「……幽利?」
訝しげな声に呼ばれ、幽利は慌てて視界の“深度”を壁と廊下の手前に戻した。
「あ、すンません姐サン。ボーっとしちまって」
持ったままだったカップを握り直しつつ頭を下げると、気遣わしげに首を傾げていたカルヴァの瞳がぱちりと瞬く。一瞬だけ反れた黒曜石はすぐにゆるりと細められ、双子の兄に似たその酷薄な微笑に、幽利はテーブルの下でこっそり膝をすり合わせた。
「いいのよ。私の方こそ、ごめんなさいね」
蕩けるように甘い声で幽利をあやしながら、カルヴァはポケットから取り出したものをことり、と瀟洒なティーセットが並んだアンティークテーブルに置いた。飴色の木目に似合わない白いプラスチックの箱には、小さなスイッチが6つと、数字が刻まれた円形のダイヤルが1つ並んでいる。
「……今、静かにさせるわ」
くりり、と細い指がダイヤルを回していき、黒く刻まれた数字が3から8になった所で、カルヴァの言う通り静かになった。カルヴァや、その足元に侍る柳一や、勿論幽利でもなく―――廊下と3枚の壁を挟んだ小部屋で、頭から爪先まで全身ガチガチに拘束されながら玩具にイき狂わされていた涅槃が。
「3つ揃いのロルカのカップがあったでしょう?それを割ったのよ、あの子」
「あァ、それで……」
思わずちらちらと涅槃の方を“見て”しまいながら、幽利は甘いミルクティーを舐める。それを全てを見透かすような黒曜石の瞳で一瞥して、カルヴァはリモコンのスイッチを切った。意識を失って尚、痙攣を続けていた涅槃の体からぐたりと力が抜ける。タイル張りの床に出来た水溜まりは、幽利の目から見てもちょっと心配になるほどの面積だ。
「躾がなっていなくて恥ずかしいわ。……追加はこれでお願い」
「はィな」
美しい筆跡で数字を書き込まれた発注書をぴっと背筋を伸ばして受け取り、幽利はカップの中身を飲み干した。不躾な音を出さないように慎重にカップをソーサーに戻し、涅槃に代わってそれを淹れてくれた柳一にもごちそうさまでしたと軽く頭を下げて、包み込むような座り心地のソファから腰を浮かせる。
それじゃあ、と幽利が言うより早く、にっこりと笑った美しい調教師は、優美な曲線を描いたポットを傾けた。柔からな香りと共にミルクティーが注がれていくのは、今正に幽利が置いたそのカップだ。
「あ、姐サン?」
「幽利、貴方朝からずっと働きづめでしょう?少し休憩して行きなさいな」
「お気持ちはありがてェんですが、整備がまだ残ってるンで……」
「銃は逃げないわ。せめて少し落ち着いてからになさい」
へ、と口を開けた幽利にくすくすと笑って、カルヴァはペンを持っていた手をテーブルから下ろした。つい、と動かされた指に引かれたように俯いていた柳一が顔を上げ、その耳から首筋までをするすると撫で下ろすようにしてから、真紅に染まった指先は従順な“小鳥”の顎を捉えて幽利の方へと向かせる。
「今の貴方、この子と同じ顔してるわ」
柳一の表情に乏しいはずの銀の瞳が、物欲しげに溶けていた。
「ほら、幽利」
食べて。
空気を震わせずに届いた声に、幽利はのろのろと煮崩れた野菜を咀嚼していた口を開く。喉を突くことも上顎を引っ掻くこともなく、優しく差し込まれたスプーンはどろりと濃い液体を喉に滑り落とし、するりと上唇を撫でながら引き抜かれていった。僅かに舌に残った残滓はブイヨンとスパイスが効いていて、ほんのりと野菜の甘味すら感じられる。
まるでよく煮込まれた普通のスープのようだ。とても元が医療用の流動食とは思えない。
「これで最後だよ」
差し出されるスプーンとそこに掬われた流動食と同じく、鬼利の声は優しく柔らかい。それにこくりと頷いて、幽利は最後の一匙を飲み込んだ。かり、とわざと歯を立てて角度を変えたスプーンが上顎を掠め、ざわりと背筋が泡立つ。
