車を走らせること15分あまり。
傑は、小洒落たオフィスビルの前で車を停めました。怪訝そうな顔の幽利を横目に自動ドアを潜り、スーツの大人が行き交う吹き抜けのエントランスを抜けて、あまりの場違いさに怯えて足踏みする幽利をちょっと引っ張って、ぴかぴかした銀色の2台の昇降機、の隣にある、エントランスからは柱の影になっていた黒い扉の昇降機に乗ります。
「す、傑…?」
「お前、ホントそういう面似合うな」
一部の方には堪らない怯える子犬属性をいかんなく発揮する幽利に、完璧に場違いな賛辞を送ったりしつつ、地下へと降りた昇降機の扉が開いた、その先には。
「お待ちしておりました、世環様」
そう言って恭しく頭を下げる、ボーイさんが居りました。
後ろに控えていたウエイトレスさんが差し出した、黒いビロード張りの小さな台にチャラリと車のキーを乗せて、傑は「よろしく」とさらりと言います。畏まって頭を下げる彼女に軽く片手を上げて見せて、ボーイさんのエスコートに従い、上階の煌びやかなオフィスビルとはガラリと雰囲気の違った、シックな黒で統一された店内へと進みます。
どうやらここは、オフィスビルの地下にひっそりとある、知る人ぞ知る隠れ家的なレストランだったようです。それも完全個室制で、通路を歩いていても他のお客さんやボーイさんとすれ違うことがありません。店内は黒で統一されていますが、照明や調度品のお蔭で暗い印象は無く、しとやかな高級感だけが感じられます。
看板も案内も一切なく、オフィスビルの地下の「隠れ家」という立地。更に店内に入ってからキーを預かり車を移動する、という周りくどいやり方。以上のことから、このお店は相当な権力を持ったお金持ちがお忍びで食事をしたり、仕事を装って密会したりするための便宜を最大限に図ることが出来るお店だということが解ります。
簡単に言うと、最初から超すごいお金持ちの人しか相手にする気のない、非常にストライクゾーンの狭いお店ということです。
「ごゆっくりお寛ぎください」
「どうも」
広々とした個室の一つに案内され、丁寧に頭を下げて退室したボーイさんにきちんとお礼を言っている傑は、それはお店を選んだ本人ですから、ここがどういうお店かは知っています。けれども車内の様子からも解るように、傑は物怖じだとか緊張とかいうものとは無縁なので、固まっている幽利を先に椅子に座らせ、自分も手すりの曲線も美しい椅子に何気なく座り、きちんと見易いように整えられていたドリンクメニューを手に取ります。
そうして並んだラインナップから、このお店のワインの品揃えと傾向なんかを予想しつつ、
「な、大丈夫だろ?」
されるがままにぽすんと椅子に座って、やっぱりそのまま固まっている幽利に、実に気楽な調子で言いました。
このお店は、それはとんでもない高級店ですから、店員さんも一流の人ばかりです。案内のボーイさんは勿論、車のキーを受け取ったウエイトレスさんだって、傑の美貌を見ても少しも驚いたり見惚れたりたじろいだりはしませんでした。
幽利も勿論「お客様」ですから、その服装だとか、目隠しだとか、あからさまに怯えた態度にも、彼等は心の中でさえ馬鹿にしたりすることは無かったのです。
更にはこのお店では他のお客とはすれ違う心配さえ無いので、幽利が人目を気にしていたことをキチンと覚えていた傑は、幽利を安心させる為に「大丈夫だ」と念を押してあげたようです。
店員さんにも見せた細やかな心配りをしてくれた傑に、幽利は俯いていた顔を少しだけ上げます。力なく微笑んだその顔は、なんだか心なしかやつれているようにも見えました。
「…あァ、ほんと…何よりだよ」
