑った。
「俺ァどうにも判断が遅ぇんで、いい目安になるっつゥか……ンなことより、またなんかお探しなんじゃねェんですか?」
「え?……あ、あぁ……よく解ったな」
すい、と掌で棚を、それも正しくもう一つの目的であった自動小銃が並んだ棚を示されて、思わず瞠目する。今の会話のどこで読み取ったのだろうか。無意識に視線をそちらにやっていたのだとしても、幽利には見えていない筈なのに。盲目が故の第六感というやつだろうか。
「足音がそんな感じだったンで。自動ならこッちと、そこの並びなんで、どォぞご自由に」
「ああ……ありがとう」
「いえいえ」
色々触ってみて下さい、と言い添えて、”クイーン”を抱え上げた幽利はあの木戸の奥へ消えていった。やはり開け放たれたままの扉の奥には一点の光も無く、相変わらず幽利以外の人の気配も無い。
盲目の彼にライトは必要無い。でも、同じようにこの木戸をくぐる他の者には必要な筈だ。こんな豚箱には勿体ない人当たりの良さを持つ幽利の補助をする誰かは、必ず綴じられたインク書きの書類を確認出来る者である必要がある。
なのに何故、他に誰も居ないのだろう。
「……」
初回の時には朧気だった違和感が形を成し、エバンは周囲を見渡す。銃を戻すついでに整頓でもしているのか、ごそごそと金属や紙箱の擦れる音が木戸の奥から漏れ聞こえるばかりで、相変わらず武器庫内に人の気配は無い。
「……止めだ」
きっと、任務帰りで神経が高ぶっている所為だ。「お前には無理だ」と言われることも思われることも、エバンは嫌いだった。狙撃手の最低限の素養として目の良い自分には困難に思えることが、幽利には出来る。それだけのことだ。疑うべきことなど何も無い。
声に出して思考を打ち切り、自動小銃の並んだ棚に向き直る。誰のために選ぶのか、を思うとまた腹の底が煮え滾るようで、エバンは北壁出身者特有の色白で細く通った鼻面に皺を寄せた。
「クソッ……」
低く唸って、手近な一丁に手を伸ばす。どうせ銃の良し悪しなどあの原人に解る筈もないのだ、適当なものを持っていけばいい。
「……」
いや、駄目だ。セルゲイが居る。彼に見られる。
ストックの形も銃身の長さもミリどころかセンチ単位で違う、適当なものを選んで持っていったら、セルゲイは失望するかもしれない。ほんの数ミリの誤差が生死を分ける、そんなことも解らないアマチュアだったのかと、部隊を窮地に追いやるかもしれないミスを見逃す程度の男なのかと。
伸ばした手を引っ込め、視線を動かす。ガルードの愛銃は南方で重用されている低コストな量産品で、ストックが固定式だ。古い型だから同じものは無いとしても、せめて全長とそこだけはクリアしなければ、セルゲイからの評価に関わる。
精密射撃をするわけではなく、弾幕を張るか遮蔽を抉るかの使い方なら、形状さえ似ていれば他は二の次の筈だ。例え同じ型だって細かな癖は違うのだから、手に馴染んだ相棒でなければどうしたって慣らしが必要になる。どう扱えば機嫌よく手足となり、何をすればへそを曲げるのか、エバンとて任務前に”クイーン”で何百と試し撃ちをした。実際に体に叩き込まなければ、血の通わない鉄の塊は手足にはなってくれない。
そう、実際に、使ってみなければ。
「……使わないと……」
二段目に置かれていた固定式ストックの一丁を手にとって、エバンはぼそりと口の中で呟く。
ちかり、と脳裏に暗い光が瞬いた。
幽利が並べた銃はどれも、素晴らしい整備状態だ。よく油が馴染んで、どこの部品も滑らかに動く。
セルゲイが手放しに褒め、エバンがひと目見て気づいたくらいだ、ケチのつけようが無い。
