極楽 中



「うわ、何だこれ」

 元から狭い通路を埋め尽くす銃の山に立ち止まった傑から、幽利は対化け物用の遠慮のない舌打ちをしつつ体ごと顔を背けた。

「帰れ」
「ひっでー声」

 いつもよりも更にワンオクターブ下げた声で唸るが、けらけらと笑う化け物は声質は解っても言葉の意味は解らないらしい。光らんばかりに磨き抜かれた銃に埋め尽くされた通路のかわりに空になった棚を足場にして、恐ろしい身の軽さでひょいと跳んだ長身が、すとんと銃の無い場所に―――幽利が胡座をかいて座っている1.5メートル四方のボロ布の端に、転がったグリースやブラシや部品や工具の合間を縫って着地する。

「どうしたんだよ、これ」
「……煩ェ、帰れ」
「また熱でも出してンのか?」

 逆手に握って振り下ろしたドライバーを柔な革靴の側面で軽く蹴り飛ばしてしゃがみ込み、仰け反りながらもう片方の手で振り上げたスパナをぴんと人差し指で弾き飛ばして、傑は上までジッパーを上げられた作業着の襟を掴んで立ち上がろうとした幽利を引き寄せた。
 両手は痺れているし力で敵う筈もない。せめてと思いっきり顔を背けた幽利の意思など全く意に介さず、美貌の化け物は腑抜けた口調に反して馬鹿みたいに真剣な目で、もう片方の手を幽利の首筋に当てた。

 ざわっ、と鳥肌が立つ。

「……あぁ、そういうこと」
「やめっ……!」

 途端に軽薄な笑みの形に細められた藍色と、咄嗟に口をついて出た掠れ声が最高に不愉快だ。どちらも今の精神状態では耐えられそうにないので、幽利は手っ取り早く鼓膜を潰し、あわよくばその奥にある脳味噌も引っ掻き回してやろうと、痺れた手で強引に錐のように細いマイナスドライバーを引っ掴む。
 無理な体勢の所為で分厚い作業着の生地をがりがりと引っ掻きながら振り上げられたそれを、傑は今度は避けず、代わりに脈を計るように添えていた手で幽利の首を掴んだ。一瞬の遅滞もなく滑らかに回された中指と親指は、気味が悪いほどに精確に頸動脈の上だ。

 落とされる。

 幽利が手に馴染んだドライバーを取り落としたのは、そんな生き物として真っ当な危機感からだった。
 そうであるべきだった。

「落ち着けって。別に獲って喰いやしね……」

 へらへらと不愉快な面で笑っていた傑が不意に真顔になり、不自然に言葉を途切れさせたと思ったら、今度は頬を掴んで強引に振り向かされた。なんでこいつの無駄でしかないお綺麗な面を正面から拝まなければならないんだと思うのに、体が動かない。いつもの調子で無責任に言い放たれた「落ち着け」という言葉が、頭の片隅でわんわんと反響している。

 おちつけ。

「……幽利、血の中探れ。何入れられた」
「はァ?」
「いいから。見ろ」

 馴れ馴れしく呼びやがった上にどんな無茶振りだ。こちとら少し目がいいだけの人間なのに。見ろ。

 見ろ。


 それでも掴まれた顔を強引に下向かされて、何の操作もしていないのにぴたりと目のピントが自身の血管の中に合うものだから、幽利は見た。少し脈は早いがいたって何時も通りだ。当然だ。
 いくらILLが多種多様な特技を持つ重犯罪者で溢れかえっているとはいえ、千里眼所有者に悟らせずに毒や薬を盛れる生き物など眼前の化け物以外には居やしない。もしかして挑発されているのだろうか。紙一枚透かし見れないお粗末な目の癖に生意気な。

「……なンも、ねェよ」
「殴られたか?」
「わかんねェ、って」

 生憎、目が良い幽利は頭が良くないのだ。双子の兄を相手にしている時のように、無駄どころか必要な所まで限界まで削ぎ落としたような会話にはついていけない。色ボケが加速してそんなことも解らなくなったのかと嘲笑ってやろうとした瞬間、舌打ちした傑は恐らく鬼利と幽利の外見上の一番の差異であろう目隠しを引きずり下ろした。