大袈裟に全身をぶるりと震わせた幽利に、だが鬼利は何を咎めることもなく、小さく苦笑しただけだった。からんと空になった皿にスプーンを落として、喪服のように黒いスラックスを履いたままの脚が立ち上がる。
皿を片手にキッチンへと向かうその背中を、幽利はぼんやりと、立ち上がろうともせずにただぼんやりと見送り、シンクを叩く水音を聞いて、ぐらりと目眩を堪えるように俯いた。
……あつい。
頭も体も、熱くて溶けそうだ。今日は全部食べられたようで良かった、なんて穏やかに考えている鬼利の内側すら、鼓動に合わせてじわんと輪郭が揺らぐ。出来ることなら、鬼利に洗われている幽利の為に汚された皿の代わりに、熱に浮かされたこの頭をシンクに突っ込みたいくらいだった。
勿論、そんなことは出来ない。雛鳥のように手ずから食事を与えられただけでぐずぐずに溶け崩れた足腰が満足に動いたとしても、今の幽利には鬼利の隣に並んで立つことすら出来ない。
そこに座って、と17分と少し前に鬼利は言った。今幽利がへたり込んでいる柔らかなラグを視線で指して。食べて、とは言われたが立っていいとは言われていない。”そこ”から動いていいとも、言われていない。
だから幽利はただ座っていた。熱を孕んだ吐息が喉を焼き、昨夜振りにまともな栄養を与えられた体が一層燻るのを感じつつ、鬼利が手際よく皿とスプーンを洗って布巾で拭き上げ、かたりとも音を立てずに食器棚に仕舞い、キャビネットに置かれた黒革のケースを持って戻って来るのを、ぼやけた視界で追いながら。
「幽利、足を出して」
「っ……はい」
鬼利の手の中にあるケースのその中身が、こんなに何もかも滲んでいるのに幽利にはやっぱり見えてしまって、またぐわんと視界が撓んだ。
消え入るような声で答えて、俯いたまま作業着のジッパーに手を掛ける。シャワーを浴びていいとは言われたが、着替えていいとは言われていなかった。痺れたように感覚の鈍い指で臍下まで引き下ろし、粗い生地がなるべく肌に触れないように両腕を抜く。膝立ちになってつい、いつもの癖で下着ごとそれを脱ごうとした手を、幽利、蕩けるように甘い声が止めた。
「そこは後で」
「は、い」
ざりり、と足から抜けていく着慣れた作業着の裏地が、今の幽利にはまるでやすりのように感じられた。薄皮を一枚削られて更に鋭敏になった皮膚に細く息を吐いて、ラグに膝をついた鬼利の前に、間違っても爪先が触れないようにそろそろと、僅かに膝を曲げた両足を差し出す。
「……いい子だね」
「ひ、っ」
赤く縄の痕の残る足首をついと指先に撫でられて、幽利は拳ふたつ分開いた両足を必死でラグに縫い留めた。パチン、と鬼利の指がケースの留め金を弾き上げる、その音が、それを伝える空気の振動が、2日前から半分暴走しかけている視界を波打たせる。
早まった鼓動に合わせて皮膚の下の肉が、管や筋が、骨が透けても尚綺麗な鬼利の手が、ケースを開く。中には黒革の拘束具が一揃い、分厚いビロードに埋もれて収められていた。締め上げる為の金具と繋ぐ為の輪を備えたそれは、鬼利の手の中でくたりと折れるほどに柔らかい。
瞬きすら忘れて息を飲む幽利の右足首に、ひたり、と上質な革が絡みついた。
「っは、ぁ…!」
堪え性の無い喉が噛み殺しかねた声に、耐え兼ねてきつく目を瞑る。千里眼の前では瞼など薄霧より役に立たないが、この際構っていられない。とにかく何か間に挟んでいなければとても耐えられなかった。
内径から素材からベルトの穴の位置まで、全てが幽利の為だけに誂えられた枷に、鬼利の手で拘束されていく様なんて。今直視したら、頭がどうにかなってしまう。
「後でポールを繋いであげるからね」
