傑のいちにち 前



 純血種唯一の成功例である今代の傑(すぐる)は、ILL本部塔に住んでいます。

 ILL本部塔は、皇都地下街(みんなが“街”と呼んでいる所です)のど真ん中にでーんと建っています。天井ぎりぎりまであるとても高い建物で、トイレットペーパーの芯を縦に置いたような見た目をしています。
 その中にある登録者居住区画の、一番高い所にある、一番奥のお部屋が傑のお家です。エレベーターからはちょっと遠いけれど、市場価格をあてはめればお隣の倍の値段がする、とてもいいお部屋です。難しく言うと、4DK+Sとなっています。


 傑はそこで、悦という恋人と暮らしています。
 悦は普通の人間で、本当だったら傑が恋人に選ぶことは有り得ないけれど、悦は色々と生い立ちの所為で普通ではありませんでした。同じく今代の傑も、前代の傑とは違っていたので、上手いこと凹凸が噛み合って目出度く恋人として愛しあっているのでした。

 実は悦も自分のお部屋があるのですが、2人はラブラブなのでほとんど傑の部屋に居ました。
 でも、悦は傑と同じILLの登録者なので、お仕事で遠出することがあります。さっきも言ったように悦は普通の人間なので、陸の孤島と呼ばれるような要塞に匿われた偉い人を殺したり、世界最高レベルのセキュリティに守られた機密データを盗み出すのには、時間がかかるのです。傑のように、国境を跨ぐ仕事を、半ドンでは終わらせられません。


 そういう時、なにもかもが2人分の広いお部屋で、傑は1人ですごします。
 遺術の最高峰である“純血種”の、唯一の成功例にして、歴代最悪の欠陥品。最悪の兵器。化け物。そんな風に呼ばれている傑が、1人の時に何をしているのか、人間のみんなにはちょっと想像しにくいと思います。

 なので今日は、そんな傑のいちにちを、こっそりのぞいてみましょう。










 木曜、午前7時。

 みんなが起きて、学校やお仕事の支度をするこの時間、傑は何をしているのでしょう。

「…すぅ…」

 そう、傑は寝ています。
 大人が3人は寝られるような大きなベッドの真ん中で、滑らかなシルクのシーツに気持ちよさそうに埋もれています。悦お気に入りのふわふわブランケットは腰までで、そこから上は滑らかな肌も程よくついた筋肉の陰影も丸見えです。パジャマとかスウェットとか、寝るときにみんなが着る物を、傑は着ないのです。風邪を引く心配が無いので、冬でも夏でも、基本は全裸。偶に半裸です。

 今日は晴れなので、“街”の人工太陽も眩しく光っていますが、ベッドルームのカーテンは遮光製です。寝るのに快適な薄暗さを保ったままのベッドルームで、傑はこの時間、だいたいこうして健やかに眠っています。


 少し、時間を早送りしてみましょう。



 午前9時。

 授業やお仕事が始まる時間ですが、傑はまだ起きていません。
 さっきとは反対方向を向いています。寝返りをうったみたいです。寝息も健やかなもので、いびきもかいていません。死んだように眠っています。


 午前11時。

 傑はまだ寝ています。
 姿勢は変わっていますが、別に面白い格好にはなっていません。今はいない恋人の代わりに枕を抱きしめるような乙女チックな真似もしません。女性がコロっといきそうな色気を保ったまま、おとなしく眠っています。

 こういう設定のキャラクターにありがちな、前代の記憶を思い出してうなされたり、“もう1人の自分”とかが現れて自己の存在意義を問うイベントは、傑の場合起こりません。何らかの危機を超人的な感覚で察知して飛び起きたり、急に目をパチリと開いて「…来たか」とか呟いたりもしません。熟睡です。


 午後1時。

 1日の半分が過ぎようかというこの時間になっても、傑は…

「んー…」

 おや、起きたようです。3時になっても起きない事もあるので、今日は早い方です。
 目が覚めると、傑は眠たげに目を半分伏せたまま、おもむろに上半身を起こし、寝乱れて邪魔になった髪をぐしゃりと男らしくかき上げます。一瞬、髪の状態によっては少しの間、オールバックになったように見えるので、恋人の悦がちょっとクラっとする仕草です。

