極楽 下



 輝かんばかりに磨きあげた銃火器を、床に固定された頑丈な棚に製造元と設計日と飛距離と火力順に並べてしまうと、いよいよすることが無くなって、幽利は手入れ用具が詰まった木箱を抱えて錆びたデスクに突っ伏した。
 時計の針は今にも9を貫きそうだ。兄譲りの集中力で意識の外に追いやっていた秒針が、カウントダウンのようにかちかちと鳴っている。

「はァ……」

 気休めに吐いた溜息が喉を焼いていく。自覚した途端に溢れた唾液を、幽利は痛む喉を庇うようにゆっくりと飲み下した。

 一週間。

 この一週間、鬼利は毎日9時には自室に戻っていた。自身の労働時間を定時で括らず、必要なら真夜中でも商談に向かい、明日でもいい仕事をその日の内に片付けてしまう鬼利が。許容範囲内で手を抜くわけでも後回しにするわけでもなく、スケジュールを分どころか秒刻みに組み替えてそこに想定外を折り込み、全てが8時半には終わるようにしているのだ。用心深く用意された余剰の30分すら殆ど使っていない。
 また幽利が記憶でも失ったのかと下衆の勘繰りをしたゴシックが、監視カメラの映像を見て奇跡だなんだと騒いでいたが、全くその通りだ。大多数の人間にとっての奇跡は、鬼利の脳と喉を通るとただの現実に変わる。

 時計の針が9を貫くのを見ながら、幽利はぼんやりと手の中の木箱の木目を視線で辿った。

 鬼利はもう部屋についた頃だ。昨日までは出迎える幽利を優しく撫でてジャケットを脱ぎ、ネクタイを外しながら翌朝の為の書類を書斎に置いて、ネクタイを解きながら食事の準備に取り掛かっていた。そして手早く自分の分の食事を済ませて、その頃にようやく玄関からのろのろ戻って来た幽利に食事を与えながら、おおよそ午前2時までのスケジュールを立てる。他のことは何も考えずに、ただ幽利をどうやって愛するかだけを。


「……っふ……」

 思い出しただけでぞくりと腰が痺れて、幽利は投げ出していた腕をそろそろとデスクの下に潜らせた。分厚い作業着の上から下腹を撫でた手に、こつりと硬い革の感触が触れる。

 お気に入りの鋲打ちのついた貞操帯は、綺麗に洗われてバスルームで陰干しされていた。痛みを怖がらない体が裏筋を抉られても節操なく血を流し込む所為で、これでは壊死しかねないと、今朝とうとう鬼利に取り上げられてしまったのだ。
 代わりは着けて貰えたが、下着のような形状のそれは貞操帯と言うよりもプロテクターに近く、管理よりも健康を優先された所為でやはり鍵も無く、刺激を遮断する為の前立てまで簡単に外せてしまう。

 腰骨の上で締められたベルトをなぞり、分厚い革を爪で引っ掻いてみても、ぴったりと覆われた内側に伝わるのは微かな振動だけだ。そのことに心底安堵し、その倍の深さで理性を削られながら、幽利は意思の力で出来る限界まで狭めていた視界の制御を解いた。


 壁や天井の裏に這わされた配管を辿って、熾火のように燃える橙色は目隠しの下で無人の執務室を一瞥する。廊下に残った体温と特注のフレグランスをなぞって昇降機を登れば、やはり部屋には電気が点いていた。コトコトと幽利の為の食事が温まる音の振動を背景に、鬼利はダイニングテーブルで本を読んでいる。

「……は…ぁ」

 挿絵もなく紙を埋め尽くす活字は幽利には読めない言語だが、作者の名前だろう記号には見覚えがある。流石にこの距離では思考も読めないので内容は解らないが、最近の鬼利はあの名前が刻まれた本を好んで読んでいた。外れが少ないと、そう言っていたのに。頁を捲る繊細な指先は普段とは比較にもならないほど緩慢だ。


 硬質な橙色が紙の左側を見て、本を閉じる。頁はまだ三分の一も捲られていなかった。そんなに退屈だったのだろうか。驚くほど内心を映さない表情だけではやはり解らないが、これで読書を邪魔してしまう可能性は無くなった。銃の整備も備品の補充も点検も清掃もとっくに終えて、今の幽利にはもうデスクに伸びる以外にすることがない。帰らないと。

