「―――あぁ、お前好きだよな、そういうダルい筋書き」
漸く窓の外が白み始めたクローゼットの前で、傑は肩に挟んだ端末に言いながら黒いスキニージーンズを履いている。並みの人間ならそれだけで震え上がる容赦のない冷笑の先は、5時ぴったりにその名に恥じぬ鬼電を掛けてきた鬼利だ。
シーツの中で寝返りを打ち、そこに残っている体温とボディソープの残り香に包まりながら、悦は眠気に半分も開いていない目でぼんやり傑の後ろ姿を眺めた。
「今日行ったら先2日は一歩も部屋から出ねぇから、そのつもりで組めよ」
傑の体は締まっている。筋骨隆々としているわけでも胸板が張り出しているわけでもなく、綺麗な形の筋肉が綺麗なままでその全身を鎧っている。手足が長いのですらっとして見えるが、背中の陰影と引き締まった腰回りなんかはいっそ扇情的と言ってもいい。今ジーンズに隠されてしまった、抉れたような鼠径部の辺りの括れなんかはエロ過ぎてちょっと腹立たしいくらいだ。
「はァ?………俺が知るかよ、そんなツギハギの寄せ集め儀式。お前だって待つ義理ねぇだろ」
心底怠そうに言いながら、傑はジーンズに適当なベルトを通して適当に締め上げる。親指と手首の間に少し筋が浮いた器用な手は、脱ぐ時と同じく殆ど片手でバックルを留めて、ハンガーから黒い長袖のシャツを取った。片腕を通して、端末を持ち替えてもう片腕を通し、柔軟な両肩を動かして羽織る。
「ああ。…………あぁ、それでいい。っつーかどうでもいい。好きにしろ」
ボタンを留めるのは面倒くさがって4つくらいで止める割に、傑の仕事着兼普段着は襟付きのシャツが多い。成す術なく蹂躙される”標的”への形だけの義理立てが半分、もう半分は外す手間も惜しんでブチブチ引き千切ったり、勿体つけて1つずつ外して脱ぐ姿が悦のお気に入りだからだ。
いちいち避けると靴底が死ぬ、という純血種らしい理由で返り血の目立たない黒づくめは、中身が良いから背後から見ると迫力がある。振り返って顔と開いた襟元から鎖骨が見えると、威圧感は目も眩むような色気に変わる。眼福なリバーシブルだ。
「両獲りで上手く収めりゃいいんだろ。収めてやるからお前もとっとと寝ろよ。……あ?じゃあ二度寝しろ」
命令を下す雇い主に命令をし返して、傑は端末をジーンズのポケットに押し込むとクローゼットを閉めた。ふらふらと熱が残った視線で追いかける悦に、通話中とは別人のように甘い流し目をくれて、サイドボードを開く。
「ごめんな、起こして」
「んん」
どっちにしろ、傑がベッドを抜け出した時点で起きていた。仕事モードの雑でかったるそうな声も聞けたし、生着替えも見られたし、と小さく頭を揺らして、悦は片肘をついて上半身を持ち上げる。
「……いつ帰ってくる?」
「6時か8時」
寝ている内に少しズレていた首輪が回されて、その為についている正面のDカンに傑はリードの金具を引っ掛けた。ばらり、とシーツと床に零れた革のリードは長く、丁度広いベッドの上とその周辺を動けるくらいの余裕がある。
繋がれる為に従順に差し出した首をリードで引き起こすような無体はせず、傑は輪になった持ち手を通した掌で頬を包むようにして、自分が身を屈めてキスをした。勿論手でも頬でも額でもなく、ちゃんと唇に。
正しい”いってきますのチュー”に満足げに微笑んだ悦の頬をひと撫でして、名残を惜しむように頭も撫でてから、錠もセンサーも電池もついていない首輪に繋がったリードの持ち手を、傑はベッドの装飾に引っ掛ける。
「行って来る」
「ん……」
引き上げて貰ったアッパーシーツに包まり直して、悦は眠たげに瞬きながらも頷いた。体を起こしてサイドボードの銃を持った傑の横顔には珍しく、かったるい、と書いてある。
それでもぐずぐずと居座ることはせず、七面倒臭い国だの民族だのレベルの諍いを最小被害で上手く収める為に踵を返して寝室を出ていく背中に見惚れてから、悦は枕に頭を乗せ直して二度寝に入った。
鍵を掛けられる事がない玄関扉をノック無しに薄く開き、一拍置いて静かに閉めた足音が遠ざかるのを待って銃を片手に寝室を出ると、上がり框に白い封筒が投げ込まれていた。
「……あー……」
8日目だからか、と納得して背後にリードを引き摺りながら封筒を拾い上げ、銃を指先に引っ掛けたまま一応表に返して中央に書き込まれた10桁の数字を確認して、悦はどこにも繋がれずにだらだら伸びるリードを蹴り避けてから廊下を引き返す。
テレビボードの引き出しから黒いポーチを出して銃と一緒にリビングのローテーブルに置き、座るついでにソファの側面に貼り付けておいたナイフを抜いて、複雑な割印が押された封筒を切り開いた。中には封筒と同じ厚さで違う手触りの、2つ折りにされた紙が3枚。
1枚目には黒々としたインクで【依頼】の判子と、概要と場所と日付と時間と金額、今回の”標的”の高彩度なカラー写真、そして壱級担当である最高幹部直筆のサイン。2枚目には登録者にとっては神にも等しい依頼人様のご要望だのお気持ちだのがつらつらと書き連ねられている。