「…ぁー…」

 くぁ、と欠伸なんかしながら、そのまま傑はベッドの上で立ち上がります。当然、ブランケットは一点にちょっと引っかかりながら落ちますが、傑は自分の下半身の状態には一切頓着することなく、比喩でなく計算しつくされた彫刻のような肉体美を惜しげも無く晒しながら、そのままひょいとベッドから降ります。

 素足のままぺたぺたとベッドルームを出て、リビングを横切り、傑が向かうのはバスルームです。50℃から零下40℃までの間なら快適に過ごせる純血種は、寝汗をかくこともほとんどないのですが、傑は起きたらシャワーを浴びます。銃弾を浴びるよりは効力が落ちますが、それなりに目が覚めるからです。



 傑のお部屋は、勿論バスルームも広々としています。
 シンプルな硝子戸で仕切られていて、ジャグジー付きの大理石のお風呂もあります。悦はバブルバスがお気に入りなので、いい香りの入浴剤とローションボトルは切らしません。

 シャワーコックをキュっと捻って、傑が頭からシャワーを浴びています。そのまま一度伸びをして、顔を上げて、目を閉じたままじっとすること数秒から数分。別に物思いに耽っているとか、サービスシーンを作っているわけではありません。
 水圧十分なシャワーがバシバシ当たっていますが、純血種は30分くらいなら息を止めていられるのでへっちゃらです。足りなければコックを捻って冷水か熱湯を適当に出して、傑は眠気覚ましをします。


「…はァ」

 顔を俯かせて、止めていた息を吐いたら目が覚めた合図です。
 おしゃれでお手入れも簡単な据え付けの棚に、市販のポップな柄のシャンプーやボディソープのボトルが放り込まれていますが、これは眠気覚ましのシャワーなので今は使いません。前の晩の後始末が適当だった時は使いますが、悦は2日前から留守にしているので、今日は要らないようです。

 シャワーコックをキュっと捻って、伝う水滴に軽く目を眇めたりしながら、傑は後ろのタオル掛けにあるバスタオルを一枚取って頭に被ります。ガシガシと髪を拭い、水が滴らない程度に体も拭いたら、それを首にかけてバスルームの外へ。

 バスルームの隣の洗面所には歯ブラシが置かれていますが、歯磨きは寝る前にしているし、純血種は虫歯とか口内細菌とか歯周病とは無縁なのでパス。隅にはシェーバーも置かれていますが、髭などのムダ毛の類もある程度自由に操れるので、これもパスします。


 洗面所を素通りして、傑が向かうのはキッチンです。
 キッチンタイマーを兼ねたパステルピンクの時計を一瞥しながら、4枚扉の大きな冷蔵庫を開けて、中からミネラルウォーターのボトルを取り出します。ちなみに隣には業務用の冷凍庫があり、大きなお肉の塊だとか、タッパーに詰めて冷凍したソースだとか、ブイヨンだとかが入っています。

 冷蔵庫もちょっとしたパーティーが開けそうな食材の揃い具合ですが、傑はボトルのキャップを開けながら、肩を使って扉をバタンと閉めてしまいました。


 完璧超人を地で行く傑ですから、もちろん料理が苦手なわけではありません。牛の解体から精進料理まで出来る知識はありますが、では好きなのかと言えばそれは別の話。
 美味しいものを食べるのも作るのも好きな恋人のお陰で、泥だろうが炭だろうが栄養を摂取できさえすればいい、という壊滅的な食への価値観は改善されましたが、自分の為の食事を自分で作るのが、傑はあまり好きでは無いのです。

 だってそれでは退屈ですから。
 悦に会うまでこの世の全てに飽々していた傑は、退屈が嫌いです。自分の“存在”に時間稼ぎ以外の意味が無いとしても、ただ諾々と時間を過ごすだけなんて、そんなのはまっぴらゴメンだと傑は思っています。実は、それは言われて気づいたことですが、今では傑も本当にそう思っています。


 ボトルの中身をちゃぷちゃぷと揺らしながら、傑はカーテンが全開のリビングを横切って、寝室へと戻り、クローゼットを開けます。
 シンプルな黒いVネックのトップスをハンガーから取り、引き出しからジーパンを取り出し、ついでにその横のパンツも取って、引き出しを閉めつつそれらを着ます。グレーのボクサーパンツの隅っこには、右のお尻に可愛いクマさんがプリントされていましたが、直ぐにジーパンを履いてしまった傑は恋人のイタズラには気づかなかったようです。