 鬼利の所に、帰らないといけないのに。

「んンっ」

 がり、と加減を忘れて立てた爪が剥がれかけ、幽利はもう片方の手で強く手首を握りしめた。立ち上がった鬼利がコンロの火を止めている。こんなことをしていても鬼利の手を煩わせるだけだ。だから早く帰らないといけないのに、脚が動かない。


 いつまで、と初日に聞いた幽利に、鬼利は一週間くらいだと答えた。今日がその7日目だが、今日がその日だという確証は無い。一週間と定めたのなら鬼利は「くらい」だなんて言わない。昨日までに切り上げていないのなら、それが答えだ。

 再びダイニングテーブルに戻った鬼利が、閉じられたままの本を撫でる。爪先まで整えられた綺麗な指。この一週間、鬼利はいつも以上にその手で幽利に触れてくれた。こうして見ているだけでお預けを食らった犬のように息が上がるのに、鮮明過ぎる記憶の所為で熱した端から冷えていく。憎悪に近い自己嫌悪が握った手首の骨を軋ませても、相変わらず脚は動かない。

 だって、きっと、今日も。

 いつもなら喜んで鬼利の前に全てを差し出せていた。現に昨日まではそれが出来ていた。ただ、流石に時間が長すぎた。
 鬼利の手で丁寧に削り落とされた幽利の理性は、既に被虐の陶酔で自分を騙すことも出来ないくらいにすり減っている。
 一思いに壊してくれればいいのにと、普段なら唾棄するような分不相応な願いを抱きながら、幽利は震える喉で細く息を吐いた。形を確かめるように本を撫でていた愛しく恐ろしい片割れが、無造作にそれをテーブルの端に押しやる。

 鬼利の視野は広いが、それでもその視界は常人のそれと変わらない。伏し目がちに本に落とされていた視線が、キッチンで冷えていく食事を見る。冷えた双眸はそのまま玄関の方向にある壁を見て、首を巡らせてリビングを、その壁に掛けられた時計の文字盤を少し目を細めて見たあと、天井を仰ぎ、


「っッ……!」


 溜息と共に瞬いた目を、切り離されたように思考を映さない橙色に映った表情を見た瞬間、幽利は椅子を蹴立てて武器庫を走り出た。










「……幽利?」

 訝しげな声に答えることなく、幽利は駆け込んだ勢いのままその足元に跪いた。
 屋根裏から見ていた時と同じ、見ているだけでも胸が潰れそうなあの目を驚きに見開いている愛しい片割れに、震える腕で縋り付く。

「鬼利、鬼利っ」
「……どうしたの、そんなに慌てて」

 落ち着き払った声にも、一度の瞬きで死んでしまいそうに優しく温もった瞳にも、幽利を責める気配は微塵も無い。そのことが一層心臓を強く軋ませて、幽利は毟るように目隠しを外した裸眼で鬼利を見上げた。

「ごめんなさい、鬼利、俺……俺、こわく、て」

 詰まる喉を掻き集めた意思の力でこじ開け、震える声で懺悔する。

「もう、仕事なんざ全部終わらせてンのに……っまた、イかせて貰えねェまま苛められンのが、今日も、昨日みたいにされるッて思ったら、こ、怖くて」
「……怖くて?」
「ご、ごめんなさい、鬼利、ごめんなさい」
「それはもう聞いた」

 ぎゅうと抱き着く幽利を爪先を軽く動かして容易く振り解き、鬼利は座ったまま椅子を後ろに引いて体ごと幽利に向き直る。

「続けて」
「つ…つづき……?」
「怖くて、そしてどうしたの」

 穴だらけになりそうな程鋭い視線に、こじ開けた筈の喉が張り付いた。声が出ずに咄嗟に喉に手をやった幽利に、秀麗な眉が僅かに顰められる。気怠げに頬杖をついたその顔に、昨日までの、そして数秒前の穏やかな微笑みはもう影も形も無い。