3枚目にはそれを受けての”ILL”からの依頼達成要件が「提案」という体でこれまたつらつらと続き、広く取られた余白に1から8までの数字がついたチェックボックスが判子で押され、5と8のボックスにチェックと、その下に手書きでそれぞれ偽装、引き出し、と手書きの書き込み。
サインと同じく美しい筆致での注釈は、有用な駒にはある程度手間を掛けてくれる鬼利が、自分の持っている”オプション”の通し番号をちっとも覚えようとしない悦の為につけてくれたものだ。
「500……」
金額の欄に350(+200)と書かれた数字だけを見てから、悦は1枚目の右下を指で千切る。丁度鬼利の利の字が書いてある紙を片手に丸めながらポーチを開き、中に収められた3本の瓶の内、中身が入っていない瓶のガラス栓を抜いて丸めた紙を突っ込んだ。
残りの瓶からまずは透明な方を紙入りの瓶に6分目まで注いで、栓をしてシャカシャカ振り、薬液の中で紙が繊維に、サインがインクに還ったら、最後の瓶から真っ赤な液体をキャップについたスポイトから2滴垂らして、また振る。
「……ふたり……ネズミ……」
報酬は悪くない。薬が反応するのを待つ間に、活字が滑っていかないように口に出しながら1枚目に目を通す。
標的は2人、とある企業に潜り込んだライバル企業の間諜の排除。向こうも金で雇われた裏稼業なので、情報の引き出しも出来るだけ。道具も方法も問わない。なるべく仲違いに偽装して欲しいが、後々見せしめに使うので粗があってもいい。片方が比較的綺麗なら、もう片方の状態は問わない。おまけに標的のねぐらはセーフハウスまでILLが特定済みと来た。
謹慎明けの”慣らし”には丁度いい内容だ。遺族の連名依頼だった謹慎前最後の依頼と比べて、報酬が倍額近いのがなんとも無情だが、悦にとっての世界とは産まれた時からそんなものなので特に気にせず、薄墨色になってきた瓶を横目に更に詳細を追っていく。
場所、日付と時間、写真、といつものように確認して、何故死ぬのかも殺すのかも微塵も興味が無いが、鬼利に叱られるから依頼人様のポエムも一応流し見るかと紙を捲ろうとした手が、はたと止まる。
「……にじゅうに?」
寸止めをやったのが18日で一昨日だから、19、20、と指折り数えていって、置きっぱなしにしていた端末で今日の日付も確認して、悦は盛大に眉間に皺を寄せた。
「えー……時間制かよ……」
どっちかのどこかしらのねぐらに押し入ってなんやかんやする時間を、依頼書は悦が謹慎最終日と認識していた日の夜に設定している。夕方から始まった謹慎は、最高幹部の認識では同じく夕方に終わるらしい。中途半端な、と咄嗟に思うがある意味とてもきっちりしているとも言える。
「……んん゛ー……」
薬品の反応が終わり、繊維もインクも間違いなく素材から専用に作られたILL正規の依頼書である、と示す真っ黒な瓶を見ながら、悦はしばらく唸った。日付が変わった瞬間に初めて、夕方に終わればイケるか。いや終われるわけがない。
得た報酬の8割を天引きとして納めてILLから自分を買っているような立場だし、どんな技も使わなければ鈍るばかりで、鈍れば死ぬので、基本的に悦は回された依頼は断らない。今回のように条件の良い依頼なら尚の事、いつもなら二つ返事で受けている。
改めて見返した1枚目は、やっぱり条件も報酬もとても良い。
ただ、日付だけが悪い。最高に悪い。
「……無理」
ひとつ頷いてきっぱりと断じ、悦は依頼書を放りだして端末を握った。ILL独自のメッセージアプリを開いて、鬼利に宛てて一言、『パス』と打つ。
ぺよんと気の抜けた音を立ててメッセージが送信されてしまえばそれっきり、依頼への興味も関心も消え失せて、悦は真っ黒な瓶と3枚の紙を持ってバスルームに向かった。適当に千切った依頼書と封筒をトイレに落として、上から真っ黒に変色した瓶の中身をぶち撒け、ノブを捻る。
ざああ、と生まれた小さな渦巻きの中に紙の破片が残らず飲み込まれたのを確認して、切り替えの早い悦が最終日を何時間延長するかに思いを馳せながらバスルームを出ると、図ったように端末が鳴った。
ローテーブルに乗せたままの画面を上から覗き込んで見れば、死人に口なしの精神でセキュリティも秘匿性も無い端末の画面に、「鬼利」と表示されている。零級を使い倒すくらいに忙しいだろうにいきなり通信とは、悦が依頼を断るよりも珍しい。
「……もしもし?」
『あぁ、悦』
もしかして断れないヤツか、と眉を顰めたまま、ここに来て調教プレイからただのぶっ通しセックスに軌道修正するのは勿体無くてめっちゃ嫌だな、という思いを隠さず声音に乗せた悦を、端末越しの鬼利は何故か安堵したように呼んだ。
『自我も喉も無事なようで何よりだよ。端末を触る自由はあるみたいだね』
「……傑に仕事入れたのお前だろ」
聞くまでもなく安堵の理由を説明してくれる鬼利に、つい拗ねたような声が出る。傑は悦の根本たる自我を侵すような真似はしないし、喉が潰れるくらい鳴かせ喘がせるつもりの時はきちんと口枷を嵌めて枯れる程度で収めるし、本気を出しても5分未満で戻れない時は拘束して放置することも無い。