あの男も、ガルードも、きっとそれを知っている。知らずとも、見れば解る。この銃には事前の点検の必要が無く、ジャムる心配も少なく、前線で死体から剥ぎ取るそれと違って”安全”だと。
手足となった相棒なら、物言わぬ鉄が発する「機嫌」とでも形容する他無い感覚には、直ぐに気づく。でも、そうで無ければ?形だけは似ている、初めて手にする銃ならば。
「……わからない」
咄嗟に周囲を見渡した。武器庫にはやはり、誰も居ない。整備不良の武器によって再起不能になる兵士は多い。
誤射で死ぬよりも、ずっと多い。
「……幽利、ちょっといいか」
暗い喜びに唇の端を吊り上げながら、エバンは扉の奥の幽利を呼んだ。この気のいい男にも片棒を担がせてしまうことになるが、仕方ない。せいぜい減俸か免職で済む内勤の民間人と違って、こちらは前線にこれからも幾度となく飛び込む身だ。
己と部隊の生存率を上げるために、今までと同じ様に、無能な指揮官には速やかに退場して貰わなければ。
「はィな。決まりました?」
「ああ、これを借りるよ」
作業着で手を拭いながら出て来た幽利に歩み寄り、エバンは彼が触れて確かめられるように、腔発の事例が少ない固定式ストックの自動小銃を差し出した。少しでもこれから施す細工に気付かれ難いように、という選択だ。
「俺じゃなくてガ……”隊長”が使うんだ。代わりを調達するまで、一月ばかり借りることになると思う」
「……」
にこやかな笑みを貼り付けながら差し出された銃には触れず、幽利は真っ直ぐに、目隠しごしにエバンを見上げた。
「……ガルードさんが、ねェ」
「俺が壊したようなものだから、書類は俺が書くよ。壊した時の払いも俺がする。書類を出してくれ」
「”その状態”で、使わせるンですか?」
小首を傾げて見せる幽利の唇は、何時ものように、緩く笑っている。
黒い布に覆われた視線を、エバンの額の辺りに固定したまま。
「その状態?どういうことだ、整備状態はとても……」
「エバンさん」
静かな声でエバンの言葉を遮り、幽利は緩く首を横に振った。
「そいつァお渡し出来ません。他のどの銃も、アンタにゃァ貸せねェ」
「ど、どうして」
「無事に帰って来ねェと解ってるモンを出しちまったら、叱られちまう」
「……」
弁償は俺がするから、と言い募ろうとする唇を、エバンは無理矢理に噤んだ。どんな言い訳も無意味だと、穏やかな語り口から察したのだ。
これは、解っている者の言い方だ。幽利は、解っている。どうしてかは解らないが、解っている。
「……そうか」
「すいません」
「いや……いいんだ」
銃を下ろし、エバンは弾の入っていないそれを、音を立てて棚に戻した。杖も無く背後を歩いた幽利が、退室を促す為に武器庫の扉を開けるのを横目にしながら、一度は置いた銃を再び持ち上げる。
何故か、を知るのは死なない為に重要だが、相手は盲目の民間人だ。見えない目の代わりに優れた第六感でもってエバンの計画を察知した能力は称賛に値するが、それだけだ。
「無理を言って悪かった。”隊長”に来て貰うよう、ちゃんと話すよ」
何も解っていない馬鹿のフリをしながら、エバンは肩に担いだ愛銃が無くとも、至る所に金具がある迷彩服姿で首を竦めた。よく整備されてガタつかない自動小銃を片手に提げたまま、硬い靴底を持つ軍靴を鳴らして、扉を開けたまま保持している幽利に歩み寄る。
どれだけ耳が良いのかは解らないが、これだけの金属音の中から自動小銃の立てるそれを聞き分けるのは困難な筈だ。聞き分けられたとして、これは始めから自分が持っていたものだ、と言い張ればいい。棚を確認しに行くのならその隙に武器庫を出られるし、手を伸ばすなら、そこから先は正当防衛だ。