 千里眼は遺術の中でも希少価値も汎用性も高い能力らしいが、幽利の眼球と脳を侵すそれは、所詮人間如きでも耐えられる程度に性能を落とされた下位互換品だ。細胞や血はおろか遺伝子までも弄り尽くされた、人間の狂気の粋である純血種を捩じ伏せることなど出来る筈もなく、傑の思考は欠片たりとも読めた試しが無い。
 裸眼に剥かれて覗き込まれたってそれは変わらない。これは生き物としての絶対的な差異だ。そんなことは幽利以上に解っているだろうに、傑は瞬きもせずにその藍色に幽利の瞳を映し込んでいる。制御の効かない千里眼発動の合図である熾火のような揺らめきが、なんだか本物の熾火のように不安定に瞬いて見えた。


「何された」
「何、って」
「鬼利だろ。……ここまで外れかかってンだ、昨日今日じゃねぇな。今日で何日だ?」

 何のことだ。確かに元から色んな箍は外れている上に、今は武器庫中の銃を磨き上げてでもいないと座っても居られない程に理性の箍まで外れかかっているが、流石にこいつにだけは言われたくない。
 大体、鬼利が幽利に何をするかは鬼利の勝手だ。誰がお前なんかに。

「言え」

 言え。

 がつん、と頭を殴りつけられたような衝撃が目の奥を伝わり、視神経が結びついた脳の奥の視野中枢を揺さぶって、幽利はやっと状況の異常さを半分ばかり理解した。

 落ち着け。
 見ろ。
 言え。

 逆らえない。


「い、一週間イかせて貰えてなくッて、まっ……毎晩寸止めで、何……回も、気絶するまで、き……昨日も」


 口を閉じることは出来るが、舌が止まらない。結局絶対に言うまいとしていた事実を最後まで包み隠さず告白させられ、意味が解らないと思うし背骨に氷柱でも突っ込まれたかのような寒気を覚えるのに、不思議と思考は濁らない。
 落ち着けと言われたからだ。鬼利とは似ても似つかない、生き物として、巣食った遺術の序列が最高位であるというだけの傑に、落ち着けと言われたから。


「なんか薬使われたか?」
「いや。……あ、ローションなら」
「素面でここまで削ったのか。一週間で」

 はっ、と見たことのない顔で傑が笑う。幽利の前では特に、他と違って裸眼でも思考が読めないからと色々な感情を素直に映してくれていた、笑えるくらいにお人好しな藍色が。まるで別人のように凪いでいる。

「狂うぜ、普通は。お前も大概だな」

 何がだ。根の深さも業の深さもとっくに知っている筈だ。この期に及んで何を以て大概だと言っているんだこの化け物は。
 何を指して。
 何を。

 何を考えている。


「止めろ」


 困惑と苛立ちに任せてギリギリと音を立てて極限まで引き絞られた視界が、眩むような極彩色の中で見たことのないきざはしを超える瞬間。色味のない声と共に、ぱしりと紅蓮に燃え尽きようとしていた橙色を傑の片手が覆った。


「両目抉り出されたくなかったら、止めろ」

 幼子を相手にしているようにゆっくりと言い聞かせられて、バチンと視界が弾ける。音もなく凄まじい衝撃が後頭部の内側を揺らし、がくりと頭を垂れた幽利の体を、傑は片手で両目を覆ったまま自分の肩口に寄り掛からせた。咄嗟に抗おうとして、視界が飽和する片割れとすらも共有出来ない独自の感覚に、仕方なく力を抜く。

 八つ当たりにぐったりと体重を預けてみても、凭れた体はしゃがみ込んだ不安定な姿勢のまま小揺るぎもしなかった。当然だ。こんな目がいいだけの人間一匹、この化け物は軽々と支えた上に苦もなくすくいあげられる。
 別け隔てなく、そうと望めばその通りに、すくえるものはなんだって。


 ―――偉そうに。


 炎を上げずに燃え上がった激情に、ひたりと散大していた視界が収束する。

 偉そうに。誰がいつそんなことを頼んだ。

 序列なんぞ知ったことか。巣食って侵しているものを含めて幽利の全ては鬼利のものだ。必要だったものを抉り捨てて空いた虚は既に隙間なく埋まっている。幽利の何もかもを奪えるのは鬼利だけだ。それを幽利が許すのも、未来永劫鬼利だけだ。

「落ち着け、鬼利には何も言わねぇから。だからお前も忘れろ」

 落ち着け。
 忘れろ。

 流石に純血種様は気遣い上手でいらっしゃる。序列の頂点に立つ存在らしく尊大に命じればいいものを、わざわざ説得の体を繕って下さるとは。感無量のあまりに反吐が出そうだ。舌と声帯を切り刻んで食わせてやろうか。