しかし前2つはともかく、最後については可能性はあった。鬼利が傑に面倒な仕事を回してマッハ3で飛ばさなければ、ずるずる床をのたうつリードはベッドの足に括られていたかもしれない。お陰で、折角佳境の調教プレイが中途半端だ。
「ここんとこずっと遠出じゃねーか。見せしめの罰だって言ってたのに」
『全く困りものだよ。こちらが提示する常識的なルートを全て無視して、必ずその日の内に君の元に戻ろうとするんだ。お陰で隠蔽と調停の各部長が残業続きだよ』
「ざんぎょうって、ヤク無しで目がキマってくやつだっけ?」
『その残業だよ。僕も手が離せない仕事が多くて引き取れないんだ。是非、君からもあの化け物に言っておいてくれると助かるよ』
「なんて?」
『無茶をするなと。君の言葉なら聞く耳も持つだろう』
「ん……言っては、みるけど」
ちょっと文句を言ってやろうとしていた矛先を完全に逸らされ、逆に傑への文句を言われる形になったが、鬼利でも手綱を握りきれない男が悦の言葉だけは聞くと言われては、正直悪い気はしない。
優越感にさわりと波打った首筋を撫でながら頷くと、端末は柔らかいのに感情の読めない声で『頼んだよ』と、合理的な判断に裏打ちされた信頼の言葉を紡いだ。
『それで、依頼の話だけど』
「あ、あぁ、うん」
つい流れで通話を切ろうとしていた手を慌てて止めて、悦はちらと背後のバスルームを振り返る。未練もなく流してしまった依頼書は、今頃はもう下水の中だ。
「断れないヤツだった?」
『いや、それは大丈夫だよ。指名でも無いし、いくらでも他に回せる依頼だから』
「よかった……」
『ただ、理由は要る。何故断るのか、どの条件が気に入らないのか、何が出来ないのか。次の依頼を斡旋する時の指標になるからね』
「そうなんだ」
意外と全うに賞金首ごときの事を考えてくれているんだな、と関心しながら、悦はリードを背後に雑に投げてソファに腰を下ろした。
「日付けだけ。他は全部大丈夫。あと2日後ろに動かせるなら受けたい」
『どこかを痛めたの?』
「そーじゃねぇけど」
三日三晩抱き潰されたって半日も寝れば悦は全快だ。そのくらいでどこかをヤるようなヤワな体と下手な受け方はしていない。
『なら、何故あと2日が欲しいの?』
何故って、そんなのは簡単な話だ。
「その日は傑とぐっちゃぐちゃにヤるから」
今日と明日の調教を愉しんで、日付けが10日目に切り替わった瞬間から悦は最高のセックスを始めるつもりだった。殆どベッドから出ず傑からも離れずヤり続けて、1日延長してもうちょっとヤって、2日目は傑を抱き枕にぐっすり眠る、のが今のところの悦の理想プランだ。
だからいくら報酬も含めて条件のいい依頼でも、指定日がそれなら受けられない。そうきっぱり断じた悦に、鬼利は珍しく沈黙を返した。
たっぷり5秒の、重い沈黙だった。
『……まだ』
沈黙を破った鬼利の声はいつものように静かだったが、今回ばかりは悦でもその声音に含まれた感情が読み取れる。
『まだ、するの?』
呆れだ。
相方の方に仕事が挟まっているとはいえ8日間も部屋に籠もって、それでもまだ”ぐっちゃぐちゃ”と形容される程のセックスをするつもりなのかこの色情狂共は、どういう精力と神経だ、繁殖の為だけに土から出て死ぬ虫だってお前達よりは慎みを知っているだろうに、という深い深い呆れが鬼利の声音にはありありと含まれていた。
「……はぁ?」
しかし、今の悦は昨夜の余韻を引きずってやや頭がぽーっとした状態だったので、自分の発言の爆弾具合には気づかず寧ろ喧嘩腰で応じる。
まだってどういうことだ。まだもなにもヤってねぇし、リードだってお前が傑に遠出を回すからぴかぴかの床を擦るだけのお飾りでロクに陶酔にも浸れてねぇんだぞこっちは、と片眉を上げて端末にガンをつけた所で、軽く息を吐いた鬼利が取りなすようにパソコンのキーを弾いた。
『今のは愚問だったね、悪かったよ。4日後ろにずらすから、それならどうかな?』
「……それなら、行くけど」
『助かるよ。後で新しい1枚目を届けさせる』
「あ、さっきの受けないと思ってもう捨てた。2枚目読んでない」
『自己擁護と正当化の羅列だからそれはいい。依頼人が何故そうするのか、に興味がある?』
「ない」
『気が合うね。3枚目は口頭で伝えるから、前日までに僕の所に顔を出して』
「わかった」
『それじゃあ、また6日後に』
「うん」
大抵の場合は正しい鬼利に真正面から謝られるのはレアだな、魔王なんて呼ばれてる癖に意外と機嫌を取るのが上手いのは弟が居るお陰なんだろうな、と考えている内に恙無く要件を終えて切られた端末を下ろし、悦はソファの上に両足を引き上げる。
そのまま傑の定位置の方向に体を倒そうとして、ふと首に僅かな引っ掛かりを感じてそちらに目を向けた。カウチの方に投げていたリードの半ばが、背中との間に少しだけ挟まっている。体重は殆ど乗っておらず合皮との摩擦で引っ掛かっていただけだったので、わざわざ手で引き出すまでもなく、軽く頭を振るだけで首輪に掛かっていた力は無くなった。
……つまんねぇの。