死にかけのような掠れた声で呟いた幽利は、どう見てもちっとも「大丈夫」ではなさそうです。確かにこのお店は「人目」という点では大丈夫でしたが、それ以外のほとんど全てが幽利にとっては「大丈夫」では無かったようです。
そんな幽利の声を聞いて、傑はちらりとメニューから顔を上げました。
今代の傑は欠陥品なので、歴代の『傑』より人間の感情を読むのが上手ではありませんが、流石にこんなあからさまな反応を見ても解らないほどアホではありません。幽利の声音や表情から総合的に判断し、先に書いたようなことを幽利が思っているんだろう、と瞬きひとつの間に推測しました。
「…幽利」
「……あァ…?」
「サラダ食う?」
「………」
一縷の望みを抱いていた幽利は、傑の言葉を聞いて「もう駄目だ」とがっくりと項垂れましたが、傑はそれを頷いたと見なして、店員さんを呼ぶおしゃれなベルをちりんと鳴らしてしまいました。
幽利が今正に針のむしろ状態であることはちゃんと解っている傑ですが、そこから導かれた結論は「死にはしない」と「そのうち慣れる」だったようです。
常識ある人間の皆さんなら、お店を替えることを提案する所でしょうが、傑は純血種ですから、幽利という人間を色々な意味でよく解っています。鬼利仕込みの精神がこんなもんではポッキリいかないことも、同じく鬼利仕込みの順応力の高さも、ドブネズミもびっくりな粗食に慣れた幽利がこのお店の料理に感動することも、全て解った上でそう判断したのです。
深い思慮故の判断ですが、その判断が大体こんな感じなので、幽利の傑への対応もそれなりになっているというわけですね。
「言えば大体は出てくるけど、何食いたい?」
「…てめェの心臓」
「腹壊すから止めとけ」
誰にでも礼儀正しくて謙虚な幽利に邪険にされる、というのは、前触れ無く頭をカチ割られる、という危険性とイコールですので、頭を割られると高確率で死んでしまう皆さんは、決して真似をしないようにしましょう。
午後3時10分。
中古車が買えそうな値段のお昼ご飯を食べ、お供に引っ張っていった幽利をきちんと武器庫まで送り、ご飯のお礼と共にドライバーで右目を刺されてあげてから、傑はお部屋に帰って来ました。
目を刺された時の血で汚れてしまったシャツを脱いでゴミ箱に放り込み、ソファーに座ってテレビを点けます。シャツを汚した血が少しだけ肌に付いていましたが、傑がリモコンを操作している間に、その血は自然と皮膚から吸収されて消えてしまいました。
たくさんだと疲れるので本気の戦闘時にしかやりませんが、このくらいの量の自分の血なら、純血種は自然と吸収出来るのです。皮膚から吸収された血液は、怪我をしていたらその部分を治す為に使われ、余ったら血管に戻ります。エコです。
傑のお部屋のテレビは、衛星リンクに繋がっている上に、他国のケーブルチャンネルまで登録されているので、とてもたくさんの番組を見ることが出来ます。チャンネルを契約したのは傑でも悦でもなく鬼利で、それは『手数料』という名の天引きを増やすためでしたが、悦が偶に色々なチャンネルを見て遊んでいるので、傑は気にしていません。
そんな恋人を喜ばせるための投資を惜しまない傑は、リモコンを慣れた手つきで操作して、悦と居る時は滅多に見ないニュースばかりのチャンネルに合わせます。
アナウンサーが読み上げる皇国語のニュースを聞きながら、更にリモコンを操作して、放送とリンクしている番組のホームページを画面の半分に表示させます。これはザドス皇国国営のニュース専門チャンネルですから、ホームページには今日一日、世界であった色々なニュースが、「政治」とか「経済」とかに項目分けされて、それはもうたくさん並んでいました。
「…へー」