「それじゃあ、また」
「……はァ」
扉まであと6歩の位置で相応しい別れの挨拶をしたエバンに、幽利は溜息を吐いて、扉を閉じた。
最初、エバンは幽利が足音を読み違えたのだと思った。見えないが故の粗相だと。なにせ幽利は勤勉で、人畜無害で、こんな場所には勿体ない程のいい奴だ。まさか、わざと目の前で扉を閉めるなんてことをするとは思えなかった。
なるべく気軽に、冗談めかして「俺はまだここだよ」と教えてやろうと開いたエバンの口が、開いたまま止まる。
閉めた鉄扉に付いた機械を操作してそこにロックをかけた幽利が、傍らの棚に立て掛けられていたバールを手にとったからだ。
「軍人サンは群れてッから、面倒が少ねェんだけどなァ……」
「ゆ、幽利……?」
やれやれと呟いた幽利が、ずるりとバールを引きずってエバンに向き直る。
「せっかく腕はイイのに、セルゲイの親っさんも可哀想に」
「ど、うしたんだ、幽利。幽利!?」
「付き合ってくれてンじゃなくて、ホントに知らねェんだなァ、あんた」
ふらり、と床から浮いたバールに数歩後ずさったエバンを見やって、目隠しをした雑用員は笑った。
嘲りと愉悦を孕んで、たのしそうに。
「ッ……止まれ、撃つぞ!」
駄目だ。これは、こいつは、駄目だ。
本能が鳴らす警鐘のままに弾の入っていない銃を放り出し、エバンは腰のホルスターから抜いた拳銃を幽利に向けた。
腕ほどの長さのバールの間合いにはまだ2歩の余裕がある。この距離を外す傭兵はここには居ない。
だが、それを知っている筈の幽利は、ハッ、と撃鉄が起きた銃を鼻で笑った。
「てめェの商売道具を放り投げやがって。狙撃手が聞いて呆れらァ」
「っ……」
「……なァ、エバンさん」
冷笑から打って変わって、初めて会った時と同じ人懐っこい声音で呼びかけながら、幽利が無造作に一歩、踏み出す。
「ガルードの旦那はイイ人だ。俺みてェな下っ端にもちゃンと優しいし、いざこざも起こさねェ。采配だって上手いモンだ。”使える”お人なんだ、ホントに」
「来るな……!」
「あの人が欠けちまッたら、斡旋する依頼の予定に狂いが出る。あんただって救われたんでしょうに。意地だかプライドだか知らねェが、そんな下らねぇ癇癪で俺の”ご主人様”の仕事を、無駄に増やさねェでくれませんか」
「なんの……なんの話をしてるんだ!」
武器庫詰めの雑用には知りようの無いことを、エバン以外には解りようの無いことを、平然と言葉にして歩み寄る幽利から後ずさりながら、背筋を貫く寒気のままに叫んだ。
「お前が、なんで、お前になにが解る!?」
「……勘の鈍ィ犬だなァ」
困惑の余りに支離滅裂なことを喚くエバンに鬱陶しそうに舌打ちを一つして、幽利はざりざりと床を擦っていたバールを無造作に放った。咄嗟にそれを視線で追ってしまいながら更に後ずさろうとしたエバンの足が、慣れた感触によって縺れる。
前線で幾度も目にし、訓練で幾度となく引っ掛かったことのある、トラップの王様。傭兵の脚力にも怯まない硬いワイヤーが、つい先程無事に通り過ぎた棚の合間に脛の高さで張られていた。
「うッ……!」
「なんで解るか、って?ンなの決まってんじゃねェか」
体勢を崩して無様に床に膝をついたエバンの前に立って、幽利はバールを放した手をゆっくりと持ち上げる。逆手の親指が、その目元を覆う黒い布を下から引っ掛け、
ぐい、と持ち上げた。
「”見えてる”からだよ」
引き上げられた布の下から表れた左目が、へたり込んだエバンをその中に映して嗤う。