ベルトを調節して締め付けを確認している鬼利に、声も出せずにこくこくと頷く。いつもなら返事は、と頬の一つも張られるような態度だったが、鬼利はただ優しく目を細めて手を伸ばした。
手を。
そうだ。今度は手を、差し出さないと。
ちゃんと、持ち主の手に差し出して、譲り渡して、管理して貰わないと。
じゃないとまた。また、昨日みたいに。
「ぁぐ…っ…」
躊躇う頭を叱責するようにぎちりと下腹に激痛が走り、幽利は思わず背を丸めた。思い切り握りしめたって穴も開かないような鋲に抉られる痛みなんて、いつもならじくじくとした甘い疼痛にすり替わってしまうが、流石に時間が長すぎた。
「……幽利」
全身の汗を冷やして耐える幽利を、鬼利が呼ぶ。
痛みを忘れてしまった愛しい片割れは、幽利の意識が自分へと向くそのタイミングで、遊ばせていた枷を両手の間に揺らした。手を差し出せと。
伸ばした手を取らないのならそちらから差し出せと、怜悧な橙色が命じている。
「鬼利、ごめ、んなさ、い」
「……」
「いい子にする、から。ゆ、許して、鬼利」
「……許す?」
きゅ、と自分から枷に通した幽利の手を締め上げて、鬼利は首を傾げた。
凡百の視野しか持たない視線がケースを一瞥するよりも、華奢な手が最後の一つを手に取るよりも早く、這うようにして差し出した幽利の首に丸い金具の垂れた上質な革を巻き付けて、あかい唇が心底可笑しそうに笑う。
「何を許すの?」
「ぁ、……」
「幽利はこんなにいい子なのに」
優しく細められたままの瞳の底が、見せつけるようにゆっくりと冷えていく。
「それとも、僕に隠れて何か悪いことをしたの?」
「……ぃ、ない、してない…!」
「なら、許すことは何も無いよ」
何も。
「腕はどうしようか。また足に繋いでもいいけど」
思案げに言う鬼利の瞳が、枷の周囲に未だ乾ききらない爪痕が散った幽利の足首を見やる。
「流石に同じ所だと肉が削げそうだし……」
掌と肩と脇腹も、既に足首と同じような有様だ。違うのはその深さと瘡蓋の有無くらいで、どれも短く、引っ掻くと言うよりは抉られ、深いものは親指と人差し指と中指、浅いものは薬指と小指と凶器も共通している。
一通り跪いた幽利の体を見渡してから、宝石のように硬質な橙色は、まるで今気がついたようにいつかの鞭痕だけが薄く残る背中に視線を留めた。
「ああ、背中がまだだったね。それでいい?」
「うン、うん……っ」
鬼利の脳内で写真のように詳細に描き出された丈夫な鎖と、それを使われた時の自身の姿を見ながら、幽利はぎゅっと目を瞑ったままで何度も頷く。自分に関する鬼利の決定を覆す権利など、この地の底に下る前からずっと前から手放している。
「……じゃあ、行こうか」
ケースを閉じて立ち上がった鬼利の手が、おいで、と犬でも呼びつけるように太腿の側面を二度叩く。ぎちぎちと響く下腹の痛みは既に吐きそうな程だったが、幽利は呼ばれるがままに四つん這いで鬼利の後を追った。
遅々と動く時計の短針は、まだ10時にも満たない。
「酷い色だね」
吐き気を誤魔化す為に深呼吸を繰り返す幽利の、暖色の照明の下でも青ざめた顔をちらりと一瞥して、鬼利はベッドに上がって漸く下着を脱ぐことを許された下肢へ手を伸ばした。
金属の輪と鋲を打たれた革に戒められた幽利のモノは、鬱血の紫を通り越して赤黒く変色している。鬼利の言う通り、酷い色だ。ここ6日の間で一番かもしれない。
「痛かったね、幽利」
「ぐっぅ……!」
あやすように内腿を撫でられて頬を伝う脂汗に優しく微笑して、綺麗な指が貞操帯を外す。錠もついていないそれをからんとステンレスのトレイに落として、替わりに鬼利が持ち上げたのは医療用のガーゼのパックだ。消毒液の染み込んだ白い布を慣れた手付きで中指に挟み込み、鋲の痕が残る裏筋をそっと拭う。