ふん、と鼻を鳴らして、改めてぼすりとソファに倒れ込む。
いっそ自分で適当な所に繋いでみようかとも思ったが、ロールプレイにしたってあまりに馬鹿らしいし、そもそも全く興奮出来る気がしなかったので、悦は手繰り寄せた持ち手をすぐに床に放り出した。
「……」
繋がれるのも、ベッドの外で縛り付けられるのも嫌いだ。昔の名残で今も皮膚の下に仕込んでいる針金で大抵の物理鍵は開けられるし、縄抜けなんて得意技と言っていい。いくらでも自分で外せる首輪にもリードにも、それが誰が嵌めたものであろうとも、悦の何かを制限することは到底出来ない。
でも、繋ぐのは悪くない。
どこにも繋がれずだらだら後ろをついて来るだけの邪魔なリードがある限り、それを悦に掛けた男は床に落ちた持ち手を拾って掴む為に、首輪を付けて自室に囲った悦の元に必ず帰ってくる。死なない化け物は何があっても必ず。
「……ふふっ」
縛られているのは悦だが、そのお陰で傑もまた悦に縛られている。すでに自分のものとしたお誂え向きの化け物をそれでも尚縛り付けて繋いでやるのは、なんだかとてつもない優越感だった。引かない余韻にぽーっとしていた頭が更に浮ついて、ふやふやと笑いながら悦は首輪から伸びたリードをきゅっと両手で握りしめる。
「枯れるまで絞り取ってやる……」
艶を含んで無防備な笑みとは裏腹に物騒な声音で呟いて、シャツの下にもスウェットの中にも手を突っ込むことなく、ただきゅっとリードを握って、悦はいつも傑が座るソファの右端で丸くなった。
「今日は俺、触んねぇから。自分でシて見せて」
「……え?」
くん、と指示入れに軽く引かれた首輪に従ってベッドに上がり、肩を抱く腕に促されるままにヘッドボードに立て掛けられた3つ重ねのクッションにぽすりと凭れて、リードの持ち手を通した腕を引き寄せようとした所でそんな事を言われたので、悦は既に期待に潤んでいた瑠璃色を瞬かせる。
―――着て行ったシャツではなく明るいグレーのタートルネックセーターを着て、”空”で最近人気のピザの紙箱を手土産に、傑は7時過ぎに帰って来た。
ちょっと裂けたり風穴が開いた程度では気にしない純血種が着替えたということは、着ていたものがボロ布以下になったということで、それはもう地獄のように厄介な仕事だったに違いないのに、出迎えた悦にただいまと言った顔にも声にも疲労のひの字も無かった。ソファでうにゃうにゃしている内に傑の足音を聞き取って、待ち切れずにリビングからひょこりと顔を覗かせておかえりを言った悦への、甘い愛情しか無かった。
返り血ひとつ、傷跡ひとつ、持ち帰らずに、結局いつもより深い余韻が抜けきらずにキッチンにも立たなかった悦の状態を解っていて、今度食べたいと言っていた夕飯だけを持ち帰った。
この段階でゲージは半分を突破した。
直ぐにでもリードを首に引っ掛けて寝室に引き摺りたいのを堪えて、ソファに並んでピザを食べた。食べながら、よりにもよってタートルネックを着る羽目になった理由を聞いた。食べる度に、話す度に、柔らかそうな襟首からちらちら覗く喉仏があまりにエロくて半ギレで聞いた。
みょーんとよく伸びるチーズを口で受け止めるようにして食べながら、傑は可哀想なシャツとジーンズに起こった悲劇を面白おかしく話してくれた。劇薬の飛沫を浴びて哀れにもジーンズと革靴がまとめて溶け崩れた話に、その中身であった傑の足についての言及は無い。焼けて溶けても治るし、そんな痛みはちょっと擦りむいたくらいの感覚だから、傑にとってはわざわざ話すような事では無いのだ。その癖に、傑は悦が半分に折りたたんだピザを大きく齧ると、首輪が苦しくないかと聞いてきた。食べ終わるまで3回くらい聞かれたし、平気だと5回は言ったのに結局緩められた。
留守にした埋め合わせを兼ねていると思えば気遣いがいつも以上に甘く感じて、ゲージはもう残り僅かな所まで来ていた。
食休みに傑が現地で撮ってきた写真を、綺麗なものから豪華なものから面白いものまでいくつも見た。このいかにも血税やお布施を注ぎ込んだ立派で荘厳な建物が、数秒でこう、と面白い瓦礫になるビフォーアフターが悦のツボに嵌まったので、その手法で傑は大いに悦を笑わせてくれた。
この美味そうな屋台飯と同じメニューを出す店が皇都の外れにあるから、今度行ってみよう。乗り込んだ軍部の極秘ラボで撮られた写真の中に、便利そうな仕掛けのナイフがあったから、今度馴染の調達屋に横流せないか交渉してみよう。当たり前の顔で謹慎明けの話をする傑に、自棄になって全部乗せたみたいなナリだけど美味いのかそれとか、この突起が筋や健をブチ切るのに便利そうとか、可愛くない返事を悦も当たり前にした。
未来の話をしたのに何一つ不安に思わなかったな、と後から気付いた時に、ついにゲージは限界点を突破した。
なんでもいいからとにかく傑に触られたいゲージ、が頂点に達した悦は、しなだれるようにその肩に凭れながら傑の耳元でベッド行こう、と囁いた。悦の腹具合を気にしているのか、んー、と煮えきらない返事で少し焦らされたが、手遊びに指先でくるくる回していたリードの持ち手を差し出すと、傑は愛おしさと優しさと色気をありったけ煮詰めて結晶化したような顔で笑って悦ごとソファから立ち上がった。