鮮やかな橙色の虹彩が、まるで空気に揺らぐ熾火のように濃さを増すのを見て、同じ人間とは思えないその異様さにエバンは悲鳴を上げた。
なんだ、なんだ、こいつは。まさか。
「あんなンと一緒にするんじゃねェよ。なんなら撃ってみるかィ?ちゃんと死ぬぜ」
「ひっ……」
「あァ、そう教わったのか。残念だったなァ、ちゃんと親っさんの話しを聞いてりゃあ、隊長を殺せたかもしれねェのに」
それはエバン自身と、セルゲイと、ガルードしか知らない筈だ。
まさか、まさか本当に。だとしたら、こいつの方が。零級などよりこいつの方が、よっぽど。
「だから、見えてるって言ってンだろォに」
呆れたような声音でエバンの恐慌にトドメを刺して、幽利は目隠しを親指で半分押し上げたまま、ぐっと体を屈めた。
真っ直ぐに注がれる視線には揺らぎもブレもなく、瞳孔は澄んでいる。ちゃんと、見えている。指先に引っ掛けられた黒い布は傍目にも分厚く、光を少しも透かしそうにないのに。それでもこの男には見えているのだ。見えていたのだ。
成り損ねていた違和感の幾つかが、恐怖に乱れた意識の隅で氷解する。補佐をする誰か、なんてこいつは必要としていなかった。最初から、目隠しの奥から、全て見ていたのだ。
エバンの、頭の中まで。
「ま、これに懲りたら妙なコトは考えねェで、大人しくするこった」
がたがたと震える銃口に自ら胸板を押し当てて、濃度を変える橙色の瞳が三日月の形に細まる。
「ちゃァんと、”見てる”からな」
転げるように訓練場に駆け込み、休憩していた同僚を押し退けて、エバンはガルードの隣で訓練を監督していたセルゲイの背にしがみついた。
「せ、セルゲイさん、セルゲイ、さん!」
「エバン?!……どうした」
青ざめたエバンの顔を見て一瞬目を剥いたものの、直ぐに鎮静を促すためにそれを隠したセルゲイの肩を強く掴んだまま、エバンはガチガチと奥歯を鳴らして首を横に振る。
「な、なんですか、なんなんですか、あいつは、あれじゃ、あれじゃまるでモンスターだ、おとぎ話のモンスターじゃないですか、俺の、俺の頭を、心を、見て、見てるって!」
「……幽利か」
「ああ、クソッ」
苦々しく呟いたガルードの声を受けて、セルゲイはしがみつくに任せていたエバンの腕を振り払った。撫で付けた髪が乱れた頭を鷲掴んでそこに外傷が無いのを確認し、素早く腕や胸や足を触ってどこにも血が滲んで無いことを確認して、ようやくほっと肩を下ろす。
「エバン、エバン!俺っちを見ろ。武器庫に行ったんだな、幽利に会ったな。目隠しの男だ。何をされた。幽利に何をされた」
「み、み、見てるって、言われました。見てたんだ、あいつは、ずっと、はじめから、どうして、セルゲイさん、どうして見えるんですか、どうして」
「……そういうことか。エバン、おめぇって奴は……」
大きな片手で隻眼を覆い、セルゲイは重々しく溜息を吐く。傍らで腕を組んだガルードを見上げてアイコンタクトをし、歴戦の傭兵はガタガタと震える新兵の肩をがっしりと掴んだ。
「……ボーイスカウトの続きだ、エバン。零級よりも、壱級よりも、幹部共より俺っち達が敬意を払わなけりゃいけねぇのが、幽利だ。最高幹部の所有物、あのおっそろしく上玉揃いの武器庫の、たった一人の主。ここで一秒でも長く生き延びてぇなら最優先で覚える、”危険人物リスト”のトリだ」
「ど、どうして、俺の、俺が」
「あいつの目は特別製なのさ。おめぇ、あいつの前で何か妙なことを考えやがったな。部隊にも、その上のILLにも損害を出すようなことをだ。中身は言わなくていい。あいつはそれを絶対に許さねぇ。前に教えたな、ここの屋台骨を支えてるのは誰だった?誰だ、エバン」