「……幽利」
「い゛っ……そ、そンで、俺、わ……わざと、こんな時間、まで」

 凍りつきそうな声と共に床についた手を踏み躙られ、漏れた悲鳴を突破口にして幽利は続きを絞り出した。踵に掛けられていた体重がふっと軽くなる。わざと。無感情に声と思考で繰り返しながら、鬼利は手摺に置いたままの手をパチンと鳴らした。
 慌てて背筋を正し、刻み込まれた躾の通りにその体に触れないぎりぎりまで近寄って差し出された幽利の頭を、男にしては節の目立たない、暴力とは無縁に見える綺麗な指がさらりと撫でる。

「つまり、お前は」


 つるりと滑らかな手からは想像もつかない程乱雑で、それでいて手慣れた動きで髪をわし掴んだ鬼利が、椅子から背を離して上向かせられた幽利の顔を見下ろす。冷めた双眸の底は凄まじい勢いで昨日までの記憶を引き出し続けており、裸の千里眼にも意図を読ませることは無い。


「僕から、逃げたんだね」


 平坦な声が突き付けた真実に、がくんと幽利の双眸から熾火が消えた。
 逃げた。そうだ、幽利は逃げた。怖くて、辛くて、苦しくて、逃げた。
 ほんの数分。だが紛れもない事実だ。確かに幽利は逃げた。
 全てを預けて全てを奪った、片割れから。

「ああ、それはいいんだよ。そんなに辛かった?」
「…ぁ……」
「そう。僕から逃げたくなるくらい、辛かったんだね」
「っ……!」

 逃げた。
 鬼利から、逃げた。

 零れそうに目を見開いてかひゅ、と喉を引きつらせる幽利の頭を、鬼利は自分が引き摺り上げて乱した髪を整えるように撫でる。存在の根幹を揺らがされた衝撃と絶望に震え、今にも自我を瓦解させそうな片割れの表情を余すことなく眺める双眸は、根深く底のない愛情に満ちていた。
 ああ。吐息のような声と共に、頬杖をついていた手が幽利の頬をすくい上げる。蒼白になった幽利とは対照的に暖かい指先が、今にも崩れようとしていた心を絡め取り、引き抜かれた楔を、もう一度打ち込む。

「幽利、いいんだよ。僕はその顔が見たかったんだから」


 底だと思われていた場所を貫いて、もっとずっと深いところまで。


「きり、おこって、ないの」
「怒ってないよ。幽利をこうしたのは僕なんだから」
「きり、が」
「そうだよ」

 そうだったんだ。
 そうだった。
 それなら。

「だから大丈夫だよ、幽利」

 そうか。

 焦点を結んだ瞳の底が熾火の色に燃え上がり、見上げた橙色と同じ色に溶けて崩れる。

 壊そうとしていたのか。
 鬼利が望んでいたのはこれか。
 なんだ。
 よかった。


「いい子にはご褒美をあげないとね。ほら、幽利?」

 見せて。
 空気を震わせずに届く声に促されて、幽利は引き千切るように作業着のジッパーを下ろした。どろりと瞳孔の溶けた双眸に鬼利だけを映したまま、鬼利の太腿に控えめに頭を預けて、冷えたつなぎを性急に脚から抜き取って放る。

「外して」

 熱を孕んで掠れた声が、まるで強請るように命じた。そっと頬を撫でながら顔を離されて、幽利は凡百の視界しか持たない鬼利にも見えるように、ベルトの穴をぎちぎちと歪ませながら貞操帯を外して後手に手を突く。履いていたスリッパを幽利の背後、リビングまで放った鬼利の足にすりと頬を寄せて、薄い靴下を口でゆっくりと剥ぎ取った。

 裸足の鬼利の足がついと動き、靴下を咥えたままの幽利の胸板を爪先で撫で下ろしていく。臍をつんと親指で突いて、そのまま、更に下に。

 性懲りもなく蘇る鮮明な生き地獄にも、幽利の頭も体ももう冷えることは無かった。今、こんな状態で寸止めにされたら今度こそ狂う確信があったが、それを鬼利が望むなら、鬼利がそうしたいと思ってそうしていたのなら、もう恐れることは何もなかった。
 そうだ。怖かったのは、恐れていたのは、鬼利の期待を裏切って予想外に壊れることだけだった。そうに決まっている。だって鬼利がそう言ったのだから。