 “履きやすい”というだけで選んだもの凄く高級な革靴をつっかけたら、準備は完了です。

 一息に飲み干したボトルをキッチンの横のゴミ箱に捨てて、湿ったバスタオルを脱衣所の洗濯機に放り込んで、傑は1人だけのお部屋から出ます。
 傑は鍵を掛けませんが、みなさんは、お出かけの時にはきちんと鍵を掛けましょう。








 午後1時20分。

 お部屋を出た傑は、本部塔を縦に貫く4つの昇降機の1台に乗って、最地下2階に来ていました。

 “街”そのものが地下深くにあるので、ここでは地上での地下階層のことを「最地下層」と呼んでいます。ILLの最地下層は10階まであり、一番下の6つは発電機などのインフラ設備、その上の2つが駐車場、一番上は射撃場や「籠」と呼ばれている最新の訓練施設。

 そして、半分以上が倉庫になっている最地下2階の端っこにあるのが、武器庫です。

 いつも半開きの重い鉄の扉をノックも無しに蹴って開けると、傑はそのままずかずかと中に入っていきます。驚かせないように、声を掛けたりはしません。必要ないからです。

 ずらりと棚に並んだ銃火器や諸々の物騒なもの達を横目に、扉からまっすぐ奥に進んで行った傑は、いつもの場所でいつものように座っていた武器庫の“主”に、


「幽利、飯食いに行こうぜ」

 こんにちわの挨拶もなく、いきなりそう言いました。
 誘いではなく、まるでそうするのが当たり前のような言い方です。今までもう何度も何度もこんなことを繰り返していて、示し合わせていなくても、お互いの都合がついた時にはこうするのが暗黙の了解になっているような、そんな2人の間の長い時間を感じさせる口ぶりでした。

「…はァ?」

 しかし、そんな事実は全く無かったので、武器庫の主の幽利はぽかんと口を開けてそう返しました。
 その「はァ?」には、疑問以外にも「何言ってんだこいつ頭大丈夫か」的なニュアンスが含まれていましたが、傑は気にせずに続けます。


「どうせまだ食ってねぇんだろ?」
「食ってねェけど……ンでまた急に」
「俺もまだだから」
「1人で行けよ」
「なんでだよ」
「てめェがなンでだよ」
「思いついたから」


 幽利の当然の疑問に、傑は正直に答えます。
 それを聞いて、幽利はいつもしている目隠しの上の眉を歪ませました。目が隠れているのでちょっと解りづらいですが、いわゆる「あ゛ァ?」の表情です。基本的に幽利は殴られたって蹴られたって笑っているのですが、傑の前ではしばしばこんな顔をします。


「…暇つぶしの相手なら他ァあたンな」

 そっけなくそう言って、幽利は視線を手元に戻します。膝に足首を乗せるようにして組んだその足の上では、長距離用ライフルが整備中でした。針のように細いドライバーで計器の調整を再開した幽利の手つきは慎重そのもので、声を掛けるのすら憚られるほど集中しています。


「まぁそう言うなって」
「あああ!」

 しかし傑は気楽な調子で言いながら、幽利の手からライフルを取り上げてしまいました。米粒よりも小さなネジやバネが無残に散らばるのにも、幽利の割りと本気の悲鳴にも、全く動じません。

「どうせ今日もレーションだろ。偶にはイイもん食えよ」
「なにしやが…ッおい!」

 ぽい、とライフルを机の上に放り投げ、代わりにひょい、と幽利の襟首を掴んで椅子から引きずり降ろしながら、傑は呆れたような口調で言います。
 そのままずるずると幽利を引きずって武器庫の出入り口に向かおうとするので、幽利は足を踏ん張って抵抗しましたが、純血種はとても力持ちなので、当然それは無意味でした。

 こうして無事に今日のお昼ご飯のお供を確保した傑は、先ほど乗って来たエレベーターに幽利と一緒に乗って、このエレベーターで行ける一番下の階のボタンを押します。
 途中、幽利はボタンを押す時と扉が閉まりきる時に脱出を試みましたが、傑は純血種なのでやっぱりそれも無意味でした。