「か、かんぶ、幹部の、壱埜」
「そうだ。あの腰抜けが表なら、幽利は裏だ。あいつを小突こうが怒鳴りつけようが馬鹿みてぇに笑うだけだが、あいつを”持って”る鬼利が組んだ土台から爪楊枝一本でも抜こうとすりゃぁ話は別だ。あいつはてめぇで雑用だと名乗っただろう?腐ったリンゴが周りを腐らせねぇうちに、他の誰も気付かない内に始末する、そういう掃除もあいつの仕事なのさ」
そこで一度、真っ直ぐにエバンと合わせていた視線を反らし、セルゲイは俯いて大きく溜息を吐いた。すまねぇな、と漏れた声は分厚い体に似合わず、どこか頼りない。
「おめぇは大丈夫だろうと思ってた。教えてやるべきだったな」
「っ……!」
「……おいおい、何も死体に鞭打つこたぁねぇだろ。もう生きてんだか死んでんだか解らねぇ面なのに」
敬愛するセルゲイに失望された、と更に顔から血の気を無くすエバンを見て、黙ってやり取りを見ていたガルードが深い声で2人を笑い飛ばした。揃って向けられた、彼にとってはどちらも可愛い部下の視線を事も無げに受け止めて、無精髭の生えた顎を撫でる。
「余計なことは言うなよ、エバン。幽利は完全にネジが飛んでやがるからな、もし”考えた”だけじゃ無かったら、脅かしゃしねぇ。にこにこしながらバールで頭をかち割るか、てめぇを素通りさせてからチクリを入れて消毒液コースだ」
「しょ、消毒液……?」
「鉛玉の雨ン中を辛うじて生き延びて、ナースの尻に見惚れてる隙に、点滴の中身を弛緩剤だの麻薬だのが混じった消毒液にすり替えられるんだよ。奴の十八番だ。それで毎年100人は死んでる」
セルゲイの口調を真似て鷹揚に笑い、ガルードは呆けたようにこちらを見上げるエバンの頭をがしがしと雑に撫でた。
「てめぇは貴重な腕のいい狙撃手だ。馬鹿なことをその場で実行に移すような種類の馬鹿じゃなくて助かったぜ。なぁセルゲイ?」
「ほれ見ろ、ガルードはこういう奴だ。もう馬鹿なことは考えるなよ。おめぇには俺っちの跡を継いでもらうんだ、ベッドの上で死なれちゃ困る」
「……ほ……」
少しでも恐怖を塗り替えようとしてか、手放しに激励してくれるセルゲイと、そしてガルードを交互に見上げて、エバンは紫色になった唇を震わせた。
痙攣するように片頬を持ち上げて歪な笑みを作り、2人の上官と、その周囲で何事かと訓練の手を止めて様子を伺っている傭兵達を見回す。
「ほ、本当、なんですね。嘘だろ。年に100人も、ここに、何人、どれだけ入れ替わって、何人居ると思ってるんだ。に、人間じゃない。化け物じゃないですか」
「エバン……」
「おいおい、本当に人間じゃねぇ奴を差し置いて何言ってやがる。ここをどこだと思ってんだ?」
誰しもそう思うはずだ。頭の中を実際に覗かれて、しかも仕組みの解らない特別製の目で監視されて、その対象が自分だけでなく、このILL全てに及んでいる。こんなの誰だって、銃を突きつけられるよりも恐ろしい筈なのに、上官2人は揃って呆れたように苦笑した。見れば、話が聞こえたらしい周りの傭兵共も同じ様に笑っていた。
やれやれと首を振ったセルゲイが掴んでいた肩から手を離し、エバンやガルードと同じ、他の傭兵と同じ、揃いのカーキの迷彩服を着た左腕をぐっと突き出す。
「いいか、エバン。ここはな、そういう場所だ」
丸太のように太い二の腕には、仰々しい縁取りもエンブレムもなく、ただ黒々と”ILL”の3文字だけが縫い付けられていた。
Fin.
或いは身から出た錆。
ILLに前線組として所属している限り武器庫にはお世話にならざるを得ないので、エバン君にはぜひ強く生きて貰いたいものです。