 一番大事なものは今度こそ底を貫いた。揺るぎ無く打ち込まれたその楔が無事なら、外れる度にもっと深くまで貫いてくれるのなら、ふたりにとってそれ以上は無い。


「あう、ぅっ」

 腹につかんばかりに反り返ったモノの根本を爪先が捉え、ぴったりと足裏で覆うように踏み付けられる甘い疼痛に、咥えた靴下が落ちる。踵と床に先端を潰されるだけで目の前で火花が散って、幽利は咄嗟に下腹に力を入れてそれを堪えた。

「き、鬼利…ま、って、鬼利、ぃ…ッ」
「いいよ」
「ほ、んとにッ…も、がま、ん、でき…ぅあ、あッ」
「いいんだよ、イって」
「んぐっぅ、う……っで、でちま、ぅから、ぁっ」
「幽利」

 飲み下す余裕のない唾液を零しながら微かに首を振る幽利に、仕様のない弟だと苦笑した鬼利の背が、椅子から離れる。

「うるさい」
「あ゛ッ…―――!」

 ぎちりと捏ねるように体重を掛けながら踏み躙られた瞬間、眼の前が真っ白になった。
 鬼利の足下でそれがびくびくと震える度に、自然と丸まった背中を、待ち望んだ灼けるような快感が走り抜けていく。脊髄を駆け上がった波はそのままの勢いで頭蓋の内側で弾け、あっという間に幽利を前後不覚に陥らせた。ばちばちと残り火が弾ける視界の中、どろりと白濁に汚れた鬼利の足が寒気がする程にいやらしくて、折角収束した視野がくらりと揺れる。

「それはいいから」


 朦朧としながらも跳ねた精液を拭おうと持ち上げた幽利の腕を、手を伸ばした鬼利が掴んで引き寄せる。汚れたままの足が腰に回されて更に引き寄せられ、常に無い粗野な動作に目を白黒させる幽利の頭は、他でもないその鬼利の手によって、幽利の肩幅の分だけ開いた足の間に押しつけられた。
 スラックス越しに触れた熱に弾かれたように顔を上げた幽利を見下ろして、教養と知的さを具現化したような片割れが、下劣に卑猥に唇を舐める。

「咥えて」
「っは、はい……!」

 幽利に言えるのはもうそれだけだった。片方は掴まれたまま、もう片方は腰に回った足の下にある両手を使ってのお上品な奉仕を瞬時に切り捨て、スラックスに鼻先を埋めて舌先でチャックを探り当てる。ふ、と頭上で漏れた吐息に、一度達したことで幾らか冴えた視界には見えてしまう表情に、脳どころか全身の血が沸騰しそうだ。
 自分の目は勿論、痛みに鈍い鬼利の体さえ利用して舌と歯で引き出したモノの硬さに、ごくりと幽利の喉が鳴る。後頭部を捉えた手に促されるがまま、裏筋に沿えるように突き出した舌は、自分でもよくもまあこんなにと笑えるくらいに興奮で震えていた。

「はぁっ…はっ、…ん、ンむっ……!」
「喉、あけて」
「…ぉぶっ!」

 堪え性なく先端を含んだ途端、後ろ髪を引かれて角度を調節された口を喉まで貫かれて、一瞬目の前が暗転する。はぁ、と熱の篭った吐息は、間違えようもなく鬼利のものだ。みっちりと喉奥までを塞がれたまま、幽利は呆然と滲む視界のピントを、同じだけ久しぶりの快感に目を閉じている鬼利の表情にぴたりと合わせた。