アナウンサーが読み上げるニュースにどうでもよさそうな相槌を打ちながら、傑はリモコンを操作して、一番上にあったニューストピックの詳細記事を表示させます。半分とはいえ大きな画面をびっちりと文字で埋め尽くす「詳細記事」は、それはもう国営のニュース専用チャンネルの「詳細記事」ですから、専門用語や関連文献や論文の引用にまみれにまみれています。もし悦がこれを見たら、最初の一行で「何語?」と首を傾げていたでしょう。
カチ、カチ、と2回のスクロールで記事を終わりまで表示させた傑は、そのままのリズムで次の記事を表示させます。今度は経済の内容のようで、画面の7分目で記事が終わっていましたが、やっぱり傑は同じリズムですぐに次の記事に移ってしまいました。
リモコンのボタンを押すのは、いち、と数えるより少し長いくらいです。タイトルだけを流し読みしているようにも見えますが、そんな短い時間でも、傑はきちんと全ての文章を読んでいます。
「…ふぁ」
少し退屈そうに欠伸をしたりしながら、メトロノームのように一定のリズムで記事を読んでいきます。いわゆる「速読」という技術です。人間の皆さんなら練習をしないと出来ませんが、純血種には標準装備されているのです。
耳でアナウンサーが読み上げる最新ニュースを聞きながら、目でも別の記事を次々に読んだ傑は、結局10分くらいでこのチャンネルが今公開しているニュースを全て読み尽くしてしまいました。もし悦がここにいたら、傑の膝を枕にお昼寝を始めていたでしょう。悦じゃなくても、普通の人なら眠たくなってしまったかもしれません。
けれども傑はリモコンを操作する手を止めず、更に別のニュースチャンネルに合わせ、同じように記事を表示させました。国営ニュースとは対立する視点を持つ、タカ派の放送局のニュースを、今度は1秒の半分くらいのペースで、全て読みます。次は中立派の2局のニュース、その次はハト派の3局のニュースを、やっぱり全て読んでしまってから、今度は皇国以外の国のチャンネルへ。
国が違えば勿論、言葉も文字も違いますが、傑には関係ありません。皇国のニュースを聞いて読んだのと同じペースで、このテレビで見ることの出来る約50ヶ国のニュースを、偶に数日前までさかのぼって、次々読んでいきます。
基本的に悦以外の人間はどうでもいい傑ですが、それはあくまでも個人としての傑のお話。
純血種としての『傑』には、人類の可能な限りの繁栄を見守るという“義務”がありますから、暇な時はこうして、今の人類の営みを多方面からチェックしているのです。過去の『傑』たちは、それを自らの足で世界中を歩いて確認していましたが、今代の傑には悦が居ますし、大戦から200年経って文化レベルも発展してきているので、少し簡略化していました。
過去の経緯だとか将来的な展望だとか裏の思惑だとかの、専門家の人でも目が回るような分析と推測を瞬きの間に済ませてしまいながら、傑は退屈そうに、世環傑という生き物としての「監視」というお仕事をしていきます。
午後7時。
そろそろ晩ご飯という時間ですが、傑は適当にシャツを羽織って、面倒なので前を留めないまま、再びお部屋を出ました。
お昼の時と同じように昇降機に乗って、けれども今度は幽利の居る最地下ではなく、それよりずっと前の階で降ります。
他の階とは違い、来賓用にワインレッドの絨毯が敷いてある廊下をしばらく歩いて行くと、突き当たりに両開きの立派な木の扉が見えてきます。広くて大きな本部棟には、登録者の居住区も含めてたくさんのお部屋がありますが、両開きの扉があるのはこのお部屋だけです。
毛足の長い絨毯が敷かれ、他より少し照明を落とされた廊下の雰囲気と相まって、ただでさえ立派な扉は威圧感さえ漂わせています。そんな、前に立った人が思わず深呼吸をしてしまいそうな扉を、すたすたと廊下を歩いてきた傑はそのままのテンションで躊躇いなくガチャリと開きました。