横抱きにされた足をぱたぱた揺らして、ずんずんでもどすどすでもなくすたすた歩く盤石な首筋に頬ずりして、けしからんエロさで理性を削ってくれた喉仏に甘く噛み付いて、仕返しに脇腹をくすぐられて悲鳴と笑いの混じった声を上げたりしながら、願い通りに寝室に運ばれて、傑がベッドを今日の趣向にふさわしい形にセッティングするのをいい子に待って。
―――そして、早く好きな所を好きなだけ好きなように作り変えて、と体中を期待に沸き立たせていた悦に傑が言ったのが、先の台詞だった。
「……傑が居るのに?」
思わず不満げに寄った眉間にちゅ、とキスを落とした傑がすげなく悦の手から抜け出して、体半分シーツの上を遠ざかっていく。
「見てる役が居なくなるからな。どこでも好きに触っていいから」
「……そういう調教?」
「ってよりは、お披露目」
披露もなにも、仕上げたのも傑なら観客も傑1人だ。高まった期待を袖にされたようでますます眉間に皺を寄せる悦を、傑はそんなぶすくれた顔も可愛くて堪らないという表情と瞳で、上から下までゆっくりと視線で撫で下ろす。
「前と後ろで1回ずつイけたら、止めてもいいし続けてもいい。でも”今日”は俺は触らない」
「……」
「縛るわけにもいかねぇから、嫌だってンならそれでもいいぜ?」
「……」
「そっちのルートだと明日まで全部お預けになるけどな。寝れそうか?」
「……っ」
「だよなァ」
首を横に振る代わりにきっと睨めば、立てた片膝に頬杖を突いてあからさまに傍観の構えを取った傑が、くつくつと喉奥で愉しそうに笑った。リードの持ち手はその手首に通されたまま、ただ長い革帯をだらりと床に零している。
腰の奥に響く低音にシーツを握りながらも、乾く気配もない瑠璃色で反抗を続けていると、ふと傑が視線を落とした。クッションが並べられる間にきちんと相応しい格好になっていた悦の、与えられねだったもの以外は何も身につけていない体を、今度はきゅっと丸めた爪先から、下から上になぞっていく。
いたぶるような緩慢さで肌を撫できった藍色が再び悦と目を合わせ、こてりと左に傾けられた。
「やりたくない?」
「……っや……」
反射的に口をついて出た声にも、絡め取られてしまった目にも、もう反抗を演じるだけの力なんて入らない。
結局はこうなる。リードを引き絞られなくても、小さな鍵の存在をちらつかせることすらされなくても、抗いようのない強制力で命令されなくても、一週間以上をかけて謹慎にかこつけた調教を受けていなかったとしても。
結局は焦げそうな熱を孕んだ藍色に見られるだけで、選択肢なんて無くなる。
「……やる」
いくら飽きるほどオナニーショーを披露して来た悦でも、キスだけは1人ではどうしようもないので、代わりに自分の指を舐めた。
「は……ふ、ぁっ……」
人間なんかとは桁が2つも3つも違う純血種の自制心を崩すのは容易では無いが、傑は本来の性質を捻じ曲げて悦だけの死なない化け物になる程度には悦を愛しているので、勝算はゼロじゃない。理性で手を出さないと言うのなら本能に出させるまでだ。
わざと水音を立てるようにして自分の指で自分の舌を弄び、漏れる声は抑えず飲み込まず、もう片方の手を体の側面を撫でながら上げて、鎖骨をくすぐってから胸に下ろす。
呆れるくらいバリエーションが豊かな男だから決まり切ったパターンは無くても、悦だって伊達に抱かれているわけではないからやりそうな事くらいは解る。あの手この手で甚振られた乳首は悦自身の手が近づくだけでも奥の方がじん、となって期待に色づくが、勝手に食べ頃だからっていきなり食い付くようなことは傑はしない。悦の予想を裏切るために偶にはするけど、それはレアケースだ。殆どの場合、もう食べ頃のそれが芯まで熟れるように自分で手を掛けたがる。
谷間に伝うほど指を濡らしながら、悦はぴりぴりと粟立つ肌を撫で下ろして、わざと乳首に触れないようにしながらむにゅりと自分の胸を揉み込んだ。
「ん……っ」
傑の手つきを真似ているのに、傑に触られた時のようなぞわっと皮膚の一枚奥が波打つような心地よさは無い。ツボでもあるのかと指の角度を変えたり強弱を変えたりしてみるが、指圧されるだけで乳首がじんじんうずうずして足が跳ねるような都合の良いツボなんてある筈もなく、焦れったい感じはあるものの、どうにも温かった。
いつも傑はどうやって揉んでたっけ、と集中する為に閉じていた瞼を開くと、ばちりと正面にいる藍色と目が合う。
「……それ、俺の真似?」
指を咥えたままこくりと頷けば、はは、と傑は乾いた声で笑った。
「可愛すぎてキレそう」
「……んぅ」
是非ともキレて欲しい、主に理性とかが。と願いながらも恥じらうように伏し目がちに視線をシーツに落として、その一言でもう我慢できないくらいじんじんして来た乳首に、そっと指先で触れる。
「あっ、はぁ……!」