「ひ、…ぁ…あぁ…ッ」
冷たさと圧迫されていた血が流れ込む鈍痛に身を竦めたのは最初だけで、ガーゼ越しの愛撫に一気に全身に熱が回る。いつもなら汚いから止めてと喉が潰れるまで懇願している所だが、今の幽利には腰を擦り寄せないようにするので精一杯だった。じわりと堪え性無く滲んだ雫までガーゼに拭き取られて、単純な肉体的快感以上に、他でもない鬼利の手にそうさせているという背徳感に背骨が痺れる。
駄目だ。
止めてくれるように言わないと、これ以上、されたら。
頭ではそう思うのに、甘ったれた嬌声ばかりを垂れ流す舌は痺れてしまって動かない。縋るように見上げた鬼利は幽利を見ることなく、ひっくり返したガーゼで、考えているとおりに括れたカリの下を、
「…あぁ……っ!」
撫でる寸前で、離れた。
切なげな悲鳴にくすくすと笑って、鬼利はガーゼを落とした銀色のトレイを引き寄せた。堪えきれずにぽろぽろと涙を零す幽利を正面から見据えながら、からんとバッドの上を転がった細く湾曲した棒を持ち上げる。
「鬼利、鬼利……っ」
「後でね」
先に足を繋いで欲しいと泣く幽利を、弟と違って心が読めない筈の双子の兄は当然のように柔らかく突き放して、鈍く輝く尿道ブジーを新しいガーゼで丁寧に拭った。つるりとした丸い先端がくちりと溢れる先走りを掻き分け、寸前で絶頂を反らされたモノをゆっくりと逆流していく。
瞬きを忘れて見つめるブジーの先端は、微かな抵抗を見せる括約筋を戯れのように突付き、そこを抜くことなくぴたりと動きを止めた。そんなことはこの5日間で嫌というほど教えられていた筈なのに、性懲りもなく期待していた体が軋むのを、覚えが悪いと自嘲することも出来ない。
「あ、ぁ、鬼利ぃ……っ」
苦しさに忘れていた餓えを引きずり出されて、痛みに暗くなっていた視界がまた滲み始める。離れてしまった腕に縋りついてもう耐えられないと泣き喚ければ、それが駄目ならせめてブジーやバットの中身から視線を反らせるだけでも楽なのに、限界を決める権利を持つのは鬼利だけだ。
思い通りになどなった試しがない千里眼は現実を余す所なく見せつけたまま、鬼利が持ち上げた鎖とポールを見て、シーツを握っていた両腕が呆けた頭を置き去りに背中へと回る。
リビングで言って思っていたのと同じように幽利の両足をカーボン製のポールに繋ぎ、丈夫なリングで手錠のように繋げられた両腕を背中側に短い鎖で首輪に固定して、鬼利は抱き枕にするには硬すぎる半円柱のクッションを引き寄せた。幽利、甘い囁きに淡々と自由を奪われた全身が跳ね上がる。
「どこを苛めて欲しいのか、ちゃんと見せて」
「んン…っ…」
それが自分の首を窒息するまで締め上げることになると解っていても、幽利に頷く以外の選択肢など無かった。シーツが擦れるだけでぞくぞくと震える不自由な体を捻り、90センチのポールの動きに細心の注意を払いながら、クッションを腹の下にしてうつ伏せになると、じんじんと痺れる腰を上げる。
全ての決定権は鬼利にある。期待と餓えに慄く体も心も、頭蓋を透かしてシナプスを読む目も、幽利の全ては鬼利の所有物だ。もう差し出せるようなものなど何も残っていないが、もしも、今までとこれからの蜜に溺れるような責め苦に、きっとボロ布のように擦り切れる自我を、対価として扱って貰えるなら。
「……きりの、っゆび、が、いい」
「そうして欲しいなら、それでもいいけど」
せめてとか細い声で強請った幽利を、柔らかくて暖かいばかりの仮面を剥ぎ取った橙色が酷薄に嗤った。えぐい角度に捻じ曲がったバイブをごとりとシーツに落とした器用な指が、粘度の高いローションを纏って卑猥に蠢く。
「……後悔すると思うよ」
もう何度目かも解らない絶頂の寸前でちゅぷりと抜けてしまった指に、幽利はがちがちと噛み合わない奥歯を思いっきり噛み締めた。