 ポーン、という音と共に開いた先に広がっているのは、見渡す限りのコンクリートの空間です。
 図太い柱が何本もあるそこは、面積で言えばサッカーグラウンドの半分くらいはあるのですが、ずらりと並んだ大型車両たちの所為で、傍目には狭いくらいに見えます。


「ったく…なんだってンだ」

 そうぼやきながら溜息を吐く幽利の襟首から手を放して、傑はすいっと狭く見える広い駐車場に視線を走らせました。整備士さんを探しているのです。
 手近な場所には人影が見えなかったので、傑が探しに行こうと一歩踏み出した時でした。


「……3つ奥の装甲車」

 引っ張られた襟を直しながら、幽利がぼそりと呟きました。
 ああ、と頷いて、傑は幽利が言った方向に歩き始めます。その『3つ奥の装甲車』は、本物そっくりの消防車と迫撃砲搭載装甲車の影に完全に隠れていましたが、確かにそこには作業着姿の整備士さんがいました。普通なら見えませんが、幽利はとても目がいいのです。

「新車?」
「ああ、傑さん。そうなんです、最新式ですよ」

 傑の声に振り向いた30歳くらいの整備士さんは、人懐っこい笑みを浮かべて、装甲車のミラーを磨いていた手を止めました。
 幽利と同じ、所々がオイルで汚れたつなぎの作業着に、首元にタオルを巻いています。一生懸命に仕事をしていたのでしょう、額には汗が光っていましたが、彼はタオルではなく袖で額を拭いました。


「癖もないし、いい女です。乗っていきますか?」
「そンなら昼飯はピクニックになるな」

 彼が磨き上げた機体を眩しそうに眺めながら、傑は軽く首を竦めます。自分の冗談にノってくれた傑に、整備士さんはそりゃそうだ、とからからと笑いました。傑の後ろの幽利はちょっとだけ愛想笑いをしました。

「いつものでいいですか?」
「あぁ。頼むわ」
「んじゃ、回してきますんで」

 傑に会釈をして、人の良さそうな整備士さんは車を準備するため、小走りに駆けていきました。
 彼が走り去る時、ほんのちょっとずれた首元のタオルから、そこに走る縄目模様の濃い痣が見えましたが、位置的にそれが見えていた傑も、関係なく見えていた幽利も、驚きません。明らかに首を絞めたか絞められたような痕ですが、心配もしません。薄情なわけでも想像力がないわけでもなく、別に珍しくないからです。


 ILLにはたくさんの登録者が所属していて、更には3000人ほどが本部塔内に住んでいます。鬼利を含めた7人の幹部だけでは、とてもその衣食住や仕事の雑事をこなすことなど出来ません。
 なのでILLには、あまり知られていませんが、整備士さんのように裏方の仕事をこなす一般人が所属しています。その大抵が、家族や親類に重犯罪者がいたか、自身が犯罪者“だった”かのどちらかです。整備士さんの場合は、弟が犯罪者でした。

 そういう人達は、しっかりと責務を果たした後でも、あまりまともな仕事が貰えません。なので、そういう人たちを優先的に雇用するILLに所属しています。
 外界からある種隔絶されたILLという組織は、そんな人たちの盾になることもあるのです。軍部警察が全力で叩き潰しにかかれないのには、こういう所にカラクリがあるんですね。

 最も、それを含めてILLの戦略なのですが、その辺りは難しい話になりますので、ここでは説明しません。
 詳しく知りたい方は、別巻の『最高幹部のお仕事 ~僕と犯罪とときどき希少資源~ 』(定価:\5,000+税)をご覧下さい。










 整備士さんに見送られて、傑と、助手席に引っ張り込まれた幽利は滑らかにILLを後にしました。
 用意してもらった車は、皇族御用達の高級メーカーの最新車です。機能面はもちろんのこと、本革を贅沢に使用した内装も優雅な高級車でした。傑は窓枠に頬杖をつきながらリラックスしてハンドルを握っていましたが、助手席に座る幽利はガッチガチです。