どういう仕上がりなのか知らないから本当にそっと、掠めるくらいの感覚で撫でただけなのに、あんまり気持ちよくて思わず悦は指を吐き出してしまった。見た目は変わっていないのに、巧みな傑の手じゃなくて雑な悦自身の手なのに、神経をそっくり取り替えられたようにまるで感覚が違う。ビリビリくる。
軽く撫でただけでこれなら、押し潰したり引っ掻いたりしたら、どれだけ。
「っ……んんぅ……!」
考えた次の瞬間には指の腹で押し潰していた小さな突起から、じわじわと温いながらも溜められていた甘い快感がとぷんと溢れて背が撓った。魅せる為のパフォーマンスなんて関係なく、自然と差し出すような形になった調教済みのそこを更にくにくにと捏ねると、胸と腰がきゅうっとして、上半身だけには留まらず下半身までうずうずして、誘う為に開いていた膝に自然と力が入って内に寄る。
「雑に引っ掻くなよ、皮膚薄くなってるから」
「はあ、ぁっ……ぅ、んん……っ」
次にどうするか、を当然のように読んでいる傑の声に頷いて、先端にそっと爪先を宛てがい、かり、とごく軽く引っ掻いてみると、ぎゅうっと引き寄せていた両足から力が抜けた。ぞくっと指先まで戦慄くくらい気持ちいい。なのに表面だけの刺激は芯に伝わらないから、胸も下腹も信じられないくらい疼く。
疼くからまた引っ掻いて、震える指でいくら拙くかりかり引っ掻いてみてももどかしさが増すばかりで、今更ながらに傑が「お披露目」だと言った意味を理解しながら、悦は濡れた手をシーツに伸ばした。
快感が際限なく貯まるばかりで発散出来ない乳首をきゅ、と爪を立てないように押し潰しながら、クッションの隣に置かれていた小さな鍵を握る。片手ではへし折る未来しか見えなかったので、下腹につきそうに勃ったモノに絡む貞操帯のちゃちな南京錠を両手で外した。
「ん、……うん……?……あ、ぁっ」
「……ふ、」
傑がしたように根本に巻き付いた輪を外そうとして、そう言えば色々とそれどころでは無くてちゃんと見たことが無かったので外し方が解らず、まあイければいいかと鎖の通ったブジーを引っ張る。
潔く諦めた悦を見て、頬杖をついていた手で口元を覆った傑が堪えきれなかったように笑っていたが、正直悦はそれどころでは無かった。隙間から滲んだ雫で濡れたブジーは滑るし、傷つけないようにゆっくり抜いているから焦れったさに腰が跳ねそうになるし、半端に弄って放りだした乳首はじんじんするし、早くイきたい。
傑に焦らされている時はその後への期待を潤沢に持てるが、待っているのが期待を上回りも裏切りようもない悦自身の手では愉しみようが無い。先端までをちゅぷん、と抜き取って早々に鎖が繋がったままのブジーを放り、塞き止められていたもので濡れた先端を握る。
「んくっ、ぅ……はぁあ……っ」
びっくりするくらい溢れる先走りを潤滑油に掌でぐちゅ、と擦ってすぐに、これ無理だ、とまた潔く悟った悦は即座に亀頭責めを諦めてサオを扱き上げた。セルフで潮でも吹いて見せれば少しは傑の理性を揺さぶれるかと思ったけど、自分の手ではとてもそこまで出来る気がしない。どこぞの純血種とは違って悦のそこは感度がいいのだ。主にどこぞの化け物のお陰で。
「あ、はっ……ぁ、あ、んあっ」
4日目の傑の手つきを思い出しながら裏筋を扱き、カリを指の輪に通して擦りたてれば、反っていた背が今度は自然と丸まってくる。どくどくと血と熱が集まった腰が重くなって、ぞくぞくと背筋が震えて、自然ともう片方の手がさっきは触らなかった方の乳首に触れていた。
どこに注ぐわけでなくても射精するのも仕事の内だったから、別に扱くだけでもイけるけど、なんだかそれでは物足りなくて。こんな所まで調教済みか、と少し可笑しくなりながら、根本から先まで強く擦るのと同時に指の間にきゅうっと乳首を押し潰す。
「はっ、ぁ、……あぁああっ……!」
ローション代わりに使うつもりの精液を掌に受け止めて、はぁっ、と息を吐きながら悦は俯けていた顔を上げた。
変わらず正面に座っている傑を自然と見上げた瞬間、吐き出そうとしていた息がひゅ、と喉で止まる。
傑はもう笑っていなかった。
口元を片手で覆ったまま、その手を下ろすことすら忘れているようなどろどろに煮立った目で、ただ悦を見ている。興奮に息を荒げることもシーツを握りしめることもなく、ゆったりとリラックスしているような姿勢なのに、今にも喰い付かれそうな瞳だった。
「……あ、」
「……」
跳ね上がった心拍数に声を漏らした悦を見たまま、緩慢に瞬いた藍色が、無言のままゆるりと細められる。
「……ぁは、ははっ」
その内に孕んだ灼熱を移されて下がりかけていた体温がガンと上がり、悦は思わずどろりと蕩けた笑い声を上げた。念入りに重ねられたクッションに背中を埋めて、品性も恥じらいも演出も蹴っ飛ばして膝立てた両足をシーツから浮かせる。
あぁ、なんだ。そうか。
傑だって、欲しいのか。
そりゃあそうだ。そうじゃなきゃ困る。くすくすと淫蕩に笑いながら、悦は指に伝わせた白濁を藍色の眼前に晒した奥にぬちゅりと塗りつける。重なったクッションを背中と頭で調整して首の角度を固定し、口元と表情を隠したままの傑の手を見ながら、その動きを真似てゆっくり中指を埋め込んだ。