やっぱり、ノックはしません。武器庫とは違い、この扉に関しては本当なら間違いなくノックが必要なのですが、無視です。
そんな、常識にも礼儀にも反して堂々と部屋に入ってきた傑に、
「…投身自殺は過剰演出だったかな」
読んでいた難しい書類から顔を上げないまま、部屋の持ち主―――最高幹部の鬼利は、驚いた様子もなくいきなりそう言いました。
ともすれば独り言のような、そして独り言にしたってとても物騒なその言葉に、傑は軽く笑いながら応接用の立派なソファに座ります。
「目覚ましにはなるだろ」
「どうかな。見えているかも疑わしい」
「反響は?」
「上々」
「あぁ、椿も咲く頃か」
「今年は風が強いからね」
すらりと長い足を組みながら言う傑に、ぱらりと書類を捲りながら鬼利が答えます。お話をする時はその人の目を見て話すのが普通ですが、2人はいつも視線すらまともに合わせません。なんだか言葉遊びをしているようにも聞こえますが、傑と鬼利の間では、これできちんとお話が出来ています。
ちなみに今の会話の議題は、ここ最近で一番大口だった仕事のことと、世間話と、ある国の政権交代についてでした。傑も鬼利もたくさんの知識があって、単語と声色から相手の考えを推測できて、相槌の時の間でどんな結論を持っているかも解るので、無駄な言葉をぜんぶ無くしてしまうと、2人の間でのお話はこんな具合になるのです。
もし専門家の人がこの様子を見たら、絶対的な信頼と理想的な相互理解を築いている、と感動するかもしれません。けれども実のところ、傑も鬼利も、ただ解りきったことをダラダラ喋るのが面倒くさいだけでした。
「…そう言えば、愚弟がお世話になったね」
読み終わった書類にサインをしながら、鬼利はそう言ってちらりと傑を見ました。今日のお昼、傑が幽利に高級なお昼ご飯をおごってあげたことを言っているのです。
鬼利は幽利の双子のお兄ちゃんですから、そのお昼ご飯の過程については少なからず思う所がありそうなものですが、全てを知っている筈の鬼利の言葉に刺はありません。それについては幽利がちゃんと、自分の手で、傑の右目に、お礼をしていることも知っているからです。
ブラザーコンプレックスを拗らせまくった天才の最高幹部は、大好きな双子の弟の言動を全面的に尊重しています。
「あぁ。メインよりデザートの方が感動してたけどな」
「歯が要らなかった、って騒いでいたよ」
「そりゃァ、……あ?」
嬉しそうに鬼利に報告する幽利の表情が、簡単に思い浮んだのでしょう。へらりと笑いながら相槌を打とうとして、傑は不意にぐるんと斜め後ろの鬼利を振り返りました。
さっきまでの軽薄な笑みが嘘のように、今の傑は真顔です。
「……」
「……」
鬼利も真顔でした。
「…おい」
3秒ほどお互い真顔で見つめ合ってから、傑が低い声で言います。
藍色の瞳が僅かに細まり、それを受けた橙色が疲れたように少しだけ眉を顰めました。
「違うよ」
「いやいやいや」
「だから違うって」
彼にしては珍しく、少し砕けた口調でもう一度傑の考えを否定して、鬼利はじっと傑を見据えていた双眸を伏せました。書類をファイルに挟んだ手が、思案するようにこめかみへ宛てがわれます。それを見て傑も少し肩の力を抜きましたが、相変わらず鬼利の表情を伺う藍色の瞳は真剣です。
先ほどまでお昼ご飯のことについてのほほんと話していたのに、一体どうしたと言うのでしょう。
ほんの数秒のことだというのに、今や執務室の体感気温は、アイスクリームを作るのに最適な温度にまで下がっています。
そんな空気の中で、鬼利がゆっくりと目を開きました。
「…ネットでね」
鬼利にしてはとても珍しい、自嘲するような悔やむようなその言葉を聞いて、傑はちッと舌打ちをします。