「ふぐ、ぅう゛うう……ッ!」
あと少し、本当にあと少しだけの刺激でイけるのに、ポールを片膝で押さえつけた鬼利は淡々と手に追加のローションを纏わせるばかりで、がくがくと震えるする太腿にすら触ってくれない。絶頂寸前で放り出される辛さに幽利が拘束された体を捩り、堪えられなくなった悲鳴を必死にシーツに吸わせるのを、宝石のような橙色を愛おしそうに細めて眺めるだけだ。
「ふーっ、ふーッ……ぁ、うあぁ…!」
たっぷりとローションを纏った指が、幽利の内側が少しばかり落ち着いたのを外側から正確に読み取って、何の抵抗もなくつるりと根本まで埋められる。奥へ引き込もうと蠢く内壁をくちくちと指の腹でくすぐられ、ぱんぱんに張った前立腺を形を確かめるように優しく撫でられて、幽利は額をシーツに擦りつけた。
「ぁ、あ、ぁー…っ…はぁあぁ……ッ」
無駄吠えの躾はされている筈なのに、ゆっくりと往復する指が泣きたいほど気持ちよくてシーツどころか唇も噛めない。これがいい、もうずっとこのままがいいと心から思うのに、ドライでの快感を覚えている体はじわじわと昂ぶっていく。
その先は何度も叩き落とされたあの奈落だと、知っていても。
「はひっぃ、い……ッ」
前立腺に添えられたまま、不意に動かなくなってしまった指に、快感で溶けた頭の一部が絶望に冷える。撓んで滲む視界は凡百なそれと変わらないほどに狭まっていて、今の幽利には鬼利の思考は愚か表情さえ見えなかったが、それでも意図が解ってしまうのはそれだけ繰り返されていたからだ。
与えられるがままに甘受するものよりも、強請って縋って貪ろうとするものを取り上げられる方がずっと辛い。そんなこと今日だけでも5回は刷り込まれた筈なのに、ぐちゃぐちゃになった自我の中から掻き集めた自制心は、結局10秒も保たずに溶け崩れた。
「ぁう、う、……はぁ、あっ、あ…!」
「もう少し腰を落として。……そう、上手」
一度動かしてしまえばもう止められずに、鬼利に言われるがまま、動かない指に凝りを擦り付けるようにして腰を揺らす。四肢の拘束が鳴る音がすぅっと遠くなり、びくびくと痙攣する粘膜が今度こそ逃すまいと指を締め付け―――
「はい、おしまい」
「ぁっ……あ゛ぁああああっ!」
ローションの滑りを借りて、今までと同じようにつるりと取り上げられた。
神経が焼ききれそうなもどかしさに今までの躾の全てを忘れて喚きながらのたうち回るが、繰り返される寸止めに心身を削られた体では、ポールの上に乗った鬼利の足を跳ね上げることくらいしか出来なかった。力の入らない手では背中の肉を抉ることも、気休めに爪を割ることも出来ず、その上クッションをずり上がろうとした体を鎖を引いて戻されて、幽利はどろどろになった顔で鬼利を振り仰ぐ。
「う゛ぅぁあッ…き、鬼利、きり゛ぃ…ッ!」
「酷い声だね。あんなに叫ぶからだよ」
「ゆるして、ゆるし、て、くださ…っおねが、イイ子に、いぃ、っぁああ!」
「ほら、落ち着いて」
鎖を握ってクッションにブジーの先端が当てられないようにしたまま、濡れた鬼利の手がゆっくりと背中を擦る。極度に敏感になった体はそれだけでも全身に鳥肌を立てるのに、宥めるような緩やかさではどうしたって絶頂には程遠く、幽利は両足を固定するポールを鳴らして身悶えた。
「ぐっ…ぅ、……う゛ぅぅ…っ」
「あぁ、そんなに擦ると赤くなるよ。ほら、こっち向いて」
「ひぅ……っぁぐ!?」
ぐん、と鎖を強く引かれて締まった首輪に身を起こした瞬間、ぐったりとシーツの上にうつ伏せていた幽利の体は、非力な筈の鬼利の手と足によって魔法のようにくるりと仰向けにひっくり返された。がちん、と響いた金属音に呆然と目を瞬かせる幽利を真上から見下ろして、シャツのボタンすら外していない鬼利がどこか困ったように微笑む。