いくら手を出して貰えないとはいえ、本当に自分の手だけでスる事は無かったのだ。悦にとって極上のオカズは眼の前にいる。
「は、は……すご、あっつ、ぃ」
準備の為に毎日触れていたのとは別の場所みたいだ。熱くて、傑より短くて鈍い指に多少不満そうながらもきゅうっと締め付けてはうねって、慎重に滑りを広げようとするのにもお構いなしに引き込んでくる。
いつもこんな風に傑の指やモノを、引き込んで締め付けて絞り上げて、絶対に悦より先にイこうとはしない男を散々苛めてやっているのだと思うと、頭が甘く痺れた。淫乱は中だろうが外だろうが一度や二度の絶頂では到底満足しないから、その苦労も一入だろう。
いつも傑には一方的に責められ苛められるばかりで、それが何より悦を気持ちよく溺れさせてくれているが、そう考えるとなんだか眼の前の全方位隙なく格好いい男が可愛くも見えてくる。とても可愛い、なんて表現が当て嵌まりそうにない獰猛な目つきも、やっと手が外された口元に刷かれた雄そのものの妖しい微笑も含めて。
「ふっ、ぅん、ん……ぅあっ」
ある程度馴染んだ所で根本まで埋めた指を腹側に押し当て、ゆっくり撫で下ろしていけば、他の粘膜よりも少し張った感触と共に骨盤が溶けそうな快感が背骨を真っ直ぐに突き抜ける。一昨日と昨日に道具と傑の手で苛められた名残か、少しふっくらした前立腺を、悦は第二関節を曲げてゆっくり押し上げた。
「あぁぁっ……!」
仰け反ろうとする顎と閉じそうになる瞼を意思の力で押し留めて、輪郭さえ美しい頬を支えた傑の手を見続ける。押し上げたまま形をなぞるように撫でるのも、びくびくと悦びに震えるのに合わせてくにゅくにゅと揉むのも、とんとんと優しいのに体中に響くように叩くのも、全部傑のやり方を真似た。
快感に思考を溶かされるのに従ってきゅうっと締め付けが強くなり、動かし難かったので指を2本に増やした。それぞれを別々に動かすなんて器用な真似は出来ないから、両方を一番好きな角度に曲げて、爪を立てないようにこりこりとしこりを揉む。視界が滲むくらいに気持ちいい。
気持ちいいのに。
「ぁ、あっ、あ……んぁあっ、あ、ぅう……!」
傑の手だったら30秒でイかされるやり方を倍以上続けても、痺れを切らして強めにぐりぐりと押し上げても、”気持ちいい”の先に行けず、悦は悩ましげに眉を顰めた。
腰はシーツに擦り付けるように勝手に揺れているし、指だってもう意識しなくても自然と動いているような状態なのに、さっぱりイける気がしない。確かに気持ちいいのに、これじゃない感が凄まじい。
「はぅ、うっ……うぅーーっ……!」
「雑いな、おい」
自棄になってぐちゅぐちゅ音を立てながら乱暴に掻き回すと、頬杖から顔を上げた傑が眉を顰めた。
「そんな適当にやるなって、散るだけでヨくねぇだろ」
「だ、って……なんか、たり、ないからぁ……っ」
「他のトコも弄れば?」
「ぅ、うんっ……ぁ、い゛っ……!」
「だから雑いっての。なに、焦らしてる?」
言われるがままにただぎゅっと潰した乳首に少し爪を立ててしまい、気持ちいいよりも痛みが勝って体を強張らせながらも、悦は呆れたような傑の声にぶんぶんと首を横に降った。
焦らしてなんかいない。調教された乳首はちょっと触っただけで腰までびりびり電気が走るようで、その快感に晒されながらだと力加減が上手く出来ないだけだ。そっちの刺激に上手く合わせられないのは、そもそも気持ちよくて感覚が鈍る以前に、上と下、右手と左手で全く別種の責め方を真似出来るほど悦は器用じゃないからだ。
それらを吹き飛ばすくらい破壊力抜群なオカズも眼の前にあるけど、そんなモノを見たら自分の手しか使えない不満が頂点になってますます絶頂が遠のくに決まってる。悦がいくら即イキ体質の元玄人とはいえ、本来ドライは前提条件が多いのだ。
「い、けな…っ……傑、こっち……もっとこっち、きて」
「今日は俺は触んねぇって」
「わか、ってる……そば、にいて……っ」
気持ちいいのにイけないの、辛い。
目尻に溜めていた涙をぽろりと頬に伝わせ、くちゅ、ぷちゅ、と卑猥な水音と共に震える割には跳ねない足を広げてスペースを作ると、傑は盛大に溜息をついて、座り込んでいたシーツから腰を上げた。
「……まぁ、ベタ慣れの甘えたに躾けたのも俺だしな」
「…ぁ……!」
膝立ちだろうがお構いなしに大きなストライドで距離を詰めた傑が、せっかく作って招待した指定席には座らず、どん、と悦の頭上のヘッドボードに片手を突く。
「ほら、来たぜ」
これでイけそうか?と言う傑の声は低かった。頭を打たないよう重ねられたクッションに凭れている悦のほぼ真上、体温を感じるくらい近く、その腕と気配の中に囲い込むようにした首筋が、暖色の間接照明に微かに光って見える。
雫にはなっていないけど、確かに濡れている。
「……キスしてくれないと無理」
傑の比ではないくらい全身を汗に光らせながら、悦はクッションに埋めていた頭を上げた。すい、と迫った分だけ逃げられるのは想定内だ。深追いはしない。