「セキュリティは」
「玩具の注文は幽利がしてる」
傑がもう一度、さっきよりも強く舌打ちをしました。
ちなみにここで言う玩具というのは、お昼の公園で使うようなものではありません。(注※夜の公園でなら使うことがあるかもしれません)
「あいつ、“奥”使えるだろ」
「生理現象まで使いこなしてるよ」
ここで鬼利が言っているのは、俗にいう「嘔吐反射」という生理現象です。本来は呼吸を阻害する異物が侵入した際、空気の通り道を塞がない為に用いられます。(注※本来は)
「なんか言ったか?声じゃない方で」
「忘れているかもしれないけど、あれは僕の双子の弟なんだよ」
「あぁ、探求心旺盛でそれなりに頭が回ってお兄ちゃん大好きなド級のマゾの弟だったな。忘れてたわ」
「そう。しかも思い切りが良いんだ」
「……」
ふう、と溜息を吐いた鬼利は苦笑していましたが、それを聞いて傑は思いっきり嫌そうに顔を顰めました。無麻酔で背骨を全部摘出させろと言われた時よりも嫌そうでした。
「…あいつにバレねぇように動かれたら俺でも無理だぜ」
「立っている場所が違う。本気で動かれたら勝負にもならないよ」
「あー…」
「……それとなく説得して、」
「火種にガソリン撒いたらどうなると思う?」
「…やれやれ」
それがダメな案だというのは自分でも解っていたのでしょう。間髪入れずに却下してきた傑に表情を変えることもなく、鬼利は心底疲れた風に溜息を吐きました。
更にぐんと下がった体感気温の中、重苦しい沈黙を破ったのは、今度は傑の方でした。
「…実際、イイんだけどよ、確かに」
「…そうなの?」
「筋肉の数が違ぇからな。モロ粘膜だし。いくらでも濡れるし」
「……」
「てめェで全部引っこ抜きやがったんだよ。仕方ねぇから止血して2回使った」
今日の朝ごはんはパンだったよ、みたいなテンションで傑は言いましたが、それを聞いて今度は鬼利が眉を顰めました。生き物としての能力のことを考えれば、機嫌を損ねた場合の危険度は傑の方がずっとずっと高い筈ですが、この2人を「危険物」として捉えた場合、安全装置完備の傑に対して、鬼利にはそんな装置が付いているかも危ういので、室内の気温は傑が顔を顰めた時よりも下がりました。
「…そうなると、やっぱり両腕を潰して、」
「いや違ぇだろ。どこをどうやってどうなったんだよお前の頭は」
「あぁ、そうか。…四肢を、特に指を潰して、」
「待て落ち着け。実はテンパってンだろお前。しっかりしろお兄ちゃん」
「酷似した思考回路を持つお兄ちゃんだからこそ、恐怖しか無いんだよ」
無表情のまま淡々と紡がれる告白に、傑は素で「わあ、“恐怖”って解るんだぁ」という顔をしましたが、お兄ちゃんは冷静にそれを無視しました。
「…取り敢えず、」
「……」
少し間を置いて仕切りなおした傑を、怜悧な橙色が横目にします。いつも鬼利は道端の汚物を見るような絶対零度の目で傑を見ますが、今回ばかりは少しだけ温度がありました。
「あいつが本気なら、お前の弟っつー条件が付いてる時点で阻止は無理だ。洗礼しても解脱しても殉死しても無理だ。お前の弟だし」
「そうだね」
鬼利の弟だから、という点を2度も念押しして傑は非常に失礼な、鬼利の宗派によっては殺されたって文句を言えないようなことを言いましたが、神も仏も居るなら殺す派の鬼利は当然のようにそれを肯定します。
「でも、まだそこまでは行ってねーんだろ?他は色々とイってるけど」
「前から考えてはいたが、今日の食事でその障害のひとつと想定していたものが解消され、実行への抵抗がまた少し薄れた、という所かな」
「あぁ、それなら何とかなる。お前が虚弱体質なのを全面に押し出す形で行け」