「はッ……お優しいこって」


 虫唾が走るほど優しい声色に思わず笑えば、背中を預けた化け物が大袈裟に身動いだ。
 この期に及んで何を驚くことがあるのか、矢張り幽利には解らないしもう解りたいとも思わない。笑えるほど薄っぺらな仮面の下の、鬱陶しいだけの安堵と余計なお世話でしかない落胆など、例え思考を読めたって受け取る気はないからだ。つくづく笑える傲慢だ。

 お前は鬼利じゃない。
 あの冷酷で寛大で愛しく歪んだ脆弱な片割れとは似ても似つかない。ならば幽利が従ってやる必要性など一片たりとも無いことなど、自明の理の筈だ。この期に及んで何を驚く。

 大概だと、そう言ったのはお前だろうが。


「幽利?」
「悪ィな、救いようが無くて」

 心配そうに手を外して覗き込んでくる藍色が心底可笑しくて、幽利は肩を揺らして笑いながら、丁度良く手元に転がっていてくれた木製の柄を握り込んだ。
 こんなことがある度に、きらきらとした蜘蛛の糸を垂らされていては目障りで仕方ない。そして途方もなく不愉快だ。鬼利に教えられた物語の舞台は天の果てだったが、ご機嫌なことにここは天井のある地の底だ。お蔭様で、こちらの雲の上には幽利でも手が届く。

「ンな面して心配しなくても、」

 咄嗟に先程と同じように弾き飛ばそうと動き、幽利の掌に残る擦過傷に気づいてそれを止め、片目を守る為に差し出された掌に、振り向きざま思い切りドライバーを突き刺した。
 差し出された手を貫くドライバーをぎちゅりと捻り上げて広げた穴から、幽利は晒されたままの裸眼を細めて優しい化け物を嘲笑う。


「てめぇの入る隙間なんざ、もうねェよ」










「こんなものね」

 カルヴァの声と共に柳一の手で開かれた細長いケースを、鬼利は腰掛けたソファから背を離して覗き込んだ。
 それぞれの輪郭に合わせてくり抜かれたクッションの中に、金属や革で出来た貞操帯が6つ。着用者の性別を限定した形状のそれらにすっと視線を走らせ、鬼利はその中では一番血流の阻害が穏やかそうな、7つの金属の輪を細い鎖で繋いだものを手に取った。

「装飾で幅を広げることは出来るけれど、元が単純だから」
「男なんてそんなものだよ」
「貴方が言うとなんだか可笑しいわ」

 ほっそりとした人差し指を唇に寄せて、言葉通りにカルヴァがくすくすと笑う。それに小さく肩を竦める動作で応え、鬼利は手の中で転がしていた物を戻した手で、膝の下で開かれていたケースの蓋を閉じた。ぴくりとも揺らさずにケースを捧げ持っていた柳一が軽く頭を下げ、衣擦れの音と共に定位置であるカルヴァの足元へと戻っていく。

「自信作だったのに。お気に召さないかしら?」
「飾り立てるつもりは無いんだ」
「あら、勿体ない。あの子にはよく映えたのに」

 見え透いた挑発に視線を向けると、笑う女狐の足元で素直な小鳥がひっと息を詰まらせる。月に一度、仕事が立て込んだ時には三度はこうして点滴の為にお邪魔しているのに、嫌われたものだ。懐かれているという悦に倣って一度菓子でも与えるべきだろうか。

「……今は耐久性と実用性が第一でね」
「鋲打ちはお気に召さなかった?できるだけ鋭くしてあげたじゃない」
「勿論、素晴らしい仕事だったよ。ただ愚弟には足りなくてね」
「束縛が軽すぎたかしら」
「いや。鍵は使ってない」

 手土産の赤ワインをグラスの中で揺らしていた手が、ぴたりと止まる。

「酷い人ね。私からも取り上げるの?」

 すぅと細められた黒曜石に、柳一がびくりと肩を竦めていつもより深く顔を俯かせる。そういえば涅槃の姿が見えない。カルヴァの“娘”の元へ遊びに出ているシェリーの外泊予定は明日までだ。泪から来訪を許可したとは聞いていないし、カルヴァの爪は長く整えられている。来週のどこかで、下水管の清掃を依頼しておこう。D地区の掃除もついでに。36区の自警組織にはそろそろ歯止めが必要な頃だ。腕、指でもいい。キュールが手懐けに苦労していた自傷好きのスケジュールが2日ほど空いている。