「口と、舌だけ」
「……」
「……手じゃない……」
手じゃない、から。
ハキハキとしていた口調をおもねるように弱らせて見せれば、傑はヘッドボードに突いたままの自分の右腕に額を押し当てるようにして顔を反らした。
「……っとに、誘い方だけは……」
口の中で唸るような声は小さい上に低過ぎて断片しか聞き取れず、なんて?と聞き返す為に上げた悦の視界に影が落ちる。
「……んんっ!?」
丁度半端に開けていた口にするりと舌が差し込まれ、ノックも無しにいきなり突っ込まれたことよりも、くちゅりと絡んだ舌の熱さの方に、悦はびくりと肩を跳ねさせた。
確かにヤバい目つきしてたけどこんなにか、と目を丸くしていられたのはほんの一瞬のことで、跳ねた肩に引きずられて抉った前立腺からぞわっと重苦しいまでの快感が背骨を駆ける。いくら手を変えても上っ面を滑るばかりだったさっきまでとは明らかに違う、芯に響く快感だった。
「んぁ、あっ……ふっ……ぅん、ン……っ!」
喉を晒して喘いだ拍子に離れた距離を詰められ、深く舌を絡められながら嬌声を丸ごと飲み込まれる。は、と角度を変える為に注がれた吐息を、悦も懸命に喉を鳴らして飲み込んだ。
焦点が合わずにぼやける藍色を、それでも見上げ続けている悦にはもう、自分の末端に気を配っている余裕は無い。入れたままの指の動きは一層拙いものになり、惰性のように僅かに曲げ伸ばしをしているだけの有様だったが、”本業”を思い出したように甘え、ねだり、絡みつく粘膜のお陰でぞくぞくと背筋を駆け上がるものは深さを増す一方だ。
掻き回すような激しさはないのに、一瞬たりとも離してはくれない舌と唇に愛されて頭の中が白く霞む。きゅうう、と締め付けられた指の感触に、あぁ、イきそう、と他人事のように思って、悦は空いた手で上半身が跳ね上がらないようにクッションの端を強く握った。
「んぅっ、はぅっ……んうぅううっ!」
藍色に滲んでいた視界が白く弾け、がくんと跳ね上がった腰がそのままシーツに蕩けて落ちるような快感が体中を浸す。酸素を求めて開いた唇を傑は塞がず、小波のような余韻が一通り過ぎるまで、震える舌を褒めそやすように愛し続けてくれた。
「……イけたか?」
くたりと力が抜けたのを見て取って顔を上げた傑が、互いの唾液に濡れた唇を舐めながら首を傾げて見せる。
「いけ、たぁ……」
「よかったな。もう一回?」
瞳の奥に飼い慣らした熱量とは裏腹に、どこまでも優しく頭の芯へ響く声に、悦はぼんやりしながらも首を横に振った。もういい、と呟くように答えて弛緩したナカから指を引き抜く。
外と中でそれぞれ一回ずつ。自他ともに認める淫乱には到底満足のいくものではないけれど、キスで補助して貰いながらのオナニーはもう十分だった。コスパが悪すぎるし、このまま曖昧な気怠さに浸っていればどうにか眠れる。
だから”今日”の分はこれでおしまいにして、早くその腕に包んで寝かしつけて欲しいと指先で控えめにシャツの裾を引いたのに、傑は片腕をヘッドボードに突いた微妙な距離感のまま、もう片方で頭を撫でるでも抱きしめるでもなく悦を見下ろす。
「なぁ、悦」
「ん……?」
「明後日の0時から始めて、24時間で足りると思うか?」
「……ん?」
流れが変わった。
「……最後の?」
「そう」
「足りない」
食い気味に答えれば、傑はだよなぁと頷きながらポケットから端末を取り出した。
背を伸ばして覗き込んだ画面は何のアプリを開くでもカメラを起動するでもなく、ただ待機画面に時刻だけを表示している。23時11分。
体内時計で正確に把握していた時刻をわざわざ確認して、サバを読むには8日目として残りすぎている時間に僅かに細められた藍色を見て、悦は傑が言わんとしていることを正確に察した。さしもの純血種もそろそろ限界で、でも折角2人で愉しんでいるプレイの体裁を気にしているのだ。
スカさず腐さず、遊びを遊びとしてちゃんと楽しむその心意気が好きだ、と思う。それと同時にどうにか宥めて誤魔化していた、既に限界突破していたゲージが一層強く理性を突き崩しにかかって来たので、悦は傑の手から取り上げた端末をサイドボードに放り投げた。
悦の端末は今日もリビングに置き去りだ。この寝室に正しい時間を確認出来るものは他にない。
「足りない」
自転周期など知ったことか、1日は23時間だ。視線だけを動かして端末の軌道を追ってから戻って来た藍色に目で訴えれば、心臓がんぎゅ、と異音を立てる顔で笑った傑が野暮な端末を無くした手で悦の首元に触れる。
すっかり存在を忘れていた首輪が少し肌に食い込みながら外され、温い革の代わりに頸動脈を包むように撫でる掌の熱さに、異音を立てたばかりの心臓が胸の奥できゅうと鳴く。当然ナカも締まった。
「……このまま寝ないで9日目、やっちゃう?」
冗談めかした口調の向こうで滾る瞳に魅入られながら、悦は冒頭と同じ言葉を迷いない滑舌でリピートした。
「やる」
Next.
8日目はオナニー。
他に教えてやるつもりは無いので、今日までいい子に我慢していた悦にだけ仕上がりをお披露目。
これからは祭りです。