「…歯や腕が無くても、幽利が息をしていれば問題は無いよ?」
「そうだな、一緒に生まれて一緒に死ぬんだもんな。それは別にいいよ好きにしろ」
表面的にはとても美しい相思相愛を投げやりに後押しして、傑はソファの上で足を組みました。勿論その言葉は、この双子に限っては、その裏にとても根深く底なしの暗黒を孕んでいるのですが、そんなことは嫌というほど知っているので今更問題にはしません。この双子に限っては、傑の持てる知識全てで人格矯正を試みたって、脳をそっくり入れ替えでもしない限り、全てがまったくの無駄だと解りきっているからです。
「あいつはラジオペンチでセルフ全抜歯しようが総入れ歯になろうが大丈夫だけど、お前は違うだろ」
ちなみに、医療技術と共に歯科技術も発達した昨今、皇国での総入れ歯の平均年齢は98歳です。そして傑の話をふんふんと聞いている双子の片割れはぴちぴちの20代です。
「金積んで集中治療室用意しといたって死にかけるだろ?」
「そうだね。麻酔が効くかどうかは良いとしても、輸血の負担でガタが来る」
「そんな有り様になるくらいなら毒なり銃なりで心中するだろーが、お前等なら」
「そうだけど、どうして僕が?」
「ピアスひとつまでお揃いじゃないと嫌なんだろ?今の”設定”では」
「……あぁ」
ちらりと藍色の視線で左胸を示されて、鬼利は思い出したように頷きました。
根っから退廃的で破滅的なこの双子には、今更双子らしいそっくりな外見への執着など欠片もありませんでしたが、確かに今の彼等の「設定」では、各々変わりゆく外見を少しでも擦り合わせようと努力することになっていました。
実際は肉と骨と皮で出来た容れ物になんて興味は無いし、二人の外見が本当にそっくりだったことなどほんの数年しか無かったのですが、2人だけの箱庭で生きている双子は、偶にこんな「設定」をスパイスにして退屈を紛らわせているのです。
この双子がそういう意味でもどうしようもないことも、傑はよーく知っていたので、それを利用するように提案したのです。
「成る程、確かにそれなら何とかなりそうだ」
「よし、解決」
「ありがとう」
「どういたしまして」
納得してお礼を言いながら新しい書類を取り出した鬼利に、傑は軽く笑って手を振りました。その手でローテーブルの脚部にある隠し棚を開き、中からカードとチップを取り出そうとして、ふと屈めていた長身を起こします。
「なァ、俺からもひとつ相談」
「悦なら明日の昼には帰ってくるよ。さっき連絡があった」
「マジかよ愛してる。相談っつーか質問なんだけど」
「なに?」
ぴん、と弾いた黒いチップを爪の先でくるくると回しながら、傑は書類から顔を上げた鬼利を、神妙な顔で振り返ります。
「…Tバックと剃毛ってセットだと思うか?」
にっこりと笑った鬼利の手から、万年筆がダーツのように放たれて傑の左目に命中しました。
金曜 午前1時。
鬼利の執務室で鬼利とお喋りをし、ブラックジャックを数ゲーム遊んで、帰りがけに鬼利に頼まれて本部棟外壁にある多機能センサーを高度400メートルでちょちょいと直してあげてから、傑はお部屋に戻りました。
もう日付も変わり、時計は真夜中を指しています。
「ふぁ……」
壁掛け時計をちらりと見て小さく欠伸をし、傑はローテーブルの上に載っていたお酒のボトルに手を伸ばします。
100年前のラベルが貼られたそのお酒は、お酒の好きな人なら誰もが飲んでみたいと憧れる有名なブランデーの、特に出来がいいと言われている1本でした。お酒好きな賓客の為に、あるいは単にアンティークとして、鬼利の執務室に飾られていたものです。
何故そんな高級なお酒がここにあるのかと言えば、答えは簡単。レーザーの安全装置が壊れて、近寄るもの皆焼きつくす、尖ったナイフのようになってしまったセンサーを直してあげるお礼として、傑が勝手に持ち出してきたからです。かっぱらった、とも言います。