「軽いとはいえカーボンだからね」
幽利の足を固定するポールを指したその言葉と、ベッドヘットに繋がれて眼の前に伸びる鎖が示すものを悟るより早く、軽くとも加減無しにぶつかれば骨が折れるカーボン製のポールが持ち上げられ、幽利はぞっと背筋を凍らせた予感に咄嗟に身を捩った。
「じっとして」
「っひ……」
人に命じることに慣れた声が、久しぶりに聞く冷たさで全身の自由を奪う。
びくりと肩を震わせて全ての動きを止めた幽利に、鬼利は打って変わって優しく微笑んで、腰の上まで持ち上げられたポールを鎖に繋いだ。
鬼利は痛みを殆ど感じない。幽利と比べれば骨も脆い。対象物の重さや速度から推測できたとしても、それが単に押されただけなのか、骨が折れるほど強かに打ち付けられたのか、咄嗟には判断出来ないし気づけない。傷つくのは幽利の役目だ。すっかり狭まった視界ではいつものように鬼利を見ることも出来ないし、もしも自分の足が鬼利を蹴って骨を折りでもしたら、幽利は仕事に支障の出ない箇所の骨を自ら5、6本砕くだろう。
だから、鬼利の判断は正しい。必要な措置だ。いや、例え必要なくたって鬼利がそうしたいと思ったのならそうするべきだ。決定権は全て鬼利にあるのだから。
「ぅっ…う、ぅ…っ」
頭ではそう解っているのに。いや、解ってしまったからこそ、幽利は溢れる涙を止めることが出来ずに頭を撫でる鬼利の手に頬を擦り寄せた。
こんなもので固定されなければいけないほど、今以上に我を忘れて暴れるほど、まだまだ追い詰められるのだと、冷静になった頭が気づいてしまった。ごめんなさいとしゃくりあげる合間に何度も何度も許しを請うが、鬼利はおかしそうに笑うだけだ。
「言ったはずだよ、幽利」
熾火のように燃え上がることがない代わりに、凍土のような冷徹さを孕んだ橙色が、裏も表もなくただ愛おしそうに幽利を射抜く。
「許すことは何もない、って」
その名を超える範囲を見通せる筈の千里眼が、壁どころか瞼すら透かすことが出来なくなり、薄い水の膜にも頼りなく揺らいで、部屋の天井と“街”の天井の間をいったり来たりするようになった頃、滲んだ先走りに濡れそぼったブジーが抜かれた。
「…ぁ……ぅ゛……」
どろりと後を追うように溢れた白濁に勢いはなく、下腹に渦巻く重苦しさが少し軽くなるだけで、射精の快感には程遠い。丁寧にガーゼで拭われたそこを慣れた金属と革と鋲に締め付けられても、幽利はもう指一本動かすことが出来なかった。
鉛を流し込まれたように全身が重く疲れ果てているのに、自我を離れた体は外される枷にすら肌を泡立てて、触らないで欲しいとすら思ってしまう。
「おいで、幽利」
唯一残された首輪を引かれて、かくんと頭が揺れる。ぴったりとサイズの合った首輪には余剰が無い。使い物にならない頭には早々に見切りをつけた体が、頸動脈を締められるのを嫌ってずるりと這い、幽利は叫びすぎて潰れた喉で小さく悲鳴を上げた。
「いい子だね」
痛いのか気持ちいいのかも解らない体を引きずってベッドを下り、ほんの数歩の距離をにじるように移動して、壁際に敷かれた分厚いラグの上にべしゃりと崩折れる。優しい声と共にかちゃりと首輪が外され、喪失感に視線だけを辛うじて持ち上げた幽利の頭を、声と同じように優しい手がくしゃりと撫でた。
「おやすみ」
鬼利が愉しそうにしてくれるのは嬉しい。
それ以上の喜びなんてない。
いくらでも好きにしてくれて構わないけど、でも。
このままだと、きっと。
あと、どのくらい。
問おうとした言葉は音にならず、額を滑った手に促されて落ちた瞼が、呆気なく全てを遮断した。
Next.
なにも悪くない。