「まさか。だから困ってるんだよ」
「信じ難いわ。貴方の言葉を信じるならね」
「物覚えだけはいいんだ。昔から。僕よりも」
「きっかけを教えて」

 赤い舌先が艶かしく唇を拭う。白はいまいちだったが、赤の出来はいい。ワイン好きの、或いはワイン好きを装うのが好きな”顧客”のリストに印をつけながら、鬼利は僅かに首を傾けた。きっかけ。

「思ったよりも薄そうに飲まれたからかな」
「何を飲ませたの?」
「女性の前で言うには憚られるようなものを」
「今月の初めてはさっき奪った筈だけど」
「体調は良いんだけどね。だから頻度の問題かと思って、減らすことにしたんだ」
「付き合わせたのね」
「そうなるね」
「勿論、幽利は知っているのよね、それ」
「勿論だよ」

 カルヴァの機嫌を損ねることは百も承知で、鬼利は彼女が嫌う造られた微笑と共に頷いた。笑う黒曜石が暖色の照明に濡れ光る。相変わらず美しい女だ。力は無いが知恵がある。


「貴方をスカウト出来ないのが本当に残念だわ。下地もなくそんなことを思いつけるのは才能よ」
「ありがとう」
「それに応えられるあの子もね。ああ、本当に……勿体無いわ」

 シンプルな黒いワンピースの裾を払って、カルヴァがソファから立ち上がる。留め金に蝶をあしらったパンプスはガデアのオーダーメイド。整えられた爪からは色が抜かれ、中指の腹と陶器のような手の甲に小さな擦過傷がある。この調教師が自らの手を使うのは珍しい。
 ぽたり、と最後の一滴を落とした点滴の針を、3歩で傍らに立った女医の手が手早く抜き取ってトレイに置く。アルコールの冷たさ。小さな傷痕を抉るように押さえる爪先に圧迫感以外を感じることは無いが、針跡を抉られる痛みは覚えていた。十数年前の記憶をなぞってぴくりと指先を動かした鬼利を、手摺に腰を下ろしたカルヴァが嘲笑う。


「きっと、自慢の番になったのに」
「不可能だよ」
「何故?」

 傾げられた細い首を伝って、下ろされた髪がさらさらと流れる。既視感。橙とは似ても似つかない色の瞳。白磁の肌。唇の赤。甘い女の香り。強制的に想起されるものに感慨は無い。

「いくら君でも、存在しない手綱は握れない」
「作るわ。貴方がしたように」
「僕が?」

 外側からはそう見えるのか。確かに鍵を握っているのは鬼利だが、差し込むべき錠前を持っているのは幽利だ。そのどちらもがあの夜に風化した。錠前は錆びて壊れ、鍵は根本から折れている。もしも手綱が腐らず残っていたとして、それが結びついているのは外開きの檻の内側だ。いくら引き絞ったとしても扉は開かない。

「恥ずかしい話だけど、ペンとフォークより重いものは握っていられないんだよ」
「……そうだったわね」

 空になった点滴のパックを仰ぎ見る黒曜石には仄かな憂いが滲んでいた。彼女の理念には外れているだろうに、カルヴァは飽きもせず鬼利が擦り減らしたものを注いでくれる。今日のブレンドはビタミンや糖分などの必須栄養素と、腱鞘炎を起こしかけている手首の為の消炎鎮痛剤だ。


「カルヴァ、君は本当に優しい」


 そしてそれに見合う知恵も技も下地もある。今まで救った彼女や彼がそうであったように、きっとその細い腕はこれからも多くの死人や半死人を生き返らせるだろう。本当に優しい女だ。だが、鬼利の手にも収まってしまう華奢な手には檻を壊す力は無い。いくら器用でも折れた鍵では壊れた錠前を回せない。
 細い腕は格子の隙間を通り抜けられても、その中心には届かない。そういうふうに作ってある。

「でも、いいんだよ」

 1つ1つ部品を組んで作った鍵穴は幽利が潰し、鬼利が鍵を折った。差し伸べられる腕に縋る手は既に添えた互いの首と同化して退化した。もう手遅れだ。痛みは感じない。真空の檻には外界の音も響かない。


「これでいいんだ」


 そういうふうに、作ってある。



 Next.



縋る腕はもう無い。

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