「なに食いたい?」
「…傑…」
「魚もいいけどなー、赤飲みてぇから肉かな」
「傑…っ」
「んァ?」

 ILLがある中央区から、レストランの多いA地区に向かって車を走らせつつ、傑は切羽詰まった声にちらりと横の幽利を見ます。
 傑がいれば真正面から列車に追突されたって無事なのですが、きっちりとシートベルトを締めた幽利は、それが無ければ空中椅子でもやり始めそうなくらいに、人間工学に基づいた本革のシートの上で縮こまっていました。

「…昨日はスパンキングだったのか?」

 幽利の性癖を鑑みてそう想像した傑は、幽利のお尻のあたりを見て「あーあ」という顔をしましたが、昨日の“道具”はパドルではなく蝋燭だったので幽利は首を横に振ります。

「違ェよ、お前こんな…こんな、俺、こんな格好でこんな…!」
「……あぁ」

 ぎゅっと自分の作業着を握りしめながら「こんな」を連呼する幽利に、傑はようやく納得して軽く頷きました。ハンドルを反対の手に持ち直し、錆とオイルと火薬で汚れた幽利の作業着のチャックを、首元までジャっと上げてあげます。

「肉でいいか?」
「……よくねェよ!」
「魚ー?気分じゃねーけど、ルボンドなら白でも、」
「だからそうじゃ…ッ遊ぶんじゃねェよ傑!」
「なにがだよ」


 恨めしそうに傑を睨む幽利の、高級車に汚れた服で乗り込む罪悪感や謎の不安やいたたまれなさというのは、みなさんならよくお分かりでしょうが、傑にはさっぱりのようです。

「おまッ……こんな服でどこ行くっつゥんだ、この真昼間に」
「服?別にどこも破れてねーし、いいだろ」
「いいわけねェだろうが!どォせドレスコードだのなんだのある店に行くんだろォに、こんな薄汚ェ格好で…!」
「襟ついてんじゃん」
「そォいう問題じゃねェ。ッつぅかそれでか、それでチャック上げたのかよ」

「お前その中なんも着てねぇんだろ」
「だからッ……いいか傑、考えてみな」
「あぁ?」
「てめェが旦那とイイ感じの店でランチってトコに、俺みてェな薄汚ェのが入ってきたらどォ思う?」
「悦と行ってるなら悦しか見てねぇよ」
「……そりゃァ何よりだ。でもチラっと目に入ることもあるだろォが。普通は気分悪ィと思うんだよ。せっかくの飯も不味くならぁ」
「あー、人目を気にしてんのか」


 幽利の一生懸命な説明のお蔭で、傑にもようやく幽利の気持ちが解ったようです。幽利の、というより普通の人が普通に抱くだろう感情を一言でまとめて、納得したように軽く頷くと、


「気にすんな。誰もお前なんか見てねぇよ」

 あっさりとそう言って、幽利のこれまでの努力を無にしてしまいました。
 これには流石の幽利も脱力してシートに背中をちょっと預けてしまいましたが、幽利の忍耐力は折り紙つきです。なんとか反論しようと口を開きます。


「そッ…俺がどォこういう話しじゃなくて、」
「周りの奴らが、ってことだろ?だから見てねぇよ」
「…自意識過剰とか言いてェんなら、」
「ンな話してねぇよ。どいつもこいつも、どうせ俺しか見ねぇんだから」
「…ッ…」

 傍から聞けば実にナルシーなその台詞は、でも傑が言うと違って聞こえました。
 傑とそれなりに付き合いの長い幽利にはもっと違って聞こえたので、幽利は出そうとした言葉を飲み込んで、変わらない表情で車を運転する傑の美貌を一瞥し、ぽすりとシートに背中を埋めました。


「……肉が食いてェ」
「なんて鳴くやつがいい?」
「いッつも不満そうなやつ」
「上出来じゃねぇか」
「クイズにあったンだよ」

「今更になって情操教育でもしてんのか?」
「旦那にもらった駄菓子」
「あぁ、あのガムか」
「教育っつゥなら、俺もてめェもまず保健体育からだろォが」
「実践ならやってもいいぜ」
「姐サンにでも頼むかィ?」
「……」
「……」
「…切られるな」
「…あァ、根本からヤられちまう」


 すっかりいつもの調子の2人を載せて、車は快晴に設定された天井の下を走っていくのでした。



 つづく。



児童書または教育ビデオ風に。



Q.いつでも不満そうな動物はなんでしょう?
A.牛(もー、もー)

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