「んん゛っ、ぐ、ぅッん、んぐぅっ」
「ははっ……凄い濡れ方」

 慌てて歯が当たらないように大きく開いた幽利の喉奥を犯しながら、ぼたぼたと椅子にできる水溜りを見た鬼利が愉しげに笑う。していることとは正反対に、年相応の無邪気さすら見え隠れするその笑顔にきゅううっと心臓の奥が締め付けられる気がして、幽利はがつがつと乱暴に上下させられている頭を更に一段深く下げた。
 ごぶ、がぼっ、と溺れるような音を立てる喉を無視して、鬼利の手の動きに合わせて気道の奥で鬼利のモノを締め付ける。鬼利の表情を捉えた視界の端で自身の血管を探り、意識を落として歯を立てない為だけに鋭く息を吸う幽利の意識からは、既に酸素を欲して喘ぐ自身の体の悲鳴など三千キロよりも彼方に追いやられていた。

「ごぼッ、が、ぉっ…んぶっぅぅ…!」
「んっ……」

 下生えに鼻先が埋まるまで飲み込んだままごくりと動かした喉が、小さく息を詰める声と共に内側から押し広げられる。直後に喉奥に流し込まれたものはどろりと濃く、幽利は血中の酸素濃度が許す限り、愛しい鬼利の一部を喉奥で柔らかく締め付け続けた。

「っぷぁ……はっ、は…」

 ブラックアウトの1秒前で顔を上げた幽利の唇を、千切れた髪を絡めたままの鬼利の手が優しく拭う。
 随分上手くなったね、喉を介さない賛辞にふにゃりと幸せそうに笑いながら、甘えるように指をしゃぶった唇で絡んだ髪を解き、喉奥から滲んだ血と共に床に吐き捨てる。邪魔なものは全部吐いて捨てたと、回りきらない酸素にかくりと頭を落としながらも鬼利を見上げるその瞳は、深い夕焼けの色に燃えたままだ。

「…き、ぃ……きり……」

 急激に流れ込んだ酸素に軋む体の悲鳴は、未だに戻らない。
 それすら都合がいいと笑って、幽利はぶるぶると震える指で靴下を履いたままの鬼利の足を撫でる。これも、ちょうだい。

 全部、お預けにされていた全部が欲しい。面倒だったらいっぺんにまとめてくれたって構わない。スペアになる為に在った体は毒に冒されていないから、本体よりもずっと丈夫だ。自我を失ったってこの目は鬼利のことを見続けるし、それしか能が無い記憶力は鬼利の名前だけは必ず忘れないから、それさえ残れば急拵えの内側なんて後はどうなったって構わない。
 一番脆いところはもう根本まで貫かれた後だから。だから。


「幽利、ベッドに行こうか」





 する、とスラックスの布が擦れる音を聞いて、幽利はぐったりとシーツに投げ出していた四肢を震わせた。

 感覚の失せた指先でシーツを握り、久しぶりのドライでの絶頂にぐずぐずになった下半身を引きずって、横臥していた体をなんとかうつ伏せる。余韻にびくびくと震えるばかりの足は全く使い物にならなかったので、膝裏に手を通して上半身全体で引っ張り上げた。

「駄目だよ。腕はそっちには曲がらない」
「うぁっ……あぁあ…!」

 同じようにもう片方の足も引き上げようとして、可動域を超えようとしていた肘を捕まれる。そのまま労るように肩までを撫でられてかくんと力が抜け、幽利はいやいやと首を横に振った。
 ちかちかと明滅する視界で俯瞰した自分の体は、片膝を抱え込んでぐたりと伏したまま、ローションと体液に塗れた腰すら上げられていない。こんな体勢じゃ鬼利に余計な手間を掛けさせてしまう。

「ま、っへ…きり、ぃ……ちゃ、と、する、からぁ…っ」
「わかったわかった……」


 ちゃんと挿れやすいようにするから、と呂律の回らない舌での懇願に溜息を吐き、鬼利は組み敷こうとしていた幽利の背中から一度離れた。途端に待って、ごめんなさい、と涙声を上げて追い縋ろうとする幽利の脇に腕を入れ、もうシーツも掴めなくなった体をごろりと仰向けに転がす。

「ほら、これでいいね」
「あ…ぁ……!」

 両脇に手をついて覆いかぶさった鬼利の顔を正面から見上げて、元から上気していた顔に更に血が集まる。きっと発情した雌犬より酷い有様になっていると熱さで解ったが、もう幽利には俯瞰の視界で自分の顔を確認している余裕など無かった。
 すっかり制御を外れた千里眼が、よく似た双子の兄の綺麗な顔を、その表皮から切り離された内側を節操なく暴き出す。
 最大で5つの並列思考と3層の記憶回路を備えた、凄惨な呪詛と悍ましい躾と常軌を逸した訓練によって成り立つ精密機械のような脳に映っているのは、今や幽利だけだ。