無残に栓を外された、中身が半分以上減ったボトルの横には、シンプルなロックグラスが置いてありました。でも傑はそれを使わずに、ボトルに直接口をつけて残りのお酒を、
「……」
飲もうとしましたが、寸前で止めました。
転がっていた硝子の栓をきゅっと締めて、グラスとボトルを持ってキッチンに入ります。グラスは食洗機の中に放り込み、ボトルを一目見て解る所に置いて、満足したようにちょっとだけ笑うと、そのまま洗面台へと向かいました。
傑はお酒が好きです。アルコール度数や品格に関係なく、お酒ならなんでも飲みます。ジュースでは出せない芳醇な香りや、深みのある味が好きなのです。
残したブランデーは、味も香りも最高級のものでした。勿論、傑は美味しいと思って飲んでいたのですが、いつもはどんな高いお酒も一息に飲み尽くしてしまう傑が、3分の1も残して飲むのを止めたのには、ちゃんと理由があります。
ブランデーは、お料理やお菓子に使われることがあるからです。
こんな高いブランデーでは、普通ならとてももったいなくて出来ませんが、どうせこれは鬼利から(勝手に)貰ったものです。自分が気に入ったこのブランデーを、恋人の悦にも、悦が好きな方法で美味しく味わって欲しいと思ったので、傑はブランデーを残したのでした。
シャコシャコと歯を磨いて、ついでに冷水で軽く顔を洗って、水の跳ねたシャツを洗濯機に突っ込み、傑はタオルで顔を拭きながら戻ってきたリビングの照明を、パチンとスイッチを押して消しました。
カーテンを閉めていない大きな窓からは、下弦に設定された人工月の明かりが眩しいくらいに差し込んでいます。
ニセモノの月光で青白く照らされた部屋は、まるで海の底にいるみたいに、とても幻想的でした。
けれどもそれ以上に寒々しく見えたので、傑はひとりぼっちのリビングをさっさと横切って、分厚いカーテンが閉まっている寝室に向かいます。
純血種は、たった10分の睡眠で丸3日起きていることも出来ます。無理をすれば、一週間くらいなら、普段と変りなく動くことも出来ます。
傑が起きたのは今日の午後1時過ぎでしたから、まだ12時間しか起きていません。本当なら、純血種の傑はちっとも眠くないはずでしたが、窓辺に置かれたスツールにタオルとジーンズと下着を放った傑は、寝乱れたままのシーツにさくさくと潜り込んでしまいました。
たとえ広いマットレスがふかふかでも、腰元までたくし上げられたブランケットがふわふわでも、どれだけお酒を飲んでもさっぱり酔えない純血種は、毛ほども眠くならない筈でした。傑も昔は、10年前くらいはそうでした。
けれども傑は悦に会うまで5年くらい、無理矢理にでも必要以上に多く眠るようにしていた過去があります。暇さえあれば何時間でも、何十時間でも、「暇だ」と思う暇が無いように眠っていました。
意識を持たず、思考せずに居たほうが、『純血種』として有益だったからです。
その名残で、傑は今でも、寝ようと思えば何時間だって眠ることが出来ます。意図的に考える事を止めて、時間だけを諾々と流すことが出来ます。
「…んー…」
シーツの中で小さく伸びをして、傑はあの頃のように、真っ暗で一人きりの部屋で目を閉じます。
けれども今はもう、眠るのは逃避の為ではありませんでした。今、傑が時間を短縮してくれる睡眠を望む理由はただひとつ。
愛しい愛しい恋人と、少しでも早く逢えるように。
あの頃と違って明日を待ち望みながら、傑はゆっくりと眠りに落ちていくのでした。
Fin.
傑のある日の話。
残ったブランデーは、バニラアイスにかけて悦が美味しく頂きました。