 幽利と、自らが名付けた片割れに際限なく注がれるものだけだった。


「か、ひゅッ……!」

 もう力などどこにも入らなかった筈の体が、がくんと跳ね上がって喉を晒す。呼吸が止まったのが瞬きの間すらなく頭蓋すら全身を浸したものの所為なのか、一息に根本まで穿たれたモノの所為なのか、もう幽利には判別が出来なかった。情報過多か快感か、きっとその両方の理由でショートした脳がバツン、バツン、と起動と強制終了を繰り返す。

「幽利、動き難い」
「あっ……ひ、ぐ…ッ」

 低い声と共に軽く頬を張られて、ピントも何もあったものじゃなかった視界がかちりと鬼利の顔を捉えた。滲みも歪みもせずに鮮明な橙色の瞳が、欲に塗れて光っている。

「息をして」
「は、はっ…ぁ、あ…っふ、うぅ…ッ」
「殺さない。焼き切れるよ」
「はぁあっ…ぁ、あ、あー…!」
「それでいい。上手だね」

 ぐわんぐわんとひしゃげる視界の中、綺麗な橙色がとろりと微笑んだ。こんな有様になっても自在に操られる多幸感にふわふわと浮き上がりかけた意識を、ずるりと粘膜を擦り上げられる快感がシーツの上に叩き落とす。
 ぎりぎりまで引き抜いて突き上げる、深い深いストローク。幽利を追い詰め泣かせる為ではなく、鬼利自身の快感の為の動きを数回体の奥で感じただけで、元々薄っぺらい幽利の正気はあっという間に千切れ飛んだ。開きっぱなしの口からあー、あー、と気狂いのような声を上げながら、第五肋骨の脇に置かれた鬼利の腕を掴む。

 冷え性な鬼利の手首が自分とそう変わらないほど暖かいという、ただそれだけでびくんと足を引き攣らせる幽利の手を、自重を一旦膝に預けた鬼利の手が絡め取って握り込む。鬼利は痛みに鈍感だ。関節の可動域を考慮して顔のすぐ横に押さえつけられた掌に、ぎしりと速さを増した律動の重みが掛かって骨が鳴る。

 このまま両腕を折ってくれればどれほど幸福だろうか。でも毒に冒された本体はスペアより虚弱だから、それは叶わない願いだった。傷を与えられるのは幽利で、痛みを感じない鬼利じゃない。最高幹部がペンを掌に括り付ける姿なんてとても許容出来ない。ああ、でも、それなら。


 ペンを握る予定が無くなった、後なら。


「んぁっ…き、……い、い……っ」
「……なに?」

 代謝の悪い白磁の肌に薄く汗を伝わせて、鬼利が幽利を見る。
 熾火を失った橙色は分け合った時そのままにそっくりで、きっと溶けて混じり合っても誰にも判別なんて出来ないだろう。

「これ、が、いい……っ」
「……さいご?」

 その奥底に燃え上がるものを持たなくても、鬼利はいつだって幽利の思考を容易く読み解いてくれる。だから、内も外も揺さぶられるのに忙しくて頷くことも出来ない幽利は、ただ片割れを見つめた。

 決定権は鬼利にある。
 だが、昔から、何時だって、請うのは幽利だった。

 ペンを握る必要が無くなった後には、ふたりのさいごはこれがいい、と強請る双子の弟に、双子の兄が小さく苦笑する。知らないあの子のおもちゃが欲しいと、他愛のない我が儘を聞かされたときのように。


「……善処するよ」


 皮膚を破りそうなほど指を絡めた鬼利の声は宥めすかすように甘くて、幽利はそれを聞いてとろりと瞳孔の溶けた目を細める。


 これで、お揃いだ。



 Fin.



幽利には鬼利の考えていることが見えていて、
鬼利には幽利の考えていることは見えていない。

short